音が消えた日
六月の湿った空気が、山道を歩く足にまとわりつく。
空は快晴、木々は生い茂り、鳥は歌う。
きっと今日は心地よい登山日和なのだろう。
けれど私は何も感じない。
私にとって世界は、濁った水の中だ。
視界に映る景色は全てが同じ灰色に見える。
耳に届く音は全てが濁って届く。
きっと空は透き通るような清い青色なのだろう。
きっと木々は生命力溢れる新緑の色なのだろう。
きっと鳥の合唱は心を癒す美しい音色なのだろう。
私には想像する事しかできない。
そして、想像しても何も感じない。
──コトン……
胸の奥で鳴るこの音が、全部、消し去ってしまうから。
でも──ひとつだけ、消えないものがある。
ほのか。
ほのかの笑顔だけは、灰色の世界の中で鮮明だ。
ほのかの声だけは、濁った音の中で澄んで聞こえる。
ほのかの存在だけは、私の中で光を放ち続けている。
その光は私がどれほど壊れているのかを忘れさせてくれる。
今日は年に一度、ほのかに逢える日。
もうどこにも居ない、けれどいつも側に居てくれる彼女に。
年に一度の──墓参りだ。
「はぁ……つかれた……」
背後から濁った音が近づいてきた。この音は亮介だ。
黒川亮介。
彼の音は独特だ。
軽いのに沈んでいる。浮いているのに重たい。
そんな矛盾のする音。
彼が何を考えているのかは知らない。
知りたいとも思わない。
何故なら彼の音はどこか、逃げているような音がするから。
「……」
亮介の後ろからもう一人、静かで少し異質な音が近づく。
灰原慎一。
私は彼の音が苦手だ。
足音があるのに、足音として聞こえない。
呼吸があるのに、呼吸として届かない。
まるで、音を立てるという概念だけが歩いている。
そんな気配。
濁ってもいない。澄んでもいない。そこにあるだけの音。
人とは思えないような彼の音が、私は苦手。
そんな彼らの音を聞いていたら目的地に到着した。
友人・水瀬ほのかが亡くなった場所──羅保トンネルだ。
ほのかは今から七年前、この場所で事故死した。
高校生だった。
私達はこの場所に、毎年来ている。
ほのかを合わせた私達四人は、所謂幼馴染という関係だ。
中学生になってからは疎遠になってしまったけれど、慎一が私達を合わせてくれた。
ほのかの死後、慎一は突然こんな事を言い出した。
──これから毎年、ほのかの命日に集まろう
あれから毎年、私達はここで墓参りをしている。
勿論ほのかの墓は別にあるけれど私達にとっては、この場所こそがほのかの墓な気がするから。
「……鈴蘭、置いておく」
亮介はそういって、ほのかの好きだった鈴蘭を手向ける。
手向ける花を鈴蘭にしようと言い出したのは彼だった。
当時バタバタしていた私の代わりに、彼らが色々決めてくれた。
慎一は鈴蘭は縁起が悪いのではと反対していたが、私が説明すると喜んで賛成してくれた。
彼らは小学生の時とは全くの別人に見えるけど、こういう所は変わっていない気がする。
「じゃあ、俺、いくから」
亮介はそういうと怯えるようにその場を後にする。
最初は花を手向け手を合わせてくれたけど、今では花を手向けるだけだ。
きっと彼はあの噂を怖がっているのだろう。
……羅保トンネルの怪奇音。
ほのかの事故から数年、そんなタイトルと共にこの羅保トンネルが心霊スポットとしてネット上に上がった。
山奥にぽっかりと佇む廃トンネル。
昔事故死した少女がいる。
その2つの情報は、羅保トンネルを心霊スポットにするのに十分な情報だった。
怒りが込み上げる。
ほのかの死を娯楽のように扱う事が許せない。
けれど私の怒りはすぐにストンと抜け落ちる。
──コトン……
この音が私を人間にしてくれない。
この音が……この音さえなければ……。
「……」
私が帰る亮介の姿を見つめていると、慎一は掃除を始めていた。
慎一は毎年、鈴蘭を手向け、祈り、掃除をしてくれる。
その所作は亮介と異なり、毎年毎年変わらない。
常に一定だ。まるでそうプログラムされたかのように。
「ごめん慎一、私もすぐに手伝うね」
「……」
慎一は無言で掃除を続ける。
私はその横で鈴蘭を手向け、手を合わせる。
その時だった──
『あはははっ』
耳元で、少女の笑い声がした。
何度も聞いたことがある、人懐っこい笑い声。
私は毎年、この笑い声を聞いている。
「ほのか……」
もう二度と会えないあの子の声。
