第1話「平和な日常のための、手加減の極意」
ダンジョンの深層――『忘却領域』。
地上の人間たちは、その名前すら知らない者がほとんどだ。
なにしろここは、国が公式に認定しているダンジョン――国定ダンジョンの最深部から、さらに10層以上も下った先にある未踏の空間だ。まともな配信者はおろか、国家認定Sランクの探索者ですら足を踏み入れたことのない「地図にない階層」。空気には濃密な魔素が溶け込み、岩壁は不気味な蒼い光を帯びて脈動している。
通常の人間がここに立てば、その魔素濃度だけで肺が灼け、意識を10秒と保てない。
いわば、人類にとっての禁域だ。
――なのだが。
「今日も平和でいいな」
禁域の中心で、一人の青年がのんきにつぶやいた。
黒いパーカーにくたびれたカーゴパンツ。腰には鞘に収めた古びた日本刀を一振りだけ差している。装備と呼ぶにはあまりにもみすぼらしく、この深層の空気にまるで似つかわしくない出で立ちだった。
青年の名前は――まあ、誰に名乗るわけでもない。ここには自分以外の人間など一人もいないのだから。
(さて……今日の魔結晶は、ここらへんにゴロゴロ転がってるはずなんだけど)
目当ての物を見つけた青年は岩壁に生えた蒼白い結晶体を手慣れた動作でもぎ取り、腰のポーチに放り込む。
この魔結晶は、現代社会の電力供給からインフラ、さらには兵器開発の根幹にまで用いられる超高級エネルギー資源だ。上の階層――つまり国定ダンジョン内でも採掘はされているが、ここまで深い場所のものは純度が桁違いに高い。たった一つで、上層の上質品の数十個分に相当する。
もしこれを正規のルートで売却すれば、一粒で平均的な探索者の年収を軽く超える額になる。
もっとも、この青年がそんなことをするわけもない。正規ルートで売れば身元の照会が入る。身元が割れれば、なぜ無所属のフリーランス探索者がこんな深層の結晶を持っているのかと、面倒な詮索が始まる。
面倒は、嫌い。それが青年の心情だった。
(このくらい溜まれば、しばらくは闇ルートの買取屋に流せるか。あの爺さん、いつも値切ってくるけど……まあ身元を聞いてこないだけマシだな)
今の時代、ダンジョン探索は巨大なエンターテインメント産業だ。
ダンジョンが世界に出現してから、もう数十年が経つ。初期の混乱期はとうに終わり、人類はダンジョンとの共存を選んだ。いまやダンジョン資源は社会インフラの一部であり、トップ探索者たちは超大手企業にスポンサードされ、最新鋭の装備を纏い、数百万人が見守る生配信の中でモンスターを討伐するーー現代の花形職業だ。
D-Tube、世界最大のダンジョン探索特化型配信プラットフォーム。あの画面の向こう側で華々しく活躍するランカー探索者たちは、もはやスポーツ選手やアイドルと同格の存在として世間に認知されている。
その華やかな世界の、対極の場所。
光も届かない深層の奥底で、青年はたった一人、黙々と結晶を拾っていた。
(……さて、そろそろ帰るか)
ポーチの中身がそれなりに溜まったことを確認し、青年は立ち上がる。
と、その時だった。
――ズ、ズズズズン。
足元の大地が大きくうねり、岩壁の蒼い光が不穏に明滅した。
魔素の流れが急激に乱れる。この感覚は、覚えがある。
大型の魔獣の接近だ。
(出たか)
青年の目が、わずかに細まった。
蒼い霧の向こうから、地鳴りと共にそれは姿を現した。
全長はおよそ15メートル。漆黒の甲殻に覆われた六本脚の巨蟲。頭部には人間の頭蓋骨に酷似した白い仮面がへばりつき、そこに空いた4対の眼窩からは、灼熱の赤い光が零れ出している。
深層甲蟲――国の公式モンスター図鑑には載っていない個体だ。載っていないのは当然だろう。公式の最深層にこんなものは棲息していない。ここに潜れる人間がそもそもいないのだから、データなど存在しようがない。
仮にこの魔獣を公式のランク基準で測定したなら、Aランク――あるいはそれ以上の脅威度として認定されるだろう。一般的なBランクパーティが10組束になっても勝てるかどうか怪しい。Sランクの探索者でさえ、単独での討伐は命を賭けた博打になる。
つまり、現行の人類の戦力基準で測れば、この一体は「災害」に等しい。
それだけの脅威が、いま青年の目の前で、大顎をガチガチと鳴らしている。
(……Aランク相当か。まあ、ここじゃよくある奴だな)
青年は、欠伸を噛み殺した。
腰の日本刀に、右手をそっと添える。
古びた柄巻き。手入れはされているが、どこからどう見ても骨董品めいた一振りだ。企業所属のトップ探索者たちが装備している、魔導合金製の最新鋭武器とは比べるべくもない。
