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第6話「逃走と追跡の深層鬼ごっこ」

 レイラが目を覚ましたのは、気を失ってからおよそ6時間後のことだった。


 最初に感じたのは、温かさだった。

 柔らかい布地に包まれた身体。鼻腔をくすぐる、何かが焼ける香ばしい匂い。遠くで焚き火がパチパチと爆ぜる音。

 そして――左腕に巻かれた、丁寧な包帯の感触。


「……ん」


 蒼い瞳がゆっくりと開く。

 視界がぼやけている。天井は岩肌だ。蒼い結晶の光が、薄暗い空間をほんのりと照らしている。

 ここは、どこだろう。

 記憶が、断片的に蘇ってくる。深層を一人で降りた。折れた剣で魔獣を斬り伏せた。脱臼した腕を引きずりながら歩き続けた。何度も意識が途切れかけた。

 そして――


(……見つけた)


 記憶の最後のピースがはまった瞬間、レイラの身体が跳ね起きた。


「いたっ……!」


 全身を貫く激痛に、思わず声が漏れる。裂傷、打撲、魔力の枯渇。身体中のありとあらゆる箇所が悲鳴を上げている。


「あ、起きましたか。……あまり急に動かない方がいいですよ。左腕、まだ固定したばかりなので」


 穏やかな声が、すぐ近くから聞こえた。

 レイラが声の方を向くと、焚き火のそばに一人の青年が座っていた。

 黒いパーカーにくたびれたカーゴパンツ。腰には古びた日本刀。串焼きを片手に、もう片方の手には――携帯ゲーム機。

 あの日、1200万人の前でイレギュラーの大群を数秒で塵にした、あの男が。焚き火の前で、のんきにゲームをしながら串焼きを食べていた。


「……あなた」


 レイラの蒼い瞳が、焚き火の光を映して揺れた。

 震える唇から、掠れた声が零れ落ちる。


「本当に……いた」

「ええ、まあ。いますけど」


 八雲 刃――この世界で最も力を隠し、最も目立つことを嫌い、最も面倒事を回避しようとしている男は、串焼きを一口齧りながら、困ったように頬を掻いた。


「あの、それで……率直に聞きたいんですが」

「はい」

「帰る気はありますか?」


 レイラは即答した。


「ありません」

「……ですよね」


 刃は深いため息をついた。

 予想通りの回答だった。むしろ分かっていた。この女がおとなしく「はいそうですか」と引き下がるなら、満身創痍で最深部に飛び込んでくるわけがない。


「じゃあ、もう一つ聞いていいですか」

「どうぞ」

「俺が――ここから逃げたら、また追ってきますか?」


 レイラは真っ直ぐに刃を見つめた。その蒼い瞳には、一片の迷いもなかった。


「世界の果てまででも」

「…………」


 刃は無言でゲーム機の電源を落とし、串焼きの残りを一口で飲み込んだ。

 そして、すっくと立ち上がる。


「分かりました。――じゃあ、お大事に」

「え?」


 次の瞬間。

 刃の姿が、消えた。


 文字通り、消えた。

 残像すら残さない。足音もない。魔素(マナ)の気配すら消え失せている。さっきまでそこにいた人間が、まるで最初からいなかったかのように、焚き火の前から綺麗に蒸発していた。


「――っ!?」


 レイラの目が見開かれる。

 反射的に氷眼(ひょうがん)を起動した。神盾機関イージス・コーポレーションのトップランカーだけに許された特異眼。魔素(マナ)の残留痕跡を三次元的にトレースし、対象の移動軌跡を可視化する追跡系の最上位スキル。

 ――捉えた。

 魔素(マナ)の残留が、かすかに南東の通路へと伸びている。速度は……異常だ。どう計算しても、人間の移動速度ではない。Sランク探索者の全力疾走の、優に10倍以上。


「逃がさない」


 レイラは痛む身体を引きずり起こした。

 全身が軋む。左腕は使えない。魔力も枯渇寸前。まともに戦える状態ではない。

 だが、そんなことは関係ない。


 右手が、折れた魔導剣の柄を握った。折れていても、魔力の補助は機能してくれる。

 氷眼(ひょうがん)がフル稼働する。視界に魔素(マナ)の軌跡が蒼い糸のように浮かび上がり、刃の逃走ルートを鮮明に描き出す。

 レイラは残る魔力を脚部に集中させた。Sランク探索者としての身体能力を極限まで引き上げる魔素強化(ブースト)――本来ならばコンディションが万全な時にしか使用しない禁忌に近い強化術式。

 消耗しきった今の状態で使えば、身体に深刻なダメージが蓄積する。最悪の場合、魔素(マナ)の逆流で以後の探索者生命が絶たれる可能性すらある。


 レイラは、迷わなかった。


氷華展開(グレイシア・ブルーム)――全域追跡(フルトレース)


 蒼い魔力が爆発的に膨れ上がり、レイラの身体を氷の粒子が包み込んだ。

 次の瞬間、彼女は弾丸のように通路へと飛び出していた。



◇ ◇ ◇



 刃は、忘却領域フォーゴットン・ゾーンの72階層を縫うように疾走していた。


 速い。自分で言うのもなんだが、速い。

 師匠仕込みの縮地(しゅくち)――正確には「基本の型の応用」にすぎないのだが、通常の歩行動作に魔素(マナ)を薄く纏わせるだけで、地面との摩擦を限りなくゼロにし、一歩で数百メートルの距離を飛ぶことができる。

 師匠は「ただの歩き方だ」と言っていた。嘘だ。こんな歩き方をする人間は、少なくとも刃が知る限りこの世に師匠しかいない。


(まあいい。これだけ距離を開ければ、いくらなんでも追って来られない……はず……)


 そう、楽観的に考えていた。

 10秒前までは。


(……嘘だろ)


 背後から、魔素(マナ)の気配が追ってくる。

 ありえない速度で。しかも、距離がじわじわと縮まっている。


(おいおいおい、マジかよ。あの怪我で、この速度!?)


