第九話 大丈夫だよ!
イーストフードカンパニー、東京支社のビルの最上階に、スーツ姿で髪が少し白くなっている強面の男がいた。鷺沼徹庄、イーストフードカンパニーではナンバー3の男で、チーム龍餓の後ろ盾でもある。
「加藤、例の闘食家たちをこちら側に引き入れろ」
「承知いたしました。彼女らが受け入れない場合は如何いたしましょう?」
「そうなったら目障りなだけだ、潰してしまえ」
鷺沼は後ろで手を組み、三三階の高さから遠方にある東京ドームを見た。
「わざわざシード扱いにしてまで引っ張り出したんだ。そうならない事を祈りたいがな」
試合の翌日は休息日となる。明凛館高校のメンバーはイーストフードカンパニー側で用意している東京ドーム近くの高級ホテルに宿泊していた。
午前中に鶫はホテルのロビーに呼び出された。そこで待っていたのは、スーツ姿の男性だった。顔は整っていて中々の色男で、髪は七十三に分けていて、見た目は真面目そうな会社員という様相だった。鶫はこの見知らぬ男が誰なのか、だいたいは理解していた。
「スカウトでもしに来たの?」
「これはこれは、話が早くて助かりますよ。わたしは加藤雄介と申します。イーストフードカンパニーで営業兼スカウトをやっていましてね」
加藤は名刺を差し出して挨拶した。鶫は憮然としてそれを受け取る。
「もう何を言いたいのかはお分かりでしょう。あなたをイーストフードカンパニー所属の闘食家として迎えたいのですよ。もちろんただではありません。我社に所属する闘食家が給料をもらっている事はご存知でしょう。内々の話ですが、闘食家にはSからCまでのランク付けがされていまして、ランクによって給与も仕事の内容も変わってきます。あなたならば、Aランクからの待遇が可能でしょう。月の給与は五十万以上、女子高生にとってはそれだけでも破格の値段でしょう。しかし、それはまだ序の口、Aランク以上の闘食家になると、芸能界への進出やテレビの出演などを強力にサポートいたします。タレントとして我社の闘食家が活躍しているのは、誰でも知っている事でしょう。多くの闘食家が闘食杯を目指すのは、百万などという端金が欲しいからではありません。こういう理由があるのですよ。もっと分かりやすく言えば、あなたと同い年の楠木彩の年収をご存知ですか?」
「あなたの話には、一切興味がないわ。もう聞く気もない」
「おや、こんな良い話を断るというのですか? 愚かですね」
「あなた達はわたしが何者なのか、もう調べ上げているはずよ。それを知っていてこんな話をする方がよほど愚かだわ」
「知っていますとも。あなたは先代の闘食女王、深山瑠璃の妹です。姉妹揃って素晴らしい資質をお持ちだ。しかし、妹の方がもう少し利口かと思いましたが、姉と同じ轍を踏むとは残念ですね。深山瑠璃が我々に逆らってどうなったのか、あなたは良くご存知のはずなのに」
「それを知っているからこそ、あなた達には屈しない。もう話す事はない」
「後悔する事になりますよ」
加藤は陰湿な蔭のある目で鶫を見下ろし、絶対的優位な者が持つ尊大な態度を持って言った。そんな加藤の目を、鶫は強い意志をと義憤を宿した目で見返す。その強烈な視線に射抜かれて、加藤はたじろいだ。鶫をこのまま放っておくのは危険かもしれない、彼はそう思わずにはいられなかった。
翌朝、刃は胡桃を探してホテルの中を歩き回っていた。そして、胡桃がホテルの一階にある喫茶店でお茶を飲んでいるのを見つけた。
「いた、こんな所でお茶なんか飲んで、しかもケーキまで食べてるし……」
「モーニングケーキを欠かす事は出来ませんわ」
「胡桃ちゃん、毎朝ケーキ食べてるの……?」
