第2話「困っているなら仕方ないか」
その日、D-Tubeの同時接続数は850万人を突破していた。
画面の中では、一人の少女が剣を振るっている。
銀色の長髪を無造作に束ね、漆黒のボディスーツの上にスポンサー企業のエンブレムが刻まれた白い装甲を纏った、凜とした佇まいの美少女。整った顔立ちには一切の感情を映さず、氷のように透き通った蒼い瞳だけが、戦場を冷酷に見据えている。
氷華のレイラ――D-Tube登録者数1位、同時接続数の世界記録を持つ超人気配信者にして、国家認定Sランク探索者。わずか19歳にして、現代のダンジョン探索業界における頂点の一人だ。
レイラが所属するのは、世界最大のダンジョン探索企業『神盾機関』。
年間売上高は国家予算に匹敵し、世界中から選りすぐりの探索者を集めて最先端の装備を支給する、業界の絶対王者。そのイージスが擁する最精鋭パーティ『蒼穹戦隊』のリーダーこそが、レイラだった。
今日の配信は、国定ダンジョン中層38階での大型コラボイベント。神盾機関が主催する月例の公開討伐ミッションであり、レイラ率いるパーティに加えて、3つの協力パーティ、合計20名のAランク以上の精鋭が参加している。
配信ドローンが計8機、あらゆる角度から戦闘を中継する。視聴者のコメントは秒速で流れ、投げ銭の通知音が絶え間なく鳴り続けていた。
『レイラちゃんの氷魔法かっこよすぎ!!』
『今日の装備、新型の魔導剣じゃん。イージスの最新モデルか?』
『はい推し。尊い。世界で一番強い女、それがレイラ』
『38階のボスとか余裕っしょw』
コメント欄は平和そのものだった。
D-Tubeの視聴者たちにとって、レイラの配信は「安心して観られる最高のエンターテインメント」だ。彼女は強い。圧倒的に強い。Sランクの中でも頭一つ抜けた実力を持ち、まだソロでの敗北を一度も記録していない。
だから誰もが、今日も問題なく任務が完了すると信じていた。
レイラ自身も、そう思っていた。
◇ ◇ ◇
異変が起きたのは、38階のボスルームを突破した直後だった。
「……全員、止まって」
レイラが片手を上げ、パーティを制止する。
その声には、普段の配信では聞かせない鋭さが混じっていた。
「レイラさん? どうかしましたか?」
パーティメンバーの一人、Aランクの魔法使いが怪訝そうに振り返る。
「魔素の流れがおかしい。……さっきまで安定していたのに、急激に乱れ始めてる」
レイラの蒼い瞳が、暗闇の奥を射抜くように凝視していた。
彼女のスキル『氷眼』――周囲の魔素の流動を視覚的に捉える固有能力。Sランクの中でも稀少な感知系スキルだ。
その『氷眼』が、いま、悲鳴を上げていた。
(……何、これ)
見えている。魔素の流れが。
38階の奥――本来であれば何もないはずの空白領域から、ありえない量の魔素が渦を巻いて噴出している。まるでダンジョンそのものが大量の血を吐いているかのような、異常な奔流。
「全員、戦闘態勢。今すぐに」
レイラの声が、冷たく響いた。
パーティメンバーたちに緊張が走る。協力パーティの隊長たちも異変を察知し、各自が武器を構えた。
20名の精鋭が、一斉に臨戦態勢に入る。
だが、それでも――レイラの胸の内には、言いようのない不安が渦巻いていた。
(この魔素の密度……38階の規格じゃない。もっと下の……もっと深い場所のもの)
その嫌な予感は、わずか3秒後に的中した。
――ゴゴゴゴゴゴゴ。
地鳴りが、足元から全身を揺さぶった。
ダンジョンの壁が罅割れ、天井から岩片が降り注ぐ。配信ドローンの映像が激しくブレた。
『え、なになに地震!?』
『画面揺れすぎw』
『いやこれヤバくない??』
コメント欄がざわつき始めた瞬間。
38階の奥の壁が、内側から爆発した。
砕け散った岩壁の向こうから、黒い津波のようなものが溢れ出す。
いや、津波ではない。
モンスターだ。
無数の、モンスターの群れだ。
全長3メートルから5メートルほどの甲虫型魔獣。赤黒い外殻を持ち、鎌のような前脚を振り回しながら、壊れた壁の穴から次々と這い出してくる。その数は――10、20、30……いや、数十では終わらない。
百を超え、二百を超え、なおも増え続ける。
「歪域蟲……!? なぜ38階にこんなものが!」
協力パーティの隊長の一人が、血の気の引いた顔で叫んだ。
歪域蟲。本来の棲息域は60階以深――つまり、高ランク探索者でさえ事前に専門の討伐チームを編成しなければ立ち入れない超深層の魔獣だ。単体でBランク上位、群体で行動した場合はAランクに匹敵する脅威として分類されている。
それが、数百体の群れとなって38階に出現している。
イレギュラーだ。
ダンジョンが稀に起こす異常現象――本来の生態系を無視して、下層のモンスターが上層に大量発生する災害事象。発生要因は未だ解明されておらず、予測も不可能。近年で最悪のケースでは、首都圏近郊のダンジョンで発生したイレギュラーが都市部への侵食を引き起こし、数万人規模の避難勧告が発令された記録がある。
それと同等の――いや、それ以上の規模のイレギュラーが、いま目の前で起きている。
「レイラさん! 撤退しましょう! この数は――」
