第十話 どこまでも走りぬいて!!
書いて良いものかとうか、非常に悩んだ話です。東日本大震災によって天災孤児となってしまった子供たちの事を思って書きました。
西牧海宇は浜崎空の家に下宿しながら高校に通っていた。その日、海宇はどうしても母の顔が見たくなった。その時は何故そう思うのか、よく分らなかったが、とにかく母に会いたくて、学校とは逆方向の電車に乗った。数時間後には相馬市内の実家に着いていた。母の香代は、娘が突然帰ってきて驚くと同時に学校はどうしたのかと怒った。
「どうしても、お母さんに会いたくなったの」
「何を言っているの、おかしな子ね。……まあいいさ、来てしまったものはしょうがない。夕方になる前に、電車に乗ってお帰り」
「うん」
「お昼ご飯は食べていきな」
最初は怒った母だったが、その後は優しかった。急いで出かけたと思えば、空の好きなものを作る為に近くのスーパーで買い物をして帰ってきた。
海宇は中学まですごした自分の部屋に入ると、窓を開けて冷たい空気を吸った。まだ冬の終わりなので寒さが身に染みるが、潮の香りがなんとも懐かしく思えた。下宿先の四ツ倉も海は近いが、潮が匂うほど目と鼻の先にあるわけではなかった。
「海宇、ご飯出来たから降りてきなー」
「はーい」
それから母と二人だけの昼食を取った。テーブルには刺身や煮魚など海の幸が並び、海宇は喜んでそれを食べた。たった二人だが、それが逆に何だか楽しかった。
「静かで変な感じだね」
「食事時はみんなで集まるもんねぇ。二人だけでお昼なんて、滅多ないね」
海宇は母とこうして二人きりで話が出来るのが嬉しかった。彼女は帰る間際まで、母と他愛のない話を過ごすのだろう。それが日常というものだ。
だが、昼下がりに起った地震が、その日常を粉々に打ち砕いた。建物を倒壊させるほどの強烈な地震ではないが、大きな揺れが何分も続いた。
「これはまずい、絶対に津波が来るよ。逃げなきゃいけない」
香代は地震が収まる前からそう言った。その声を聞いた海宇は、心臓の鼓動が早くなり、今までに経験したことのない大きな胸騒ぎを感じた。
地震が収まるや否や、二人は車に乗り込んで家を飛び出した。海宇の実家は高台から少し離れていて、通りには既に多くの車が出てきていて道を塞いでいた。
「このままじゃ間に合わない」
「平気だよ。幾らなんでも、そんなすぐに津波来ないでしょ」
「何だか嫌な感じがする」
香代は車窓から辺りを見回して、一際高い雑居ビルを見つけると、車を歩道に乗り入れる。
「お母さん、こんな所に車おいてくの?」
「今は避難する方が先よ、早く降りて!」
母の鬼気迫る声に、海宇は叩き出されるように車から飛び出した。
「ほら、あのビルの屋上に避難してる人が見える。あそこに行こう」
香代は娘の返事を待たずにその手を引いて雑居ビルに向かった。辺りにはまだ車に乗っている人たちが沢山いて、時々クラクションも鳴っていた。
「津波が来るぞ!!!」
誰かがそう叫んだ。香代と海宇は同時に振り返る。黒い濁流がうねりを上げ、建物や車を飲み込みながら迫っていた。香代は呆然としている海宇の手を無理やり引っ張って駆け出した。
「諦めちゃ駄目よ!」
海宇は香代と一緒に、後ろを振り返らずに必死に走った。後ろから全てを砕く波の音と、人の悲鳴が聞こえてくる。雑居ビルはもう目前だ。
「走れ!! 走れ!!」
「はやくこっちさ来い!! 急げ!!!」
ビルの屋上に避難していた人たちは、まるで自分が津波に追われているかのようは必死さで叫んでいた。しかし、その思いは届かなかった。彼らは津波に飲み込まれる親子を目の当たりにする事になった。無慈悲な現実の前に、誰もが悲愴に打ちひしがれた。
あまりにも早い巨大な津波の襲来、こんな事態が予想できる者などいるはずはなかった。
海宇は津波に飲まれた時の事は良く覚えていない。ただ、母が手を離さずに握っていて、その手にある消えぬ温もりだけが鮮明だった。
水面に浮かんだとき、海宇は大量の泥水を飲み咳き込んで苦しかったが、すぐ側に母の姿があったので安心した。濁流に流される二人、その時に香代は言った。
「最後まで諦めるな! 何があっても希望を持つの!」
何があっても希望を持つ、というのは香代の普段からの口癖だった。こんな状況でもそれを口にする母が、海宇には頼もしかった。お母さんと一緒なら、死んでも悔いはないと海宇は心の底から思った。あらゆる物を破壊する濁流の砕ける音が耳に直に響き、氷のように冷たい海水に晒され、もう手足の感覚もなく、どこに流されていくのかも分らない。助かるはずがない。わたしはお母さんと一緒に死ぬんだ。海宇は覚悟をした。
