「便利」なトロワ
昼を過ぎれば、雨はだいぶ小降りになっていた。今がチャンスだ。
「さて、やるか……」
大の男が四人同時に靴を脱げるほど、広い玄関。その半分以上を占領し、山を作っている板を睨んでさざれは息を吐いた。
長さも太さもバラバラの板が、ざっと四十枚。大きなものは自分の身長ほどある。これを今から、庭にある物置に移さねばならない。本当は雨がやんでからにしたかったが、今日は一日降るようだし、小雨になった今が一番いいタイミングだ。
これが置かれていると色々邪魔だし、別に濡れても問題無いものだ。ただ、小雨降る中移動させるのが面倒なだけなのである。
「明日でも良かったのだがなあ、これ」
しとしと響く雨音を耳にし、思わずそんな愚痴が唇から漏れた。明日は晴れなので、本当は明日移動させるはずだった。
この板は昨日、使わない古い棚をバラした結果だ。昨日も雨だったので、晴れた日に移動させようとギグと話していたのだが。
さざれの耳が、ふんふん、とご機嫌な鼻歌を捉える。ヴィリスのものだ。朝食後に作ったゼリーが良い具合に固まったので、おやつに出したところ大層ご機嫌になった。
今は、ちびちびとゼリーを食べている。ゆっくり味わって食べるのだと、わざわざ小さなティースプーンを引っ張り出していた。
その様は大変愛らしかった。愛らしかった、のだが。
「ここに置いておくと、またヴィリスがバリケードを作りそうだからなあ」
よほど、フェルがゼリーを全て食べたことが腹に据えかねたらしい。
朝ごはんの片付けをしていたさざれが、ガンガンガンガンガンッ! と凄まじい音を聞きつけ二階に様子を見に行ってみれば。
そこには、玄関からえっちらおっちら持ってきた板でフェルの部屋のドアを塞ぎ、金槌を振るうヴィリスの姿があった。板に刺さった釘はどれも頭までめり込んでいた。執念を感じた。
釘と金槌を取り上げれば「おれはあのクソボケつまみ食い野郎を餓死させんだ邪魔すんじゃねえ!」と、可愛い顔から可愛くない罵声が飛び出した。
すぐに我に返ったヴィリスはしゅんとして、「さっきのことはこれでどうか内密に……ヴィーは万物に可愛いと思われたいの……」と賄賂――使用していた、無駄に可愛い飾りのついた金槌と釘――を差し出してきたので、さざれは胸に留めおくことにした。ちなみにフェルは熟睡していた。あれは火事が起きたら死ぬタイプだ。
それはともかく。
大きな板を小さなヴィリスが運んで、怪我でもしたら大変だ。ので、さざれは小雨になった今、この大量の板きれを残らず全て、倉庫に放り込む決意を固めたのである。
ゼリーを食べた後に、またやりかねない勢いだったので。
「流石に全て一気にというわけにはいかんし……仕方無い、軽いのからいくか」
袖をたすき掛けにし、よしと気合を入れる。
ちなみに迷宮都市でのさざれの服装は、たっぷりとした袖の上着と、幅の広いズボンがメインだ。
世界中から、大迷宮を踏破せんと意気込む者、大迷宮内で手に入る未知の素材や食材を求める者、あるいは華々しい伝説を自叙伝に刻みたい者、そして彼らを目当てに商売を行う者。
あらゆる人が集まる場所だけあり、あらゆる文化が混ざり合って溶け合い、他には無い特色が多い。
さざれが着ている橙色の上着も、その一つだ。着物のように前で合わせ、紐で結ぶようになっているが、袖部分には肘までのスリットが入っている。裾には服より濃い色の糸で、駆ける馬が刺繍されていた。
「うう……寒い」
共用の靴をつっかけ、板を数枚抱えて外に出る。曇天の空から、音も無く雨が降っていた。
雑然とした臭いが鼻をつく。故郷の緑の匂いとはまた違う、石と鉄と獣の臭い。迷宮都市独特の臭いだ。臭いわけではないが、まだ慣れない。
都市のできた二百年前に流行った、質実剛健で飾りが少なく、きつい傾斜の屋根が特徴的なグレモンド建築様式の建物が、左右にずらりと並び、道路を挟んで向かい側にも並んでいる。
