断罪される悪役令嬢を救いに来た第五王子です。推しと結婚は解釈違いだろうが!!
アルヴェール王立学園の正門をくぐった瞬間、俺は足を止めた。
いや、自分の意思で止まったのではない。目の前の光景に、止められたのだ。
正面玄関へ続く大階段。その踊り場に、見覚えのありすぎる面々が勢揃いしていた。
中央には、金の髪に青い瞳の王太子、ヴィクトル。隣には、蜂蜜色の髪を揺らして小首をかしげる少女、アリシア。その後ろに、宰相の息子、騎士団長の息子、魔術塔の天才児が、それぞれ絶妙な角度で控えている。ステンドグラス越しの光まで、いい仕事をしていた。
……知っている。俺はこの構図を知っている。
箱の表だ。前世で何度も眺めた、あのパッケージイラストだ。
そして、いちばん端。一人だけ半歩離れた位置に、背筋をまっすぐ伸ばして立つ令嬢がいた。
波打つ銀の髪。凛とした紫の瞳。扇を持つ指先の角度まで、完璧。
セレスティーヌ・ド・ラフォルジュ。
俺の、前世からの最推し。
「悔しいが、パケ絵通りだ。生で見れた……ありがたい」
「殿下? 今、何かおっしゃいましたか?」
隣にいた案内役の教師が、不安そうに振り向いた。
「いえ。晴れた空に感謝していただけです」
我ながら、王族として百点の返しだった。内心は、それどころではないが。
落ち着け。俺は他国の第五王子、フィンドリー。ここへは外交的な意味での留学に来た、ことになっている。本当の目的は一つだけ。
卒業パーティーで断罪されるあの人を、助けること。
階段の上から、セレスティーヌが静かに一礼した。
「ようこそ、アルヴェール王立学園へ。生徒会で風紀を預かっております、セレスティーヌ・ド・ラフォルジュと申します。フィンドリー殿下」
声だ。
声が、生で、耳に届いている。
ゲームではフルボイスだった。けれど、こちらは録音ではない。空気を震わせて、俺の鼓膜に直接来ている。
「ご丁寧に、感謝します。フィンドリーです。どうぞ、よろしくお願いします」
にこやかに返した。笑顔は崩れていないはずだ。
内心? 内心は、花火大会だった。
* * *
留学から三ヶ月がたつ頃には、俺にも学園に友人ができていた。
「フィン、また見てるのか」
昼の食堂。窓際の席で、ロイドが呆れ顔でスープをすくった。
ロイドは伯爵家の三男で、三人の中では一番の常識人だ。眼鏡の位置を直す仕草が、いちいち保護者っぽい。
「見ていない。観察しているだけだ」
「同じだろ」
「全然違う」
俺の視線の先には、食堂の入り口でトレーを抱えた下級生をさりげなく避けさせ、ぶつかりかけた椅子の脚を直して通り過ぎるセレスティーヌがいた。
「見たか今の。あの人は、誰にも気づかれないように事故を一つ防いだぞ」
「見た。お前が熱心に見てるのも見た」
「歩き方がいい。靴音が一定なんだ。三歳の頃から姿勢を直され続けた人間の歩き方だ。でも本人は、それを誇ったりしない。当たり前のことだと思ってるんだ」
「歩き方の話から入るなよ」
向かいで、バルトがパンを三つ重ねたまま顔を上げた。
「俺は昼飯の話がしたい」
「あとでする」
「あとだとスープが冷める」
バルトは侯爵家の次男で、食べ物の話題になると、どんな話でも自分の側へ引っ張る才能がある。今日のパンも、すでに二つ目だった。
「それよりさ」
三人目、ノエルが身を乗り出した。
ノエルは子爵家の長男で、妙に人の恋愛事情に詳しい。本人いわく、人間観察の成果らしいが、俺に言わせれば、単に他人の色恋沙汰が好きなだけだ。
ずっとにやにやしているのは、こいつだけだ。
「お前、ラフォルジュ嬢の話をするとき、声が違うって自覚ある?」
「声?」
「三段くらい上がる。それに、目が潤む」
「気のせいだ」
「気のせいじゃない。恋だろ、それ」
……ああ、またその話か。
「違う」
俺はきっぱり言った。
「推しだ」
「おし」
「推しと恋は別物だ。推しは、幸せを願う存在だ。遠くから、静かに、見守る。それが推し活だ」
