第5話「そんなところまで追ってこないでくれ」
忘却領域、最深部。
蒼い光が脈動する岩窟の一角に、小さな焚き火が揺れていた。
魔獣の骨で作った即席の串焼きが、炎の上でジュウジュウと香ばしい音を立てている。深層に棲息する大型の蜥蜴系魔獣の肉は、ちゃんと血抜きをして低温でじっくり焼けば、意外とイケる。泥臭さが消えて、むしろ野性味のある旨みが出る。
焚き火のそばに敷かれた寝袋の上には、携帯ゲーム機と、食べかけの保存食と、数冊のマンガ。まるでちょっとした秘密基地のような空間だった。
「……ふぅ。平和だなぁ」
串焼きを頬張りながら、青年は心からの安堵の息を漏らした。
地上を離れて三日が経つ。
あれから一度も地上には上がっていないが、何一つ問題はない。この階層まで降りてこられる人間は――師匠を除けば――世界中に一人もいないのだから。
まさに天然の隠れ家だ。電波は当然届かないので、ネットの騒ぎも耳に入らない。
(あのネットの騒動も、そろそろ下火になってるだろ多分。あと一週間もすれば、完全に食い飽きて次の話題に移ってるはずだ。……うん、そうに違いない)
楽観的な思考を自分に言い聞かせながら、青年は串焼きの二本目に手を伸ばす。
空洞に反響する焚き火の音だけが、静寂を埋めている。
完璧な孤独。完璧な平穏。これでいい。俺の人生に必要なのは、これだけだ。
――そんな呑気な独り言を紡いでいた、その時だった。
青年の右手が、ぴたりと止まった。
(……ん?)
魔素の流れに、微かな乱れ。
この深層特有の濃密で安定した魔素の海の中に、異質な振動が混じっている。上層から、何かが降りてきている。
魔獣ではない。魔獣であれば、もっと荒々しい魔素の波動になる。
これは――人間の生体魔素だ。
(……嘘だろ)
青年は串焼きを置いて立ち上がった。
ありえない。ここは忘却領域の最深部だ。公式ダンジョンの最深層から10層以上も下った、地図にすら存在しない空白地帯。
仮にSランクの探索者が単独で挑んだとしても、途中の深層魔獣に殺されるか、魔素の高濃度に肉体が耐えきれずに倒れるか、どちらかで確実に命を落とす。
パーティを組もうが同じだ。この階層に辿り着くには、人類の常識を逸脱した身体能力と魔素耐性が「前提条件」として必要になる。
つまり、ここに来られる人間は、この世に存在しない。
のはずなのに。
振動は、確実に近づいてきていた。
しかも、その生体魔素の波形は、ひどく弱々しい。消耗しきっている。今にも消えそうなほどに。
(……まさか)
嫌な予感が、背筋を駆け上がった。
青年は焚き火を踏み消し、荷物をまとめて移動しようとした。
だが、遅かった。
岩窟の入口から、一つの人影が崩れるようにして現れた。
◇ ◇ ◇
最初に見えたのは、銀色の髪だった。
本来なら月光のように美しく輝くはずのその髪は、泥と血と汗にまみれ、無惨にもつれている。
漆黒のボディスーツは至るところが引き裂かれ、肌が露出した部分には深い裂傷と火傷の痕が幾筋も走っている。白い装甲に刻まれていたスポンサーのエンブレムは、もう半分以上が欠け落ちていた。
右手には魔導剣の柄だけが握られている。刀身は途中で折れていた。
左腕は、力なく垂れ下がっている。肩から先が不自然な角度に曲がっており、脱臼しているか、あるいは骨折しているかのどちらかだった。
氷華のレイラ。
D-Tube登録者数1位、国家認定Sランク探索者、神盾機関の最精鋭にして、現代ダンジョン探索業界の頂点。
その彼女が、満身創痍で、意識も朦朧としたまま、壁に手をつきながらこの場所に辿り着いていた。
(……マジかよ)
青年は、絶句した。
ありえない。物理的にありえない。
ここに辿り着くまでの道程を、彼は誰よりもよく知っている。途中には災害級の深層魔獣が何十体と徘徊し、魔素の濃度は人間の許容値を遥かに超える。Sランクですら命を落とす環境を、彼女はたった一人で突破してきたのだ。
折れた剣で。脱臼した腕で。満身創痍の身体で。
それは「不可能」を「執念」だけでこじ開けた、狂気の所業だった。
レイラの蒼い瞳が、焦点の合わないまま、岩窟の中をさまよった。
そして――焚き火の残り火のそばに立つ、黒いパーカーの青年の姿を捉えた瞬間。
蒼い瞳に、光が灯った。
「…………見つけ、た」
かすれ果てた声が、静寂を破った。
その声には、痛みも、疲労も、恐怖も、一切含まれていなかった。