だが、香代は諦めなかった。倒壊した家の屋根が近くを流れて来た時、彼女は残った全ての力を振り絞り、屋根の端に取り付いて、海宇を樋に捕まらせた。
「早く!! 上に乗って!!」
海宇は、母に押し上げられて、何とか屋根の上に乗ることが出来た。
「お母さんも、早く!!」
海宇が手を伸ばした。香代も手を伸ばす。二人の手がもう少しで触れ合うというところで、流れてきた木材が香代と海宇の間を遮った。もはや力を使い果たしていた香代は、木材に弾かれ屋根から離れていく。
「お母さん!!! お母さん!!!」
血を吐くように叫ぶ海宇に、母は力強く言った。
「どこまでも走りぬいて!! その…に……ある!!」
濁流の水音に遮られて、最後の方の言葉は良く聞こえなかった。それが海宇が見た、母の最期の姿だった。香代は黒い波に流されて、やがて海宇の視界から消えていった。
「うあああああああぁっ!!!」
海宇の悲痛な叫び声が天を裂き、彼女は流れ行く屋根の上で泣き崩れた。何がどうなっているのか、訳が分らなかった。この状況で、自分が生きるか死ぬかという事すらも考えられなかった。ただ母の最期の姿だけが、瞳の奥に焼きついていた。
それから何日かして、空と風美はある避難所で海宇を見つけ出した。震災の影響で被災地に通じるあらゆる交通機関は麻痺し、二人は途中から自転車を使って悪戦苦闘の末にここまで来た。未だに混迷が深い被災地で海宇を見つけられたのは奇跡と言ってもよかった。海宇の無事に二人は大喜びしたが、すぐにその様子が異常であることに気付いた。二人が声をかけても海宇は答えず、目は空ろでまるで生きた屍だ。あらゆる希望を失い、最悪の絶望に身を沈めた少女がそこにはいた。
「海宇ちゃん、しっかり! お母さんはどうした?」
「お母さんも、お父さんも、きっと帰ってくるよ。海斗だって、きっと……。だから、わたしはここで待っていなきゃ……」
魂が抜けたようなか細い声で海宇は言った。その時に空と風美は、海宇に何が起こったのか分かってしまった。二人はそれだけはどうか嘘であるようにと、心から願わずにはいられなかった。
「…もう闘食杯に出るのは無理だね」
「うん。それよりも、海宇ちゃんを助けてあげなきゃ」
空と風美は、しばらくは海宇の側にいることにした。学校の出席日数や成績など気にしているような状況ではなかった。親や担任の教師から度々携帯に電話があり、帰ってくるようにと言われても、何としても親友を救いたいという信念の下に、二人は帰らなかった。
海宇が母と再会したのは、薄暗い体育館の中だった。辺りには啜り泣きや叫び声などの悲愴が渦巻き、体育館は悲しみの砦と化していた。そこには津波で亡くなった多くの遺体が運び込まれていた。被災で亡くなった人間があまりにも多く、このような場所まで安置所として使わねばならない状況だった。
海宇の後ろで、空と風美は呆然としていた。友の背中に、どう声をかけたらいいのか分らない。それどころか、二人共今にも悲しみに押しつぶされてしまいそうだった。
海宇は横たわる母の亡骸の側に両膝をついて、その顔を覗き込んだ。
「綺麗……」
空ろな瞳の海宇は、心の底からそう思った。水死体というものは、大抵は良い状態とは言い難いものが多く、さらに激しい津波に巻き込まれて亡くなったのだ。損傷を受けていてもおかしくないのに、海宇の母は顔から体までまったく傷がなく、微笑まで浮かべていた。安らかに眠っているだけのようにすら見えた。
「お母さん、笑ってる……ああ、そうか、お父さんと、海斗も一緒だからだね。みんな一緒なら、寂しくないね……」
海宇は一滴の涙も流さず、虚ろなままに言った。後ろの空と風美は堪えきれずに抱き合い声を上げて泣いた。どうしようもない悲惨、これ以上ないほどの悲劇に、耐えることは出来なかった。たった一人残された少女が背負うには、あまりにも無情な現実だった。
その日の昼下がり、海宇は避難所となっている学校の教室の隅に座り、食事も取らずに呆然と時を過ごしていた。そこにボランティアに来ていた中年の女性が現れて、海宇に話しかけた。
「あなた、ご両親を津波で亡くされたんですってね。可愛そうに。貴方は幸せにならなければ駄目よ。ご両親の分まで長生きしなきゃいけないわ」
その女性は心から海宇の状況を悲しみ、涙すら浮かべていた。その時に、海宇は女性を見上げる。虚ろだった目が光を取り戻し、その奥には自分ではもうどうにもならない憎悪が燃えていた。
「幸せになれって、どうすればいいの!! 教えてよ!!」
激昂する海宇に女性は唖然とした。海宇はあふれ出す憎悪が抑えられずに、火を吐くように言った。
「わたしは一人だよ!!! お父さんやお母さんや弟の分までなんて、生きられないよ!!! わたしはどうすればいいの、教えてよ!!!」