「で、結婚したいのか?」
「解釈違いだ」
即答だった。
「俺があの人の隣に立つ? ありえない。壁になりたい。柱でもいい。いや、床だ。あの人の歩く廊下の床になりたい」
「床は違うだろ」
ロイドが額を押さえた。
「床にしか見えない時点で、お前はもう手遅れなんだよ」
「手遅れとは何だ。俺は正常だ」
「お前の正常は、周りの異常だ」
バルトが三つ目のパンに手を伸ばしながら、ぼそっと言った。
「でも、今日の肉団子は正常にうまいぞ」
「だから昼飯の話は、あとでって言っただろ!」
……まあ、友人たちの反応は、予想どおりだ。恋じゃない。何度言っても通じないのは、少し困る。
そこへ、ノエルが小声で付け足した。
「あと、ラフォルジュ嬢のこと、周りの女子もよく言ってるぞ。『留学してきた王子様は、あの方に夢中だ』って」
「なんでだ!?」
「だから、そう見えるんだよ!」
* * *
俺は、手帳を開いた。
前世のゲーム知識を、記憶が薄れる前に書き留めておいたものだ。そのなかの一ページに、赤線を引いてある。
旧回廊イベント。
ゲームでは、立入禁止の旧回廊に入ろうとしたアリシアを、セレスティーヌが厳しい言葉で追い返す。涙ぐむアリシア。通りかかったヴィクトル。「彼女に何を言った」。そうして、悪役令嬢の悪評が一つ積み上がる。
日付は、来週のはずだった。
「はずだった」のだ。
図書館で資料を読んでいると、廊下をバルトが駆けてきた。パンを持っていない。それだけで、異常事態だとわかった。
「フィン、大変だ! 旧回廊で、ラフォルジュ嬢と例の下級生が揉めてる!」
「今日か!?」
日付が、一週間早い。
ゲームの暦と、現実の暦はずれていた。そもそも、現実は、俺が知っているゲームの通りには進まない。当たり前のことを、今さら思い知らされた。
走った。王族としての品位とか、ちょっとだけ捨てた。
旧回廊には、すでに人だかりができていた。立入禁止の縄の手前に、セレスティーヌ。縄の向こう側には、今にも泣き出しそうなアリシア。その横に、駆けつけたヴィクトルがいる。
「規則を守れない方に、通行を許す道理はありません。お戻りなさい」
セレスティーヌの声は、いつも通り、澄んで冷ややかだった。
……あ、このセリフだ。
ゲームでは、ここだけが切り取られていた。前後の事情は何も語られないまま、「冷酷な悪役令嬢の台詞」として。
「セレスティーヌ。言い方というものがあるだろう」
ヴィクトルが眉を寄せる。
「ただ、通りたかっただけなのに……」
アリシアが、小さな声で言った。周囲から、ひそひそとざわめきが広がる。
まずい。この空気は、まずい。
俺は人垣をかき分けて、前へ出た。
「失礼。少しだけ、よろしいでしょうか」
全員の視線が、こちらに向いた。
「ヴィクトル殿下。一つ確認させてください。この先の床を、ご覧になりましたか?」
「床?」
「ええ。実は、昨日ここを通りかかりまして」
嘘ではない。この一週間、イベントの場所は下見していたのだ。推し活に抜かりはない。
「三枚目の床板が、沈んでいました。縄の脇に立てられた札にも、営繕課からの立入制限の期間が書いてあったはずです」
ざわめきが、一段落ちた。
視線が、札へ集まる。小さな木札に、確かに書いてあった。「補修のため立入禁止」。
「わたくしが立てました」
セレスティーヌが、静かに言った。
「三日前に営繕課から申請を受け、風紀の責任として札と縄を設けました。記録も残してあります」
彼女は懐から、革張りの記録帳を取り出した。日付、時刻、申請者の名前。細かい字で、びっしり並んでいる。
……この人は、本当に。
俺は胸の奥で、そっと拳を握った。いや、握るくらいにしておいた。叫んではいけない。
「ただ、見たところ、まだ実感が湧かない方もいらっしゃるでしょう」
俺は、後ろを振り向いた。
「バルト」
「え、俺?」
「そこの三枚目の板を、軽く踏んでみてくれ」
「なんで俺が!?」
「お前が一番重いからだ」