「いつもなら三つは食べるところなのですが、今日は鶫さんに止められてしまいましたわ」
「そりゃ止めるよ、あと一時間もしたら試合が始まるんだから…」
胡桃を放っておくとどこかへ行ってしまいそうだったので、刃はそのまま待ってから、胡桃と一緒に東京ドームに向かった。
明凛館高校と龍餓の戦いが始まろうとしていた。ドームの観客席は朝から超満員、誰もがこの一戦に期待をしていた。
試合が始まる直前に、林檎が試合のメニューを確認して眉を顰める。
「おい、この二番目の激辛マーボー丼って何だ!?」
「準決勝からは、辛味料理が投入されるわ。一般参加の殆どが、これに阻まれて負ける。結果的に闘食家を多く抱えるイーストフードカンパニーの闘食チームだけが勝ちあがる仕組みにもなっているわ」
「そうか、鶫が小桃を是が非でもチームに入れたのは、これを知っていたからか。だったら、小桃に出てもらおう」
「わたしは、ちょっと……」
「小桃は応援担当よ。それで良いとわたしは言った」
「鶫ちゃん、ごめんね……」
「いいのよ、気にしないで」
林檎は、煮え切らない態度の小桃にいらつきながら言った。
「じゃあ、どうすんだよこれ!? あたしも胡桃も辛いものは苦手だ!」
「わたしが行くわ」
「やれるのか?」
「得意とは言い難いけれど、胡桃と林檎よりはましよ。もしここで負けるようなら、それまでだったという事よ。また出直すわ」
そして、両陣営の先鋒、エイミと胡桃が出てくると、そこかしこから爆発するように声援が起こり始める。エイミはテーブルに着くと言った。
「お互いに頑張りましょうね」
胡桃はそれにそっぽを向いて答える。
「わたくし、あなたにだけは負けたくありません」
「なんだかよく分からないけど嫌われているみたいね」
エイミが困ったような顔をして言った直後、急に胡桃の様子がおかしくなった。胡桃の顔が見る間に蒼白になり、お腹を押さえて苦しみだす。何が起こったのか分からずにエイミは唖然とした。ついに胡桃は、椅子ごと横に倒れてしまう。
「ちょっとあなた!? どうしたの!!?」
エイミが駆け寄った時、胡桃は尋常ではない苦しみ方をしていた。すぐに鶫たちも走ってくる。
「胡桃ちゃん!? しっかりして!!」
小桃が呼びかけると、胡桃は大丈夫と言う様に微笑を浮かべるが、すぐその表情は苦悶で打ち消された。
「何だ!? アクシデントか!? とにかくタンカーを!」
MCが言うと胡桃はタンカーで運ばれて、すぐにやってきた救急車で近くの病院まで搬送され、準決勝は一時中断となった。
それからすぐに、龍餓のリーダーの雅樹は、加藤を控え室に呼び出した。
「加藤さん、彼女等に何をした?」
「何をしたとは、よく意味がわかりませんね」
雅樹はいきなり加藤の襟を掴んで引き上げる。加藤は苦しそうな顔で彼を見下ろした。
「そんなに俺たちが信じられないのか!!」
「よせ雅樹!!」
崔が雅樹を後ろから羽交い絞めにし、開放された加藤は言った。
「あなたたちが負けるなんて思ってはいませんよ。しかし、彼女らは一筋縄にはいかない相手だった。余計な浪費をせずに済むのなら、それに越した事はないでしょう」
「貴様らはいつもそうだ! 俺たちの気持ちなどおかまいなしに、自分たちに都合のいいように事を進める! いい加減うんざりしてくるぜ!!」
「あなた方にはイースト・イーターズに勝って、若社長の鼻を明かしてもらいましょう。鷺沼常務はそれを望んでいます」
「権力抗争など、社内だけでやってくれ!」
「忘れては困りますね。悪い言い方をすれば、あなた方は会社の駒なのです。もちろんわたしもね」
