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肌寒い霧に覆われた薄ぼんやりとした空気の中、私はチェルミナお姉ちゃんと一緒に歩いていた。
視界の右側に、お姉ちゃんの背中が大きく映る。
お姉ちゃんはべつに大柄というわけではなく、むしろ一般的には小柄な部類に入る。
でもひとつ年上というだけで、私にはとても大きな存在に思えた。
私はいつも、お姉ちゃんの斜め後ろをちょこまかと小走りに追いかけていた。
と、不意に私たちを呼ぶお父さんの声が聞こえてきた。
きょろきょろと辺りを見回す。
視界は濃い霧に阻まれて、どこから呼ばれたのか、私にはまったくわからなかった。
「あっ、向こうで呼んでるよ!」
お姉ちゃんが明るい声を上げる。
さすがお姉ちゃん。私にはわからなかった声の方向を、ちゃんと聞き取っていたのだ。
「行こっ!」
お姉ちゃんは振り返りもせず、元気に走り出す。
あっ!
と思ったときにはもう遅かった。
お姉ちゃんの背中は、瞬きする間もなく、濃い真っ白な世界に溶け込んでいくかのように消え去っていた。
空しく伸ばした右手が、渦巻くほどの霧に絡め取られて動かすこともできなくなる。そんな錯覚に陥ってしまいそうだった。
「……お姉ちゃん……、どこ~? お姉ちゃ~ん!?」
さっきまで一緒にいたはずのお姉ちゃんが、最初からいなかったみたいに、
聞こえていたお父さんの声すらも、幻聴だったみたいに、
色もなく、音もなく、温もりもない。
無限に続く異空間の中にひとりで取り残されてしまったような、言い知れぬ不安が私の心を強く締めつける。
「お姉ちゃ~~~~~ん!!」
誰もいない。なにもない。ただ私の泣き叫ぶ声だけが、唯一の存在だった。
☆☆☆☆☆
ふと気がつくと、やはり周りは真っ白な世界だった。
だけどそれは、温かさを伴って私を包み込んでくれていた。
朝だ。
私は夢を見ていたのだ。
あれは確か、三歳か四歳の頃。私はお姉ちゃんがいなくなってしまったと思って、大声で泣きじゃくった。
お姉ちゃんとふたりでちょっと遠くまで遊びに出かけた帰りだったはずだ。
幼い頃の、なんてことのない日常の思い出。
こうして夢に見るまで、すっかり忘れていた。
今となっては些細な出来事としか思えないけど、当時の私にとっては計り知れないほどの大きな不安だった。
結局、私がひとりで取り残されていた場所は、教会の敷地内だったのだけど。
それにしても、どうして今頃になって、こんな夢を見たのだろう?
起き抜けのぼやけた頭でそこまで考えた末、今日はお姉ちゃんが巡業に旅立つ朝なのだということを、私はようやく思い出した。
☆☆☆☆☆
素早く上着を羽織って部屋から出る。
もうそろそろ、お姉ちゃんが出発する時刻も迫っている頃だ。
食堂の前を通ると、料理の匂いが残っていた。まだ朝食を取ってから時間が経っていないことを物語っている。
廊下を進むと微かに声が聞こえてきた。私は急いで玄関を開けて外に出る。
そして、教会の門の前にお姉ちゃんたちが集まっているのを確認すると、駆け足でその場へと向かった。
「うわ、チュルリラちゃんがこんな時間に起きてきた~! 奇跡だわっ!」
……マニス、あんたちょっと失礼よ。
と、そんなことはどうでもいい。
私はお姉ちゃんに視線を送る。
バンドのメンバー三人とともに楽器や衣装などの荷物をたくさん抱え、出発直前で慌ただしい様子だった。
ただ、お姉ちゃんの顔には、他のメンバーのような晴れ晴れとした雰囲気はない。
やっぱり昨日と同様、なにか思い悩んでいるみたいに見える。
これから出かけるところなのに、すごく心配……。
私の気持ちを察してくれたのだろう、お姉ちゃんは微かに笑いかけてくれた。
「……チュルリラ、行ってくるわね。あなたもこっちでライブがあるんでしょ? 頑張るのよ」
私の頭を優しく撫でるお姉ちゃんの手は、とても温かかった。
「ほら、チェル。もうそろそろ出発しなくては、馬車に間に合わなくなってしまいますわよ?」
「そうだねえ。れっつらごおだよお!」
「よし! いっちょ、気合い入れていこうぜ!」
メンバーたちの言葉に、お姉ちゃんも黙って頷く。
「お姉ちゃん……気をつけて行ってきてね」
私は結局なにも訊けず、それだけ言うのが精いっぱいだった。
お姉ちゃんはそんな私に心なしか曇り気味にも思えるような笑顔を返すと、重い荷物を抱えながら出かけていった。