ロイドが、真顔で言った。
「ひどい友人たちだな!」
文句を言いつつ、バルトは縄をまたいだ。そして、三枚目の板に、そうっと足を乗せた。
ばきっ。
「うわああああ!」
バルトの右足が、膝まで床に沈んだ。
……静寂。
それから、くすくすと、笑いが波のように広がった。
「ほらな」
「ほらなじゃない! 助けろ!」
ロイドとノエルが、笑いをこらえながら、バルトを引っ張り出した。怪我はない。ありがとう、バルト。お前の犠牲は無駄にしない。
ヴィクトルは、気まずそうに咳払いをした。
「……なるほど。事情は、わかった」
「ですが」
セレスティーヌが、一歩、前に出た。
「言い方がきつかったことは、認めます。怪我をされるよりはよい、と考え、言葉を選ぶ時間を惜しみました。アリシア嬢、失礼いたしました」
彼女は、まっすぐに頭を下げた。
アリシアは、目を丸くして、それから小さく首を振った。
「い、いえ。わたしこそ、札を、ちゃんと見ていなくて……」
セレスティーヌは頷いた。
ヴィクトルは何か言いかけて、結局、アリシアの肩を抱いて去っていった。人垣も、ばらばらと散っていく。
残ったのは、俺と、セレスティーヌ。それから、膝の汚れを払っているバルトだった。
「……殿下」
セレスティーヌが、こちらを向いた。
「なぜ、札のことをご存じだったのですか」
「通りがかりに、見たんです。それだけです」
「……」
「あなたは、危険な場所に人を近づけない。それだけのことでしょう」
口から、自然に出ていた。
セレスティーヌの紫の瞳が、わずかに見開かれた。
「……そうおっしゃってくださる方は、初めてです」
ほんの少し。ほんの少しだけ、彼女の口元が、ほどけた。
笑った。
推しが、笑った。
「恐縮です」
俺は、王族として百点の返事をした。
内心は、宇宙が一つ生まれていた。
「お前、今、顔が」
小声でノエルが言った。
「うるさい」
* * *
それから、小さな誤解がいくつかあった。
まず、風紀指導が冷たいと噂された件。
食堂の隅でその噂を耳にした俺が、ひとまず情報を集めようと腰を浮かせた、まさにその時だった。
生徒会の掲示板に、一枚の紙が貼り出された。
『先月の風紀指導の内訳 注意件数・理由・その後の経過』
整った字。項目ごとの集計。末尾には、「ご意見は生徒会室の投書箱まで」の一文。
貼ったのは、もちろんセレスティーヌだった。
噂は、昼休みが終わる頃には、すっかり萎んでいた。
「……俺の出番が、なかったんだが」
掲示板の前で、俺は呆然と立ち尽くしていた。
「なんで嬉しそうなんだよ」
ロイドが、横から覗き込んで言った。
「推しが、自分で、完璧に、仕事をした」
「それの何が嬉しいんだ」
「何がって、全部だろ! 見ろ、この集計表の罫線を! 一本も曲がってない!」
「罫線に感動するな」
それから、図書館の貸し出しをめぐる行き違いもあった。
セレスティーヌが予約本を取り置きしていたことが、「特権の濫用」だと噂になったのだ。
俺は事情を確かめるため、司書のもとへ向かった。ノエルとバルトにも付き合ってもらい、図書館の規則と貸し出し記録を確認する。
そこで分かったのは、取り置きが認められていたのは、期末課題で使う共有資料だけだったということだ。セレスティーヌは、その規則に従って予約していただけだった。
「つまり、特別扱いじゃなくて、誰でも使える手続きを使っただけってことか」
ノエルが記録を指で叩いた。
「そういうことだな。規則を確認すれば、すぐに分かる話だった」
俺が司書に礼を言う横で、バルトはなぜか司書のおばあさんからお菓子をもらっていた。
「……全部、お前らがやった気がする」
「気がする、じゃなくて、やったんだよ」
ロイドが、ため息混じりに言った。
「お前は、横で『この張り紙の字体が美しい』って言ってただけだ」
「それは事実だ。ラフォルジュ嬢の書いた物だぞ」
「そこは今、関係ない」