そんな激しいやり取りをしている横で、エイミは鏡を見て髪型を整えたり香水を付けたりしていた。それを見かねた崔が言った。
「君はこんな時に何をしているんだ?」
「すぐに試合が始まるもの、お色直ししておかないとね」
「それはどういう意味だ?」
「きっと、わたしたちにとって、とても楽しい事になるわ」
エイミは鏡を見ながら柔らかに笑った。崔にも雅樹にもさっぱり意味が分からなかった。
胡桃は病院で薬の投与を受けて大分落ち着いたが、とても試合に出られる状態ではなかった。
明凛館高校のメンバーは胡桃が寝ている病室に集まり、途方に暮れていた。
「胡桃はどうしちまったって言うんだ。何か悪いものでも食べたのか?」
「朝にお茶を飲みながらケーキを食べていただけだよ」
刃が言うと、椅子に座っていた鶫は、膝の上でぎゅっと両手を握った。
「わたしの責任だわ。もっと気をつけるべきだった……」
「鶫、それはどういう意味だ?」
「胡桃は朝のお茶かケーキのどちらかに、盛られたのよ」
「毒を盛られたとでも言うのか!!? まさか、何でそんな事されなきゃならないんだ!!?」
「昨日、イーストフードカンパニーのスカウトが来たの。話など聞かずに追い返したわ。そいつは去り際に、後悔することになると言っていた。敵対するのならば、わたしたちは奴らにとって厄介な存在でしかない。こんな事態を想定する事だって出来たのに……」
「本当なの? 胡桃ちゃんは本当にそんな酷い事されたの?」
小桃が信じられないという様子で言うと、鶫は確信を持って頷く。
「間違いないわ。闘食杯に関わる施設は、全て奴らの息がかかっている。これくらいの事なら簡単に出来る」
「だったら、警察に訴えようよ!! こんなの酷すぎるよ!!」
「そんな事をしても無駄よ。証拠なんてとっくに消されてる」
「試合はどうなるんだ?」
「胡桃は試合が始まる前に倒れたから、まだ負けてはいないわ。ただし、中断してから一時間以内に戻らなければ、わたしたちは不戦敗になる」
「そしたら、後十五分しか時間がないよ」
刃が腕時計を見ながら言った。すると林檎が怒りのあまり部屋の壁面に思い切り拳を叩きつけた。
「ちきしょう、ふざけてる!!! このままじゃ引き下がれない!! あいつ等をぶちのめすには、闘食杯で勝つしかない!! 頼む小桃、あたしたちと一緒に試合に出てくれ、いま頼れるのはお前しかいないんだ!」
「わたしは……」
小桃はこの状況でも迷っていた。悲しい涙を流す母親の姿が、彼女の後ろ髪を引いていた。その時、胡桃が目を覚まして小桃に向かって手を伸ばす。小桃は胡桃の手を包み込むようにして両手で握った。胡桃は搾り出すような苦しみの色が濃い声で言った。
「わたくしは小桃さんが闘食を嫌う理由をよく知っています。それでもお願いです。鶫さんに力を貸してあげて下さい。今だけで、この一度だけでいいのです。胡桃のお友達としてのお願いですわ」
「胡桃ちゃん……」
「わたくし、こんな目に合って鶫さんの気持ちが少しだけ分かりました。わたくしたちは、負けてはいけない…そんな気がします…ですから……」
胡桃の瞳から涙が零れ落ちた。その瞬間に小桃の義憤が迷いを打ち砕いた。小桃は胡桃の手を握って言った。
「大丈夫だよ! わたしが胡桃ちゃんの代わりに出るから!」
胡桃は安心した微笑を浮かべ、鶫と林檎の表情にも光が差したように明るさが戻った。
「よし、胡桃ちゃんは僕が見ているから、みんなは早く行って!」
刃が言うと、鶫たちは頷いて病室から走って出ていった。
東京ドーム内では観客たちの間からどよめきが起こっていた。間もなく時間切れになるところだ。MCは神経質になって足を踏み鳴らしていた。そこへ鶫たちが入ってくる。