心臓が跳ねた。
でもそれは、高揚でも恐怖でもない。
「ごめんね……」
慎一が少し笑った気がした。
亮介が少し動きを止めた気がした。
でも私にはその全てがどうでもよかった。
「ゆるして……」
私の中の罪悪感が、心臓を強く動かす。
だって私は──
私はこれから、ほのかの親を殺しに行くのだから。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
ほのかの笑い声。
母の叫び声。
ブレーキの軋む音。
すべてが、まだ耳の奥で鮮明に残っている。
あの日、私は高校一年生だった。
母は朝からそわそわしていた。
単身赴任中の父が、久しぶりに帰ってくる日だったからだ。
「夕里、そろそろ時間よ、駅まで迎えに行きましょう」
「はーい」
「じゃあほのかちゃん、私達出るからまた今度ね」
「分かりました! お邪魔しました!」
あの日、ほのかは私の家に遊びにきていた。
ほのかは喘息持ちで外で遊ぶ事はなかなか出来ない。
だからこうしてよく私の家で遊んでいた。
ほのかの家に行きたいと言ったことはあるけれど、困ったような悲しいような顔を見てからは一度も言えてない。
だから自然と私達の遊び場は私の家になった。
「夕里ちゃん、あまりお父さんいじめちゃダメだよ?」
「いいから! もう早く出てって!!」
「あははっ! はいはいって、あ! 鈴蘭!」
ほのかは玄関先に活けてあった鈴蘭に指を指した。
「ほのか前いってたでしょ、鈴蘭が好きだって」
「うん、いいよねぇ」
「でも意外だよ、小学生の時なんて花より団子って感じだったのに」
「うるさいなぁ! 高校生にもなれば花の一つも好きになるよ!」
ほのかはあっかんべーとすると、すぐにニカッと笑った。
「じゃ、またね! 夕里ちゃん!」
ほのかはぴょんぴょん跳ねながら大きく手を振る。
ほのかは別れ際、いつもこうする。
理由を尋ねると周りに心配させたくなくてやっていた動作が、いつしか癖になってしまったという。
いつもの事だ。
いつもの事。
だからあの日、少しほのかの息が荒い事に気がついてあげられなかった。
「今日夕飯何食べたい?」
「んー? 別になんでも良いよー」
私は車を運転する母の質問に適当に返しながら、ほのかと後部座席でチャットをしていた。
あの時、ほのかは誰かと付き合い始めていたらしい。
彼氏は誰だと聞いても、恥ずかしいから、の一点張りで教えてくれなかった。
まあ噂をすれば一瞬で広まるど田舎だ。
誰々と付き合ったなんて話を盗み聞きされたら、次の日には結婚はいつにするんだという質問でひっきりなしになる。
むしろ付き合ったなんて話をしている時点で相当浮かれていたのだろう。
「たのしんでね、と」
ほのかはあの後、彼氏のバイクに乗ってデートにいくらしかった。
チャットがハートマークだらけだった事を覚えている。
「あれれ、まいったわねぇ……」
「どしたの?」
「いやこの先の道路でね、渋滞が発生してるのよ」
「えー、どれくらい待つのー?」
「んー、2、3時間は待ちそうねー」
「えーーー」
「んー、仕方ないわね」
父が待つ駅に繋がる道路は基本一つだけだが、実は現地の人間しか知らない抜け道がある。
それが羅保トンネルだった。
当時の羅保トンネルもあまり整備はされておらず、今の薄暗い羅保トンネルと変わらない。
ただ、今の羅保トンネルと昔の羅保トンネルの大きな違いは、廃トンネルかそうでないかだった。
といっても、トンネル自体が薄暗いのと羅保トンネルへと続く道がガタガタの山道なせいで殆どの人間が使用していない。
実質廃トンネルといっても過言ではなかった。
「羅保トンネルか、やだなぁ」
「文句言わないの」
ここから羅保トンネルに行くには、来た道を引き返し、ガタガタの山道を抜ける必要がある。
引き返すのに四十分、山道を抜けるのに二十分。
大体合わせて一時間くらいだろうか。
引き返した方が早いのは明白だった。
ただ私はあの時、母を止めていればと今でも後悔している。
そう……止めていれば……。
「暗いわねぇ」
「うん……」
予定よりも少し遅れた私達は羅保トンネルを進む。
母には少し焦りが見えていた。
暗くなる前に父を迎えにいきたかったのだろう。
「ママ、もう少し速度を落としたら?」
「んーでもねぇ」
私が母に声をかけた時だった。
──キィィィッ!!
