第83話「主脈への道」
採れた数値が、進む理由を予感ではなくした。
ミラは断熱袋を温度管理ケースへ移し終えてからも、その場にしゃがみ込んだまま地形ログを重ね続ける。側脈の採取点、環境型魔獣の核片反応、人工構造の痕跡、壁内部の反響差。琥珀色の目だけが、休みなく動いていた。
「歩き方を変えるってのは、具体的にどう変える」
ガレスが聞く。
ミラは端末から顔を上げずに答えた。
「今までは、通れる道を速く進めばよかったです。でもここから先は逆です。通れるから正解、じゃない」
「正解の道が別にあるってことか」
「おそらくですが……あります。しかも固定じゃないです」
その一言で、空気が少しだけ変わった。
刃は壁に寄りかかったまま缶の水を飲み干した。
「時間で変わるのか」
「はい」
ミラはようやく立ち上がり、さっき示したマップをもう一度展開した。
投影の線は相変わらず不安定で、輪郭がわずかに揺れている。だが、揺れ方そのものに規則があった。
「忘却領域に入ってから、既知マップと実地地形がずれてるのは確認済みですよね」
「距離感も音も、通信もな」
「その延長です。分岐の開き方にも位相差がある。今いる地点から先、主脈に近い通路はひとつじゃないです。ただ、通りやすい順番が一定時間ごとに入れ替わってる」
レイラが細く息を吐いた。
「だから、同じ場所でログが食い違う」
「そうです。誰かが嘘をついたわけじゃない。入った時間が違う」
それは忘却領域らしい答えだった。
人の記録が抜け落ちるのではない。正しく記録しても、次に来た時には正解が横へずれている。
「周期は」
刃が聞くと、ミラは投影の一角を拡大した。
「確定までは言えませんけど、今のところ十一分前後。環境型の移動痕と、側脈の流向のズレがそれに合わせて揺れてます」
「十一分で全部入れ替わる?」
「全部じゃないです。主脈へ近づく“当たり”が回ってる感じです。たぶん、この領域全体で一斉変化じゃなくて、局所ごとに位相がずれてる」
ガレスが大盾の位置を調整した。
「つまり、迷うと面倒って話じゃ済まないな」
「済みません。外れの分岐に入ると、距離そのものが伸びる可能性があります」
「戻れるのか」
「戻れはします。ただし時間を食います」
持ち帰るための遠征で、時間の浪費はそのまま消耗になる。
刃は立ち上がった。
「案内できるか?」
「はい。……その前に、実地で一回合わせます」
ミラは通路の先を指した。
人工構造の痕跡が埋もれていた壁面のさらに奥、天井が少しだけ高くなっている。そこに、黒い亀裂のような枝道がいくつも集まっていた。
四人は短く隊列を組み替え、その場所まで進んだ。
分岐は五本あった。
どれも似ている。幅も、高さも、岩肌の色も大差ない。むしろ似すぎていて気味が悪い。わずかに違うのは、通路の奥へ吸い込まれていく空気の流れと、足裏へ返ってくる硬さだけだった。
ミラが端末を見て言う。
「私の予測だと、今通るなら左から二本目」
刃は答えなかった。
その場で目を閉じる。
聞くのは音ではない。音はここであてにならない。足裏へ返ってくる細い振動、壁の冷え方、空気の抜ける癖。師匠に言わせれば全部ただの基礎だが、こういう場所ではその基礎の方がまだ正直だった。
数秒後、刃はひとつを指した。
「これだ」
左から二本目だった。
ミラが目を瞬かせる。
「……一致しました」
「なら進める」
「いや、ちょっと待ってください。何で分かったんですか」
「床」
「床?」
「抜ける方向がひとつだけ素直だ」
雑な説明だったが、今はそれで足りる。
ミラは一瞬だけ考え込み、それからすぐ切り替えた。
「じゃあ、仮説の精度は上がりました。この分岐は“今の当たり”です」
ガレスが全員を見回した。
「通過ルールを決める。先頭は刃、その半歩後ろにミラ。レイラは中央で感知補助、俺が最後尾。三分ごとに後方確認、七分で主脈側の反応が伸びなければ引き返す。異論は?」
「ない」
「ないです」
「問題ない」
即決だった。
刃は分岐の奥へ視線をやった。
暗い。だが、六十八層に入った直後の曖昧な暗さとは違う。奥へ行くほど、輪郭が逆にはっきりしている。人工構造の痕跡と同じ種類の気配が、岩の下で途切れずに続いていた。
「行くぞ」
踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
狭い。
通路幅は大人二人分ほどしかない。だが壁が迫ってくる圧迫感は薄く、代わりに足元だけが妙に遠い。一歩の沈み込みが一定しないのだ。硬い岩を踏んでいるはずなのに、ときどき薄い膜の上を歩くような感触が混じる。
「右壁、距離がずれる」
レイラが低く言う。
「氷眼でも、輪郭の補正が追いつかない」
「無理して読まなくていい。壁に近づきすぎるな」
刃が返す。
レイラはすぐ頷いた。
ミラは歩きながら数値を拾っていた。通常なら止まってやる作業を、こいつは平然と移動中にやる。
「反応、前方に寄ってます。細いけど強い。側脈より純度が高い」
「主脈で確定?」
