愛された人
ちょっと超えればなんてことない壁に人はよくぶつかる
なんてことない壁に人は慣れながら生きている。
生きるために慣れるのだ。
だが、時々軟弱な人間はその壁を恐れる。
少し足を上げればいいだけなのに、まるで自分には足がないかのように怯える。
そして最後には、死を選ぼうとする。
そういう奴は大抵こう言う。
―――――私なんて、なくなっちゃえばいいんだ。消えてしまえばいいんだ。
―――――まるで自分なんて最初から居なかったかのように。
本当に、消えて無くならなければならない人は―――――
本当に、本当に、とても、多くの人に愛された人だと思う。
* * *
祭壇に立てかけられている遺影には、きらびやかな女性の笑顔が映されている。
場所が違えばつい微笑み返してしまいたくなる写真だ。
しかし、その笑顔を作っている張本人は、祭壇の中央の棺で永遠の眠りについている。
ここ最近ニュースやワイドショーを騒がせた「B市女子大生連続通り魔殺人事件」
B市に住む女子大生が5人も殺害された、嘔吐が出そうになる嫌な事件。
この棺の中で眠っている女性は、5人目―――――最後の被害者である倉科 璃雪さん。
―――――本当は、殺されるはずの無かった女性だ。
4人目の被害者が出てしまった際、犯人(名前なんて忘れた)は身元が分かってしまう重要な証拠(頭髪だったか、免許所だったか、それも忘れた)を残していた。
警察は、綿密な捜査から、その証拠の男を犯人と確定し、犯人の自宅に逮捕状を所持し乗り込んだ。
しかし、逮捕状を見た犯人は6人もいた刑事・警察官を押し倒し、逃走した。
刑事達は体制を立て直し、すぐに犯人を追う、追う、追う。
6人も居るんだから、捕まえられないはずがない。
実際、刑事達はすぐにその犯人に追いついた。
あと少し――――――先頭の警察官があと少し手を伸ばせば犯人のセーターを捕まえられる距離まできた。
しかし、犯人はするりと体を翻らせ、曲がり角を曲がった。
その曲がり角に、これから大学に行く予定だった倉科さんがいることを知らずに―――――――。
思いつきなのか、とっさの判断なのか、それとも最後の悪あがきだったのか。
倉科さんの姿を目にとめた瞬間、靴下の中に隠してあった果物ナイフで犯人は胸をめがけ彼女を刺した。
計算か、運命のいたずらか、偶然か、そのナイフは見事に倉科さんの心臓に突き刺された。
警察官が曲がり角を曲がった時見たのは
すでにナイフを抜かれた若い女性の抜け殻と、笑みを浮かべた犯人だった。
気が済んだのか、犯人はそのナイフで自分の心臓も刺し、見事に命中した。
あと少し、手が届かなかっただけで、警察は2人の人間を殺したのだ。
最後のお別れの時、棺の周りには多くの人が集まった。
両親、兄妹、中高大の友人、近所の人―――――――
倉科さんはいろんな人に愛されていた。
昔、まだ俺が葬祭事務員の研修員だったころ、チーフに言われた
「いいか新海。ぜったい葬式で泣くなよ。葬祭アシスタントが葬式で泣いたらアシスタント失格だ。葬儀屋が平静を保ってないで誰が保つんだ。」
―――――――俺は、いま、アシスタント失格となった。
倉科さんの両親は遺体に「ありがとう・・・ありがとう」と何度も何度も繰り返し
大学生の兄と高校生の妹はそれぞれ遺体の手を握ってぼろぼろ涙をこぼしている
倉科さんの友人はお互いに肩を寄せあって涙を堪えている
近隣に住んでいて、倉科さんと仲が良かったおばあさんは、棺にお供え物をしている
みんな、倉科さんを愛していた
倉科さんは、みんなに愛されていた
これで、どうすれば“平静を保”てるのだろうか?
そんな血も涙もでない人間に、人の最期を見送ることなんて出来ない。
まあ、結局そのチーフも先ほど裏方でびょおびょお泣いていたけれども。
昔、有名な海外女優がこんなことを言ったそうだ。
「私は生きている間、出来るだけ嫌われる存在になりたい。だって、もし私が死んだ時、出来るだけ多くの人が笑えるようになるでしょ」
―――――――もし。
もし、倉科さんがこの世からいなくなった瞬間、皆の記憶から倉科さんが消えてしまったら・・・
今、棺の前でうずくまっている人たちは、平然とした顔で街を歩いていたのだろうか・・・
この哀しみが、後に彼らにとって大きな糧になるとでもいうのだろうか―――――――
損失以外の何者でもないではないか。
本当に―――――――本当にすべて何もかも消えて無くならなければならない人は
本当に、本当に、多くの人に愛されている人ではないのだろうか・・・・・・?
俺の目尻から、また、透明な水滴が零れ落ちた。
最後の方の「海外女優の言葉」ですが
昔何処かで聞いた(あるいは見た)気がするのですが
それが、何処で、誰が言ったのかがわからないので、こういう形で出させていただきました。




