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私たちがフェルマータから戻ってきて二日が経った。
マニスは真面目だから、今日は学校へ行ってしまった。
授業の全過程をすでに終えているマニスは、行かなくても問題ないというのに。
一方私のほうはというと、お昼過ぎまで寝て、起きてからもゆったりまったりとしていた。
マニスもいないし、お父さんは教会の仕事があるし、お姉ちゃんはチェルシーミルキーのバンドの練習に余念がないし。
つまり、暇を持て余している状態なのだ。
寝間着から着替えることもなく家の中をふらつき回っていた私は、紅茶を用意して食堂の椅子によっこらしょと腰をかける。
聖堂のほうから微かにメロディーが流れてきていた。
お姉ちゃんたち、頑張ってるな~。
明日から巡業に出かけるみたいだから、気合いが入ってるんだろうな~。
ずずず。
音を立てながら紅茶をすする。お父さんがいたら、行儀が悪いと怒られるところだ。
ぼーっと、午後のうららかなひとときを満喫する。
今日は暖かいな。こんな日は、このまま家の中でごろごろしていよう。
私は基本的にインドア派なのだ。
……怠け者とも言うかもしれない。
でも、日差しの傾きからすると、すでにもう夕方近くになっているようだし。
とくになにも予定はない。このままのんべんだらりと過ごしていても問題ないだろう。
「はふ~、平和だなぁ~」
思わず間延びしたつぶやきが漏れてしまう。
私は紅茶を口に含み、ゆったりとした心持ちで流れてくるメロディーに耳を傾けていた。
……あれ? なんか違和感が……。
チェルシーミルキーはバンドだから、楽器の音が響いているのはわかる。
だけど、聖歌巫女の声というのは通常、どんな楽器にも負けないくらい響いてくるものなのだ。
さながら心に直接語りかけてくるかのように。
私みたいな駆け出しの聖歌巫女では、まだまだそこまでの歌声は出せないけど、お姉ちゃんの歌声はかなり力強く、それでいて小鳥のさえずりのような繊細さも兼ね備えている。
妹の私が言うのもなんだけど、絶品の歌声だ。
それなのに、いくら少し離れた場所で練習しているとはいえ、まったくお姉ちゃんの声が響いてこない。
楽器の音は聴こえるし、その中にはお姉ちゃんの担当しているギターの音もあるのだから、メンバー全員で練習しているのは間違いないはずなのに……。
いったいどうしたというのだろう?
歌声は入れずに、楽器の音合わせだけしてるのかな?
そんな心配をしているうちに、いつの間にか日も落ち、夕食の時間となっていた。
☆☆☆☆☆
今日の食卓には、チェルシーミルキーのメンバーも一緒に着いていた。
巡業に出かける前日の彼女たちは、必ず教会に泊まることにしているからだ。
……そうでなくても、いつも入り浸っている気はするのだけど。
お父さんが作ってくれた質素ながらも美味しそうな食事が用意される。
学校から帰ってきたマニスもいつもどおり準備を手伝っていた。
会話の絶えない食卓は、いつもどおり賑やかだった。
なにもかもが、いつもどおりに見えた。
それでも、なにか引っかかる。
巡業出発前の前夜祭というノリなのか、キーマさん、シーさん、ミルさんの三人が、いつものようにバカ騒ぎをしている。
……三人……?
はたと気づけば、お姉ちゃんが微妙にその輪から外れているように思えた。
キーマさんたちも、べつにお姉ちゃんを無視しているわけではない。ただ、話しかけてもお姉ちゃんから返ってくるのは生返事ばかり。
その結果、盛り上がって騒ぐのは三人だけとなっているようだった。
「お姉ちゃん、どうかしたの?」
「……え? べ……べつにどうもしないわよ? 明日から巡業だし、頑張らないとね!」
私の声に笑顔を浮かべて答えるお姉ちゃん。
それは無理矢理作り出した偽りの笑顔のようにしか思えなかった。
「……食事も終わったことですし、今日はもう少し練習しておきましょうか」
「おっ、そうだな! それがいい!」
「うん、いいねえ! 明日は朝も早いけど、最終調整はやっておきたいよねえ!」
メンバー三人も気を遣っているのが見て取れた。
そんな三人の提案を受け、
「ええ、そうね」
やっぱりいつもの勢いはなかったけど、お姉ちゃんも素直に頷く。
どうしても心配だった私は、練習のために聖堂へと向かうお姉ちゃんたちのあとについていくことにした。
☆☆☆☆☆
『ホップ! ステップ! チューリップ!
愛が芽生える 春色の思い出 初恋物語
ホップ! ステップ! チューリップ!
鮮やかな赤 そよ風に揺られて 微笑む花畑
素直になれないお年頃 みんなと一緒にはしゃぐだけ
ふと視線が合うたびに 頬を染めていた日々
春の木洩れ日がささやく 素直な気持ちを伝えよと
ふと視線が合ったとき うつむき手を握りしめた
言葉に乗せないままに お互いの恋に気づく
自然といつも一緒に 過ごす時間が増えてた
ホップ! ステップ! チューリップ!
ホップ! ステップ! チューリップ!
そばにいるだけで 温かな気持ちになれる
あなたの肩に寄り添って 青空を見上げた』
メンバーの勢いと気遣いに負けたのか、お姉ちゃんはしっかり歌っているように見えた。
アップテンポな曲の流れに明るい歌声を乗せ、楽しそうな雰囲気を演出している。
だけど……。
やっぱり、お姉ちゃんの調子はおかしい。
明らかに声の響き方がいつもと違う。
夜もすっかり更けてきていた。
お姉ちゃんのことが気になっていたにもかかわらず、私のまぶたはそんな意思に反して容赦なく瞳にのしかかってくる。
眠そうな私を気遣ってくれたのか、三曲ほど歌い終わったところで、練習はお開きということになった。
私としては、少しお話しておきたいと思っていたのだけど、
「ふう。昼間からずっと歌い通しで、さすがにちょっと疲れたかな。明日は早いし、すぐに寝るわね。おやすみ」
話しかける間もなく、お姉ちゃんはそう言い残し、有無を言わさぬ勢いで自分の部屋に戻ってしまった。
キーマさんのほうを見ると、彼女も不思議そうに首をかしげていた。
ともあれ、私の視線に気づいたキーマさんは、
「……ふふ、心配なのね。大丈夫ですわよ。わたくしたちがついていますから。ね?」
すぐに表情を緩め、優しく微笑みかけてくれた。
そんな温かな気遣いに包まれながら、お客様用の部屋へと向かうキーマさんたちと一緒に、私も眠い目をこすりつつ自分の部屋まで戻っていった。