「おお!? 戻ってきたぞ、明凛館高校!! これで試合続行だ!!」
MCの声を皮切りに、観客席から声援の雨が降る。その中で鶫は言った。
「二番手は小桃で確定よ」
「後はどうする?」
林檎が言うと、鶫は少し考えてから答えた。
「わたしが最初に出るわ。大将戦は林檎に任せる」
「本当にそれで良いのかい?」
「それで良いというよりも、それしかわたし達が勝つ方法はないわ。龍田雅樹はバランス型では最強の闘食家、同じタイプのわたしでは勝てない。だから彼とはまったく違うタイプの林檎をぶつけるのよ。勝機を見出すとしたら、それしかないわ」
それから鶫は試合場に向かう前に言った。
「ショックを受けないように最初に言っておくけど、わたしは負けるわ」
「おいおい、いきなり敗北宣言か」
「でも、希望は繋ぐ。後は仲間の力を信じる」
ずっと前から待っていたエイミの前に鶫がやってくる。
「言い訳をするつもりはないけれど、内の者が余計な事をしたみたいね」
「借りはこの闘食で返すわ」
時間一杯になり、MCの声が響く。
「明凛館高校は、初戦で大将を務めた深山鶫を出してきた! 対するは甘味最強の闘食家、エイミ・リファール! 試合のメニューは杏仁豆腐だ!!」
二人の闘食家の前に出て来たガラスの容器に入った杏仁豆腐は、よく見る角切りのものではなく、豆腐に似た正方形の白い塊で、その味もプリンのように濃厚な本格的なものだった。これを二つ食べて1ポイントとなる。
「甘味勝負で、わたしにどこまで対抗できるかしら、楽しみだわ」
「わたしたちは負けない」
そして観客席からカウントダウンの声が上った。
『5、4、3、2、1、REDY、GO!!』
鶫は素早く杏仁豆腐の容器を取り、スプーンを逆手に持ち替える。何をするのかと思えば、柄の部分で杏仁豆腐を縦長に三等分にして、それらを立て続けに口に運んで丸の飲みにした。鶫はあっという間に一つを食べ終えると、エイミは感心して言った。
「あなたの闘食の技術には驚かされるわ。でも、負けないわよ!」
エイミの食べ方には別段変わったところはないが、それでいて恐ろしく早かった。すぐに鶫がエイミについていくような形になった。
二人は次々に杏仁豆腐を食べていき、テーブルにあれよという間に空の容器が積み重なっていく。
「これは凄い戦いだぞ!? 甘味でエイミにここまで対抗する闘食家は、わたしは華喰沙耶子以外には知らない! こんな闘食家が栃木にいたとは!?」
MCが声をあげると、エイミ一辺倒だった応援が、鶫に傾いてきた。間もなく会場はエイミと鶫への声援が拮抗して勝負もヒートアップしてくる。
勝負開始から十分が過ぎると、エイミが杏仁豆腐一個分の差をつけていた。その時になって、エイミはスプーンを手の内でくるりと回して、杏仁豆腐の上に突き立てる。
「これからが甘味の女神の本領発揮よ!」
「まだ本気ではなかったと言うの」
「ついてくる事が出来たら、貴方は本物だわ」
「これ以上の点差は与えない」
さらにエイミのペースが速くなり、つぐみもそれに合わせる。戦いは決勝戦と言ってもいいくらいに激しさを増していった。しかし、試合が終わりに近づくに連れて、鶫のペースが少しずつ落ちてくる。鶫の実力を信じきっていた小桃と林檎は少なからず衝撃を受けた。
「鶫ちゃん、ちょっと苦しそうだよ」
「エイミの方は顔色一つかえてない。何て奴だ……」
「あ、1ポイント差がついた!?」
「残り3分か。ペースダウンしたら、一気にもっていかれる」
これ以降は点差が開いていくかと思われたが、鶫は決死の覚悟で喰らい付いた。いつも寡黙で表情を変えない彼女が、最後はかなり苦しそうな顔をしていた。そして試合終了を知らせるブザーが鳴る。