「……無理よ。退路が塞がれてる」
レイラの声は、氷のように冷静だった。
『氷眼』が捉えている。背後の通路にも、別のルートからモンスターが流入し始めていた。前方からの大群に注意を引かれている間に、退路を断たれている。
「全パーティ、ダイヤモンド・フォーメーションを組んで。前衛は私と一緒に壁を作る。魔法使いは後方から範囲攻撃、回復役は中央に。……配信ドローンの映像は切らないで。この状況を本部に伝えて」
パニックに陥りかけていた20名の探索者たちが、レイラの指示で動き始める。
Sランクの威厳。それは単なる戦闘力だけでなく、こうした極限状況で冷静に指揮を執れる精神力にこそ宿る。レイラはまさしく、その資質を備えた人間だった。
「行くわよ」
レイラが魔導剣を構え、前に踏み出す。
蒼い瞳に、氷の魔力が渦巻いた。
「『永久凍界』」
彼女の固有魔法が発動する。
魔導剣を中心に、極低温の魔力が爆発的に拡散。半径30メートルの地面が一瞬で凍結し、先頭の歪域蟲の群れが氷漬けになる。砕け散る氷片と共に、十数体が一度に沈黙した。
850万人の視聴者が、息を呑む。
『うおおおお! レイラの永久凍界!!』
『一撃で十数体消し飛ばした!? さすがSランク!!』
『いけるって! レイラなら余裕!!』
視聴者の怒涛のコメントが流れ出す。まるで、勝ちを確信しているかのように。
だが、レイラ本人は分かっていた。
(全然、足りない)
凍らせた十数体の向こうから、その何倍ものモンスターが壁を乗り越えて押し寄せてくる。一度に処理できる数を、群れの総数が圧倒的に上回っている。
魔力にも限りがある。このペースで全力の範囲魔法を撃ち続ければ、10分と持たない。
それに――背後から迫る別の群れの対処も、同時に行わなければならない。
「がっ……!」
前衛の一人が、歪域蟲の鎌に弾かれて吹き飛んだ。Aランクの戦士が装備ごと抉られ、壁に叩きつけられる。
「回復班! 今すぐ!」
「こっちも手一杯です! 後方にも群れが……!」
戦況は、みるみる悪化していった。
前後から挟撃されるパーティ。一人、また一人と膝をつく仲間。回復魔法が追いつかない。
『やばいやばいやばい』
『これ全滅するんじゃ』
『誰か助けて!! 運営!! ギルド本部!!』
配信のコメント欄が、悲鳴で埋め尽くされていく。
850万人の視聴者が、リアルタイムで「最強」の崩壊を目撃していた。
「私が前に出る。全員、下がって」
レイラが一歩前に出た。
もう一度、全力で。今度は出し惜しみなしの最大火力で前方の群れを殲滅し、その隙に後方の退路を切り開く――それしかない。
魔力の残量は、もう半分を切っている。これを撃てば、もう大技は二度と使えない。
だが、構わない。
(……仲間を死なせるわけにはいかない)
歯を食いしばり、魔導剣を天高く掲げる。刀身に凝縮された蒼白い魔力が、まばゆい輝きを放つ。
「全魔力開放――『氷棺葬』!」
レイラの切り札が解き放たれた。
絶対零度に近い冷気の奔流が、前方の空間すべてを呑み込む。歪域蟲が数十体、一瞬で凍結し、粉々に砕け散った。
だが。
「……嘘、でしょ」
凍結した群れの向こう。
さらにその奥から、新たな歪域蟲の大群が溢れ出してくるのが見えた。
まだ、来る。まだ、終わらない。
にもかかわらず、全力を出し切ったレイラの身体はもう――ろくに動かなかった。
膝から力が抜ける。
魔導剣を杖代わりにして、辛うじて立っている。視界が霞む。
(……ここまで、か)
Sランク最強の一角。D-Tube登録者数1位。国家認定探索者の頂点。
そのすべての肩書きが、今この瞬間、何の意味も持たない。
レイラは生まれて初めて、自分の力の「限界」を――明確な「敗北」を、突きつけられていた。
(……ごめん、みんな。私じゃ、守りきれない)
最後の歪域蟲の群れが、壁を崩して迫り来る。
レイラは、せめて仲間を背に庇うように、両腕を広げた。
配信カメラが、その姿を850万人の前に映し出している。
◇ ◇ ◇
同時刻。
38階より遥か下層、忘却領域からの帰路。
(……ん? 何だ、上の方が騒がしいな)
黒いパーカーの青年は、階段を上りながらふと足を止めた。
上層の魔素が乱れている。大群のモンスターが暴れている気配だ。しかもかなり大規模な。
(イレギュラーか。……面倒だな。別ルートで帰ろう)
最初はそう思った。
自分には関係ない。巻き込まれれば目立つ。目立てば面倒なことになる。
いつもの思考回路に従って、青年は迂回ルートに足を向けかけた。
だが、その瞬間。
上層から、微かな声が届いた。
悲鳴だ。
人間の、悲鳴。
それも、一人や二人ではない。複数の人間が、追い詰められている声。
(……)
青年の足が、止まった。
迂回すれば、安全に帰れる。
誰にも見られず、誰にも知られず、いつも通りの平穏な日常に戻れる。
そうすべきだ。自分は底辺のフリー探索者。関わる理由がない。
でも。
(困ったな……見捨てるわけにもいかないか)
ため息を一つ。
青年は、迂回ルートとは逆の方向――悲鳴が聞こえてくる上層に向けて、静かに歩き出した。
腰の日本刀に、そっと右手を添えながら。
(……手加減、上手くいくといいけど)




