まだ、たったの二日目
今日の勤務は午後から。
午前中に洗濯と掃除を済ませ、家を出た。
階段をそっと上がり、足音を立てないように事務所へ。
……セーフ。誰にも何も言われなかった。
「お疲れさまです」
素っ気ない声が返ってくる。
「掃除、やっちゃってくださいね」
やっぱり今日も冷たい。
トイレと、従業員出入り口の掃除。
ざっと見渡すだけでも、かなり汚れている。
……これ、本当に毎日掃除してるのかな。
私は週3日、残りは茅野さんの担当。やっているのか、いないのか……そんなことを考えてしまう自分が少し嫌だった。
掃除を終えると、店長が指示を出してきた。
きっちりとした身なりの女性だけど、言葉は棘がある。
「救急箱がないから、中身と価格を調べて」
「それと、鍵の在庫と番号を一覧にまとめて」
「あと、制服の在庫もリストにして」
次々と指示が飛ぶ。
はい、と答えながらも、胸の奥はざわついていた。
……救急箱なんて、ネットでもお店でも、適当に買えばいいのに。
安いのを見つけないといけないってこと?
そこまで求められてるのかな……。
鍵の在庫だって、今までどうしてたんだろう。
制服も。今さら在庫数を数えるって、管理してなかったの?
心の中で、そんな小さな疑問が渦を巻く。
だけど、「仕方ないか」と飲み込んだ。
私は、まだここに来たばかりだ。
パソコンはある。
けれど、誰がどう使っているかもわからないし、使っていいともはっきり言われていない。
それでも、言われた以上はやるしかない。
制服の在庫数を確認して、パソコンに入力し、ネットで救急箱の内容と価格を調べる。
一つ一つ、慎重に、間違えないように。
気づけば、作業に1時間近くかかっていた。
そのときだった。
「まだ?」
店長の、冷たく鋭い声が飛んできた。
ビクッと肩が跳ねる。
「もうすぐです」
慌てて答えると、すぐにきつい一言が重なる。
「こんなの、すぐに調べてまとめてよ!」
「はい……」
小さく答えた声は、自分でも驚くほどかすれていた。
ぐっと唇を噛んで、パソコンに視線を戻す。
言い返すことなんてできない。
ここで何かを言ったら、余計に立場が悪くなるのは、わかっていたから。
……私、何しに来たんだろう。
胸の奥に、じわじわと苦いものが広がった。
やっとの思いで、救急箱の内容と価格をまとめ、鍵と制服の在庫リストも作った。
プリントアウトして、店舗にいる店長のところへ報告に向かう。
「できましたので、確認お願いします」
声をかけると、店長は書類に目もくれず、冷たく言った。
「やり取りは、メールで送って。わたし、忙しいの」
一瞬、言葉を失った。
……こんなに近くにいるのに。
ほんの数歩の距離なのに。
手渡しですぐに済むことなのに。
「はい……」
小さな声で答えて、事務所に戻る。
パソコンに向かい、作った資料を添付して、店長宛にメールを送った。
画面をにらみつける自分に、なんだか情けなさが込み上げる。
そんなときだった。
背後から声がする。
「牧野さんって、要領悪いよね」
茅野さんのその言葉は、何気ない雑談のような顔をして、私の胸の奥にぐさりと突き刺さった。
「……すみません」
そう答えるしかなかった。
本当は、私だって必死だった。
雑用ばかりで、何を優先していいのかもわからないまま、手探りで動いている。
でも、そんなこと、言い訳にしか聞こえないのだろう。
画面に向かいながら、じんわり視界が滲む。
……泣くのは、違う。
ぐっと堪えて、指先だけを動かす。
送ったメールは、未読のまま。
店長は忙しそうに、誰かと電話をしていた。
ああ、もう、今日は何も聞かれないまま終わるんだろうな。
そんな予感がした。
「……お先に失礼します」
声をかけると、店長も茅野さんも、振り返りもしなかった。
誰にも何も言われず、私は事務所を出た。
夕方の冷たい空気に触れた瞬間、肩の力がふっと抜ける。
通りを歩きながら、ため息をついた。
――何も悪いことはしてないのに、なんでこんなに苦しいんだろう。
そんな思いが、胸の中でぐるぐると渦を巻く。
けど。
でも。
負けたくない。
こんなことで、投げ出したくない。
まだ、2日目だ。
まだ、始まったばかり。
杏子は自分に言い聞かせるように、空を見上げた。
夕焼け空は、どこまでも静かで優しかった。
杏子は、そっと歩き出した。
誰かの基準で測られるのって、こんなにも苦しいんだと、杏子は改めて感じた二日目。
でも、彼女の中に芽生えた「負けたくない」という小さな灯が、これからの彼女を少しずつ照らしていきます。