「試合終了―――っ!!」
MCが言うと同時に、戦っていた二人はスプーンを置いた。すまし顔のエイミに対して、鶫は肩で息をしていた。
「ここまでついて来るなんて、正直驚いたわ」
エイミが食べた杏仁豆腐の数は32、対する鶫は28、ポイントにすると現時点で龍餓が16ポイント、明凛館高校が14ポイントとなる。
「2ポイントの差はついたものの、甘味最強のエイミを相手に、深山鶫よく健闘したぞ! 初戦から素晴らしい試合だ!」
鶫は林檎と小桃のところに戻ってくると、申し訳なさそうに下を向いた。
「ごめんなさい、2ポイントも差をつけられてしまったわ」
「何言ってる。あんなとんでもない奴相手に、よくやった」
「次はわたしの番だね」
「頼んだぞ、小桃!」
小桃が液晶スクリーンに映し出され、観客席はひそひそと話し合うような声がそこかしこから起こる。誰一人としてその少女の名も姿も知らなかった。一方、龍餓の崔諭烏飛が出てくると、人々の声は歓声に変わった。
その時にスカウトの加藤雄介が、雅樹のところに来ていた。彼は雅樹の横で小桃の姿を見てあざ笑った。
「苦し紛れに数合わせのお飾りを出してきましたか。ほんの少しでも点を稼ごうという魂胆なのでしょうが、闘食杯の辛味料理はそんなに甘くはない」
雅樹が煙たそうに加藤の姿を見ると、その横で鼻歌を歌っているエイミの姿が目に付く。
「エイミ、何がそんなに楽しいんだ?」
「さあ、何かしらね」
両雄が向かい合って席に着くと、観客席の興奮が一層高まる。崔は目の前の少女を観察していた。
――前の試合では後ろで応援していた少女か。
その時、小桃はテーブルの上を両手の指で叩き始めた。それを見た崔は、最初は怪訝な目をしていたが、すぐに背中から脳天まで怖気が走るような感覚に見舞われた。
――これは春園桜子と同じ仕草!!?
崔の脳裏に桜子に惨敗させられた苦い記憶が蘇る。この行動は、桜子が闘食のリズムを掴むと称して必ず最初にやる事だった。観客の多くもそれを知っていた為、辺りは急に騒然となった。
「明凛館高校から、謎の少女、春園小桃の登場だ! 彼女の実力はまったくの未知数、激辛料理を前にして、韓国最強と謳われた崔諭烏飛にどこまで対抗できるのだろうか!?」
――春園小桃、春園だと!? この子は桜子と関係があるのか!?
そして試合が始まる。崔は蟠りを胸に蓄えたまま小桃との試合に突入する事になった。
試合の品目は激辛マーボー丼、真っ赤なマーボーのかかった丼を、二人は同時に持ち上げて食べ始めた。小桃は食べている間も踵で床を打ってリズムを取っていた。
崔は初手から小桃の闘食に驚かされた。
――何だこの子は!? わたしの事をまったく意識していない、これで闘食になるのか?
闘食とは読んで字のごとく、食で闘うという事だ。闘う以上は、相手を意識するのは当たり前の事だが、小桃はまったくそれを度外視していた。普通なら素人と言う所だが、崔は尋常でないものを小桃から感じていた。
「ご馳走様、次!」
小桃が空の丼を置いた時、まったく予想していなかった状況に、観客席もMCも静まり返る。小桃が二杯目を食べ始めた時、一杯目を食べていた崔の丼の中身はまだ少しだけ残っていた。その時になって、ようやくMCが息を吹き返して言った。
「な、なんだこれは!? どうなっているんだ!? 春園小桃がいきなり先手を取ったぞ!? この激辛マーボー丼を前にしてまったく怯まないどころか、崔の先をいっている!! 予想外すぎる展開だ!!!」
そして観客席から熱い声援が轟く。その殆どが小桃に向けられていた。
――これはいかん!? 全力を出さなければ負ける!!
