第一話 あなたが欲しい……
紅野林檎は専用に使っている紅い箸を懐から取り出し、それを振り上げた。目の前には、赤髪をツインテールにした小柄な制服姿の少女には似つかわしくない、巨大な丼に具も麺もてんこ盛りのラーメンがあった。それから立ち上る湯気で少女の顔が霞んで見える。それもラーメンの巨大さを物語っていた。
「量を増やしてきたな」
「制限時間は三〇分だ」
「いつでもいいよ」
「スタート!」
少女は高く掲げていた箸を丼の中に突き刺し、ものすごい勢いでラーメンを啜り始めた。その様子を見て店主は薄笑いを浮かべた。
――前回の三人前ラーメンはあっさり食われたが、今回の五人前は三〇分では食いきれまい。
そう思った店主の思惑から、状況はどんどん外れていく。少女のラーメンを食べる勢いは衰えを知らず、巨大な丼の中身は見る間に減っていった。少女がスープまで飲み干し、最後に残った鳴門を口に放り込んだ時には、店主の顔は真っ青だった。
「ご馳走様っと、時間は…二二分か。まあまあだな」
「うぐぅ、ぬうぅ……」
「賞金ちょうだい」
「おのれ、次はこうは行かんぞ……」
「何度やっても同じだと思うよ~」
親父は極限の悔しさを渋面に浮かべつつ、金一封を少女に渡した。
「やったね!」
少女は中に入っている五千円を確認してから、足取り軽く店の入り口の木戸を開けると振り返って言った。
「親父さん、挑戦なら何時でも受けてあげるよ。じゃあ、またね!」
林檎は外に飛び出し、走りながら腕時計を見てもうすぐ夕方の五時になるのを確認した。
「うわ、やばい!? バイトに遅れる、また怒られる!」
少女は学校帰りの中高生の間を避けつつ、バイト先にコンビニに向かって商店街を駆け抜けていった。
昼休みを知らせるチャイムが鳴った。林檎が通っているのは宇都宮市内にある明凛館高校で、生徒数五千人以上を有する全国でも有数のマンモス高である。男子生徒は黒い学欄で、女子生徒は青いブレザーに紺と白のチェックスカート、白いブラウスの胸元には可愛らしいループタイを付ける。ループタイには様々な色があり、好きなものを選ぶ事が出来た。ちなみに林檎は赤いループタイを愛用している。
昼になり林檎はバッグを開けてその中を見ながら、絶望の闇へと落ちていくところだった。
「弁当がなーーーいっ!?」
林檎は頭を抱えて悶えるように叫んだ。
「うう、昼を抜くなんて考えられないし、仕方ない、学食にするか……」
林檎は無駄金を使うやるせなさからため息を吐き、さらに紅野家の食べ物に対する厳しい掟を思い出して言った。
「はぁ、夕飯は玄関に忘れた弁当で確定だな……」
林檎が席を立ったその時、いきなり他のクラスの生徒が教室に入ってきて、まっすぐ林檎の方に向かってきた。黒髪をボブにした林檎よりも小柄な少女で、他の生徒とは明らかに雰囲気が違っている。ループタイは黒で、ブレザーの襟に金色のバッチが輝いていた。このバッチは特進クラスの生徒である証だった。
周りの生徒たちの注目を一身に集める少女は林檎の前まで来て言った。
「紅野さん……」
「特進クラスのエリートが、わたしに何の用だ?」
林檎は特進クラスが生理的に嫌いだったので、かなりぶっきらぼうな調子で言った。黒髪の少女は気にした様子もなく静かに言葉を紡いだ。
「あなたが欲しい……」
「え?」
一瞬、辺りの空気が凍りつく。林檎は急に絶望を投げつけられたような顔になり、後ろの椅子や机を蹴散らしながら後退した。
「ちょちょちょ、ちょーっと待った!? わたしにはそんな趣味はない!! 他を当たてくれ!!」
「あなたは勘違いをしているわ。わたしが欲しいのは、フードファイターの紅野林檎よ」
「どういうことだ?」
「わたしと一緒に闘食杯に出て欲しいの」
「なるほど、そういう事か。悪いけど、あたしは興味ないね」
「なら、わたしと闘食で勝負しなさい」
「本気? あたしが誰だか知らないのか?」
「知っているわ。あなたはこの辺りでは有名なフードファイターだもの」