「まだ手前の導線です。でも、方向は合ってます」
合っている。
その感覚は刃の足にも来ていた。通路の奥へ進むほど、床の響きがまっすぐになる。遠回りの癖が薄い。忘却領域の道にしては、あまりにも素直だ。
だからこそ警戒するべきでもあった。
ガレスが短く声を出す。
「後方、問題なし」
その直後、端末が震えた。
通信。弱い。だが完全には死んでいない。
レイラが手元を見た。
「定時」
十八時間ごとの報告時刻だった。
ここで送らない理由はない。送れる時に送る。それが今の運用だ。
ガレスが手で停止を示した。
「三十秒で済ませる」
ミラが即座に項目を読み上げる。
「現在位置、七十四層以深暫定。生存四。側脈試料三・二kg確保、品質未達。主脈探索へ移行。環境ルール追加、分岐変動確認」
「送れ」
レイラが端末へ打ち込む。
通信は重かった。送信バーが一度止まり、二度目でようやく進む。
数秒後、返信が三件まとめて落ちてきた。
レイラが読み上げる。
「協会監督班。『受領。帰還時受入体制を前倒し準備』」
「管理部。『素材搬送保全班の編成開始。詳細報告は帰還後で可』」
「報道対応室。『報道統制困難。企業各社が成果前提で動き始めています』」
短い沈黙が落ちた。
刃は鼻で息を抜く。
「まだ持って帰ってねえんだけどな」
「地上は、もうそういう段階じゃないんでしょう」
ミラが端末をしまいながら言った。
「側脈で未達でも、“取れた”時点で次を期待する。協会も企業も」
「面倒だな」
「ええ」
レイラはそこで、刃を見た。
いつもの観察ではない。確認する時の目だった。
「刃」
「何だ」
「主脈を持ち帰れたら、帰還後の騒ぎは今までと質が変わる」
通路の奥で、薄い風が流れた。
誰も急かさない。だが、この問いは今ここで聞くべきものだった。
「刀の素材だけじゃ済まない。忘却領域の深部に、四人で到達して、公式監督下で成果を持ち帰る。協会も、企業も、国家も、そこで止まらない」
刃は壁へ背を預けた。
「分かってる」
「本当に?」
「分からないわけないだろ」
言って、短く間を置く。
「……怖くないわけじゃない。面倒だし、帰った後のことなんて考えるだけ無駄だと思ってる」
レイラは黙って聞いていた。
「でも、ここまで来て見なかったことにしたら、そっちの方が後で面倒になる。持ち帰るって決めたのは俺だ」
ガレスが口を挟まないのがありがたかった。
ミラも端末に視線を落としたまま、何も言わない。
刃は続けた。
「だから、帰った後の騒ぎも込みで持ち帰る。途中だけ都合よく切り分ける気はない」
レイラの肩から、わずかに力が抜けた。
「ならいい」
「確認したかっただけか」
「ええ。帰ってからまた一人で背負うつもりなら、ここで止めるつもりだった」
刃は眉を寄せた。
「止められると思ってたのか」
「思ってました」
即答だった。
しかも少しも冗談に聞こえない。
刃は小さく笑いそうになって、やめた。
「……面倒な女だな」
「今さらです」
それで話は終わった。
終わらせてよかった。ここで長く引っ張る話じゃない。
ガレスが手首の時計を見た。
「再開する。あと四分で第一判定だ」
進み始めてすぐ、通路は二股に割れた。
さっきの五分岐より小さい。だが、悪質だった。右はわずかに広く、左は床が平らだ。普通なら左を選ぶ。歩きやすいからだ。
ミラが首を振る。
「左は駄目です。反応が薄い」
「右だな」
刃は迷わず入った。
その直後、背後で石が擦れる音がした。振り返ると、さっきまで平らだった左の床が、ゆっくり傾いて崩れていく。通らなくて正解だった。
「分かりやすくて助かる」
ガレスが低く言う。
「外れは潰れるってことか」
「たぶん、通す必要がなくなっただけです」
ミラの言い方は正しかった。
閉じるというより、役目を失って沈む。そんな感じだった。
七分。
主脈側の反応は、切れなかった。むしろ少し強くなっている。
「継続でいい」
ガレスが判断を下す。
刃も同意だった。
その先で、通路はまた広がった。
今度は空洞に近い。天井が高く、柱のような岩が何本も立っている。自然洞窟に見えるが、柱同士の間隔が揃いすぎている。人工構造の痕跡が、もう隠れなくなってきていた。
ミラが思わず息を呑む。
「これ……」
「喋るな」
刃が先に止めた。
感心するのは後でいい。ここで足を止める理由はない。
柱の間を抜ける。進むほど、奥から返る反響が低くなる。深い。しかも直線的だ。
主脈があるなら、この先だ。
レイラが小さく言う。
「見える」
「何が」
「まだ輪郭だけ。でも、奥の魔素流が太い。今までの側脈とは比べものにならない」
ミラもすぐに測定を合わせる。
「一致。やっぱりこっちです」
刃は頷いた。
直感と解析がまた重なった。なら、この道はまだ切れない。
空洞を抜け、さらに奥へ踏み込む。
その時だった。
足裏に、細い震えが返った。
前ではない。後ろだ。
刃は反射的に振り返った。
さっき通ってきた柱の間、その向こう。
一度は岩に沈んで閉じたはずの分岐が、音もなく、ゆっくりと口を開いていた。