小桃の実力を理解した崔は、食べるスピードを限界まで上げた。
観客の大声も、崔の焦りも、小桃には伝わらない。彼女はただ食べる事だけに集中している。
――わたしは最高のリズムで食べるだけ。二十分で一番早く、沢山食べられるリズム……うん、もっともっと早くてもいいな。
小桃の足踏みが早くなり、それに合わせて食べる早さも増した。そして、空になった二つ目の丼を小桃は静かに置いた。
「次!」
崔との差がまた少し開いた。
桜子と彩は、その試合の様子を少し離れたところから見ていた。
「桜子さんの妹、すげぇ……」
「あの子は沙耶子に似ているわ」
「え? どの辺りがあの凶悪な沙耶姉さんに似ていると……?」
「もちろん、性格も闘食の性質もまったく違うわ。ただ、闘食家として天性の才能を持っているところは同じよ」
「確かに、小桃は普通じゃない感じがするよ」
「鷺沼のじじいも、余計な事をしてくれたわよね」
桜子はそう言いつつも、嬉しそうな顔をしていた。
そして試合開始から十分が過ぎた時、観客からわっと声があがった。崔と小桃が同時に空の丼を置き、掲示板に映し出された数字は5対4だった。小桃がちょうど一杯分の差をつけていた。焦りを隠せない崔はハンカチでしきりに顔の汗を拭っていた。彼は辛いものには慣れっこだが、小桃から受けるプレッシャーが半端ではなかった。
小桃の闘食に驚いたのは敵ばかりではない。
「あいつ、相手の事をまったく見ないで食ってるぞ」
「闘食のセオリーをまったく無視しているわね。小桃はただ、目の前にある食べ物に全力を傾けているわ。夢想食いとでも言ったところかしら」
「本当に周りを意識せずに全力を出せるとしたら、相手は精神的に相当きついはずだ」
小桃と崔の差はさらに広がっていた。いつも通りのほわんとした表情の小桃に対し、崔の顔が苦しげに歪んでいた。
そして二〇分が経ち、試合が終了する。小桃にとってはあっという間に過ぎた時間だったが、崔にとっては途轍もなく長い時間となった。
「あれ? もう終わりなの?」
小桃がふと目の前の崔を見ると、彼は悪戦苦闘の末に疲労困憊の様子で、眼鏡を取って顔に吹き出た汗を拭っていた。そして、崔のテーブルには七杯分の丼が、小桃のテーブルには九杯分の丼が積まれていた。崔は理解を越えた闘食の前に惨敗し、小桃は鶫が失った2ポイントを見事に取り返していた。
MCと観客が大騒ぎする中で、エイミは微笑を浮かべて言った。
「何であの子が後ろで応援していたのか、ずっと疑問だったのよね」
「エイミはあの子の力を知っていたんだな」
「一目見た時から、すごい子だと思っていたわ。それは兎も角として、次の試合、頑張ってね。本気出さないと、わたしたち負けちゃうわ」
「ああ、全力で行くさ。久々に燃えてきたよ」
そう言う雅樹の近くで、加藤は呆然としていた。
「そんな…馬鹿な……」
「加藤さん、今はあんたに感謝しているよ。彼女達をベストメンバーにしてくれたんだからな」
雅樹は加藤を皮肉ってから出て行った。崔は雅樹が来ると、敗北に耐えないという渋い顔をして言った。
「すまん、雅樹」
「気にするな、後は俺に任せろ」
小桃が戻ると、林檎はそれに抱きついた。
「すごいよ小桃!! 2ポイント取り返しやがった!!」
「ありがとう、あなたのお蔭で希望が見えてきた」
鶫が言うと、気恥ずかしそうな顔をした。
「よかった、みんなの役に立てて嬉しいな」
「後は林檎に任せる」
「おう、安心しろよ鶫、必ず女王様のところまで連れてってやる!」
大将戦が近づくと、林檎が出てきて雅樹の前に腰を下ろした。その時に林檎の発する覇気が、雅樹に痺れるように伝わる。
――この子は、既に一流の闘食家としての空気を持っている。何でこんな子が地方に引っ込んでいたのか……。
観客席は準決勝で最高潮の盛り上がりを見せる。龍餓のリーダーである雅樹は、美丈夫なので女性を中心として絶大な人気を誇っていた。だが、林檎への声援も少なくはない。優勝候補の龍餓に迫る無名の少女達のインパクトは、多くの観客を魅了しつつあった。
林檎は雅樹に向かって言った。
