ミントの後味
杏子は、足音を立てないようにそっと事務所に入った。
タイムカードを押し、静かに掃除を終えたところで、茅野に呼び止められる。
「牧野さん。お客さんに渡す案内が、パソコンのここのフォルダーに入ってますんで。プリントアウトして、ホチキス止めしてってください。部数は、100です」
パソコンのモニターを指しながら、茅野は事務的に言った。
「はい」
短く返事をし、杏子はパソコンの前に座る。
画面を開き、フォルダーを探し当てる。
データを開き、プリントボタンを押すと、カタカタとプリンターが音を立てはじめた。
プリンターの前にしゃがみ、吐き出される紙を拾い上げる。
指先が少し乾燥していて、めくりづらい。
でも、そんなことは気にしない。
一枚ずつ丁寧に揃え、ホチキスでカチンと留めていく。
カチン。カチン。カチン。
無心で作業を続けると、周囲の音も、自分の呼吸さえも遠くに感じた。
紙の束がようやく積み上がったころ、杏子はそれを両腕に抱え、茅野のデスクへ向かった。
「できました」
控えめに声をかけると、茅野はちらりとだけ視線を上げた。
「そこ置いといてください」
それだけ。
杏子はうなずき、紙の束をそっとデスクの端に置く。
何も言われないことに、ほっとするような、少し寂しいような。
でも、これが今の自分の立場だと、どこかで納得していた。
静かに背を向け、自分の席に戻る。
床を踏む靴音も、なるべく小さく。
(誰にも迷惑をかけず、誰にも期待されず――
それでも、今日やるべきことをちゃんと終えた)
杏子は、そう心の中で小さくつぶやいた。
そしてまた、次の指示を待つために、静かに座りなおした。
杏子は、背を向け、自分の席へと静かに戻った。
プリント作業を終えた今、次にやるべきことはまだ指示されていない。
デスクに座り、手を膝の上に重ねたまま、ふと窓の外に目をやる。
グレーがかった曇り空。
遠くを走る車。
風に揺れる、街路樹の枝。
街の景色はどこか白けた色合いで、春でも冬でもないような空気をまとっていた。
杏子は、ポケットから小さなケースを取り出した。
カラカラと音を立てながら、指先でフリスクを一粒つまみ出す。
口に放り込み、無意識にボリボリと噛み砕いた。
ひんやりとしたミントの刺激が、舌に広がる。
(臭くはないと思うけど……)
何のきっかけもないのに、そんなことがふと気になった。
他人の口臭にはすぐ気づいてしまう杏子だった。
だからこそ、自分のにおいにも人一倍敏感だった。
別に誰かと話す予定があるわけじゃない。
それでも、こうして気にせずにはいられない。
小さく息を吐いてみる。
ミントの香りがふわりと鼻に抜けた。
大丈夫、大丈夫――
そう自分に言い聞かせるように、杏子はもう一粒、フリスクを口に入れた。
窓の外では、いつの間にか雲が少しだけ流れ始めていた。
杏子は、もう一粒フリスクを口に放り込み、ひんやりとした刺激を味わっていた。
そのときだった。
「――ちょっと、牧野さん!」
不意に茅野の鋭い声が飛んできた。
杏子はびくりと肩を跳ねさせ、あわてて振り向く。
「仕事中に、フリスクをボリボリ噛み砕くなんて、ありえないです!」
えっ?
一瞬、何を怒られているのか理解できなかった。
フリスクを食べただけ。
誰かとおしゃべりしていたわけでもないし、手を止めていたわけでもない。
「私が今まで働いてきた職場で、そんなことしてる人、いませんでした!」
茅野はきっぱりと、断言するように言った。
腕を組み、顔をしかめるその態度に、杏子はぐっと言葉を飲み込む。
(……どんな職場だよ)
心の中でだけ、ぼそりとつぶやいた。
口に出したところで、どうにもならないことくらい、わかっている。
「すみません」
杏子は、静かに頭を下げた。
茅野はそれ以上何も言わず、踵を返してデスクへ戻っていった。
静かな室内に、わずかな空気のざわめきだけが残る。
杏子はそっとため息をついた。
ミントの冷たさが、まだ口の中に残っている。
さっきまで爽やかだったはずの味が、今はただ、苦く感じた。
(ちゃんとやってるつもりなのに)
遅刻もしていない。掃除も手を抜かなかった。プリントだって、指示通りに作り上げた。
それでも、たったフリスク食べただけで、叱られる。
(ここでは、呼吸することさえ気を遣わなきゃいけないんだな)
そう思った瞬間、胸の奥に、じわりと小さなざらつきが広がった。
誰に見られるでもないのに、杏子は背筋を伸ばし、両手をきちんと膝の上に置いた。
何かひとつでも間違えたら、またすぐに指摘される。
そんな空気に押しつぶされそうになりながらも、黙って、自分の場所に座り続けた。
窓の外では、風が強くなり、街路樹の細い枝が右へ左へと大きく揺れていた。
どこか、自分自身が、あの枝のように折れそうになりながら耐えている気がした。
些細なことが許されない空気の中で、今日もまた自分を小さくたたんで座っている。
誰にも見えないところで、確かに心がすり減っているのに――それでも、何も起こらなかったように時間だけが進んでいく。




