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押印の位置と、ため息と

杏子は今日も、足音を立てないように階段を上がった。

ギシギシと鳴る古い階段にひやひやしながら、そっと足を運ぶ。

誰にも気づかれず自分の机にたどり着くと、ほっと息をついた。


掃除を終え、机に座ったところで、茅野が無造作に近づいてきた。

「今日は請求書、作っといてください。これ、毎月月初にやるやつなんで、覚えといてくださいね」


その言い方に、杏子は胸の奥がかすかにざらつくのを感じた。

(べつに怒られるようなこと、してないんだけどな……)


「はい」と小さく答えると、茅野は隣の棚からファイルを取り出した。

「このフォルダーに、注文書がまとめて入ってます。これ見ながら、請求書に入力していってください」


どさりと机に置かれたファイル。

(教えてくれるのはありがたいけど……なんか、突き放されたみたいな気分になる)


パソコンを立ち上げながら、杏子は小さくため息をついた。

前の仕事を辞めてから、パソコンなんてまともに触っていない。

指はぽちぽちとしか動かず、入力は遅々として進まない。


画面とファイルを交互に見比べながら、数字を一つずつ打ち込んでいく。

何十枚もある注文書。

終わりが見えない作業に、肩がじわじわと重たくなっていった。


――はぁー。


すぐそばから、ため息が聞こえた。

顔を上げると、茅野がこちらを見下ろしている。


「……いつまでしてるんですか」


棘のある言い方に、胸がきゅっと縮こまる。

「す、すみません……」


杏子は慌てて頭を下げ、またぽちぽちとキーボードに向かった。

(焦れば焦るほど、ミスしそうになる。

でも、早く終わらせなきゃ……)


小さな手元に、ぎゅっと力がこもった。


ぽちぽちと、ひたすら注文書を見ながら打ち込む。

何十枚もある入力作業に、手も目も疲れきって、時間ばかりが過ぎていった。


(ミスしないように……落ち着いて、落ち着いて)


茅野のため息を思い出しては、胸がちくりと痛む。

それでもどうにか、やっとの思いで全ての請求書を作り終えた。


ファイルを閉じ、大きく深呼吸。

次は、請求書に会社の押印作業だ。

デスクの端に置かれていた社印を手に取り、一枚一枚、押印していく。


――ポン。ポン。ポン。


手早く、でも丁寧に。


と、そのとき。


「ちょっと、ちょっと!」


茅野の声が飛んできた。

びくりとして顔を上げると、茅野が呆れた顔でこちらを見ている。


「牧野さん、押印もまともにできないんですか…」


「……?」


杏子は思わず手を止めた。

押すべきところにちゃんと押しているつもりだった。


「社印っていうのはね、この場所に、社名が少し隠れるくらいに、こうやって押すんですよ」


茅野はサンプルの一枚を取り上げ、じれったそうに押し方を実演してみせる。

なるほど、たしかに微妙に押す位置が違う――けど。


(いや、たしかにちょっとズレてるかもしれないけど……押す場所、大して変わらないじゃん)


杏子は心の中でつぶやいた。

でも、そんなことを言えるはずもなく、黙って小さくうなずく。


「すみません、次から気をつけます」

またも繰り返される、機械的な謝罪。


(社名がちょっと見えてるか、ちょっと隠れてるかなんて、誰が気にするのよ……)


ぐっと飲み込んだ言葉と一緒に、杏子は、ぎこちない手つきで、また押し直しを始めた。


押すたびに、無駄に緊張してしまう。

焦れば焦るほど、また失敗しそうで、背中がじっとりと汗ばむのがわかった。


押し直しを続けながら、杏子は必死に自分を落ち着かせようとしていた。

(ミスしないように。焦らないように。大丈夫、大丈夫……)


そんなとき。


ガチャ、と事務所のドアが開いた。

オーナーが入ってくる。

店長――橘小百合の夫であり、この花屋のオーナーだ。


一歩、二歩と近づいてきたオーナーは、茅野と目を合わせ、ふっと笑った。


「牧野さん、仕事に時間かかりすぎなんだって?」


ぼそりと、でもはっきり聞こえる声で続けた。


「ほんとに、時給泥棒じゃん」


瞬間、杏子の中で何かが音を立てて崩れた。


(……そんなこと、面と向かって言う?)


胸の奥がじんわりと痛む。

言葉を返すこともできず、ただうつむき、ぎゅっと社印を握りしめた。


押印作業を続けようとするけれど、手がかすかに震えて、思うように押せない。

視界がにじむのをごまかすように、杏子は無理にまばたきをした。


(わたし、そんなに迷惑かけてるのかな……)


ぐるぐると、否定的な言葉ばかりが頭の中を渦巻く。

押印された紙の上に、自分の存在まで小さく押しつぶされるような気がした。


それでも。


(でも、ここで泣いたり、投げ出したりしたら、本当にダメになっちゃう)


杏子は、深く息を吸った。

指先をぎゅっと握りしめ、もう一度、社印をしっかり持ち直す。


(せめて、今日の仕事だけは、最後までちゃんとやろう)


誰に認められなくてもいい。

自分だけは、自分のことを認めてあげたい――

そんな小さな誓いを胸に、杏子は一枚一枚、丁寧に押印を続けた。


トントン、と小さく音を立てながら、机に積まれる請求書。

無言の作業の中で、杏子はただひたむきに、前を向こうとしていた。

請求書を作って、押印して、ひとつずつ終わらせていく。

時間がかかったことも、押し方を直されたことも、たぶんよくあることで。

それでも、胸の奥には何かが静かに残る日だった。

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