ただ純粋な「歓喜」だけが、震える声に満ちていた。
「あなたを……ずっと、探して……」
レイラの膝が崩れた。
壁から手が離れ、身体が前のめりに倒れかける。
「――っ!」
反射的に、青年が駆け寄った。
倒れる寸前のレイラの身体を両腕で受け止め、そっと岩壁に寄りかからせる。
間近で見て、改めて彼女の損傷の酷さに息を呑んだ。全身の裂傷、脱臼した左腕、枯渇した魔力。よくこの状態で意識を保っていられるものだ。
「あんた、何をやって……! この階層に一人で来るなんて、正気じゃない」
青年の声が、珍しく焦りを帯びていた。
「だって……他に、方法が……なかった、から」
「……方法って、何のですか」
「あなたを、見つける方法」
レイラは青年の腕の中で、ぼんやりと微笑んだ。
その表情は、死の淵にいるとは思えないほど穏やかだった。
「神盾機関の全情報網を使っても、あなたの痕跡は一つも見つからなかった。顔認証も、武器登録も、闇市の取引記録も、全部」
「……」
「でも、一つだけ分かったの。あなたは、あの日……38層より下から上がってきた。普通の探索者が辿り着けないような、ずっと深いところから」
レイラの蒼い瞳が、真っ直ぐに青年を見上げた。
「だから私は、降りた。あなたがいる場所まで、辿り着けばいいと思って。……どれだけ深くても、どれだけ危険でも、降り続ければいつか会えるって」
(この人……本当にそれだけの理由で、単独でここまで……?)
青年は、言葉を失った。
純粋な狂気だ。
だが同時に、それは純粋な「本気」でもあった。
命を懸けて、文字通り死ぬ覚悟で、たった一人の人間を探しに来た。Sランクの地位も、世界的な名声も、何千万人というファンも、すべてを天秤にかけて、なお「この人に会いたい」という想いを選んだ。
その覚悟の重さは、青年にも分かった。
レイラが、震える右手を伸ばした。
青年のパーカーの袖を、指先でそっと掴む。
「お願いが……あります」
「……」
「私に……あなたの強さを、教えてください」
その声は、もう息も絶え絶えだった。
だが、蒼い瞳だけは、一切の曇りなく青年を見つめていた。
「あの日、あなたの一太刀を見た時……初めて分かったんです。私は、何も知らなかった。本当の強さが何なのか、何一つ分かっていなかった」
涙が、蒼い瞳から一筋、頬を伝った。
「Sランクだとか、トップ配信者だとか……そんなもの全部、どうでもいい。私は――あなたのような人に、なりたい。あなたの背中を追いかけたい。どうか……お願いします」
――弟子にしてください。
レイラはそう言い終えると、力尽きたように意識を失った。
青年の腕の中で、銀色の髪が揺れる。
規則正しい呼吸だけが、彼女がまだ生きていることを証明していた。
青年は、しばらくの間、動けなかった。
腕の中で眠るレイラの顔を見下ろしながら、彼の頭の中では凄まじい速度で思考が回転していた。
(……困った。本当に、困った)
これは、まずい。
「人違いです」で逃げ切れる相手ではない。ここまで来た時点で、もう確信を持たれている。
かといって、弟子を取るなんて論外だ。師匠でさえ一人しか弟子を取らなかった。そもそも俺なんかに人に教えられることなど何もない。師匠に言われた通り、俺は才能がない人間なのだから。
でも。
(……この人を、このまま放っておくわけにもいかないよな)
青年はため息をつき、リュックから簡易救急セットを取り出した。
傷口を洗浄し、包帯を巻き、脱臼した左腕を慎重に固定する。魔獣の串焼きの残りを火にかけ直し、水筒の水を彼女の唇にそっと含ませた。
(とりあえず治療だけして、目が覚めたら丁重にお断りして、お帰りいただこう。うん、それがベストだ)
そう自分に言い聞かせた。
だが、腕の中で安心しきったように眠るレイラの顔を見ていると、この少女が目覚めた後に、おとなしく「はい、そうですか」と引き下がるタイプではないことは、嫌というほど分かっていた。
なにしろ――この深層まで、たった一人で死にかけながら辿り着いた女だ。
(……本当に、どうすんだよこれ)
忘却領域の最深部で、青年――いや、八雲 刃は頭を掻きながら途方に暮れていた。
腕の中には、世界で最も有名な少女が眠っている。
焚き火の蒼い光が、二つの影を静かに照らしていた。
底辺探索者・八雲刃の「平穏な日常」は、今度こそ本当に――完全に、終わりを告げようとしていた。