しかし青年にとって、これは師匠から受け継いだ唯一の形見であり、最も手に馴染む「道具」だった。
深層甲蟲が咆哮を上げ、突進してくる。
15メートルの巨体が岩壁を砕きながら迫り来るその光景は、さながら暴走する装甲列車だ。まともに受ければ、人間の身体など原形を留めない。
青年は、静かに呼吸を整えた。
(力を抑えて。基本の型だけで。……師匠に散々言われたからな、『お前は才能がないから謙虚に生きろ』って)
その教えを、青年は律儀に守っている。
才能がないのだから、派手な技は使えない。使わない。
ただ基本の型を――ただの『素振り』を、ひたすら繰り返すだけだ。
深層甲蟲の巨大な大顎が、青年の頭上に迫った。
その瞬間。
スッ――。
日本刀が鞘から抜かれた。
いや、「抜かれた」という表現は正確ではないかもしれない。
あまりにも自然で、あまりにも静かな動作だった。風すら感じさせない。音もない。殺気もない。まるで庭先で竹刀を振るような、何の気負いもない一振り。
ただそれだけの動作が。
――15メートルの巨蟲を、甲殻ごと縦に真っ二つにした。
青年が通過した軌跡に沿って、蒼い魔素が渦を巻いて散逸する。
巨蟲の左右の両断面がゆっくりと左右に分かれ、凄まじい轟音と共に地面に崩壊した。
衝撃波で周囲の岩壁にヒビが走り、天井から砂礫がパラパラと降り注ぐ。
青年は日本刀を鞘に納め、ぱんぱんと肩の砂を払った。
(……うーん、ちょっと力入りすぎたな。もう少し手加減できたはずなんだけど)
ため息をつく。
15メートルの災害級モンスターを、たった一振りの居合いで両断しておいて。
彼が反省しているのは、「倒し損ねた」ことではなく「力を入れすぎた」ことだ。
もっと抑えられたはずだ。もっと静かに、もっと痕跡を残さずに処理できたはずだ。
万が一、この階層のさらに上で誰かが振動を感知したら面倒だ。こんな深層でAランク級が一撃で消された振動データなんて記録されたら、何が起こるか分かったものではない。最悪の場合、国の調査団が派遣されかねない。
そうなったら、この静かな「稼ぎ場」を失ってしまう。
(手加減の精度、まだまだだな。……師匠なら、この程度の相手は本当に素振りの延長で、微振動すら残さず消せたんだろうけど)
あの人は、本物の化け物だった。
幼い頃、ダンジョンで迷子になった自分を拾い上げてくれた、白髪の老人。第一世代――ダンジョンが世界に出現した最初期に、命を懸けて未開の深層を切り拓いた伝説の探索者。
その師匠の下で、地獄のような修行を10年以上強いられた。
毎日毎日、「基礎」だけを叩き込まれ続けた。素振り、型、呼吸法、体捌き。来る日も来る日も、それだけだ。派手な魔法や上級スキルは一切教えてもらえなかった。
理由は、「お前は才能がないから」。
才能がない人間に高等技術を教えても無駄だから、せめて基礎だけは人並み以上にしておけ――師匠はそう言った。
だから、愚直に基礎だけを極めた。
その結果が、これだ。
Aランクの災害級モンスターを、「ちょっと力を入れすぎた素振り」で両断する程度の力。
ステータスは全項目が測定器のレンジを超過し、『測定不能』と表示される。公式のランク査定を受ければ、おそらく人類史上初の数値が記録されるだろう。
そんなものが記録されたら、どうなるか。
国家機関、大手ギルド、軍事企業、果ては海外の政府機関まで――あらゆる組織が自分を取り込みにかかる。自由は奪われ、兵器として扱われ、政治の駒にされるのは目に見えている。
だから、隠す。
ステータスの測定は徹底的に回避し、万が一の場合に備えて師匠から教わった偽装秘術でFランク相当の数値に書き換えておく。企業には所属しない。配信には一切関わらない。誰ともパーティを組まず、ただ一人で深層に潜り、結晶を拾い、闇ルートで換金し、安アパートで質素に暮らす。
それが、彼の「平和な日常」だ。
(よし……そろそろ地上に戻るか。帰りにスーパーで半額弁当でも買って帰ろう)
深層甲蟲の残骸から魔結晶を回収し、ポーチに押し込む。巨蟲の死骸はそのまま放置だ。こんな深層まで来る物好きはいない。数日もすればダンジョンの自浄作用で消える。
青年は踵を返し、帰路につく。
その足取りは、買い物帰りのサラリーマンと何ら変わりがなかった。
深層の闇の中、蒼い光に照らされた背中が遠ざかっていく。
腰に差した一振りの古い日本刀だけが、かすかに――本当にかすかに、蒼い残光を纏っていた。
世界最強の探索者は、今日も誰にも知られることなく、静かに日常へと戻っていく。
半額弁当を、買いに。