その声を聞きつけた空と風美が教室に駆け込んでくる。
「海宇ちゃん、落ち着いて!!」
空に抱きつかれ、少し我を取り戻した海宇は、母の口癖を思い出した。母は何があっても希望を持てと言っていた。その言葉はまるで、耳元で囁かれているかのように鮮明で、海宇の心に重くのしかかった。
「お母さん、無理だよ…希望なんて持てない……」
空見は泣き崩れる海宇を尻目に、女性を廊下に連れ出した。
「驚かせてごめんなさい、あの子はお話なんか出来る状態じゃないんです」
「いえ、いいのよ。余計な事を言ったわたしが悪いんだから」
女性は申し訳なさそうに言ってから、自分に出来る仕事を求めてその場を後にした。
海宇はその日はずっと塞ぎ込んで、空や風美にすら口を開かなかった。
海宇は翌朝早くに、誰に何を言うこともなく避難所を出て、瓦礫の原と化した街中を、実家に向かって歩いた。近いはずの場所だが、震災後の町は道なき道を行くようなもので、着くまでにだいぶ時間がかかった。
ようやくたどり着いたその場所には、何もなかった。津波は、父、母、そして弟との思い出ごと、家をさらってしまっていた。海宇に残されているものなど一つもなかった。
海宇が避難所に戻る道すがら、先ほどの自分と同じ様に、何もない場所に佇む小学校低学年くらいの幼い少女がいた。ここまで苦労して来たのだろう。全身が泥だらけだった。親はどこにいるのかと、海宇は辺りを見たが、誰もいなかった。ふと少女の顔を見ると、海宇は胸を刺すような悲しみに襲われる。少女は声も上げずに静かに涙を零していた。
―この子は、わたしと同じなんだ……。
こんな幼子が声も上げずに泣くとは、津波に与えられた悲惨が少女の精神を成長させたのだろうか。一体どれほどの悲しみなのだろう。海宇はそれを考えると、全身の力が抜けて、泥の上に両膝を付いて項垂れた。
―この世界は、何て不公平なんだろう……。
どうしてこれほどの不幸を背負わなければいけないのか。安穏と暮らしている人間と、震災で苦しんでいる人間との差はなんなのか。それを考えると海宇はたまらない気持ちになった。その時になって、母の最期の声を思い出す。『どこまでも走りぬいて!!』母の声が今でも耳に聞こえるような気がした。
「…そうだ、走るんだ。走っていれば、苦しみも、悲しみも、忘れていられる」
海宇は携帯電話を取り出すと、何かに取り付かれたようにメールを打ち出す。
それから、空と風美の携帯にメールが届いた。二人は避難所から姿を消した海宇を探しているところだった。メールの差出人が探している当人だったので、慌てて携帯を開いてメールを調べると、二人は驚いて顔を見合わせた。『闘食杯に一緒に出てほしい』携帯電話の画面に短くそう書いてあった。
「海宇ちゃん、本気なの…?」
風美にはそれが嘘のように思えた。
「いよいよ準決勝第二試合が始まるぞ! 第一試合に続き、こちらにも注目が集まります!」
MCの声が球場内に響き渡り、観客席の熱が上る。耳を劈くほどの歓声の中、いわき青海高校が先に姿を現した。空と風美は、どうして海宇が急に闘食杯に出るなどと言ったのか、最初は不可解に思っていたが、ここに来るまでに、海宇が闘食杯に出たいと言った意味を知った。海宇は目の前にある闘食杯に全力を傾ける事で、少しでも悲しみを忘れていようとしていたのだ。二人はそれで友の悲しみが少しでも紛れるならと、一つでも多く勝てるように全力を尽くすことにした。
さらに歓声が爆発的に高揚する。最強の闘食チーム、イースト・イーターズの登場だ。
「イースト・イーターズが出て来たぞ。闘食女王華喰沙耶子、香辛の女帝春園桜子、高校生最強の楠木彩、この三強を相手に、いわき青海高校はどう闘う!!」
彩は戦いの場に出ると沙耶子に言った。
「沙耶姉さん、わたしに海宇と戦わせて」
「それはつまり、あんたが大将になるって事ね。闘食に出てくる食材の事を考えると、必然的にわたしが先鋒になるわ。観客にとっては酷く面白くない展開になるわね」
「そうかな。わたしはそんな簡単にいかないと思うよ」
「へぇ、わたしを信奉している彩が、そんな事を言うとはねぇ」
「沙耶姉さんは、命がけで向かってくる人間の怖さを知らないんだ」
沙耶子は彩の表情を見て眉を顰めた。深遠を味わった人間のみが持つ、暗くも力強い魂が、彩の中には燃えていた。
「…まあいいわ。わたしには順番なんてどうでもいい。目の前の敵を叩き潰し、絶望を味合わせてやる事が出来れば満足よ」
「あの子達に絶望を与える事なんて出来ない、絶対に」
沙耶子は彩の言う事にあざ笑ってから言った。
「桜子、そういうわけだから、いいわね」
