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杏子、初出勤

木製の階段を踏みしめるたび、ぎしぎしと小さな音が鳴った。

杏子は、手すりをそっと握りながら二階へと上がる。

店の奥、観葉植物の隙間に隠れるように設置されたこの階段は、正直、少し心もとない。

上りきった先にあるドアを、おそるおそるノックした。


「……どうぞ」


中から声がした。

思ったより低い、抑揚のない声だった。

杏子は深呼吸してドアを開ける。


「今日からお世話になります、牧野杏子です」


部屋の中にはひとりだけ。

デスクに向かってパソコンを叩いていた若い女性が、ちらりと顔を上げた。

短く髪を切り揃えた、すっきりとした顔立ち。杏子よりもずっと若く見える。


「ああ、新しい人ね。茅野です」


それだけ言うと、茅野はすぐに視線をモニターに戻した。

愛想笑いも、続く言葉もない。

少しだけ、杏子の胸の奥がざらつく。


店長に案内されると思っていたのに、姿は見えなかった。

どうやら一階の店に出ているらしい。

心細さをかかえたまま、杏子は促されるでもなく空いているデスクへ向かい、かばんを置いた。


(……大丈夫、なんとかなる)


自分に言い聞かせるように、杏子は小さく息を吐いた。


杏子はかばんを置きながら、そっと事務所の中を見回した。


壁際に並ぶ棚には、花の名前が書かれた伝票や、色とりどりの注文書がぎっしりと詰まっている。

ざっと見ただけでも、ここがただの小さな花屋ではないことがわかる。

どうやらこの店、地元ではけっこうな老舗らしい。

花屋で働くのは初めてだけれど、経理事務の仕事自体は、以前勤めていた会社で少しだけ経験があった。


茅野は、それらに一切目もくれず、パソコンのキーボードを打ち続けている。


「えっと……何から始めたらいいでしょうか?」


杏子が声をかけると、茅野はまた、ちらりとだけ顔を向けた。


「基本、売上入力と伝票整理。あとは、たまに請求書作成。今日はそれ、覚えてもらうから、そのマニュアル見て」


ぶっきらぼうな言い方だったが、杏子は黙って頷いた。

なにせ5年ぶりの社会復帰だ。多少の冷たさくらい、覚悟していたつもりだった。


(簿記三級は高校のときに取ったっきりだし、二級も専業主婦の合間に取っただけ。……使えるかどうかは、これからだ)


自分に言い聞かせるように、杏子は机の上に用意されたマニュアルらしきファイルを開いた。


杏子は机の上に置かれたマニュアルに目を落としかけたところで、茅野が口を開いた。


「初日からなんだけど、牧野さんに言っておくね」


手はパソコンのキーボードを打ったまま、視線も動かさずに続ける。


「ここ、店舗だから。お客さん、普通に来るのよね。わかってると思うけど、事務所は店舗の2階。

……牧野さんみたいに、階段をドスドス上がってきてたら、迷惑なの。静かに階段上がってきてくださいね」


淡々とした声だったが、言葉の端々には棘があった。


「……はい」


杏子は反射的に答えたけれど、胸の奥がじんわりと痛んだ。

(そんなにうるさかったかな……しかも、そんなキツい言い方しなくても)

うつむいたまま、そっと膝の上で手を握りしめた。


茅野はそれきり、またカタカタとパソコンに向き合った。

事務所には、タイピングの乾いた音と、外からほんのり漂ってくる花の香りだけが満ちていた。


杏子は背筋を伸ばし、あらためてマニュアルに目を落とした。

文字はちゃんと読めるのに、頭の中にはさっきの茅野の言葉が何度もこだました。


(……こんなことで、へこんでる場合じゃない)


ここに来るまで、何度も悩んだ。

社会に出るのは5年ぶり。しかも、まったく知らない世界。

甘くないことくらい、わかっていたはずだった。


杏子は深呼吸し、無理やりページをめくった。

売上入力、伝票整理、請求書作成。

ひとつずつ覚えていくしかない。


そのとき、下の店舗から「いらっしゃいませー!」という元気な声が聞こえてきた。

続けて、階段をふわりと上がってくる、かすかな足音。


(……ああ、こういうことか)


