スープの恨みは骨髄まで
段々と音立てて窓を叩く雨音のように、さざれの愚痴も徐々に大きくなる。
「そも、この家の連中は馬鹿みたいな食事しかせんのは、一体どういう了見だ」
スープをがつがつと口に運びながら、愚痴る。ギグは時折相槌を打ちながら、音を立てずに食事を続ける。
なにもさざれとて、他人の食事時間や食生活に一々干渉する気は無い。人には人のペース、好き嫌いがあるのだ。初対面同士で共同生活を送るにあたり、プライバシーに干渉しすぎるのも良くないだろう。それは余計なトラブルの元になる。
余程でも無い限り口を挟むのは止めよう、そう思っていたのだが――
「お主は塩と香辛料をぶち込まねば味が分からん味音痴、昨日食べていたものを今日は嫌だと言う偏食家に、立ったまま飯を水のように流し込む阿呆、つまみ食いと野菜丸かじりで生きておる鼠、そもそもこの家で飯を食っているのを見たことの無い輩……どう生きていたらそんな食生活になるのだお主らは……!」
その「余程」ばかりだったのだ、この家の面々は。
ギグの味音痴を知って以降、もしやと思いそれとなく全員を観察していればまあ、出るわ出るわ。お前らよくここまで生きてこれたなと、逆に感心するレベルの食生活が。
「む……」
ギグが気まずげに目を反らす。それをねめつけながら、さざれは息をす、と吸う。階段を下りる足音。だかだかと荒っぽく大きい。
「ボニファース!」
ちょうど階段を降り切っただろうタイミングで、鋭く名を呼ぶ。驚いたのか、扉の向こうでがたっと音がした。
突然の声に、ギグが目を丸くした。
「……なんで俺だって分かったんだよ」
数秒ほどの時間をおいて、扉が開いた。頭を屈めて扉をくぐり、ボニファースがリビングに入ってくる。ふん、とさざれは鼻を鳴らした。
「お主の足音はすぐに分かるわ。なにせ一番大きいからな」
「そうかあ?」
疑わしそうに片眉を跳ね上げるボニファース。
その身は高身長のギグより更に高く、なんと二百センチを超えているらしい。ギグ同様に鍛え上げられた分厚い身体と相まって、もはや人と言うより壁だ。ちなみにさざれの身長は百六十センチ程度なので、首が痛くて仕方ない。縮め。
褐色の肌に明るいオレンジの短髪。額の左側に毛先の跳ねた前髪を目に被さらない程度に流し、残りは耳にかけている。オレンジがかった赤い目は白目に比べて小さい三白眼。鼻筋を右から左へ横断する傷跡が、男臭さを演出していた。
今から大迷宮に潜りにいくのか、胸元に胸当て、肘までの籠手、膝当てを装備。コーラルタートスの甲羅と樹脂を練って作られたそれらは、とろりとした珊瑚色をしている。
ちなみに年は二十九歳とのことなので、これまたさざれよりも年下だ。
口内のソーセージを飲みこんだギグが、リビングに入ってきたボニファースに顔を向ける。
「おはよう、ボニファース。今からか」
「おう。今日はちょっと深くまで潜ってみようと思ってよ。だから、用があんなら手早く頼むぜ」
「そうか、そうか。朝早くから熱心で結構なことよ。……で、それが今日の朝ごはんか?」
さざれはボニファースが左手に持っているものを、ちろりと見た。おう、とボニファースは快活に頷く。
「あんたも食うか? ホットドッグ。ここのはうめえんだ」
油紙の包みの間から見えるそれからは、全く湯気が上がっていない。
パンに挟まれたキャベツはもはや新鮮さを失ってしなびているし、ソーセージの所々には固まって白くなった油がついている。マスタードとケチャップも水分を失い、乾いた表面を晒していた。
これで「ここのはうめえ」と言われても、ちっとも全然、全く美味しそうに思えない。