ブレーキを踏み込む鋭い音が、車内を切り裂いた。
「えっ──!?」
続いて、
──ガンッ!
何かを踏みつけたような鈍い衝撃音。
車体が大きく上がり、シートベルトが肩に食い込む。
「きゃっ……!」
母の悲鳴と、車の軋む音が重なった。
──ドンッ……!
最後に、車体が何かを乗り超えたかのように跳ねる。
そして、車は完全に停止した。
車の中は、静寂だった。
エンジン音だけが、かすかに震えている。
「……な、なに……今の……?」
母の声は震えていた。
私の心臓も、耳の奥でドクドクと鳴っている。
母は震える手でハザードをつけ、
ゆっくりとドアを開けた。
「夕里は……ここで……待ってて……」
そう言いながらも、足元はふらついていた。
私はシートにしがみつきながら、
後部座席から母の後ろ姿を見つめた。
トンネルの薄暗い空気の中、
母の足音だけがコツ、コツ、と響く。
「……え……?」
母の声が、かすれた。
「うそ……でしょ……?」
私は耐えきれず、車を飛び出した。
「お母さん……?」
母の足元に近づいた瞬間、私は息を呑んだ。
──ほのかが、車の下で倒れていた。
制服のスカートが土埃にまみれ、
片方の手は胸元を押さえるように曲がっている。
顔は伏せたまま、まるで眠っているように動かなかった。
「ほのか……? ほのか!? ちょっと……!」
母は震える手でほのかの肩に触れたが、返事はなかった。
「どうして……どうしてこんなところに……倒れて……」
母の声は震え、私はただ立ち尽くすしかなかった。
あの日羅保トンネルの奥から聞こえた、風が低く唸るような音を、私は忘れることができない。
その音は、まるで何かを告げるように、ゆっくりと、重く、私たちの背中を押していた。
母は震える手でほのかの肩を抱き寄せる。
私はただその場に立ち尽くすしかなかった。
トンネルの空気は冷たく、風の音だけが、私たちの周囲をぐるぐると回っていた。
──ゴォォ……
その低い唸りが、ほのかの沈黙と、母の震えと、私の恐怖を、ひとつにまとめて押しつぶしていく。
この時の私はまだ知らなかった。
この瞬間から、白石家の地獄が始まったことを。
あの風の音は、ただの風ではなかった。
──あれは、終わりの始まりを告げる音だった事に。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
市役所の調停室。
蛍光灯の白い光が机の上の書類を照らしている。
担当職員が淡々と説明を続ける。
「……以上の内容に双方が合意したものとして、本日付で示談成立とします」
──カサ……
書類を閉じる音が響いた。
母は深く頭を下げ、父は震える手で署名を終えた。
「この度は……本当に……申し訳ありませんでした……」
母の声は震えていた。
ほのかの母は、静かに、ゆっくりと頭を下げた。
「……お気持ちは、受け取りました」
その声は、涙を堪えているように聞こえた。
担当職員も安堵したように頷く。
「双方が誠意を示されたこと、大変意義のあることだと思います。これで法的な手続きはすべて完了です」
ほのかの母は、静かにハンカチで目元を押さえた。
「……うちの子のこと、忘れないでくださいね」
その姿は、誰が見ても悲しみに沈む母親だった。
私達も、担当職員も、誰もその言葉を疑わない。
──この場では。
調停室の前の廊下は静かで、蛍光灯の白い光が床に反射していた。
母は涙を拭いながら、父は肩を落としながら歩いていた。
その時だった。
少し離れた場所で、ほのかの母の声が聞こえた。
「……あれで終わりだと思ってるのかしら」
白石家は足を止めた。
さっきまで涙を流していたはずの声が、まるで別人のように冷たかった。
「示談は示談、でも償いは別よね」
母の肩がびくりと震えた。
父は振り返りかけたが、母が袖を掴んで止めた。
「……やめて……聞こえなかったことにして……」
母の声は震えていた。
しかし、ほのかの母の声は続く。
「毎日払わせてあげるわ。自分の罪を忘れないように」
その言葉は、廊下の静寂を切り裂くように響いた。
白石家は、ただ立ち尽くすしかなかった。
抗議すれば、加害者家族が逆ギレしたと噂される。
そんな噂が広がれば白石家に待つのは崩壊だ。
何も言えない。何もできない。
胸の奥で何かがゆっくりと崩れていく音を、私は耳にした。
──コトン……。
それは羅保トンネルで聞いた風の唸りよりも、ずっと不吉な音だった。