「ええ、沙耶子がいいなら、わたしから言う事は何もないわ」
いわき青海高校のベンチでは、先鋒の空が出て行くところだった。
「空ちゃん、頑張って!」
「まかせといて、最強だか何だかしんないけど、泥を塗ってやる」
空が出て行こうとすると、後ろから海宇が声をかけた。
「空」
「うん? どうした、海宇ちゃん」
「空も、風美も、こんなに弱くて情けないわたしの為に、ここまで一緒に来てくれて、本当にありがとう、感謝してる」
「わたしたち友達じゃない。そんな事気にしないでいいんだよ」
「まだまだこれからさ。わたしたちは優勝するまでとぶんだ」
風美と空の優しさが、身寄りのない海宇にとっては何よりも温かく、頼もしかった。
そして、空が試合の行われるドーム中央のテーブルまで行くと、急に観客が騒ぎ出した。最初は期待と驚きを混ぜ合わせたくぐもった声が辺りから聞こえてきたが、それらはすぐに女王を称える歓声に変わった。その女がテーブルに向かって歩いてくると、空は狼狽えた。
「なしてあんたが……」
「よろしくね、浜崎空ちゃん」
沙耶子の微笑には見る者を凍りつかせる深遠なる冷徹さが隠れている。ほとんどの闘食家はこれでやられてしまうが、空は唇の端を吊り上げて挑戦的に笑った。
「いきなり闘食女王のお出ましとは、ちょっとびっくりだな。けど、誰が来たって関係ない。あたし達は勝って決勝まで行くんだ!」
「いい心意気だわ、潰し甲斐がありそうね」
「やれるもんなら、やってみろよ」
空が言うと、沙耶子は異様な笑みを浮かべた。さすがの空もそれにはぞっとした。
「何と!? イースト・イーターズはいきなり華喰沙耶子を出してきたぞ!? これは作戦なのか!? 初戦から波乱が巻き起こりそうだ!」
試合開始の時間が迫ると、MCは高らかに叫ぶ。
「準決勝第二試合、先鋒戦はロールケーキ丸々一本だ! かなりきついメニューだが、両雄はどこまでやれるのか!! さあ、時間一杯、皆さんもご一緒に! カウントダウン!!」
『5、4、3、2、1、REDY、GO!!』
代液晶画面の数字が二〇分までの時を刻み始める。沙耶子と空は、向かい合ったテーブルに座り、既に用意してあったロールケーキ一本を同時に手にとって食べ始める。最初は両者共に同じくらいの速度で食べていたが、二本目から観客席からどよめきが起り始めた。空が沙耶子に差をつけ始めていたのだ。しかし、空は沙耶子よりも頻繁に水を口にしていた。それを見ていた桜子は厳しい表情を見せた。
「沙耶子にとっては良くない展開だわ」
「どういう意味?」
彩が言うと、桜子は黙ってしまった。何かを隠しているような感じだった。
沙耶子は多少先行されたところで、どうと言う事はないという余裕の顔でロールケーキを食べていた。その時に彩は気付いた。これまでに相手に先行されている沙耶子など見た事がなかった。超先行型の空だからこそ、沙耶子から先手を奪うことが出来たのだ。
―かなり無理をしなきゃならないけど、先行しなきゃあたしの闘食は始まらない!
空はいつもよりも格段に早いペースで食べていた。そうしなければ、沙耶子からの先行を守ることは出来ない。
三本、四本と、勝負が進むに連れて、観客席のどよめきが大きくなっていく。やがて空が五本目を完食した時、沙耶子は五本目を食べ始めたところだった。
「何と!? 浜崎空が、女王沙耶子を相手に、ロールケーキ一本分の差を付けたぞ!! これは意外な展開だ!!」
MCがそう言ったのを皮切りに、沙耶子のペースが上った。観客もMCも、沙耶子が演出していることは分っていた。だが、先手を取られた沙耶子など滅多に見られるものではない。興味深い勝負であることは確かだった。
ロールケーキ七本目に入ったところで、沙耶子は空に追いついていた。残り時間はあと五分程だ。先行を守る為に水を多量に飲んでいた空は、この時点で苦しそうな顔をしていた。
「空ちゃん、頑張って」
ベンチの風美は祈るような気持ちで言った。海宇は黙って見ていた。
「どうした、その程度なのかい?」
沙耶子が揺すりにかかると、空は俯いたまま言った。
「ざけんなよ」
沙耶子はそれを耳にした瞬間、はっとさせられた。空の短い言葉の中に、気迫のようなものを感じた。
そして、限界に近いはずの空がさらに勢いを増して食べだした。
「何!?」
予想外の事に、さすがの女王も慌てる。
「馬鹿な!? お前はもう限界のはずだ!!」
「死んでも勝つ!!」
限界を迎えたはずの空の闘食が衰える様子はない。沙耶子の脳裏に、先ほど彩が言っていたことが否応なしに思い出された。こうなれば、沙耶子も本気を出すしかなかった。
