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歌声の余韻が空気の水面に波紋を広げていく。
そんな緩やかで温かい流れが、髪を優しく梳いてくれるように私たちを包み込んでいた。
「今ならよくわかります。お母さんは本当にあなたを愛していたということ、それと、本当に私たちを愛してくれていたということが……」
ぼんやりとした瞳で見つめているアインザッツさんに、私は微笑み返す。
この詞から伝わってくるお母さんの温もりを重ね合わせるかのように。
「……今のあなたを見たら、お母さんは悲しむと思います。お母さんが望んでいたのは、お金なんかじゃないんです」
まるでお母さんが私の口を動かしているみたいに、私は自然と声を紡いでいた。
アインザッツさんは声を出すことも忘れたまま、潤いを含み始めた瞳で私を見つめ返している。
私も、それ以上なにも言うことはできなかった。
ゆっくりと頭を下げ、肩を震わせるアインザッツさん。
穏やか時間の流れがその肩を優しく抱きとめ、お母さんの想いをわかってあげてとささやいているように思えた。
「……それにしても、いきなり歌い出すなんて、びっくりしたわ」
黙っていることに耐えきれなくなったのか、不意にソルトが喋り出す。
静まり返った部屋に、ソルトの甲高い声は場違いなほどの響きをもたらした。
アインザッツさんの気持ちを考えると、声を上げてはいけないような、そんな雰囲気で満たされていたからだ。
でも、アインザッツさんにとっても、じっくり考えて頭の中を整理する時間は必要だろう。
時計の秒針が刻む音さえ響く静寂の中では、私たちが周りで注目していることをいやが上にも感じ取り、気になってしまうに違いない。
それならば、アインザッツさんがいることを気にかけず、他愛ないお喋りに興じていたほうがいいようにも思えた。
「だけど、いい聖歌だったよお」
ミルさんが、おっとりした声で言う。ミルさんも私と同じように考えたのだろう。
ミルさんだけじゃない。みんな同じ気持ちだったようだ。
自然とお喋りの輪が広がっていく。
「そうね。あたしも聴いたことのない曲だったわ。あなた、いつの間に作ってたの?」
「あは。……でも、お姉ちゃん、私本当に心配したんだからね?」
お姉ちゃんまで私の聖歌を褒めてくれるのは嬉しかったけど、このまま今の聖歌の話が続くとアインザッツさんも気になってしまうかもしれない。
だから私は話題を変えることにした。
……単純に恥ずかしかったというのもあるのだけど。
「なるほど、それであなたたち、ここまで来たのね。ほんと、ゴメン。実はあたしね、巡業に出る前の日、見せてもらっていた日記以外に、倉庫の奥に隠されていたお母さんの日記を見つけたのよ」
「え? そうなの?」
私は驚いた。
お母さんの日記は、温もりを覚えていない私たちのためにと、お父さんからの許可を受けて読ませてもらっていたものだ。
その中に、さっきの聖歌の詞も書かれていた。
あれだってかなり核心に迫った内容だと思うから、隠されていても不思議ではない日記のように思えるのだけど……。
「隠されていた日記の中には、シンフォニエッタに本当のお父さんがいる、といった具体的な内容まで書かれていたの。お母さんの日記ってさ、想像で書かれた聖歌の歌詞なんかも多かったでしょ? 地名とか細かい描写がないものは、そういった想像のお話だと言えばごまかせると考えたんじゃないかな」
そっか……。
最初から日記なんて全部隠しておけば、余計なことを考えたりもしないのに。
それでもお父さんは、私たちにお母さんの面影を少しでも知ってほしかったのだろう。
だから、どうしても見せたくない日記以外は、読ませてもらえたのだ。
「そのせいでチェルったら、練習にも全然身が入っていない様子でしたし、フェルマータに着いても心ここにあらずって感じだったんですのよ」