家に帰ると、母は靴を震える手で脱ぎながら呟く。
「あれは……あの言葉は……ただの、気のせいよ……」
母はそう言ったが、声は震え、目は虚ろだった。
父は無言で頷いたが、その拳は固く握られていた。
その夜、食卓にはいつもの料理が並んでいたはずなのに、味が一切しなかった。
母の箸はガタガタと震える。父はほとんど食べなかった。
家の中の空気が、少しずつ重くなっていくのが分かった。
翌日、母は朝から落ち着かなかった。
掃除機をかけては止め、洗濯物を畳んでは手を止め、何度も玄関の方を見ていた。
「来るんじゃないかって……なんだか、そんな気がして……」
母はそう呟いた。
玄関のチャイムは鳴っていない。誰も来ていない。
それでも母は、まるで見えない誰かに怯えているようだった。
その姿を見て、私は胸が締め付けられた。
父は仕事に行く前、玄関で靴紐を結びながら言った。
「もし来ても、出なくていい。俺が帰ってからでいい」
その声は低く、どこか怯えているようだった。
父は強い人だった。
怒鳴ることもあったが、家族を守るためなら何でもする人だった。
その父が、誰かに怯えている姿を初めて見た。
数日が経つと家の中から音が消え始めた。
テレビの音が消えた。
母が笑う声が消えた。
父の鼻歌が消えた。
代わりに聞こえるのは──
母のすすり泣き。
父のため息。
私の心臓の音。
──コツ……コツ……。
実際には誰も来ていない。でも、聞こえる気がする。
玄関の方から聞こえる気のせいの足音。
私たちはその足音に、怯えていた。
白石家はゆっくりと、だが確実に崩壊を始めていた。
それから三日後の夕方だった。
家の中は、妙に静かだった。
母は台所でお茶を淹れ、父は新聞を広げていた。
でも、どちらも落ち着きがなかった。
『示談は示談、でも償いは別よね』
その言葉が、家の空気をじわじわと侵食していた時だった。
──ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
その音は、まるで雷が落ちたかのように鳴り響いた。
母の手から湯呑みが落ち、床に──カシャン、と割れた。
父は新聞を握りしめたまま固まった。
「……来た……」
母の声は、風に消えそうなほど弱かった。
父がゆっくりと立ち上がる。母も立ち上がるが父が止めた。
それでも母は首を横に振り、父と共に玄関に向かった。
扉を開けると──
そこには、ほのかの母が立っていた。
調停室の廊下で見た時と同じ、冷たい顔だった。
「こんにちは。突然ごめんなさい。今日はね……気持ちをいただきに来たの」
父の顔が強張った。
「……示談は……もう……」
「ええ、終わったわね。法的には」
ほのかの母は、ゆっくりと家の中を覗き込んだ。
「でもね、あなた達の娘がうちの子を殺した事実は、示談じゃ消えないのよ? 言ったでしょ、償いは別って」
母の肩が震えた。
「……は……は……払えません……」
「払えないの?」
ほのかの母は、ゆっくりと笑った。
「じゃあ──払えるように頑張りなさい」
その声は、羅保トンネルの風よりも冷たかった。
「明日も来るわね。忘れないで」
──コツ、コツ、コツ。
ほのかの母が去っていく足音が、玄関の外で不気味に響いた。
扉が閉まると同時に、母はその場に崩れ落ちた。
「……どうすれば……どうすればいいの……」
父は拳を握りしめたまま、何も言えなかった。
水瀬家の母が玄関を去った翌日からだ。
白石家の空気は目に見えて変わった。
何かが壊れたわけではない。誰かが怒鳴ったわけでもない。
ただ、家の中の音がひとつずつ消えていった。
母は朝からほとんど喋らなくなった。
台所に立っても、鍋をかき混ぜる音がしない。
包丁の音も、食器の触れ合う音も、以前よりずっと小さくなった。
まるで、音を立てることすら恐れているようだった。
父はテレビをつけることがなくなった。
新聞を広げても、ページをめくる音がしない。
ただ、壁を見つめている時間が増えた。
母の様子に気づいていないわけではない。
だが、何も言えなかった。
言葉を発すれば、
何かが崩れてしまうと分かっていたからだ。
私は学校で、誰とも目を合わせられなくなった。
廊下を歩くと、ひそひそ声が背中に刺さる。
「白石の家……」
「ほのかちゃんの……」
「示談したらしいけど……」
耳を塞いでも聞こえてくる、悪意のない悪魔の音。
家に帰ると、母の沈黙と父の沈黙が待っていた。