女王がこんなところで負けるなど、あってはならない事だ。沙耶子が全力を出し始めると、流石に空は後続になったが、僅かな差でしつこく喰らい付いてくる。
両者ほぼ同時に八本目を完食し、残り時間僅かで九本目に入る。沙耶子は猛烈な勢いで食べて、あっという間に九本目のロールケーキを完食した。その離れ業に歓声が起り、さらに畳み掛けるように、次の歓声が起った。残り十秒のところで、空が九本目を完食しようとしていたが、一瞬動きが止まる。もうとっくに限界を超えていた空は、気力だけ食べていた。
「負けない!! ここで負けたら海宇がとべなくなる!!」
空は最後の欠片を口に詰め込み、水で流し込んだ。その瞬間に、試合終了のブザーが鳴った。両チームのポイントを示す掲示板の数は9対9、それは観客席にしてもMCにしても、信じがたい結果だった。
「何という事だ!! 浜崎空が最後まで女王沙耶子に食らい付いた!! よくやったぞ浜崎空、凄まじい健闘だ!!」
MCが叫び、観客席から拍手喝采が起る中で、俯いていた空は椅子からずり落ちて人口芝の上に倒れた。
「空!!?」
「空ちゃん!!?」
海宇と風美がベンチから空のところに駆け寄る。それとほぼ同時に医療班がタンカーを持ってやってきた。空はタンカーに乗せられると、片目を瞑り苦しげな表情で言った。
「大丈夫だ、ちょぺっと食いすぎただけさ」
それから空は笑みを浮かべて言った。
「風美、後は頼んだ」
「任せて、空ちゃんの戦いは絶対に無駄にしないから」
風美が言った後、空はタンカーで医務室に運ばれていった。
沙耶子は釈然としない面持ちでベンチの方へ歩いていく。戻ってくる沙耶子を見ながら彩は言った。
「沙耶姉さんなら、軽く十本は食べると思ったけど、調子悪いのかな?」
「油断しすぎよ」
と桜子は言い放った。
戻ってきた沙耶子は不機嫌そうな顔で椅子に座って言った。
「あの子達、何だか妙な感じだわ。今まで闘ってきた闘食家とは何かが違う」
「言ったでしょう、それが命がけで闘ってるって事だよ」
彩が強く言うと、沙耶子はそれを憤然と睨んだが、反論はしなかった。
続く中堅戦、桜子が立ち上がる。
「彩の言ったことは本当ね。わたし達でも、油断すれば負けるわ」
桜子と風美が同時に出てきて、声援を受けながら、中央のテーブルを挟んで対峙する。
「わたしは相手がどうであろうと、全力で戦う」
桜子から放たれる圧力の前に、風美は何も言えなかった。それから二人はテーブルの前に座った。すると、桜子はテーブルを指で叩き始める。それを見ていた風美の頬に、汗が伝った。
――辛味料理においては、この人は女王よりもずっと恐ろしいわ。わたしでどこまでやれるんだろう……。
風美がプレッシャーに負けそうになったその時、観客席の方から声が聞こえてきた。
「風美、頑張れ! 海宇、頑張れ!」
「負けるな!」
「香辛の女帝なんて、ぶっ飛ばせ!」
見れば、観客席の一角で学校の同級生達が一群となり、いわき青海高校の旗を掲げて応援していた。
「みんな」
それを見て、風美は恐れを吹き飛ばした。
「恐れることなんてない、わたしができる最高の戦いをすればいいんだ」
風美の雰囲気ががらりと変わったのを見て、桜子は言った。
「人間ってさ、誰かの為に戦う時の方が、大きな力を出せるのよね」
「貴方は何を言っているのですか?」
このタイミングで、真っ黒のルーがかかったカレーが運ばれてきた。
「続く中堅戦は、超激辛黒カレーだ! この激辛料理を前にして、増子風美は香辛の女帝に対抗できるのか!?」
そしてカウントダウンが始まる。緊張の一瞬、試合開始の合図と共に、両者は同時にスプーンを取ってカレーを食べだした。
様々な香辛料がかもし出す辛味は普通の辛さとは世界が違う。強烈な辛味はじわりと後から襲ってきて、体の底から燃え上がるように熱も上る。辛味に耐性があったとしても、一筋縄にはいかない料理だった。
二分少々が経ち、両者は同時に食べ終えた皿を置いた。すかさず次のカレーが横から差し込まれてくる。両者二杯目へと突入、その時に観客席がざわめき、MCが吠えた。
「何と、増子風美、春園桜子に喰らい付いている!? 多くの一般参加が脱落する激辛料理をものともしていない!! 一戦目に続き、二戦目の激辛対決も白熱しそうだ!!」
二枚めの皿が同時に重ねられ、三杯目のカレーが出てくる。
「やるわね」
「わたしはいつも辛さ五十倍のカレーを食べているわ。カレーは、わたしの最も得意とする料理よ!」
「上等!」
桜子は楽しげに言って、食の勢いを増す。風美もそれに寸分野狂いもなくついていった。そして、四枚、五枚、六枚と二人の皿が同時に重ねられていく。
―このままついていって、最後に差し抜く。見ててね海宇ちゃん、必ず決勝に連れて行ってあげるから!
