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小さな花束を抱えて ― 不安も、悔しさも、未来への種にして ―  作者: ひまわり


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10/16

パンとただいまの夕暮れ

翔を迎えに行くため、自転車をこいでいると、

杏子の胸の中に、モヤモヤが広がっていった。


——私、この職場に合ってないのかな。


そんな思いが、ふいに浮かんでくる。

だって、ただフリスクを食べただけで怒られるなんて。

別にふざけていたわけでも、サボっていたわけでもないのに。


ペダルを踏む足が、少しだけ重くなる。

前を向いていても、心の中では、ぐるぐると同じ場所を回っていた。


風が冷たく頬をかすめていく。

でも、それ以上に、心の中の空しさの方が冷たかった。


信号待ちで、自転車を止める。

ハンドルに手を添えたまま、杏子は空を見上げた。


——翔に、こんな姿見せたくないな。


ふと、そんな考えが胸をよぎった。

しょんぼりして迎えに行ったら、きっと翔はすぐに気づく。

「おかあさん、どうしたの?」って、心配そうに首をかしげるだろう。


それだけで、また泣きたくなるくらい、心があたたかくなった。


……だいじょうぶ。

翔が待ってる。それだけで、じゅうぶんだ。


青に変わった信号に背中を押されるように、杏子はペダルを踏み出した。

もう一度、ちゃんと前を向いて。


園の前に着くと、翔が門のところで待っていた。

杏子の姿を見つけるなり、翔はぷいっと横を向いて、腕を組んだ。


「……おそい!」


つんとふくれた頬に、思わず笑ってしまいそうになる。

ほんの数分の違いなのに、翔にとっては待ちきれなかったらしい。


「ごめんごめん」

杏子は自転車を止め、急いで駆け寄った。


翔はまだ怒ったふりをしていたけれど、

杏子がしゃがんで目線を合わせると、すぐに顔がほころぶ。


「さあ、帰ろっか」


翔の小さな手をぎゅっと握って、杏子は微笑んだ。

さっきまでのモヤモヤは、もう、どこかへ消えていた。


翔を自転車の後ろに乗せて、杏子はペダルをこぎ出した。

翔は、ヘルメットをかぶったまま、うれしそうに足をぶらぶらさせている。


「おかあさん、きょう、ぼくね——」

翔が、後ろから声を弾ませた。


「ん?なあに?」


「ねんどで、ピザつくったんだよ!すっごいおっきいやつ!」


「わぁ、いいなあ。どんなピザ?」


「チーズのピザ!あとね、ハムも、のせた!」

翔は得意げに話しながら、ぴょんぴょんと背中でリズムをとる。


杏子は思わず笑った。

こんなふうに、翔が話してくれる時間が、何よりもあたたかかった。


「翔のピザ、たべたかったなあ」

杏子がそう言うと、翔はちょっと照れくさそうに笑った。


「こんど、ほんとのピザ、つくってあげる!」


「ええっ、楽しみにしてる!」


夕暮れの風を切りながら、

杏子は、もう一度強く、ペダルを踏みこんだ。


翔の声も、笑顔も、背中から伝わってくる。

——大丈夫。きっと、大丈夫。


そう思えた。


家に着くと、翔は勢いよく靴を脱ぎ、リビングへ駆けていった。

「ピザつくるー!」と、まださっきの話の続きを引きずっている。


「また別の日にしようか…」

杏子は笑いながら、買い物袋をキッチンに運んだ。


でも翔は諦めない。

小さな手でエプロンを引っ張って、上目遣いで覗き込んでくる。


「じゃあさ、ちっちゃいパンでも、いっしょに作ろ?」


「パン…?」


「うん、コネコネして、まるめるやつ!」


ピザじゃないけど、パンなら、冷蔵庫にあるもので何とかできそうだ。

杏子はふっと笑って、エプロンを取って翔に渡した。


「じゃあ、特別だよ。おかあさんと、パン職人さん、やろっか」


翔は大喜びでエプロンを頭からかぶり、準備万端のポーズを取った。


ふたりで手を洗って、小麦粉をボウルに入れる。

翔が両手をぐしゃぐしゃにしながら、楽しそうに生地をこねる姿を見ていると、

仕事でつらかった気持ちなんて、すうっと溶けていくようだった。


「ほら、みて!ふわふわ〜!」

翔が得意げに丸めた小さな生地を差し出す。


杏子は、心からの笑顔でうなずいた。


「ほんとだ、すごいね。ピザもパンも、翔にまかせたら最強だね!」


オーブンからいい匂いが漂いはじめるころ、

翔はソファでころんと横になり、眠たそうにまばたきをしていた。


焼きたての、少しいびつなパンをふたりで分け合って食べる夜。

たぶん、こんな日が、いちばん大事なんだろうな。


杏子はそう思いながら、そっと翔の髪をなでた。


焼きあがったパンは、小さくて、まるまっていて、見た目はちょっといびつだった。

でも、ほんのり甘くて、ふわふわで、オーブンを開けたとたん、幸せな香りが広がった。


「わあ〜!」

翔が目をキラキラさせながら、両手をバタバタさせる。


「おかあさん、たべよ!たべよ!」

「ちょっと待って、熱いからね、やけどしないようにね」


杏子はオーブンミトンをはめて、慎重に天板を持ち上げた。

翔はぴょんぴょん跳ねるみたいに、そばで見守っている。


テーブルに並べたパンを見て、翔はうれしそうに手を合わせた。


「いただきます!」


ふたくち、みくち。

ほかほかのパンをほおばって、翔はすぐに頬をふくらませた。


「おいしい〜!!」


その顔を見ただけで、杏子も胸がじんわり温かくなる。

でも、次の瞬間、翔はパンをもうひとつ手に取ろうとして、ふっと動きを止めた。


「……あっ」


「あれ?どうしたの?」


翔は、ちょっと眉をひそめながら、考え込んでいる。

そして、きゅっとパンを胸にかかえると、こう言った。


「パパのぶん、のこしておかないと!」


その一言に、杏子は思わず目を細めた。

翔の中に、ちゃんと「待ってる人」がいるんだなと思った。


「そうだね。パパ、あとでおなかすかせて帰ってくるもんね」


「うん!これと、これ、パパのね!」


小さな手で、ふたつのパンを取り分ける翔。

そのまじめな顔がかわいくて、杏子は胸がきゅんとした。


「じゃあ、おかあさんも、もうこれでおしまいにするね」


「ぜったい食べたらだめだよ!パパのだもん!」


翔が真剣な顔で釘を刺してくる。

杏子は笑いながら、両手をあげた。


「はーい、さわりません!」


ふたりで、パパの分のパンをそっとお皿に移す。

夕暮れがゆっくり夜に変わるなか、小さな食卓に、あたたかい灯りがともっていた。


仕事でのつまずきや迷いの中にあっても、子どもの存在がそっと背中を押してくれる。家庭の静かな時間が、揺れた気持ちを少しずつ整えていく、そんな一日。

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