第3話「……どうか、誰の目にも留まっていないでくれ」
歪域蟲の群れが、最後の壁を崩した。
赤黒い外殻の奔流が、四方からレイラたちを呑み込もうとしている。
もう逃げ場はない。
レイラは両腕を広げたまま、背後に倒れた仲間たちを庇い続けていた。魔力は枯渇し、足は震え、視界は朦朧としている。それでも――Sランクの誇りだけが、彼女をそこに立たせていた。
(……せめて、最後まで)
先頭の歪域蟲が大顎を開き、レイラに飛びかかる。
その鎌のような前脚が、彼女の頭上に迫った瞬間。
「ええと――すみません、ちょっと通りますね」
穏やかな声が、戦場に落ちた。
場違いなほど、のんびりとした声だった。
次の瞬間、レイラの目の前の歪域蟲が――消えた。
消えた、としか表現のしようがなかった。
音もなく。衝撃もなく。まるで最初からそこに何もいなかったかのように、飛びかかってきた歪域蟲の姿が視界から消失した。
いや、違う。
よく見れば、地面にうっすらと灰のような粉塵が漂っている。歪域蟲の外殻が、あまりにも細かく――分子レベルで断ち切られて、塵に還ったのだ。
「……え?」
レイラが声を漏らした。
何が起きたのか、理解が追いつかない。
だが、彼女の『氷眼』は確かに捉えていた。一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、視界の端を何かが横切った。銀色の線が、ちらりと。
(……今の、斬撃? 見えなかった……? 私の『氷眼』で?)
Sランクの中でも最高峰の感知能力を持つ氷眼ですら、その動きの全容を捉えきれなかった。
ありえない。そんなことは、ありえない。
レイラが呆然と立ち尽くす前に、黒いパーカーの青年が現れた。
くたびれたカーゴパンツに、腰には古びた日本刀。装備と呼ぶにはあまりにもみすぼらしい出で立ち。このダンジョンの38階にいること自体が不自然な、どこにでもいそうな青年だ。
探索者としてのオーラも、威圧感も、魔力の気配すらない。まるで――そう、まるでEランクかFランクの新米探索者のような、何の特徴もない存在感。
その青年は、レイラたちの前に立つと、くるりと歪域蟲の大群に背を向けた。
いや、背を向けたのではない。レイラたちを背に庇うように、群れの前に立ったのだ。
「怪我人が多いようですね。すぐ終わらせますので、少しだけ目を閉じてもらえますか」
振り返らずに、そう言った。
声は柔らかく、丁寧で、まるでコンビニの店員が「温めますか」と尋ねるような自然さだった。
「あ……あなた、何を」
レイラが声を絞り出そうとした時。
青年の右手が、腰の日本刀の柄に触れた。
(何を、するつもり……? あの数を一人で? 正気じゃ……)
数百体の歪域蟲が、新たな獲物の出現に反応して一斉に殺到してくる。3メートルから5メートルの甲虫たちが、赤黒い鎌を振り上げ、通路を埋め尽くすように迫り来る。
それは、もはや「戦闘」ではなく「天災」と呼ぶべき光景だった。
Sランクの精鋭20名が壊滅した、あの絶望的な大群が、今度はたった一人の青年に向けて押し寄せている。
850万人の視聴者が、固唾を呑んだ。
配信ドローン8機は、まだ一つ残らず稼働していた。あの混戦の中、奇跡的に一機も破壊されていなかった。
だから、その瞬間は――世界中が見ていた。
青年が、静かに息を吸った。
そして。
――スッ。
日本刀が、鞘から抜かれた。
正確に言えば「抜いて、納めた」。その二つの動作が、あまりにも速すぎて一つの動作にしか見えなかった。
音は、なかった。
風すら、起きなかった。
ただ。
ただ、銀色の軌跡が――一閃ではない。数えきれないほどの軌跡が、空間に一瞬だけ焼きついて、消えた。
直後。
数百体の歪域蟲が、一体残らず――同時に崩壊した。
赤黒い外殻が、内側から粉微塵に弾け散る。飛び散った破片すら、着地する前にさらに細かい粒子へと分解されていく。分子レベルの斬撃が、群れの一体一体に、一切の例外なく叩き込まれていた。
前方の群れだけではない。背後から迫っていた別の群れも。通路の壁の隙間から這い出してきた個体も。すべてが、等しく塵に還った。
残ったのは、微かに蒼い光を帯びた粉塵が空中を漂う、静寂だけだった。
――数百体。即死。所要時間、約2秒。
世界が、凍りついた。
◇ ◇ ◇
850万人の視聴者のコメント欄が、完全に停止していた。
十数秒間、誰一人として何も打てなかった。
やがて、ぽつりぽつりとコメントが流れ始めた。
『……は?』
『え、今何が起きた? 巻き戻して』
『全部消えた? 全部? 何百体いたやつが?』
『バグだろこれ。配信バグ。映像処理の問題だよ。ね? そうだよね??』
『いや待ってリプレイ見たけどマジだったんだけど あの人一回しか刀抜いてない』
『一回????? 一回で数百体??????』
コメント欄が爆発した。
秒速のスクロールが追いつかないほどの量のコメントが、滝のように流れ落ちていく。同時接続数は850万から一気に跳ね上がり、1200万を突破。D-Tubeのサーバーが悲鳴を上げ始めた。
『切り抜き班仕事してくれ頼む』
『あの人誰だよ 顔見えた?? パーカー着てたよな名前は??』
『ランカーのリストにこんな奴いない。検索しても出てこない。マジで誰???』
『いやそもそもSランクの精鋭20人が全滅した群れを一人で2秒で殲滅って何?? そんなの人間じゃないだろ』
だが、画面の中の当事者たちは、視聴者以上に凍りついていた。
◇ ◇ ◇
レイラは、立ち尽くしていた。
目の前の光景が、理解できなかった。
数百体の歪域蟲が、一瞬で消えた。自分たちが命を賭けても勝てなかったあの大群が、たった一振りの――いや、あれは「振った」のか? 抜いて納めただけにしか見えなかった。
『氷眼』が、震えていた。
レイラの感知能力は、青年が刀を抜いた瞬間の魔素の変動を記録していた。
だが、その数値が、理解を拒んでいた。
あの一瞬に放出された運動エネルギーと魔素変換量は、レイラが全力で放った『氷棺葬』の――少なくとも、数十倍。
しかもそれが「一回の抜刀」で、「全方位」に、「個体ごとに精密に」叩き込まれている。
(……こんな人間が、いるの?)
