春の光と、少しの勇気
翌日は仕事がなかったので、合間にふと思い立って、相田にLINEでメッセージを送ってみた。
「明日、バザーの手作り品の話をしませんか?もしよかったら、ランチしながら」
少しドキドキしながら返信を待っていると、しばらくして、
「OK!」のスタンプと一緒に返事が届いた。
「どこにします?」
迷った末に、提案してみた。
「七尾公園の近くのカフェはどうですか?そこのランチプレート、野菜も多くて美味しいですよ。」
「はい、そこで。楽しみです。」
やり取りの最後に添えられた小さな笑顔のスタンプを見て、胸の中がふわっとあたたかくなった。
翌日。
七尾公園の近くにある小さなカフェ。
白い外壁に、手書きの黒板メニューが立てかけられている。
扉を開けると、ふわっとコーヒーの香りが漂った。
「こっち、こっち」
奥の窓際に座っていた相田が、手を振った。
私も小さく手を振り返して、向かいに座る。
ランチプレートは、色とりどりのサラダに、雑穀入りのパン、スープまでついていて、見るからに体にやさしそうだった。
「おいしそうですね」
「ね。野菜たっぷりなのが、うれしい」
そんなふうに笑い合いながら、バザーの話も、自然と始まった。
「手作り品、なに作るか決めました?」
「まだ迷ってて…。相田さんは?」
「私も。でも、せっかくだから、簡単で喜ばれそうなものがいいなって」
穏やかな会話に、少し緊張していた心が、ふわりとほどけていくのを感じた。
「手作り品、ブレスレットにしませんか?」
「いいですね!シンプルだし、子どもたちも喜びそう」
すぐに意見がまとまったことが、なんだかうれしかった。
ブレスレットなら、材料をそろえて一緒に作れば楽しいかもしれない。
そんな光景を思い浮かべながら、ふたりでにこにこと笑い合った。
ランチプレートを食べ終わり、コーヒーを飲みながら、自然と話題はバザーのことから、互いの職場の話に移っていった。
「私も、優斗が幼稚園に入ったのを機に、働きだしたんです」
そう言って、相田は、カップを両手で包むように持った。
「長年働いている人が多くて、なんていうか、職場のルール?覚えるのが大変で…。挨拶の仕方とか、頼み方とか、えっ?って思うような決まりごともあって」
「わかる!」
杏子は思わず声を上げた。
「うちもそう。フリスク食べただけで怒られたりするんだよ」
「えっ、フリスクで?!」
「そう。たくさん食べてたわけじゃないのにね。今までそんなことで怒られたことなかったから、びっくりして…」
「それはびっくりする」
相田が目を丸くして、吹き出した。
お互いの「えっ?」と思うような職場ルールをいくつか話し合っているうちに、だんだん笑いが止まらなくなってきた。
こんなふうに、誰かと同じ目線で笑えるのは、久しぶりだった。
ふと、相田が言った。
「でも、頑張ってる自分もちょっと、好きなんですよね」
その言葉に、杏子の胸がじんわりとあたたかくなった。
「うん。私も」
杏子は笑ってうなずいた。
「うまくできないことも多いけど、でも、少しずつ、自分で選んで進んでるって思いたい」
「ですね」
カップを置いて、ふたりは目を合わせた。
春の光が差し込む窓辺で、ふたりの笑顔が静かに重なった。
しばらくして、杏子がふと思い出したように口を開いた。
「でも、私はまだ笑えるところまでいってないかも」
「え?」
相田さんが首をかしげる。
杏子はカップをそっと置いて、少しだけ苦笑いした。
「この前ね、階段を上がっただけで怒られたんだ」
「階段?」
「うん。足音がうるさいって。ヒールも履いてないのに」
話しながら、自分でもなんだか情けなくなった。
「そんな…」
相田は小さく目を見開き、困ったように笑った。
「でも、それ、杏子さんが悪いわけじゃないですよ」
「そうかな」
「そうですって」
相田は、テーブルの上で手を小さくぱたぱた動かしながら、言葉を重ねた。
「最初は、みんな慣れてる人ばかりだから、比べたらダメですよ。私も、まだ“お客様第一の挨拶”ってやつ、声が小さいって言われ続けてます」
「お客様第一の挨拶…」
「しかも声を出すタイミングまで細かく決まってるんですよ。出入り口に差しかかった瞬間、“いらっしゃいませ!”って」
「タイミングまで…」
思わずふたりで笑った。
ちょっとだけ、胸にたまっていた重いものが、ふっと和らいだ気がした。
まだ笑えるほど強くはないけれど。
それでも、こうして誰かに聞いてもらえるだけで、少し呼吸がしやすくなった。
窓の外では、柔らかい風が、桜の花びらをひらりと揺らしていた。
時計を見ると、そろそろお迎えの時間になっていた。
「そろそろ、行きましょうか」
相田が立ち上がり、杏子もゆっくりと席を立った。
レジでお会計を済ませ、カフェのドアを押して外に出ると、春の空気がふわっと肌に触れた。
暖かくなったとはいえ、風の中にはまだ少し、冬の名残が混じっている。
「今日は、ありがとう」
杏子が言うと、相田はにっこり笑った。
「こちらこそ。ブレスレット、楽しみですね」
「うん。材料、また連絡するね」
「待ってます!」
七尾公園のそばの道を、ふたり並んで少しだけ歩いた。
公園では、小さな子どもたちが、ボールを追いかけたり、ベンチでお弁当を広げたりしている。
その無邪気な光景に、杏子の心も、ふわりとほぐれる。
「じゃあ、またね」
「うん、またね」
手を軽く振り合って、ふたりはそれぞれの方向へ歩き出した。
杏子は少しだけ空を見上げた。
まだ不安もあるし、笑えないこともたくさんあるけど――
それでも、こうして誰かとつながれることが、ほんの少しだけ、自分を前に押してくれる気がした。
春の風に吹かれながら、杏子は小さく深呼吸した。
誰かと気持ちを共有できるだけで、少しだけ前を向けることがある。
まだ笑えなくても、あたたかい光が心に差し込むような、そんな時間でした。