「それを知ってて挑戦してくるってことは、よっぽどの馬鹿か、よっぽど自信があるか」
林檎は目の前の少女の黒い瞳を見つめた。静かに佇む少女の中には、熱い闘志が漲っていた。
「…勝負の方法は?」
「パン勝負。十五分の間により多くのパンを食べた方の勝ちよ。わたしが勝ったら、一緒に闘食杯に出てもらうわ」
「面白い、その勝負受けた」
事の成り行きを見守っていた周りの生徒達は、思わぬ展開に興をそそられ、積極的に勝負の準備をしてくれた。
やがて三つの机が並べられ、右端には林檎、左端には謎の少女が座り、真ん中の机に様々な種類の菓子パンが山と積まれ、林檎と少女の席には五百ミリのミネラルウォーターのペットボトルが置かれた。
この時、絵に書いたような美少年と美少女が、騒ぎの起こっている普通科一年七組の教室の前を通りかかっていた。学ラン姿の少年の方は大人しそうな感じで、髪は黒く背は中背と言った所、少女はパールのように白く滑らかな肌をしていて、ブロンドの長髪にソバージュをかけ、頭には翡翠製の葉っぱのヘアピンを付けていて、瞳は青色だった。ループタイは若草色で、ブラウスの下には豊かな胸の膨らみがある。そして、この二人の制服の襟には銀色のバッチが付いていた。これは特進科の次に優秀な進学科の証だ。
「まあ、何の騒ぎでしょう? 皆さんで集まってティーパーティーでもしているのでしょうか?」
「さすがにそれは無いと思うよ……」
「そうですわ、覗いてみればいいのですわ、そうしましょう、そうしましょう」
そう言いつつ教室に入っていく少女の後を、少年は苦笑いしながら追った。
「なんだか面白そうな事になってるね」
「本当、とっても美味しそうなチョココロネですわね。頬ずりしたいくらいなのですわ~」
「は?」
少年が幼馴染の少女の目線を追うと、それがパンの山に注がれている事がはっきりと分かった。
「胡桃ちゃん!? 違うでしょ!? 見るのそこじゃないでしょ!?」
「刃様、どうかいたしまして?」
「いや、あの二人を見てなんとも思わないのかい?」
「二人で並んでパンを食べるなんて、きっと仲がおよろしいのですわ」
「あれはどう見たって勝負だよ……」
その勝負は今まさに始まろうとしていた。
「勝負をする前に名乗っておくわ。深山鶫よ」
「じゃあこっちも、あたしは紅野林檎、さすらいの食賞金稼ぎさ」
「始めましょう」
側にいた男子生徒の一人が、ストップウォッチを持って言った。
「制限時間は一五分、菓子パンの袋をより多く積み上げた方の勝ちだよ」
今や教室を埋め尽くすくらいに集まった生徒たちの間に緊張が走る。
「始め!」
林檎が素早くカレーパンを手に取り、封を切ってかぶりついた。二口、三口と見ていて気持ちのよくなるような食べっぷりに教室が沸いた。同時に疑うような視線が林檎の隣に注がれる。林檎が気になって挑戦者の方を見ると、驚いて目を見張った。
―こいつ、なにやってんの!?
鶫は両手を胸の前で合わせて深呼吸を繰り返していた。パンを手に取る様子はない。
―なんだ、口だけって事かい、がっかりだね。
林檎は食べ終わった一つ目のパンの袋を机の上に叩きつけた。
鶫はたっぷり三分も深呼吸をしていた。その間に林檎は四つ目のパンに取り掛かっていた。鶫に対するギャラリーの期待が萎んでゆくのが肌でも分かる。ただのはったりだったかと、誰もが息を吐いたその時、鶫は手近にあったクリームパンを一瞬で手にとって、何時動いたのか分からないような速さで封を切ってパンに口をつけていた。一口に林檎のような豪快さはないが、マシンガンを思わせるような速さで一つ目のパンを食べきった。急に沸きあがる生徒達、そして驚愕する林檎、つぐみの右手が円を描き、円の頂点で菓子パンの袋を手放し、元に戻る軌道の途中で菓子パンを掴み素早く封を切る。鶫が二つ目のパンに口をつけたとき、ひらひらと宙を舞っていた菓子パンの袋が机の上に落ちた。洗練されたまったく無駄のない動きに生徒達は魅入った。
――早い!!? こいつ、何者だ!!?