夕里は自分の部屋に閉じこもり、布団の中で息を潜めた。
家の中の音が、どんどん小さくなっていくのが分かった。
──そして、ある日。
「た……ただいま……」
返事がない。父も母もとっくに家にいる時間なのに。
「ね……ねぇ……ねぇ!」
私は急いでリビングに向かう。
父と母の顔を見たくて。
「……う……うそ……なん……で……」
父と母は苦痛に歪んだまま、動かなくなっていた。
ブラブラと揺らぐ父と母だった何か。
ポチャン……ポチャン……と床に雫が落ちる。
「は……はは……ははは……」
ポチャン……ポチャン……と雫が垂れる音がやむ。
「は……ははは……」
乾いた笑い声が消えていく。
「……」
そして──そして私は気づいた。
──シン……
家の音が完全に消えた事に。
──コトン……
静寂の中、あの不吉な音がどこからか聞こえる。
──コトン……
家を見渡しても音の主は見つからない。
──コトン……
でも不思議と怖くない。
──コトン……
いや、怖いわけがない。だってこの音は私を……
──コトン……
──コトン……
──コトン……
──コトン……
──コトン……
──コトン……
──コトン……
──コトン……
──コトン……
殺してやる
──コトン……
私を導いてくれる音だから。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
「ほのか……」
私はほのかの墓の前で手を合わせる。
手が震えて仕方ない。
抑えても抑えても震えが止まらない。
「……」
慎一はそんな私の隣で、ただただ無言で掃除を続ける。
「慎一……いろいろありがとね」
「……」
私は慎一から連絡が来たあの日を思い出す。
私は両親が死んだ後、東京の叔母に引き取られた。
叔母はとても優しかった。
必要以上に干渉せず、でも本当に辛い時はいつも側に居てくれる。
もしほのかが生きていれば、きっと叔母のような人になっただろうと思えるほどだった。
それに東京の生活も楽しかった。
もちろん辛い事もあったけど、それも含めて楽しいと思えた。
でも、同時に気づいてしまった。
──コトン……
この音が私の幸福を消し去る事に。
──コトン……
この音が私の悲しみを消し去る事に。
──コトン……
そしてこの音が、私の憎悪を生み出す事に。
だから確信した。
私は止まってはいけない事に。
私は導かれ続けなければならない事に。
そんな時だった。慎一からあの連絡が来たのは。
──これから毎年、ほのかの命日に集まろう
私は嫌だった。
墓参りをすれば水瀬夫妻に会う。
力のない今の私では、きっとまた何もできない。
そんな私に、慎一は語りかけてくれた。
──ほのかの親は、いなくなったよ
慎一は話してくれた。
私の両親が死んだあの日から、途端に行方をくらませたのだと。
怒りでどうにかなってしまいそうだったけど、これはチャンスだと思った。
今の私では何もできない。
でも未来の私なら……。
私は慎一の提案に了承した。
慎一は水瀬夫妻と仲が良かったらしく、色々知っている。
利用しない手はなかった。
水瀬夫妻の行方はわからない。
でも度々連絡はしてくれる。
どこかのタイミングで故郷に戻るらしい。
慎一は驚くほどに水瀬夫妻の情報を持っていた。
中には何故そんなに知っているのかと言いたくなるような情報もあったけど、どうでも良かった。
私には復讐以外に気を回している時間はない。
──コトン……
この音が鳴る限り、立ち止まっている暇などないのだから。
そして……その日が来た。
『来年……水瀬家が戻ってくるらしい。ほのかの七回忌で』
──コトン……。
今日だ。今日がその七回忌だ。
七年分の音が、一つに重なった。
──コトン……。
今日、終わらせる。
──コトン……。
今日、奪われたものを取り返す。
──コトン……。
この音だけが、私を導いてくれる。
今日、私は殺人を開始する。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
私は水瀬家の前に立っていた。
日が完全に落ちた田舎の夜は暗い。
街灯は少なく、虫の声だけが遠くで濁って鳴っている。
『辛いだろうけど、挨拶しに行った方がいい。もし留守でも手紙の一筆くらいは残しておくのがいいだろう』
慎一が水瀬家の合鍵と共に私にくれた言葉を思い出す。
水瀬夫妻は夜まで外出をしており、帰るのは日が完全に落ちた後だと話していた。