全部を俺が解決したわけではない。彼女には自分の記録があり、自分の言葉がある。俺は、足りない一枚を差し出すだけだ。推しの判断を奪うなんて、推し活の風上にも置けない。
ある日の放課後、図書館の隅で、俺は資料の山と格闘していた。
「フィン殿下」
その声に、手から本が滑り落ちた。
どさっ。
「……失礼。驚かせてしまいましたか」
セレスティーヌが、落ちた本を拾ってくれた。
待て。
今、なんと呼んだ。
フィンドリー殿下、ではなかった。フィン殿下、と呼んだ。
「そちらの資料、わたくしも拝見してよろしいでしょうか。農業用水の件でしたら、実家の領地で似た記録を見たことがございます」
「ど、どうぞ。いくらでも」
声が上ずった。ほぼ裏返った。
セレスティーヌは、不思議そうに首を傾げてから、資料を受け取った。
翌日の昼食。
「呼び方が変わったんだよ」
俺は食堂のテーブルに突っ伏して言った。
「推しが、俺の名前を、略した」
「それは親しくなったってことだろ」
ロイドが淡々と指摘した。
「友人としての距離感だ! 推しが一般人に気を許してくださった! 尊い!」
「その一般人、お前、王子だけどな」
「王子でも一般人だ!」
「理屈が雑」
ノエルが、ひとさじのスープを持ち上げたまま、しみじみと言った。
「お前さ、周りで何て言われてるか、知ってる?」
「何て?」
「『留学してきた王子が、公爵令嬢を口説き落とした』」
「なんでだ!?」
叫んでから、周囲の視線に気づいて、慌てて声を落とした。
「……口説いていない」
「口説いてる。毎日、遠くから熱烈に見つめて、困っていたら助けて、褒めて」
「それは推し活だ!」
「推し活と口説きの違いが、周りにはわからないんだよ」
バルトが、肉団子を頬張りながら言った。
「俺は、フィンはラフォルジュ嬢のためなら床にでもなるって知ってるぞ」
「そこは理解してるのか」
「でも、床は結婚しないしな」
「だからそれは、解釈違いなんだ!」
……なぜだろう。説明するほど、みんなの目が優しくなっていく。
* * *
その噂が、ひとつ厄介な方向に伸びていたことを、俺が知ったのは、卒業パーティーの三週間前だった。
「ヴィクトル殿下とアリシア嬢が、お前とラフォルジュ嬢のことを、言いふらしてるらしい」
ノエルが、いつもの軽口を封じて言った。
「『婚約者のいる身で、他国の王子と親密にしている』って」
……来たか。
ゲームの嫌がらせイベントは、もうほとんど成立しなくなっている。ヴィクトルは、婚約を解消したい。理由が足りなくなれば、新しい理由を探す。
予想はしていた。ただ、予想が当たるのは、あまり嬉しくない。
「どうする?」
「記録を揃える」
俺は、手帳を閉じた。
「俺とあの人が会ったのは、全部、図書館か食堂か生徒会室だ。いつ、どこで、何のためだったか、同席者は誰か。洗い出す」
「そんなこと、いつ書き留めてたんだ」
「推し活は記録が命だ」
「胸張るところじゃない」
ロイドが、小さく手を挙げた。
「俺も手伝う。突き合わせるなら、第三者の証言があった方がいい」
「証言?」
「司書さんに、図書館の閲覧記録の写しを頼んでみる。農業用水の資料の件は、先生も同席してたはずだし」
「なら俺は、食堂のおばちゃんに聞いてくる」
バルトが、迷いなく言った。
「毎日あの席に座ってる人間は、一番よく見てる」
「理由が食堂の人間に偏ってる」
「うまいものを出す人は、信用できる」
ノエルは、肩をすくめて笑った。
「俺は、噂の出どころを辿ってみる。誰が、いつ、誰に言ったか。そういうのは得意だ」
頼もしすぎる友人たちだった。
その日から、ロイドは図書館の司書や教師のもとを回り、バルトは食堂の人々と世間話を重ね、ノエルは廊下で拾った噂話を几帳面に書き留めた。ひと息つく間に、手帳には、日付と場所と証人の名前が、少しずつ増えていった。
もちろん、ヴィクトルの側の動きも気になった。
「ところで、あの二人がよく行く場所はどこだ」
ノエルに聞くと、返事は早かった。