鶫は二つ目のメロンパンをあっという間に半分食べた。その時に林檎は四つ目の菓子パンの袋を叩きつけ、五つ目に取り掛かる。
――やばい、このままじゃ追いつかれる!
五つ目のパンを食べている途中で、その焦りが出た。
「うぐっ!?」
林檎はパンを喉に詰まらせ、慌てて水を飲み、自分に腹を立てる。
―何やってんの!? こんな事してたら…。
生徒たちの間からまた声が起こる。鶫が三つ目のパンを手に取ったところだった。林檎はそれを横目で見て険しい表情をした。
―こいつは本物だ。こう言う手合いに焦りは禁物、あたしはあたしのやり方を最後まで貫き通す!!
林檎が五個目のパンを食べ終わるのと鶫が三個目のパンを食べ終わるのは同時だった。それでも林檎はもう隣を気にしなかった。二つのパンの封を開け、交互にかぶりつく。
「おお、こっちは二つ同時だぞ!」
「どっちも頑張れ!」
思わぬ大勝負に生徒達は興奮し、数人の教師が注意を促しに来たが、とても中に入れるような状態ではなかった。
二人の間にあるパンの山がどんどん小さくなっていく。
鶫が菓子パンの袋を放り、新しいパンを素早く手に取り、真剣を振るうような鋭さで封を切って一口食べる。それと同時に林檎も新しいパンを一口、その時に時間切れとなった。ギャラリーの視線はゆっくりと宙を泳いでいる菓子パンの袋に釘付けになる。それが鶫の前に積みあがった袋の山の頂点となったとき、鶫はペットボトルの水を飲んだ。周りは多くの生徒でひしめいているのに、勝負の終わりには嘘のように静かになっていて、鶫がペットボトルを机の上に置いた音が、林檎の鼓膜に高く響いた。驚いたことに、勝負が始まってから鶫が水を飲んだのは、これが初めてだった。
―同じ学校にこんな奴がいたなんて……。
林檎は自分と鶫の前に小山と成したパンの袋を見比べて冷や汗をかいた。
―この勝負、負けたかもしれない……。
ギャラリーの手によって、食べ終わったパンの袋の数が確認された。すると二人の前には、それぞれ同じ九枚の袋があった。それが分かったところで、刃と呼ばれていた美少年が出てきて言った。
「二人の食べたパンの数は同じ、それじゃあ勝敗を分けるのは…」
刃はそれぞれ一口ずつ食べられたジャムパンとアンパンを見比べた。
「この勝負、君の勝ちだよ。こっちのアンパンの方が、より多く食べられているからね」
刃は林檎に向かって言った。豪快にかぶりつく林檎の一口が明暗を分けたのだった。しかし、林檎はまったく勝った気にはなれなかった。
――後五分、勝負の時間が長かったら、あたしは負けていた。
鶫の食べるスピードは圧倒的だった。四個もの差をつけていた林檎を、たったの一二分でぎりぎりまで追い詰めたのだ。闘食における実力は驚異的と言えた。
負けた鶫は、無念そうに大きなため息をついてから立ち上がった。
「……残念、他を当たるわ」
鶫が歩き出すと、集まっていた生徒達が出口までの道を開ける。林檎は真摯な面で立ち上がり、その背中に言葉をぶつけた。
「待て!」
鶫が振り返ると、林檎はいかにも面白そうだという三日月のような笑いを浮かべて言った。
「あんたの言う闘食杯ってやつに興味が湧いた。あたしも混ぜてもらうよ」
鶫は林檎の前まで戻ってくると手を差し出した。
「あなたとわたしは、今から戦友よ」
「よろしくな!」
そして二人の少女は固い握手を交わした。
戦友とは言ったものの、鶫にはそんな気など微塵も持てなかった。ただ鶫は、自分をまっすぐな瞳で見つめてくる林檎を疎ましく感じて思うのだった。
―わたしは目的を果たしたいだけ、その為にあなたを利用するだけよ……。
鶫の心がほんの少しだけ痛んだ。