コーヒーの向こうに揺れるもの
翔と悟を送り出し、ドアを閉めたあと、しばらく玄関に立ち尽くしてしまった。
静かになった家の中に、自分だけが取り残されたような気がして。
深呼吸をひとつして、洗濯機を回し、黙々と掃除に取りかかる。
無心で手を動かしていると、頭の中も少しずつ整理されていくようだった。
それでも、心の隅には、どこか拭いきれない疲れのようなものがあった。
銀行に行かなきゃ――
そう思って、重い腰を上げる。
外に出ると、春の風が頬を撫でた。
空は高く、柔らかい日差しが街を包んでいる。
用事を終えた帰り道、ふと、足が止まった。
小さなカフェの前。
ガラス越しに見える温かな空間に、心が引き寄せられる。
――たまには、いいよね。
そう自分に言い聞かせて、ドアを押す。
席につき、運ばれてきたランチプレート。
湯気の立つスープと、焼きたてのパンの匂いに、知らず知らず涙がにじみそうになった。
なんてことない時間。だけど、こんなふうに、自分を少し甘やかすことも、きっと大事なんだろうな。
窓の外をぼんやり眺めながら、ゆっくりとフォークを手に取った。
コーヒーを飲みながら、ゆっくりと時間をかけて味わう。
口に広がる苦味と香りに、少しだけ気持ちがほぐれる。
けれど、心の奥底には、ぽつりと重たい問いが落ちた。
――社会復帰は、まだ早かったのかな。
そう思う自分が、どこかにいた。
新しい環境に飛び込んで、まだ何もつかめていない不安。
うまくやらなきゃ、周りに迷惑をかけないようにしなきゃ。
そんな思いばかりが先走って、気持ちがついていかない。
本当に、これでよかったんだろうか。
もう少し、ゆっくりでもよかったんじゃないか。
そんなふうに考え始めると、また胸の奥がざわざわしてくる。
カップをそっとテーブルに置いて、ため息をひとつ。
カフェの窓の向こうでは、行き交う人たちが、それぞれの今日を歩いていた。
誰も気づかない、小さな自分の迷い。
でも、それでもいいのかもしれない――そんな気も、少しだけした。
まだ早かったのかもしれない。
でも、何もしなければ、きっともっと後悔していただろう。
自分で選んだ道だ。
怖かったけど、一歩を踏み出した。
それだけでも、少しは胸を張ってもいいのかもしれない。
焦らなくてもいい。
完璧にやろうとしなくてもいい。
誰かと比べなくてもいい。
そんなふうに、頭ではわかっているのに、心が追いつかないときもある。
それでも、こうして、ひとつひとつ積み重ねていくしかないんだろう。
窓の外の空を見上げると、雲がゆっくり流れていた。
立ち止まっても、迷っても、時間は変わらず流れていく。
なら、せめて自分も、自分のペースで歩いていこう。
温かいコーヒーを最後の一口まで飲み干し、カップを静かに置く。
小さな決意を胸に、私はそっと席を立った。
日常の合間にふと立ち止まり、揺れる気持ちに向き合うひととき。
静けさの中で、自分の輪郭が少しだけ確かになる。