実家のなくなった私はここで泊まる術を持たない。
だから慎一は合鍵を渡してきたのだろう。
帰る前に手紙の一筆くらいは残しておけと。
何も知らない部外者が家のことに口出すな。
と言いたかったけど、この合鍵はとても助かった。
まるで神様が私の復讐を応援しているようで、笑みが溢れてしまう。
「……スーッ」
大きく息を吸う。
七年前と同じ、湿った夏の夜。
──コトン……
胸の奥で鳴る音だけが、ずっと私を支えてくれた。
──カチャリ
私は犯行を開始した。
水瀬家の玄関から辺りを見渡す。
家の中は真っ暗だ。
空気は重く、湿っていた。
私は一歩、足を踏み入れる。
鳴り響く不安と焦燥、期待と高揚を抑え、耳を澄ませる。
時間的にも状況的にもおそらく寝ているのだろう。
耳を澄ませば寝息音が聞こえるはずだ。
──シン……
ただ、耳には一切の寝息音が入らなかった。
1つだけ、聞き覚えのある音だけは聞こえてくる。
──シン……
私は息が荒くなる。
聞き覚えのある、あの静寂の音。
私は息を呑んだ。
スマホのライトをつけ、ゆっくりとリビングへ進む。
光が床を照らした瞬間──
私は立ち尽くした。
私は声を失った。
足が動かなかった。
七年間、胸の奥で鳴り続けた音が止まった。
──……。
何も聞こえない。
恐怖も感じない、驚愕も感じない。
感じる事は一つだけ。
世界で私だけが取り残されたような孤独感。
──……。
音のない世界で、私は崩れ落ちる。
誰かに殺された、2つの死体を前に。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
水瀬夫妻の死から一年。
私は花を手にほのかの墓前、羅保トンネルの事故跡地に立っていた。
ほのかに花を手向け、手を合わせる。
「……ほのか。私、もう生きてる意味が分からないよ」
水瀬家への復讐に失敗してからの一年間は、まるで薄い膜の中で生きているようだった。
起きる。
会社へ行く。
寝る。
その繰り返し。
パソコンの起動音も、上司の指示も、同僚の雑談も、全部全部濁ったまま。
なんの意味も感じないその音は、私にとっては雑音でしかなかった。
仕事で褒められても、ミスをして怒られても、胸の奥には何も残らなかった。
嬉しいとか、悔しいとか、悲しいとか。
そういう感情が胸に触れる前に、すっと蒸発してしまう。
叔母との生活も同じだった。
叔母が夕飯を作ってくれても、「おかえり」と声をかけてくれても、その声は濁った雑音にしか聞こえない。
テレビの音も、
湯沸かし器の音も、
外を走る車の音も、
全部、雑音。
『夕里、大丈夫?』
叔母は私の顔を覗くように見て心配してくれた。
きっと心配しているのだろう。不安なのだろう。
でも私から映る叔母の顔は、のっぺらぼうだった。
色のない景色。
ノイズだらけの音。
感情のない生活。
私は気づき始めていた。
色を奪ったのも、音を奪ったのも、感情を奪ったのも、あの音じゃない。
そもそも私は空っぽだったのだ。
あの音は、そんな私を導いてくれただけ。
「慎一は……来年も来るの……?」
「……あぁ」
「そうなんだ……」
鈴蘭の花束が三つ手向けられた墓前で慎一と話す。
亮介はすでに帰ってしまった。
今ここにいるのは、ゴミもないのに掃除を続ける慎一と、何もない世界で佇む私だけ。
「鈴蘭……綺麗だね」
「……あぁ」
でも、そんな私でも綺麗と感じれる事があった。
それは鈴蘭と、ほのかの思い出と、ほのかの声。
あの音がなくなって以来、たまにほのかの声が聞こえるようになった。
まるで空っぽになった私の心に、入ってくれたみたいに。
「私も……多分……来年……くるかな」
「……」
慎一は返事をしない。
掃除を終えて片付けをしている。
そもそも慎一が返事をしてくれるのが稀だった。
もしかしたら慎一も、私のことを心配してくれたのかな。
「ほのか……私と生きようね……」
私は胸に手を当て、ほのかの声を聞く。
『あははっ!』
心の底から聞こえるほのかの声に、私は耳をすませた。
「ほのか……」
ほのかとこれから生きていく。
そう誓ったその瞬間だった。
心の奥底で、あの音が鳴り始める。
──ン……
「……えっ?」
私は驚愕した。
もう消えてしまったと思っていたあの音が聞こえてくる。
──トン……
「わ、私に何をしろというの!?」
──コトン……
「ねぇ、教えて! 教えてよ!!」
私は答えるはずもないその音に、必死に問いかけた。
音は私をどこかに導こうとしている。