そんな風美の考えを見抜いたかのように、桜子は攻撃的で鋭い笑みを浮かべた。
「あなたの考えていることは分るわ。香辛の女帝を舐めるんじゃないわよ。あなたのリズムは掴んだ、これで終わりだ」
「終わり!?」
桜子は足踏みしてリズムを取り、その途端に食べる速さが飛躍した。
「おおっと!? 春園桜子が凄まじい早さで食べている!! 増子風美との差がひらいてきたぞ!! これまでなのか!?」
焦る風美、残り数分のところで、桜子が九枚目の皿を置いた。同時に風美の皿も置かれる。これは八杯目を完食した皿だった。わずかな時間で、桜子は一杯分のリードを奪っていた。
「そんな……」
桜子の強さを見せ付けられ、風美は絶望した。さらに限界も来ている。いくら辛いものに強いとは言え、これだけの量の激辛カレーを食べたダメージは大きかった。体中から火が吹き出ているかのように熱く、滝のように汗が流れ、息も苦しかった。
桜子は時間ぎりぎりに十杯目を完食する勢いで食べている。一方、風美の方は精根尽き果てたかのようにぐったりして動いていなかった。桜子は笑みに余裕を湛えた。その時だった。
「海宇ちゃん」
風美の瞳から涙が零れた。それを見た桜子は眉をひそめた。途端に、風美はテーブルを叩き、カレーの皿を持って立ち上がった。
「何だ!? 風美が立ち上がったぞ!? 何をする気だ!!?」
呆気に取られるMCと観客、残り時間は一分を切った。その土壇場で、風美は皿を鋭角に傾けて、口の中に一気にカレーを流し込んだ。誰もがまさかと思った。桜子まで手を止めて風美の姿を見つめた。残り時間十秒とちょっとで、風美は九枚目の皿を重ね、後は椅子に崩れるように座って動かなくなった。
「馬鹿な!!?」
桜子は慌てて十杯目の完食を目指す。だが、残り一口か二口というところで、試合終了のブザーが鳴った。
あまりの出来事に、MCすら声が出なかった。
奇妙な静寂の中で、桜子は微笑を浮かべて風美に近づき、肩を貸した。
「あなたの強さを見せてもらったわ」
「桜子さん……」
桜子がいわき青海高校のベンチまで風美を連れて行く。明凛館高校のメンバーは拍手をすると、それを合図に観客席から拍手喝采が起った。
桜子に連れていかれる風美の姿を見ながら林檎は鶫に言った。
「どうしてあそこまで戦えるんだ?」
「浜崎空も、増子風美も、西牧海宇の為だけに戦っているわ。ちゃんと団結していれば、イースト・イーターズにも勝てたかもしれない」
「どういう意味だ?」
鶫はそれには答えなかった。
「なんか、あの海宇って子は見ているだけで胸が痛くなるような、悲しくなるような、そんな感じがするよね」
小桃は海宇を見ていると、訳もなく心配になってくるのだった。
桜子がいわき青海高校のベンチに風美を運び込む。海宇が駆け寄ってきて風美を椅子に座らせた。
「風美、大丈夫?」
「平気よ。心配しないでいいから、海宇ちゃんは思いっきり戦って」
その言葉とは裏腹に、風美はかなり辛そうに見えた。それを見た桜子は言った。
「彩は貴方から何かを感じたみたいだけど、わたしには何も分からない。けれど、一つだけ言っておくわ。さっきの子も、この子も、貴方の為に体をはって戦った。だったら、貴方はそれに答えなければいけないわ」
桜子はそう言うと、自分の陣地へ戻っていった。
「この時点でイースト・イーターズと、いわき青海高校のポイントは18対18の同点、女王沙耶子、春園桜子、イースト・イーターズがリードを許してもらえないとは!? だれがこんな事態を予想しただろうか!! 勝敗は大将戦までもつれ込んだぞ!! イースト・イーターズが王者の意地を見せるのか!? いわき青海高校が快挙をなしとげるか!?」
桜子がベンチ向かう途中で彩が出てくる。二人はすれ違い様にタッチした。
「後は頼んだわよ」
「まかせて」
彩が出てくると、歓声が大きく膨らむ。観客の中には、アイドルとしての彩を見に来ているファンも多く、その人気は沙耶子以上だった。
海宇も出てきて、二人は試合が行われる中央のテーブルを挟んで対峙する。
「わたしさ、あんたを見ていたら分かっちゃった。あんたは大切なものを失くしたんだ」
「うるさい……」
彩の言う事で、海宇の顔つきが険しくなる。それを見た彩は笑いを浮かべて相手を見下ろす。海宇は眉をひそめた。
「わたしはあんたを可哀想だなんて思わない。敵である以上、全力で叩き潰す」
「……」
「必死になった方が、生きてるって実感できるでしょ」
準決勝第二試合、いよいよ決勝のカードを決める大将戦も目前となり、会場のボルテージは一気に上っていく。