「温室。あそこの管理人さんは、口が堅いけど、記録帳は付けてるらしいぞ」
「記録帳か」
「ロイドが三晩がかりで頼み込めばいける」
「俺か!?」
ロイドの悲鳴が、図書館に響いた。
翌日、図書館で打ち合わせをしようとセレスティーヌに声をかけると、彼女はすでに机に帳面を広げていた。
「そのことでしたら、わたくしも整えております」
「えっ」
「殿下のお手を煩わせるばかりでは、申し訳ありませんから」
開かれた帳面には、日付、場所、同席者の名前、そして面会の目的が、ずらりと並んでいた。俺が頭の中で数えていた分より、むしろ細かい。
「農業用水の資料。期末課題の打ち合わせ。生徒会の予算案の確認。……どれも、目的が先にあって、殿下とお話ししたのは、その結果です」
「完璧です」
「わたくしの名誉の問題です。まず、わたくし自身が備えるのが筋かと」
彼女は、少しだけ誇らしげに、背筋を伸ばした。
この人は、守られるだけの人じゃない。
知っていた。前世から、知っていた。でも、生で見ると、破壊力が桁違いだった。
……俺が集めた記録は、ほとんど、彼女の帳面の裏付けにしかならないのでは。
いや、それでいい。裏付けこそ、推しの記録の価値を高める。推し活は、縁の下の力持ちだ。
「では、お互いの記録を、突き合わせましょう」
「ええ。よろしくお願いいたします、フィン殿下」
はい。よろしくお願いされました。
* * *
卒業パーティーの夜は、広間いっぱいに、白と金の光が満ちていた。
生徒、その家族、両国の来賓。国王陛下と王妃殿下、ラフォルジュ公爵、我が国の駐在大使までが、会場に揃っている。
そして、中央の階段の下。
深い青のドレスをまとったセレスティーヌが、いつもより少しだけ髪を高く結って立っていた。
……スチルだ。
これ、前世で見たスチルの、あの青いドレスだ。
いや、今は、感動している場合ではない。深呼吸。深呼吸。
「セレスティーヌ・ド・ラフォルジュ」
広間に響いた声に、音楽が止まった。
ヴィクトルだった。アリシアを横に従えて、階段の上から、彼女を見下ろしている。
「貴様に、問わねばならないことがある」
ざわめきが、さざ波のように広がった。
「貴様は、婚約者である私がありながら、他国の王子と人目も憚らず親しく交流している。これは、婚約者としての信義にもとる行いだ。よって――」
「殿下」
セレスティーヌが、静かに口を開いた。
「そのお言葉の続きを伺う前に、一点、確認させていただいてもよろしいでしょうか」
凛とした声だった。震えてはいなかった。
「わたくしがフィンドリー殿下とお会いしたのは、図書館、食堂、生徒会室。いずれも、常に第三者の目のある場所です。日時、目的、同席者は、すべて記録してございます」
彼女は、帳面を掲げた。
「殿下は、そのうちのどの行為を、不貞とお考えなのでしょうか。具体的にお示しください」
「そ、それは……親しく、話していたことだ」
「親しく話すこと、でございますか」
セレスティーヌは、小さく首を傾げた。
「では、お伺いいたします。婚約者のある者は、他国の方と、公の場で学業の話をしてはならないのでしょうか。どこまでが許され、どこからが不貞なのか、その基準を、お聞かせください」
広間が、しんとなった。
「基準が示されないまま、わたくしの行いだけが咎められるのであれば、それは、わたくしを断ずるための理由を、後から探しているに過ぎません」
……かっこいい。
内心で震えながら、俺は一歩前に出た。
「ヴィクトル殿下。私からも、よろしいでしょうか」
「フィンドリー殿。これは我が国の内々の問題だ」
「いいえ。私の名前が出ている以上、私の問題でもあります」
笑顔は崩さない。声も荒げない。
「まず、セレスティーヌ嬢と私の交流について。農業用水の資料を調べた折には、図書館の司書殿と教師が同席しておられました。期末課題の打ち合わせは、閲覧記録に残っております。食堂での昼食は、給仕の方々が毎日ご覧になっています。必要でしたら、証言も揃っております」