違法建築に次ぐ違法建築で、道幅がまちまちになっている道路は緩やかな坂道。雨にも関わらず、往来にはそれなりの人が行き交っていた。
冷えた空気が袖から入り込んで素肌を撫で、さざれの肌がたちまち粟立った。
小走りで倉庫に急ぐ。庭は、玄関から右に回った先にある。庭と言っても猫の額ほどの小さなものだ。その面積の半分を倉庫が占領しているので、更に狭く感じる。
倉庫の戸を開けて板切れを放り込み、また玄関へ。それを三往復ほど繰り返せば、たちまち小雨が服を濡らした。冷たく濡れた生地が肌に張り付き不快だ。
「やれやれ、だからギグ殿がいる明日にしたかったのだがなあ」
あれは力があるから、いたらすぐ終わったろうに。
「ま、詮無きことよな」
くしゃみを一つ。それにしても寒い。雨は冷たく、身体が底冷えしていく。首を伝った雨粒が背を這って、ぞわぞわする。面倒がらずに雨具を身に付ければ良かったか。
終わったら熱い茶の一つも飲まねば、風邪を引いてしまう。
小脇に板切れを抱えて、さざれは鼻を啜る。自然、顔が渋面になっていくのが自分でも分かった。
「そも、この大地は全て古き父の身体だというに、なにゆえ季節が違うのだ。おかしいではないか」
出立した時、故郷は初夏で暑かった。しかしそこから南に下ったここ、迷宮都市はまだ雨期だという。なんでも七月半ばまでは肌寒い雨期で、そこから九月末までが夏なのだとか。意味が分からない。
各大陸は今でこそ離れているが、元々は一つの身体だったというではないか。なぜ季節が統一されていないのだ。統一しろ。夏であれ。
背筋を這い上る寒さに耐えかね、神話まで遡って文句を言うさざれであった。
――初めてこの地に国が誕生した、数千年前。それより更に更に遡り、遥か遠き神話の時代。
まだ海も大陸も無ければ、天も地も無かったこの世には、一組の巨人の夫婦だけが存在していた。夫婦は自分達以外に生命が存在していないことを悲しみ、作ることにした。
父なる巨人ルタは己の身体を六つに切り分け、大地を。
母なる巨人リコは己の身体を幾億もの欠片に切り分け、生命を。
ルタは身体を切り分ける際、己のヘソに杭を深く突き刺して、身体が動かないよう固定した。杭はやがて朽ちたが、そこに開いた穴だけはいつまでも残り続け――二百年ほど前、穴の遥か下に六つの大迷宮があることが明らかになった。
そして各国から一攫千金や名誉を求めた連中が集まりできたのが、この迷宮の無法都市である。
閑話休題。
「さて、と……後はでかいものばかりか」
小さいものはあらかた片付けた。後に残るのは、さざれの背丈ほどある板切れが二十枚ほど。残りのこれを一人で運ぶのかと思うと、げんなりしてしまう。思わず視線を階段へ投げたが、すぐにさざれはいやいやと首を横に振った。
フェルに手伝いを頼んでも、大した戦力にならないだろう。一枚運んだだけで息切れした挙句、報酬に美味いものを寄越せと言いそうだ。
「あれっ、さざれ? なにしてんだ?」
「ん? ああ、トロワか。おかえり」
ヴィリスを見張りつつギグが帰ってくるのを待つか、と結論付けた所で、横から怪訝そうな声がかかった。
顔を向ければ、傘をさした少年が玄関前で首をかしげている。ぱちぱちと、こげ茶色の瞳が不思議そうに瞬いた。
トロワは、さざれより少し背の高い少年だ。首の後ろで一つに結った、襟足より少し長いこげ茶色の髪と、頬にかすかに散ったそばかすが、まだ青年になりきれていない少年と言った様子で微笑ましい。
細い身体にまとっているのは、裾や袖口に金糸と銀糸で繊細な花模様が刺繍された、黒いローブ。傘と反対の手には、先端が円環になった長い真鍮色の杖を握っている。円環の中には透明な宝玉が浮いており、ゆっくりと回転していた。