「そうそう。もうライブどころじゃなくってさ。どうしようかって考えてたら、チェルが話したいことがあるとか言い出してな」
「夕暮れ亭を出てえ、静かな落ち着いたお店で話を聞いたのよお」
キーマさん、シーさん、ミルさんが交互に当時の状況を説明してくれる。
「どうやら本当のお父さんは別にいて、その人はシンフォニエッタにいるみたいから、これから探しに行きたいと言われまして。さすがに反対したのですけれど、チェルの真剣な眼差しに、わたくしたちもさすがに折れるしかなかったというわけですの」
「夕暮れ亭に戻ってママさんに話しておこうかとも思ったけど、迷惑をかけるかもしれないから、それはやめておいたんだ」
「ウチらが狙われてるなんて、物騒な噂も小耳に挟んでたしねえ」
ミルさんはテーブルに用意されていたクッキーに手を伸ばしながら、あははっ、と明るく笑い声を響かせる。
笑いごとではないと思うのだけど。
「それであたしたちは、そのあと馬車ターミナルに向かったのよ」
「そうしましたら、馬車を待っている途中で、闇馬車のほうが安いし待たずに乗れると勧誘されましたの。予定外の都市まで行くことになりましたから、お金も節約しなければなりませんでしたので、わたくしたちはその申し出を受けることにしました」
納得。だからお姉ちゃんたちは、闇馬車広場のほうに行ったのね。
お姉ちゃんたちの話は、さらに続く。
「そしたらさ、オレらの荷物に、衣装と楽器があるだろ? あれって結構高価だからさ、狙われちまったんだよ」
「薄暗い横道に入ったとこで馬車が止まったと思ったら、何人かの人たちに囲まれてえ。闇馬車の中には危険なのもあるって噂は聞いていたけどお。まさか自分たちがそんなのに当たっちゃうなんて、普通は考えないもんねえ」
シーさんの話を受け継いだミルさんの言葉は、のんびりした口調とは裏腹にかなり緊迫した内容だった。
この人が話すと、全然そうは思えないのだけど。手にはチョコレートを持っているし。
「そのときに現れたのが、蒼いローブの人たちだったのよ。助けてもらったあたしたちは、そのままこの屋敷へ招待された。そして聖歌を披露してほしいと頼まれて歌っていたの。荷物から聖歌巫女だってわかったんだろうと思っていたけど、実際には最初から知っていたのね。ただ、あたしも歌っているうちに、この人が自分の探している人だとなんとなく気づいたの」
お姉ちゃんは一瞬言葉を区切ると、私を見つめるように優しい視線を向けてくれた。
「チュルリラたちが飛び込んできたのは、そのときだったのよ」
そうだったんだ……。
「状況をゆっくり見極めようと隠れてたのに、チュルリラってば、いきなり突入しちゃうんだもん。さすがのあたいらも、驚いたわよ!」
「……ええ、びっくりでした」
「でも、あたしとサフランはちょっと戸惑っていたけど、チュルリラさんに続いて真っ先に飛び出したのはソルトだったのよね。……やっぱり、チュルリラさんのこと、心配だったんだよね……?」
優しい表情でソルトに視線を向けるシュガー。
「な……っ! べつにあたいは、仕方なく飛び出しただけだわよ! どうせあのまま隠れてたって、見つかっちゃうに決まってるんだから!」
ソルトは耳まで真っ赤に染めながら慌てて否定する。
シュガーも私とのやり取りを見て、ソルトのからかい方を習得したみたいだ。
「あは。ありがとう、ソルト!」
私が追い討ちをかけると、さらにソルトは真っ赤になり、湯気さえも立ち昇りそうな勢いだった。
「あははは!」
「うふふふ」
そんなソルトの様子を見て、みんなも笑顔になった。
温かい空気が私たちの心を落ち着かせる。
落ち着いた雰囲気は、注意力や判断力を鈍らせるという副作用をもたらすもので。
視界に捉えてはいたと思うのだけど、彼女がずっと沈んだ表情で会話に参加してこなかったことも、すっと立ち上がってアインザッツさんのすぐ後ろまで歩いていったことも、私はまったく気に留めていなかった。