俺は、懐から数枚の写しを取り出した。ロイドが司書に頭を下げて集め、バルトが食堂で話を聞き、ノエルが噂の出どころを突き止めたものだ。ありがとう、友よ。
「いずれも、学業に関する用件での会話です。すべて人目のある場所で行われており、不貞を疑われる余地はございません」
「だ、だが」
「その上で、ひとつだけ。殿下のお考えの基準を、確認させてください」
俺は、もう一枚の紙を示した。
「殿下とアリシア嬢が、お二人だけで温室を訪れたのは、この一月で九回。温室の管理人殿の記録によるものです。同席者は、おりません」
「そ、それは、相談を受けていただけで」
「相談。なるほど」
俺は、にっこり笑った。
「では、私とセレスティーヌ嬢の会話も、学業の相談です。殿下のお二人の交流が『相談』として許されるのであれば、公の場で、記録も証人もある私たちの交流は、なおさら許されるはずです」
ヴィクトルの口が、ぱくぱくと動いた。
「自分のなさることには寛容な基準を適用し、婚約者の方にだけ、別の基準を適用される。それは、公平な判断とは申せません」
アリシアが、小声で言った。
「ヴィクトル様……」
「わ、私は、王太子として、婚約者の振る舞いを」
「ええ。婚約者の振る舞いが問われるのであれば、婚約者である殿下ご自身の振る舞いも、等しく問われるべきでしょう」
俺は、一礼した。
「それから、一点だけ。我が国の第五王子の名が、根拠のない疑いで貶められるのであれば、私は国に、正式に報告せねばなりません。ですが、そうならないことを、望んでおります」
視線の端で、我が国の大使が、満足げに頷くのが見えた。
その時、玉座から、重い声が響いた。
「ヴィクトル」
国王陛下だった。
「そこまでにしなさい」
「……父上」
「婚約に関する話は、後日、両家の手順に則って改める。この場で、証拠も持たず、他国の客人と令嬢の名を汚すものではない」
ヴィクトルは、唇を噛んで、うつむいた。
アリシアは、青ざめて、その袖をそっとつかんでいた。
ざわめきが、安堵の溜め息に変わった。張り詰めていた空気が、ゆっくりとほどけていく。
「セレスティーヌ嬢」
陛下が、彼女に向き直った。
「不快な思いをさせた。公爵家にも、後日、改めて詫びよう」
「もったいないお言葉です」
セレスティーヌは、深く礼をした。そして、顔を上げて、俺を見た。
「フィン殿下。ご協力、感謝いたします」
「いえ。当然のことです」
口元がほころびそうになるのを、必死に押さえた。
ここで笑ったら、推し活の品位に関わる。
終わった。
断罪は、阻止した。
推しは、守られた。
その時、後ろから声をかけられた。ラフォルジュ公爵だった。
「フィンドリー殿下。このたびは、娘の名誉を守っていただき、心より感謝申し上げます」
公爵は、深く頭を下げた。
「どうか、お顔をお上げください。私は事実を申し上げただけです。セレスティーヌ嬢ご自身が、立派に説明なさっていました」
「それでも、殿下のお力添えがあったことに変わりはありません。娘の名誉だけでなく、両国の関係にまでご配慮いただいたこと、父としても、一国の公爵としても、感謝しております」
「恐縮です」
公爵は顔を上げ、俺をじっと見た。
「……なるほど。殿下が娘をよく見てくださっていることは、わかりました」
「はい?」
「いえ。こちらの話です」
公爵は、今度こそ柔らかく微笑んだ。
「今後とも、娘とよい関係を築いていただければ幸いです。もちろん、殿下にご迷惑をおかけしない範囲で」
「もちろんです。私にできることがあれば、いつでも」
俺は、王族として礼儀正しく答えた。
公爵は満足げに頷き、去っていった。
……よかった。ちゃんとお礼を言ってもらえた。
ところで、最後の一言はどういう意味だったのだろう。
なぜか、周囲の来賓が、全員、同じような顔をしている。
* * *
数日後。
