金魚
泣いている。
僕の愛しいひとが、泣いている。
頬には乾いてしまった涙の跡、目は濡れてとろけていて、触ったらとても柔らかそうだ。
「いのちって、はかないね。砂時計みたいだ」
しめやかに広がるその声は、確かにそう発していた。
* * *
彼女から電話がかかってきたのは、深夜も深夜、午前2時半のことだった。
その時から彼女はもう泣いていて、状況を把握するのにかなりの時間を要した。
「とにかく家に来て」ということだったので、寝間着をあくせく着替えて、僕は深夜のドライブへと出かけた。
僕の家から彼女の一人暮らしのマンションまで、車で約30分。
その間、ずっと彼女が泣いている訳を考えていた。
いつも感情に敏感な彼女はよく色んなことで目じりから涙をこぼし始める。
ケンカしたときも、いつも彼女が泣き始めて、その些細な諍いは幕を閉じるのだ、僕の敗北という形で。
だけど、こんな真夜中に、電話を掛けて泣きじゃくって助けを求めるというのは今日が初めてだ。
思い当たるふしはあるけれど、もしその通りだとしたらすこし反応が大きすぎて怖い。
きっと何か別のことだと、そう考えがまとまったころに、車は彼女のマンションの近くのコインパーキングへと到着した。
エレベーターに乗り、彼女の部屋に行くその時間がもどかしい。
一刻も早く、彼女のそばに行って慰めてあげたかった。
インターホンを押そうかためらったが、彼女にドアまで来させる手間を惜しんで、僕は合鍵を使って扉を押し開けた。
僕の目に飛び込んできたのは、想像してたものより少し違ったものだった。
電話で聴こえていたはち切れんばかりの泣き声はぴたりと止んでいて、彼女はぺたんと座り込んだまま、窓から映る月をただ茫然と眺めていた。
「ああ―――、来てくれたんだ」
冷淡とも取れるその声で、彼女は僕を迎え入れてくれた。
よく見ると、座り込んでいる彼女の横には、ピンク色のまあるい金魚鉢が置かれていた。
その鉢の中には、浮遊しているはずのものが消えていた。
「おい…まさか」
僕はそこまで言うと、彼女は微笑ともとれない不器用な笑い方をしながら
「うん、金魚ね、死んじゃったんだ」と告げた。
そこで僕は、車の中で考えていた予想が的中してしまったことを知り、少しの頭痛を覚えながら彼女の隣に座り込んで彼女の方を向いた。
「なんで…」
「2,3日前まですごい元気だったんだよ。ほら、おとといあなたが私の家に来て、エサをあげてくれたときも見たでしょう?なのに、急に動かなくなっちゃったんだ」
彼女はとても優しい顔をしながら月を眺めていた。
今日は満月だっただろうか。その光はとても強く優しい。
「私ね、思ったの」
彼女は言葉をつづけた
「いのちって、はかないね。砂時計みたいだ」
「こんなにも大切にね、私は。とても大切によ?育てていたの、この金魚を。
でも、死んでしまった。私を置いてどこか遠くに行ってしまったの。その時ね、ふと思ったの。あなたもいつか。
いつか私を置いてどこか遠くに行っちゃうのかなって。そしたらもう、涙が止まらなくなっちゃった。だって大好きだから。
金魚に置いて行かれるよりも、もっと悲しくなっちゃうから」
ああ―――。
なんていじらしく可愛いことを言うんだろう。
先ほどの頭痛はどこかに消え、僕はゆっくりと彼女の頭を腕で覆い、そっと抱きしめた。
「大丈夫だよ、俺はここにいる。“ずっと”なんて無責任な言葉はまだ言えない。けど、今は。今はこうして、一緒に居たいと思ってる。それじゃ、ダメかなあ?」
言葉を一語一語選びながら答えると、彼女は枯れていた涙をもう一度咲かせ始めた。
しゃくり上げる中からは「ありがとう」と聞こえる。たぶんそう言っているのだろう。
ここに居ると、確かめさせるため、僕はさっきより少しだけ強く、彼女を抱きしめていた。
* * *
数日後のある昼下がり、すっかり元気になった彼女から電話がかかってきた。
金魚が死んでしまったから、また新しい何かを飼ってみようかと思うので、今度ペットショップデートをしようという内容だった。
僕はその電話を切ったあと、静かに苦笑いをこぼした。
ダメだよ。ダメだよ。
それじゃあ、ダメなんだよ。
―――君を独り占めするために、君の愛する金魚をあの世に送った意味が、なくなっちゃうじゃない。
ちょっと前に他でアップしたものをこちらでも。
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