生まれて初めて、本当の「強さ」を見た気がした。
自分が今まで「最強」だと思っていたものは、何だったのか。
この青年の前では、自分もまた――あの歪域蟲たちと、何ら変わりがないのだ。
その事実が、レイラの胸を鋭く突き刺した。
それは敗北感だった。
だが同時に、それ以上の何かが――もっと熱い、もっと圧倒的な感情が、胸の奥で渦巻き始めていた。
(……すごい)
憧れだ。
純粋な、圧倒的な、憧れ。
自分がどれだけ修行しても辿り着けないかもしれない高みに、この人は立っている。
その背中を見つめた瞬間、レイラの中で何かが、決定的に変わった。
「あの」
青年が振り返った。
穏やかな表情。戦闘の直後だというのに、息一つ乱れていない。まるで散歩の帰りに道を聞かれたような、何気ない笑顔だった。
「皆さん、お怪我はありませんか。大丈夫なようで、よかったです」
丁寧語だった。
数百体のモンスターを2秒で塵にした人間が、丁寧語で怪我の心配をしている。この丁寧さが、奇妙に感じてしまう。
「あ……あなた、は」
レイラが声を振り絞った。まだ腰が抜けたままで、まともに立てない。
その声は、かすかに震えていた。
「いえ、ただの通りすがりです。このあたりで少し素材を集めていたもので」
(……素材集め? 38階で? この装備で?)
何もかもが嘘くさかった。だが、青年の声はどこまでも自然で、誠実で、本当に「ただの通りがかり」だと信じ込ませるような穏やかさを湛えていた。
「では、お気をつけて。地上への通路は、そちらの方角が安全かと思います」
青年は軽く会釈し、踵を返した。
あっさりと。何事もなかったかのように。名乗ることも、見返りを求めることもなく。
(待って――)
レイラが手を伸ばしかけた時、青年の姿はもう薄暗い通路の奥に消えかけていた。
驚くほどの速さではない。ただ自然に、気配を消すように、闇に溶けるように去っていく。
(名前も、聞けなかった……)
レイラの蒼い瞳が、消えゆく背中を追い続けていた。
その瞳には、もう「氷」の色はなかった。
代わりに灯っていたのは、燃えるような――何としてでも、あの人をもう一度見つけ出すという、強い、強い意志だった。
◇ ◇ ◇
38階の通路を足早に抜けながら、青年は小さくため息をついた。
(……やっちまったな)
人助けをしてしまった。しかも大勢の前で。
本来なら絶対に避けるべき行動だ。自分のルールの、ほぼすべてに違反している。
(でもまあ……目撃者はあの探索者たちだけだ。20人くらいか。顔は見られたけど、名乗ってないし、装備も特徴がない。Fランクの底辺フリーが偶然通りかかっただけだと思ってくれれば、そのうち忘れてくれるだろ)
そう自分に言い聞かせる。
大丈夫だ。あの場にいたのは探索者だけで、一般人の目はない。数十人の証言くらいなら、噂で終わる。確たる証拠はないはずだ。
(……うん、多分大丈夫。きっと大丈夫。どうか、誰の目にも留まっていないでくれ)
青年は祈るような気持ちで、ダンジョンの出口へと歩き続けた。
すべてが杞憂に終わればいいと、本気で願いながら。
――もちろん、彼は知らなかった。
あの戦場で、配信ドローンが8機、一台残らず映像を記録し続けていたことを。
彼の顔が、彼の一太刀が、彼がモンスターの群れを2秒で消滅させた瞬間が――1200万人の視聴者の目に、くっきりと焼き付けられていたことを。
底辺探索者の「平穏な日常」の崩壊は、もう始まっていた。