杏子はそっと目を閉じ、あのギシギシ音がどれほど目立っていたかを思い出して、心の中で小さくうなずいた。


(大丈夫、今日を乗り越えよう)


目の前のマニュアルに向かい直し、杏子はペンを手に取った。



「とりあえず今日は、ここに慣れてください」


パソコンから目を離さないまま、茅野が言った。


「そこにある箱、見える?過去に面接した人の履歴書が溜まってるから、それ全部シュレッダーにかけといて」


見ると、杏子のデスクの横に段ボール箱が置かれていた。

中には、封筒やクリアファイルに入った履歴書がぎっしり詰まっている。


(えっ、これ……返却しないんだ……)


一瞬戸惑ったが、口には出せなかった。

ここはここなりのルールがあるのだろう、と自分に言い聞かせ、杏子は箱に手を伸ばした。


履歴書を一枚ずつ取り出し、シュレッダーにかけながら目を通していく。

年齢も、職歴も、いろんな人がいる。

(みんな、ここで働こうとしてたんだな……)


そんなふうに思いながら手を動かしていると、ふと目を引く履歴書があった。


「茅野――」


目を落とした瞬間、無意識に手が止まった。

この字、この顔写真、間違いない。


杏子は周囲をちらりと確認し、こっそり履歴書を開いた。


最終学歴、職歴……

その欄には、びっしりと「ステップアップのために退職」「ステップアップのために退職」「ステップアップのために退職」の文字が並んでいた。


(……いや、これ、ただの自己都合退職じゃん)


思わず心の中でツッコミを入れる。

(なにがステップアップだよ……)


無表情のふりをして、杏子はそっと履歴書を閉じた。

そして何事もなかったかのように、シュレッダーに押し込んだ。


紙が細かく裁断される音だけが、静かな事務所に響いていた。


茅野の履歴書を、シュレッダーに飲み込ませながら、杏子は思った。


(なにがステップアップだよ……)


そんなに何度も飛び回って、どこへ向かっているんだろう。

気づけば、杏子の頭の中で勝手に茅野の未来予想図が広がっていた。


──次に転職したらまた、「さらなるステップアップのために退職」。

その次も、そのまた次も、「ステップアップのために退職」。

気づけば履歴書の職歴欄が「ステップアップ」「ステップアップ」「ステップアップ」で埋め尽くされて。


(……最終的に”ステップアップ星人”って呼ばれるんじゃない?)


危うく吹き出しそうになり、杏子はあわてて口を引き結んだ。


(ダメだ、初日から失礼なこと考えてる場合じゃない)


そう思いながらも、脳裏には、無表情で「私はステップアップ星から来ました」と自己紹介する茅野の姿が浮かんでしまった。


シュレッダーが紙を巻き込む音が、やけに間抜けに聞こえる。


シュレッダーに紙を飲み込ませ続けるうちに、杏子はだんだん無心になっていた。

ただひたすら、履歴書をセットして、ボタンを押す。

気づけば、箱の中身はほとんど空っぽになっていた。


(……これで、だいたい終わりかな)


時計を見ると、そろそろ約束の2時間。

通常は3時間働く契約だったが、今日は初日なので少し短めだった。


結局、ほとんどシュレッダーと格闘して終わったような気がする。

何か役に立てた実感は、正直なかった。


かばんに荷物をしまいかけたところで、茅野がまた、淡々とした声で言った。


「帰る前に伝えておきますね」


杏子は思わず背筋を伸ばす。


「毎回出勤したら、まずトイレ掃除と、従業員用の出入り口の掃除をお願いします。

で、帰りはゴミ集めと、事務所の掃除も」


一気に畳みかけるように言われて、杏子は小さくうなずいた。


「……はい」


思っていたより、ずっと庶務的な仕事が多いらしい。

(経理事務、っていうから簿記使うのかと思ったけど……)


胸の中でぼんやりとした違和感を抱えたまま、杏子はぎこちなく頭を下げた。


階段を下りるときは、できる限り音を立てないよう、そろりそろりと足を運んだ。

専業主婦から久しぶりの社会復帰。

張り切って迎えた初日は、まさかのシュレッダー三昧と無言のプレッシャー。

「経理事務って、もっとこう…」なんて思いながらも、杏子は静かに踏み出しました。

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