でもその場所が分からない。
泣きそうになりながら必死に答えを求める。
その時だった──
「そういえば、なんでほのか吸入器使わなかったんだろうな」
慎一がそう告げる。
何かを演じるかのように不自然に。
でもそう話すのが当たり前かのように。
「なに……今さら……」
ほのかは喘息であの場に倒れていた。
ほのかは呼吸器を常に持ち歩いていた。
実際事故当日も吸入器はあった。
しかし使われた痕跡も、取ろうとした痕跡も無かった。
「ほのかは……」
当時は吸入器を使えるほど余裕がなかった。
だから吸入器を使う前に倒れてしまったんだ。
あれは悲しい事故だったんだ。
それは皆が知っている事実。
でも……おかしい……
「ほのか……教えて……」
私は心の中にいるほのかに問いかける。
自然と事故当日の状況が鮮明に浮かんできた。
何故か羅保トンネルに倒れていたほのか。
使われていなかった吸入器。
その疑問は……一つの仮説で説明がついた。
「ほのかはあの日……誰かに倒されてた……?」
──コトン……
その瞬間、胸の奥で一年ぶりに音が鳴った。
生きる意味が、はっきりと形を持った。
「誰だ……誰がやった……」
状況的に考えられるとしたらほのかのデート相手。
でも私はほのかの彼氏を知らない。
私は息を吸い、思考を巡らせる。
──そして
「あいつか……」
殺意の音が、再び私を導き始めた。
──コトン……
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
羅保トンネルはいつもと変わらない。
湿気とカビの匂いが漂い、風が吹けば低く唸るような音が響く。
私はゆっくりと歩き、ほのかが倒れていた場所に立つ。
あれから一年、私はこの時を待ち続けていた。
「……あれ? 慎一は……?」
亮介はキョロキョロと周りを見渡す。
亮介には昨日、チャットでこう伝えた。
『今年は羅保トンネルに現地集合だって』
もちろんこのメッセージは亮介にだけ送ったもの。
慎一には時間をずらすようにお願いした。
つまりこの場には私と亮介。この二人しかいない。
「慎一は遅れてくるって……」
「そ、そうか、なら……」
亮介はオドオドとしながら鈴蘭の花束を手向けようとする。
私はその手をバッと捕まえた。
「な、何すんだよ……」
「ねぇ亮介、なんでほのかにあんな事したの?」
「は……はぁ?」
亮介の震えた声が、羅保トンネルに響く。
「あの日、ほのかとデートしてたの、あなたなんでしょ?」
亮介の肩がわずかに揺れた。
「な、何を言ってんだ、俺とほのかは小学生以来会話すらしてなくて──」
「鈴蘭」
「──ッ!?」
亮介の顔が一気に青ざめていく。
「ほのか、小学生の頃花に一切興味なかったのよ。鈴蘭が好きになったのも高校生」
「あ……いや……それは……あいつ小学生の時、そんな事言ってたような……」
「慎一は知らなかったよ?」
私は隠し持っていた折りたたみナイフの刃を出し、亮介に向けた。
亮介の顔はどんどんと青ざめていく。
今の亮介の顔はまるで死人のようだった。
「や、やめてくれ! こ、殺さないでくれ……!」
「ねぇ、当時のこと、全部話して?」
「わかった、わかったから!」
私が折りたたみナイフの刃を収めると、亮介はゆっくりと口を開き当時のことを話し始めた。
「お、俺たちは確かに付き合ってた……でも、俺は正直限界だったんだ……」
亮介曰く、ほのかに告白されたから付き合ったものの、喘息持ちの彼女と出来ることは少ないため嫌気がさしていた。
しかし、別れたら別れたで噂が広まるのが面倒くさいから渋々付き合っていたらしい。
そんな交際をしていた亮介はあの日、ついに限界を迎えてしまったという。
バイクでデートをしていたあの日、2人も道路の渋滞が原因で羅保トンネルを使用していた。
ただ、羅保トンネルは埃まみれで清掃が行き渡っていない。
案の定、ほのかは羅保トンネルで喘息を起こした。
ほのかは亮介に吸引機が入った鞄を預けていたらしく、亮介に鞄をもらおうとした。
その時だ。
亮介はあの音を聞いてしまったらしい。
『やだよ』
亮介はあの日ほのかを殺そうとした。喘息を原因に。
ほのかは鞄を取り返そうと必死に抵抗した。
取っ組み合いになった亮介は、ほのかを強く突き飛ばしてしまったという。
『ほ、ほのか……? ほのか……!?』
動かなくなったほのかを見て怖くなった亮介は、その場から逃げ出した。