「そういえばお主は、今日帰ってくる予定だったか」
「おうっ! ホントは夜までかかる予定だったんだけど、早く終わったんだ! で、さざれはどうしたんだ?」
トロワは板きれとさざれを交互に見て、きょとんとする。
「ほれ、階段の裏に古い棚があったろう。あれを昨日バラして、……ま、諸々あって今日片付けることにしたのよ」
「ふーん?」
トロワは傘を閉じる。そうして良いことを思いついたというように、ぱっと顔を輝かせた。
「あっ、じゃあさじゃあさ、オレが手伝ってやるよ!」
さざれは破顔した。
「おや、それは有難い。では――」
と、口を開く前に、トロワが手にした杖をくるりと回転させた。玄関前の石畳に先端が向けられる。
「動土溶SETNO兵動ESLRDIO地出動兵小」
耳慣れない言葉がその唇から漏れて、ゆっくりと回転していた宝玉が光った。杖の先に、幾何学模様の魔法陣が展開する。
「――ほう」
さざれは、目の前の光景に思わず声を漏らす。
トロワが杖で指した箇所。雨に濡れて濃い灰色になった石畳が、もこもこと盛り上がった。地面からもぐらが顔を出すように、盛り上がった石畳から小さな頭が現れる。程なくして全身を現したのは、十センチほどの兵隊だった。
小さい軍帽と軍服をまとった石畳色の兵隊が、次から次へと生まれてくる。デフォルメされた顔は、ヴィリスが好みそうな可愛いものだ。
二十体ほどが玄関に整列した所で、トロワが杖で板切れの山を示した。それに向かって、兵隊がちまちま行進していく。
「なあ、これどこに置くんだ?」
「全て庭の倉庫の中よ」
「分かった!」
大きく頷いたトロワが、手を翻した。小雨を切り裂いて、杖先が勢いよく庭へ向けられる。トロワの声無き命により、兵隊は一枚ずつ板を頭上に掲げ持つと、ぞろぞろと外へ出ていく。
「そういえば、お主は魔術師だと言っておったなあ」
小さな兵隊が板を運んでいく、絵本のようにどこか和む光景を見ながら、さざれはたすき掛けをほどく。
「おう! オレさ、風とか炎も使えるけど、一番土を操るのが得意なんだ!」
「成程、石畳も言ってしまえば土のようなものか」
そばかすの散った頬を綻ばせ、懐っこい笑みを浮かべるトロワ。
魔法というものを、現役時代含めて目にしたことは、実は少ない。というのも、そもそも魔法を使いこなすには才能がいるらしい。
蝋燭ほどの明かりを灯す、ちょっとした風を起こす程度のものなら、習えば大抵の者は使えるようになる。さざれは学ばなかったが、友である組頭は小さな明かりを灯す魔法を使っていた。
だが、それ以上の力を完璧に使いこなす――例えば眼前のトロワのように――のは、類稀なる才が必要なのだとか。組頭も、「俺の頭じゃこれ以上は覚えられねえしできねえ」とぼやいていた。
それもあって、魔術師というものは滅多に見かける者ではなかった。それがこの迷宮都市には、ごろごろいるのは流石に驚いたが。
玄関前に戻って来た兵隊達がずらりと並び、小さな手でトロワとさざれにピッと敬礼をした。トロワがそれに敬礼を返し、さざれはひらりと片手を振る。
役目を終えた兵隊達が、一人ずつ石畳の中に潜るようにして消えていく。
それを見ながら、さざれは顎に指をかけた。
「しかし、ふむ。便利なものよなあ」
その言葉に、トロワがぱっと顔を上げた。まだ幼さが残る顔を、喜色満面に輝かせる。
「本当っ!? オレ、便利? なあなあ、便利っ!?」
さざれはトロワの顔を見る。犬だったら尻尾を千切れんばかりに振っていそうなほど、嬉しそうな顔でこちらを見下ろしている。
ゆるり、と瞬きを一つ。
「――そうさな。お主の魔法は便利なものよ」
「そっかあ!」
満足そうに、トロワは歯を見せて笑う。こげ茶の瞳に充足感が広がっていく。
その目をさざれは、よく知っている。己が便利な道具であることに心底喜びを覚える、ひどく面倒な手合いの目だ。