俺は、学園のテラスで、大きく伸びをしていた。
「終わった……」
「終わったな」
ロイドが紅茶を飲みながら言った。
「推しは守った。断罪は消えた。これで俺の使命は完了だ」
「使命って言い方が、もう重いんだよ」
ノエルが笑った。バルトは、お祝いのケーキを三切れ目に突入している。
最高の気分だった。空は青い。推しは無事。何もかもがうまくいった。
そこへ、我が国の駐在大使が、封筒を手にやってきた。
「殿下。本国から、お手紙が届いております」
「ありがとう。……何かあったのか?」
「ええ。それから、ラフォルジュ公爵家からも、書状が」
封を切って、目を通す。
……読んで、もう一度読んだ。
「どうだった?」
「……縁談の、打診、と書いてある」
「へえ、どこの誰と?」
「セレスティーヌ嬢と、俺」
一拍。
「……ああ、うん」
「両国の王家と公爵家が、双方にとって望ましい縁組であると、前向きに考えている、と」
大使が、にこにこしながら補足した。
「陛下も、大変乗り気でいらっしゃいます」
テーブルが、静かになった。
紅茶のカップが、かちゃり、と鳴った。
それから。
「推しと結婚するのは解釈違いだろうが!!」
テラス中に響き渡った。
「うるさい」
「落ち着け」
「無理だ! 落ち着けるか! 俺は推しの幸せを願っただけだ! 幸せの当事者になる予定はなかった!」
「予定がなかったのは、お前だけだな」
ロイドが、紅茶を一口飲んだ。
「周りは、最初から全員その予定だった」
「ふざけるな! 推しとは遠くから静かに見守る関係だ! 床だ! 柱だ!」
「まだ言うのか、床」
ノエルが、涙を拭いながら笑っている。バルトは、ケーキをくわえたまま、感慨深げに頷いていた。
「結婚式のケーキは、俺が味見係をやるぞ」
「やるな!」
「あの」
その声に、全員が固まった。
テラスの入り口に、セレスティーヌが立っていた。本を数冊抱えて、少しだけ首を傾げている。
「お話し中に、申し訳ありません。図書館でお待ちしていたのですが、お声が聞こえたものですから」
「あ、あの、これは」
「『かいしゃくちがい』とは、何のことでしょうか」
最悪のタイミングで、最悪の言葉を拾われた。
「えっと、それは、その」
どうする。どう説明する。
推しを推しと呼べば、本人に推しがバレる。でも、嘘は、つきたくない。嘘をつくくらいなら、言わなければいい。いや、もう言ってしまった。
「その、あなたは、俺にとって……尊敬する方で、えっと、見守りたいというか、柱というか」
「柱」
「いえ、床というか」
「床」
やめろ、俺。これ以上喋るな。
言葉が、完全に迷子になった。ノエルが、必死に笑いを噛み殺しているのが視界の端に映る。ロイドは、天を仰いだ。
セレスティーヌは、少し考えるように、視線を落とした。
傷つけた、だろうか。血の気が引いた。
けれど、顔を上げた彼女は、笑っていた。
いたずらを思いついた子どもみたいな、ごく淡い微笑みだった。
「つまり殿下にとって、わたくしは、遠くから大切にするもの、ということでしょうか」
「そ、そう! それです!」
「では、近くでお話しするのも、『かいしゃくちがい』ですか?」
「そ、それは……光栄の極みで……いや、でも……」
俺が、しどろもどろになっていると、セレスティーヌが、くすりと笑った。
「でしたら、これからも近くでご一緒いたしましょう。まずは友人として、フィン殿下」
……友人として。
そう言って、彼女は、俺の隣の席に静かに腰を下ろした。
ノエルが、肩を震わせている。ロイドは、顔を覆った。バルトは、フォークを持ったまま動かない。
「もう結婚しろよ、お前ら」
「俺ができるわけないだろ!」
俺の叫びが、また、青空に抜けていった。
推しを幸せにする計画は、成功した。
確かに、成功した。
ただ、その幸せの中に、なぜか俺まで含まれている気配があるのは、何かの間違いだ。
解釈違いだ。絶対に。
……推し活は、まだまだ、終われないらしい。