「両チームの大将が向かい合い、いよいよ準決勝も大詰めだ! 高校生最強の楠木彩に対するは、西牧海宇! その実力は謎に包まれているが、前の試合で戦っている風美、空の実力からすれば、彼女も相当な力をもっているのは間違いないでしょう! どちらが勝つのか、まったく予想がつきません! さあ、はじまるぞ!! 勝負料理は、釜焼きピザだ!!」
両者のテーブルに勝負料理が運ばれてきた。釜焼きピザは木を丸く繰り抜いた皿に乗っていた。
「さて、お手並み拝見といきますか」
彩が余裕の笑みを浮かべて言っても、海宇は黙って席に座るだけだった。
両チームの命運を掛けた最後の戦いが、いよいよ始まる。
「カウントダウン!!!」
MCの声を合図に、音声に合わせて観客達が秒読みを開始した。一秒ごとに緊張が走る。明凛館高校の面々も試合場の出入り口のところで、神妙に見守っていた。決勝進出を決めている彼女等にとっても、重要な一戦だった。
カウントダウンの終了と共に、彩と海宇は同時に動いた。
彩はピザの端っこを摘むと、そこから一気にピザを丸めて棒状にしてから食べ始めた。海宇の方は素早く四つ折にしてから食べる。この二人にとっては、生地の薄い釜焼きピザなど、取るに足らないものなのか、両者共に一枚目のピザは一分もしないうちに消えた。観客の間から感嘆の声が漏れた。
「やるじゃん」
彩が声をかけても、海宇はまるで聞いていなかった。ただ黙って、ピザを四つ折にしていた。
勝負の展開が恐ろしく速く、ものの数分で互いに五枚のピザを完食する。六枚めのピザが運ばれてくる前に、彩は言った。
「あんたと戦ってても面白くない」
彩の言葉に、これまで俯き加減だった海宇が顔を上げる。
「あんたは相手を倒そうと思っていない。いい加減にしてくれない? そんな奴に勝ったって、何の自慢にもなりゃしない」
「わたしは、目の前の戦いに全力を傾けるだけよ」
「全力で逃げるの間違いでしょ」
その瞬間、海宇は彩の事を、今にも殺したいような目で睨んだ。
「あんた、何があったの? 津波で家族を亡くしたとか?」
「うるさい!!!」
海宇がヒステリックに叫ぶ。とっくに六枚目のピザは運ばれて来ていたが、二人ともそれに手をつけようとはしなかった。試合が停滞して観客席からどよめきが起り始めるが、彩はお構いなしに言った。
「試合に集中して、少しでも悲しいことを忘れようっての? 迷惑なのよね、そういうの。やるなら真剣にやってよ」
「あなたに何が分る!! 目の前で流されたて死んだんだ! お母さんが、目の前で!! お父さんも、弟も、みんな死んだ! あなたには分らない、わたしの悲しみなんて、絶対に分らない!!」
「残念ながら、分らないよ。わたしはあんたじゃないんだからね。ただ、真剣に戦う気がないのなら、こんな所に出てくるなって言ってるんだ!」
「お母さんが最後に言ったんだ! どこまでも走れって! だからわたしは、その通りにするんだ! どこまでも走っていくんだ!」
「苦しみと悲しみから、どこまでも走って逃げようって言うの。それって違うでしょ」
「黙って、黙ってよ! 何も知らないくせに、分らないくせにっ!!」
「……わたしも、血の繋がった家族はいないんだ」
「え?」
「父さんは物心つく前に蒸発した。母さんは育児不適合者で、育児のストレスで頭がおかしくなって、三歳のわたしを押入れに閉じ込めて、出られないように板を打って、その後どこかへ行ってしまった。それから三日後に、わたしは瀕死の状態で発見されて、何とか一命は取り留めたけど、母さんはどっかの山奥で首を吊っているのを発見された。忘れられない。忘れられるような事じゃない。わたしは死んだ母親を、今でも恨んでいる」
海宇はそれを聞いて衝撃を受けた。海宇と彩が抱えている悲惨は同じものではないが、母親に殺されかけ、死んだ母親を今なお恨むと言った彩のもつ闇も深かった。
「その後もろくな目に合わなかったよ。何度も人生やめちゃおうかって思ったけど、でも諦めちゃいけないって言ってくれた人がいて、わたしはとにかく全力で前だけを見て走ってきた。そして、ここまでたどり着いた。今立っている場所から昔の自分を見つめると、今のわたしになる為に、あの時の酷いわたしがいたんだって、分かるようになった。あんたのお母さんが言った走れって、そういう事でしょ」
海宇は口を開きかけたが、言葉が出なかった。反論したいけれど、何も言えない。そんな苦渋が表情に満ちていた。