 刃は思わず後ろを振り返った。

 72階層の薄暗い通路の遥か後方に、蒼い光の尾を引く影が見えた。

 銀色の髪。血走った蒼い瞳。全身から氷の粒子を撒き散らしながら、壁を蹴り、天井を跳び、まるで重力を無視したかのような軌道で爆進してくる女。

 鼻血が出ている。口元からも血が滴っている。明らかに身体が限界を超えている。にもかかわらず、その目だけは一切の濁りなく、真っ直ぐに刃を捉えていた。


「――待って、ください!」


 遥か後方から、血を吐きながら叫ぶ声。


「待ちません!」


 刃は全力で速度を上げた。

 冗談じゃない。あの目はヤバい。あの目は本気だ。どう見ても追いつくまで止まる気がない。仮に途中で死にかけても、這ってでも追ってくる種類の人間の目だ。


(面倒だ! 面倒すぎる! この世でいちばん面倒なタイプだ!)


 73階層に突入。巨大な地底湖が広がる空間を、刃は水面を蹴って駆け抜ける。足が水面に触れるたびに小さな水柱が立ち、波紋が同心円状に広がっていく。

 通常の探索者であれば、この地底湖を渡ること自体が不可能だ。水中には災害級の水棲魔獣が何十体と潜んでいる。

 だが、刃が水面を蹴る衝撃波だけで、水中の魔獣たちが怯えたように散っていく。彼の存在そのものが、深層の生態系を狂わせるほどの圧だった。


 ――そして。


 その10秒後、同じ地底湖の水面を、蒼い氷の軌跡を描きながら駆け抜ける少女の姿があった。

 水面に氷の足場を瞬間的に展開し、砕けるより速く次の足場を生成する。その足捌きは、もはや芸術の域に達していた。

 水棲魔獣が1体、水面から顔を出した。


「――邪魔」


 レイラは振り向きもせずに左手を振った。折れた魔導剣の柄から、氷の刃が一瞬だけ形成され、魔獣の首を刈り取る。即座に氷は砕け散り、レイラは速度を落とすことなく駆け抜けていった。


(……え、今の脱臼してる方の腕じゃなかった!?)


 刃は遥か前方でそれを感知し、顔を引きつらせた。

 あの女、脱臼した左腕で魔獣を斬った。痛覚を完全に遮断しているのか、それとも執念が痛みを凌駕しているのか。どちらにしても正気じゃない。


 74階層。晶洞の迷宮。

 結晶の柱が無数に林立する、万華鏡のような空間だ。光が結晶に反射し、あらゆる方向に虹の帯が走っている。

 刃は結晶の柱の間をすり抜けながら、複雑な経路を描いて移動した。これなら魔素(マナ)の残留痕跡も結晶の干渉で攪乱される。追跡は不可能なはずだ。


(よし、ここで撒ける――)


「見えてますよ」


 背後から、涼やかな声。

 刃が血の気が引いた顔で振り返ると、結晶の迷宮を物理的に砕きながら、最短距離で直進してくるレイラの姿があった。

 追跡ではない。魔素(マナ)の痕跡を辿っているのでもない。結晶ごと通路をぶち抜いて、一直線に追いかけてきている。

 迷宮の意味がない。


「なんで直線で来るんですか!?」

「曲がる時間が惜しいので」


 ――理不尽すぎる。


 刃は悟った。

 この女から逃げること自体は、容易だ。本気を出せば、一瞬で地球の裏側にだって行ける。

 だが問題は、逃げたところで彼女が追うのを止めないという点にある。ここで逃げれば、レイラはまた満身創痍になるまで追い続け、深層の奥底で野垂れ死にかける。そして運よく生き延びれば、また追ってくる。何度でも。際限なく。


(……あの師匠と同じタイプだ)


 脳裏に、遠い昔の記憶がよぎった。

 逃げても逃げても修行場に引き戻され、泣いても怒っても「さあ、次の型だ」と笑顔で木刀を振り下ろしてきた、あの人。


(俺の人生、なんでこう面倒な人間にばっかり好かれるんだ……)


 刃は走りながら天を仰いだ。

 正確に言えば、72階層の岩の天井を仰いだ。空は見えない。


 背後から、蒼い光が迫ってくる。

 氷の粒子を纏った銀髪の少女が、血と涙と泥にまみれながら、それでも笑っていた。

 ――刃の背中が、あと少しで手が届く距離にあるから。


「お願い……っ! 止まって……! 話を、聞いて……っ!」


 その声は、もう息も絶え絶えだった。

 だが一歩も、速度を緩めない。


(…………)


 刃の足が。

 ほんの一瞬だけ、遅くなった。


 本人にその自覚があったかどうかは、分からない。

 だが、あの忘却領域フォーゴットン・ゾーンの74階層で、世界最速の男の足が確かに鈍ったことだけは――事実だった。


 深層の鬼ごっこは、まだ続く。

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