私達親子が到着したのは、その後だった。
「こ、これが当日の全てだ……! も、もう離してくれ!」
「そんな理由で……」
「俺だって反省してる! だからちゃんと墓参りにも行った! だから許してくれよ!!」
亮介のその言葉に、私の何かが弾けた。
怒りでも、憎しみでもない。
もっと深くて、もっと暗くて、もっと静かな何か。
──コトン……
「い、痛いっ! 痛い! やめてくれ!!」
亮介の叫びが、遠くから響いてくるように聞こえた。
──コトン……
気づいた時には私は、亮介の上に跨っていた。
どうやって倒したのか覚えていない。
でも、そんなのどうでもよかった。
羅保トンネルの薄暗い照明が、
私と亮介の影を壁に大きく映し出している。
その影が──
不自然な軌道で、上下に揺れていた。
ゆっくりと、規則的に、まるで壊れた機械のように。
「い、痛いっ……!! だ、誰か……っ! 助け──」
亮介の悲鳴は、ただの雑音にしか聞こえない。
「や、やめて! やめて!」
ただ雑音で溢れる中でも、鮮明に聞こえる音はあった。
ズ……ッ、ズ……ッ、ズ……ッ
湿った空気を押し分けるような、
柔らかいものを押し込むような、
鈍く、重く、粘り気のある反響。
その音が、
トンネルの奥へ奥へと吸い込まれ、
また戻ってくる。
亮介の雑音と重なるように羅保トンネルに響く。
その音がとても綺麗に感じた。
ズ……ッ、ズ……ッ、ズ……ッ、ズ……ッ
だから亮介の雑音が邪魔だった。
ズ……ッ、ズ……ッ、ズ……ッ、ズ……ッ
羅保トンネルに移る2つの影は止まらない。
規則的に、淡々と、機械のように揺れ続ける。
亮介の声は次第に言葉にならなくなる。
ただの震えた息のような音に変わっていく。
「ひ……っ……あ……っ……」
その声すら、私には風の音と区別がつかなかった。
それでも、その雑音は邪魔だった。
ズ……ッ、ズ……ッ、ズ……ッ、ズ……ッ
ズ……ッ、ズ……ッ、ズ……ッ、ズ……ッ
ズ……ッ、ズ……ッ、ズ……ッ、ズ……ッ
次第に雑音は消え、綺麗な音だけが残った。
私は奏で続けた。消えた音を取り返すように。
影は揺れ続ける。
反響音は続く。
私はただ、淡々と、同じ動作を繰り返していた。
そして──
──……
胸の奥で鳴っていたあの音が、ふいに途切れた。
まるで誰かがスイッチを切ったように、
世界から“支え”が抜け落ちた。
私はゆっくりと顔を下げた。
そこにあったのは──
さっきまで亮介だった何か。
苦痛に歪んだ顔。
開ききった目。
震えたまま止まった指先。
それらが、湿った地面の上で静かに横たわっていた。
「……ほのか」
私は呟いた。
「ほのか、やったよ……」
私は心の奥底にいるほのかに問いかける。
ほのかの優しい声が聞きたくて。
でも──
何も聞こえなかった。
風の唸りも、
滴る水音も、
自分の呼吸すらも、
全部、どこかへ消えていた。
「……ほのか?」
私はもう一度呼んだ。
返事はなかった。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
「ほのか……ほのか……」
私は必死に思い出そうとした。
「ほのか、ほのか、ほのか、ほのか」
ほのかの笑った顔。
ほのかの声。
ほのかの仕草。
ほのかの、あの──
……何も、出てこない。
白い霧の中に沈んでいくように、
ほのかの記憶が、形を失っていく。
「……え……?」
私は震える手で頭を押さえた。
「なんで……? なんで……思い出せないの……?」
ほのかの顔が思い出せない。
ほのかの声が思い出せない。
ほのかの笑い声が思い出せない。
私は、ほのかを失った。
今、この瞬間に。
「……あ……あは……」
喉の奥から、壊れた玩具のような笑いが漏れた。
「あは……あはは……あはははは……」
笑いは止まらなかった。止められなかった。
羅保トンネルの壁が、その笑いを何度も何度も反響させる。
自分の声なのに、自分のものではないように聞こえた。
「あはは……そっか……そうだよね……」
私は手に握ったままのナイフを見つめた。
刃が、薄暗い照明を受けて鈍く光る。
その光が、まるで私を誘うように揺れた。
「……ほのか……いま会いにいくね……」
私は胸にナイフを当てた。
笑いながら、
泣きながら、
震えながら、
私はゆっくりと力を込めた。
「……ありがとね」
私は後ろにいる誰かに感謝を告げる。
彼は何も答えない。
「……ばいばい」
私の世界は、完全に音を失った。




