ただいま、のある夜
翔を寝かしつけた杏子は、そっとリビングへ戻った。
悟はちょうどお風呂から上がったところで、髪をタオルで拭きながら杏子に声をかけた。
「ちょっと飲むか」
杏子はうなずき、二人で缶ビールを開けた。
カチンと軽く缶を合わせ、ソファに並んで座る。
悟は何も急かさず、ただ隣にいてくれた。
その沈黙が、杏子には心地よかった。
缶をそっと置き、杏子は小さな声で切り出した。
「今日ね、久しぶりに仕事だったの」
悟は「うん」とだけ言い、続きを促すでもなく、ただ杏子を見守る。
「5年もブランクがあるからさ……ちゃんとできるか、不安で」
ぽつり、ぽつりとこぼれる言葉。
「行ったら、年下の先輩がいて……ちょっと嫌味っぽいんだよね」
ビールを見つめながら、杏子は続けた。
「まだ初日なのに、できない人みたいに扱われた気がして……」
「何もかも置いてきぼりになったみたいで……情けなくなった」
悟は何も言わず、ただ黙って聞いていた。
時折うなずきながら、遮らず、責めず、そばに寄り添うように。
しばらくして、悟が静かに口を開いた。
「……まあ、初日だしな」
「そんなに焦らなくていいよ」
杏子は視線を落としたまま、そっと頷いた。
「仕事って、いいことばっかじゃない。
嫌なやつもいるし、理不尽なことだって山ほどある」
悟は小さく笑って、ビールを一口飲んだ。
「俺なんか、最初の職場、嫌なやつしかいなかったぞ」
冗談めかして言うその声に、杏子は少しだけ肩の力を抜いた。
でも、悟の声にはちゃんとあたたかさがあった。
無理に明るくしようとか、励まそうとか、そんな押しつけがましさは微塵もない。
ただ、そこにいてくれるだけで、杏子の胸にじわじわと沁みていく。
「もし、どうしても合わないなって思ったら……無理しなくていい」
「辞めたっていいんだ」
悟はそう言うと、そっと杏子の手に自分の手を重ねた。
その手のひらの温かさに、杏子の視界がふわりと滲んだ。
杏子は、そっと悟の手を握り返した。
手のひらから伝わるぬくもりに、心がじんわりほどけていく。
缶ビールをちびちび飲みながら、しばらくふたりで静かに過ごした。
テレビの音が遠くに流れ、リビングはゆったりとした空気に包まれている。
ふと、悟が思い出したように言った。
「そういえばさ」
「ん?」
「お局の関根さん、結婚するんだって」
杏子は目をまんまるにして、思わず声を上げた。
「えーーっ!!ほんとに!?」
悟はにやにやしながら頷いた。
「取引先の営業さんと。なんか、すごいシャイな人らしいよ」
「うわぁ〜……あの関根さんが……」
杏子は思わず吹き出した。
「部内恋愛絶対禁止とか言ってたのに、自分は外部でしっかり育んでたんだね」
「な?」
悟も苦笑いしながら、缶をコツンと軽くテーブルに置く。
「俺たちが付き合ってたときなんか、ちょっと一緒にいるだけで目光らせてたのに」
杏子は思い出して、さらに笑った。
「うん、あったあった。休憩室でちょっと話してただけなのに、
『あなたたち、なんかあるわね』って……」
悟は頭をかきながら、苦笑する。
「そんなニヤニヤしてたかなぁ、俺」
「してたよ」
杏子は笑いながら言った。
「もうね、顔に『好きです』って書いてあった」
「マジで!?」
悟が素で焦る。
「うん。あれ見て気づかない人いないってレベル」
悟は耳まで赤くなりながら、なぜか偉そうに言った。
「いや〜、しょうがないよな。好きだったんだから」
杏子は、ぷっと笑った。
「今も好きです、って書いてるよ?」
悟はちょっと照れくさそうに笑って、ビールをひと口飲んだ。
たわいもない夜。
でも、こんなふうに笑い合える時間が、なによりもあたたかかった。
久しぶりの仕事復帰に、不安と戸惑い。
でも、家に帰れば、変わらないあたたかさが待っていて――
たわいもない会話のなかで、ふたりが重ねてきた時間や、見えない想いがじんわりと滲んでいく夜。
「おかえり」も「大丈夫」も言葉にしなくても、伝わるものがある。
そんな夫婦の、静かで愛おしいひとときです。