「あんた強いらしいな。まあ、相手が誰であろうと関係ない、あたしは自分にとって最高の闘食をするだけだ」
「それは楽しみだ。君の闘食をじっくりと見せてもらうよ」
対戦メニューのカツ丼が、二人の前に運ばれる。そしてカウントダウンに入った。辺りに緊張が走る。
『5、4、3、2、1、REDY、GO!!』
試合が始まると同時に、林檎は猛烈な勢いで食べ始めた。
「そんなペースで食べていたら、あっという間に調子を崩してしまうぞ」
「うるさい、これがあたしの闘食だ!」
林檎は雅樹の言う事など聞こうともしない。雅樹は明らかな林檎の暴食に眉をひそめた。
「まあ、君が勝手に潰れてくれるのなら、こちらは有りがたい」
雅樹は堅実に自分のペースを守って食べ続けた。彼が得意とするのは長期戦だが、それでもかなりの速さだ。
林檎は十分そこそこで、カツ丼七杯完食という驚異的は速さをみせるが、そこでテーブルの上に突っ伏して動かなくなってしまった。
「うぅ……」
「言わんこっちゃない。この勝負はもう見えた」
雅樹が四杯目に突入する。林檎はまったく動けない。肩で息をしている様子からも異常が伺えた。
「どうしたの林檎ちゃん!? しっかりして!」
「まずいわ……」
鶫と小桃に成す術はない。鶫には林檎がこのまま終わるとは到底思えなかった。見守っていると、時間が過ぎていくごとに、肩で息をしていた林檎の様子が次第に落ち着いていく事に気付いた。
「林檎は何かするつもりよ」
「本当に?」
鶫が小桃に頷く。時間は残り五分となり、雅樹は七杯目のカツ丼を完食し、八杯目に移ろうとした。無名の少女たちの健闘もここまでかと、観客達が落胆したその時、林檎が目前のカツ丼を取り上げて跳ねるように起き上がった。
「追いついてきたな。ここからが本当の勝負だ!」
「まさか!? 君は暴食で明らかにダメージを受けていたはずだ!?」
「確かに少し苦しかったけどな、もう平気さ。あたしの胃袋は、消化するのが早いんだ!」
林檎が雅樹と同時にカツ丼を食べ始めると、萎んでいた歓声が活気付く。
「限界まで飛ばす!!」
「くっ、仕方がない!」
雅樹は必然的に苦手な早食いを強いられる事になった。しかしここはプロの意地を見せる。林檎と雅樹はまったく同じ速さでカツ丼を平らげていく。5分間、二人の限界を超える闘食が繰り広げられた。試合終了直前で、二人は同時に十杯目に突入する。そして、試合終了を知らせるブザーが鳴った。
「おおっと、二人が食べているカツ丼の数は同じだ! では、九杯目の残りを確認していきましょう」
MCが二人の前にある丼の中身を見ていく。
「ううむ、林檎選手の方がカツを一切れ多く食べているが、雅樹選手の方は飯の方をより多く食べているように見えます。これは計量の必要がありそうです」
二つの電子計量器がテーブルに置かれ、それに二つの丼が同時に乗せられた。計量器の数字がめまぐるしく変わる、緊張の一瞬だった。二つの計量器はほぼ同時に数値を示した。それを見たMCは目を大きく見開いた。
「あ、ああ!? あああっと!!? これはなんという事だ!!? 紅野林檎の丼の方が、わずか5グラム少ない!!? という事は、明凛館高校、決勝進出だーーーっ!! これはとんでもない番狂わせだぞ!!」
「イエス!!」
林檎がガッツポーズをすると、観客席は大盛り上がり、小桃は喜びのあまり鶫に抱きついた。同時に雅樹が立ち上がり、林檎に手を差し出す。
「完敗だよ。いい勝負だったな」
「今回は、あたしたちの運がよかったんだ」
二人が清々しく握手を交わすと、歓声はさらに大きくなった。それを観客席の方から見ていた彩は言った。
「あいつ、インフィニティ・イーターに勝ったよ」
「決勝が楽しみになってきたわね」
桜子が言うと、彩は怖い顔をしてそれを見つめた。
「まだ準決勝があるよ」
「わたしたちが負けるとでも?」
「福島から来たあの子達は、死ぬ気で食らいついてくる。油断したら、わたしたちでも負ける!」
彩は軽はずみな桜子に対して本気で怒っていた。彩の真剣な姿は、桜子に次の試合で何かが起こると予感させた。
大丈夫だよ!・・・終わり