「逃げる為に走るんじゃない。突き進む為に走るんだ。前を向いて、走り続けたその先に、何かがある。それが何なのかはまだ分らないけど、わたしはそれを見つけるまで走り続ける。今までも、これからも!」
彩がた立ち上がり、ジャケットを脱ぎ捨て、上半身チューブトップだけの身軽な姿になった。
「見せてあげるよ、逃げる者と、追う者の差を!」
残り時間十分のところで、再び試合が動き出す。彩が6枚目のピザを丸めて瞬時に完食する。海宇には彩の言ったことを考える余裕など与えられなかった。何処か釈然としない気持ちのまま、彩の後を追う形になった。
「負けんな、海宇!」
「頑張って、海宇ちゃん!」
仲間の声援が、海宇の背を打つ。彼女が一瞬振り向くと、医務室に行ったはずの空もベンチにいて、風美と一緒に応援していた。観客席のほうからも、同級生達が声の限り応援してくれた。中には泣きながら応援している女子が何人もいた。心強いはずの声援が、海宇には何故だか苦しかった。何かがおかしい、海宇は戦いの中で感じ始めた。
彩のペースが上り、海宇との差を少しずつ広げてきた。そして、彩が十枚目のピザを完食した瞬間、声援に様々な感情が入り混じる。その時点で海宇は九枚目を完食、ピザ一枚分の差がついていた。
「飛べ、海宇、飛べーーーーーっ!!!」
涙交じりの空の応援が海宇の心を打った。
「そうか、やっと分った……」
海宇は違和感の正体を知った。空も風美も、そして高校の同級生達も、海宇の試合を応援しているのではなかった。頑張って生きてほしい、希望を持って生きてほしいと言っているのだ。しかし、全てを失った海宇に、それを声に出して言う事は、傍観者の無責任な言葉にしかならない。だから空と風美は黙って後についてきて、海宇の為に必死に戦った。一人になってしまったからこそ、海宇には幸せになってほしい。二人はその思いを胸に、闘食女王や香辛の女帝にも一歩引かずに戦った。
海宇の心に迷いが生まれた。彼女は空と風美の思いに、答えられる自信がなかった。その迷いは海宇の闘食を足踏みさせる事になった。
残り時間三分のところで、彩は二枚の差を付け、十二枚を完食、ペースダウンしていた海宇は、そこで桜子の言ったことを思い出した。すると息を吹き返し、ペースを一気に上げる。彩との差が少しずつ縮んだ。
「ようやくやる気になったか。そうこなくっちゃね!」
彩も最後のスパートをかける。残りの時間で海宇が勝てる見込みはほとんどなかったが、そんな事はどうでもよかった。
―せめて今目の前にあるものと、全力でぶつかろう! 空と風美の戦いに、答えるんだ!
海宇は猛烈に追い上げるが、ついに試合終了のブザーが鳴った。彩は十四枚の釜焼きピザを完食し、海宇は差を縮めはしたものの、十二枚半の完食に止まった。わずか2ポイントの差で、イースト・イーターズの決勝進出が確定した。
観客席から降りてくる怒涛のような歓声の中で、彩は立ち上がって海宇に言った。
「あんたは生き残ったんじゃない、生きろって言われてんだ。前を見て走っていけるかどうかは、あんた次第だ。敵はあんたの家族を殺した津波じゃない、あんた自身なんだ!」
彩に言われると、海宇は座ったまま目を閉じて、天上を仰いだ。すると、闇の中に何故か最後の母親の姿が映った。何でこんな時に思い出すのか、不思議な事だった。脳裏に描かれる、あの時の水の砕ける音や凍える寒さ、そして深遠の恐怖、母は津波に流されながら最後に言った。
「どこまでも走りぬいて!! その先に希望がある!!」
海宇は目を開け、何かに突き動かされて立ち上がった。あの時、波の音にかき消された母の最期の言葉が、今確かに聞こえた。あの状況でも、母は唯々、一人残される娘に、生きて幸せになってほしいと願っていた。海宇がそれに気付いた時、誰かが後ろからそっと抱きしめてくれた。誰も居ないはずなのに、確かな温もりを感じた。
「お母さん………」
海宇がその場に泣き崩れると、風美と空が走ってきた。
「だいじか、海宇!?」
「しっかりして!」
両側から風美と空に抱かれて、海宇は立ち上がった。彼女は泣きながら言った。
「二人共、ありがとう。本当に、ありがとう」
今の海宇には、それだけ言うのが精一杯だった。
最後の瞬間、母は死ぬことを恐れただろうか。否、唯残される者を思い悲しんだだろう。唯残される者の幸せを願っただろう。その思いは永遠に消えることはない。何者も贖えぬ大自然の驚異とて、母の強さを消すことなど出来ないのだ! 母よ、永遠なれ!
どこまでも走りぬいて!!…終わり