「それはもはや、ホットと言うよりクールドックと言う方がよさそうな気もするがなあ。……で、一体いつのものだ、それは。まさか今日のものではあるまい」
「え、昨日……あー、や、一昨日だったか? ま、カビ生えてねえから食えるって。うめえモンはいつ食ってもうめえしさあ」
すでに「美味しい」のピークを過ぎたホットドッグを手に、あっけらかんと笑うボニファース。さざれは口から出そうになった百万語を押し留めて、代わりに別の事を口にした。
「……だが、それだけでは足りんだろう。スープはまだ残っているし折角だ、食べてゆけ」
こいつの巨体が、ちっぽけなホットドッグ一つで満足するはずもないだろう。テーブル上に置いた鍋を手のひらで指し示すと、ボニファースは露骨に顔をしかめた。
「えー? いいって、いいって。そんな熱そうなの。俺はこれで十分だっての」
そうして口を開け、ばくり、とホットドッグを一口。それで面積の半分が消える。一回、二回顎が動いて、ごくり。残りをぽいと口に放り込み、これは一回噛んだだけですぐ飲み込んだ。指に付いたケチャップを服の裾で拭き、油紙をくしゃりと丸めてポケットに突っ込む。
ぴしり、さざれの額に青筋が浮いた。
「……飲むな。せめて十回は噛め。喉に詰まらせたらどうするのだ」
「大丈夫だって、慣れてっからさあ。それに、急いでる時にそんな悠長に食ってらんねーし」
どこ吹く風でさざれの注意を聞き流すボニファースに、さざれはもう一つ苦言を呈す。早食いはまあ百歩……いや一万歩、一億歩譲るとして、こちらは譲れなかった。
「迷宮探索においての資本は、まず健康な身体であろうが。日々の食がそう疎かでは、その見事な筋肉もいずれ衰えるだけよ。それに、少ない食事で探索していればあっという間に腹が減り、満足に動くこともままならなくなるわ。そうなれば、待っているのは死のみ。それを分かっておるのか、お主は」
「あー、あんた料理人だもんなあ。だからそういう、なんだ。食事にうるせーのは分かるけど、俺はちゃんと自分の身体を分かってっから、問題ねーよ」
説教はごめんだと言いたげな顔で、ボニファースが自分の胸を叩く。
「前にもメシ抜いて迷宮潜ったことあっけど、全然平気だったしさ」
「ほーう……」
ヘラヘラと笑う顔を見上げ、さざれは静かに相槌を打つ。成程、この食生活で一度も不調を感じたことが無いからの自信なのだろうが。
さざれからすれば、それはただ若さゆえのバイタリティーに助けられているだけに過ぎない。いずれどこかで身体を壊す。
だがそれを懇々と説いた所で、この男は納得しないだろう。
そも、さざれの見た目が柔和で若々しく、いかにも荒事に慣れていない風に見える為か、ボニファースが忠告をまともに受け取っているように見えない。要するに、頭からナメているのだ。
なら、相手を変えるまで。
流れを静観しながら食事をしているギグに、さざれは視線を向けた。
「ちなみに、ギグ殿の意見は?」
「む?」
「へっ?」
ギグとボニファースの目が同時に瞬く。さざれはさらりと言った。
「いやなに、ボニファース同様に大迷宮に潜る探索者として、ギグ殿はどう考えておるのか聞きたくてな」
「ああ」
お主も説得要員に加われ、と目で訴える。通じたのか、かすかにギグの顎が引かれた。察しが良くて大変助かる。
食事の手を止めたギグが、ボニファースに身体ごと向き直った。
「口うるさいとは思うが、さざれも心配しているだけだ。普段ならともかく、大迷宮に潜るなら腹をしっかり満たしておくのは大事だ」
アイスブルーの瞳が強い意志を持ってボニファースを捉え、オレンジがかった赤い三白眼が気圧されたように揺れた。
「……あんたも、そっち側なのか?」
ボニファースが、戸惑った様子で顔を歪めた。ちらり、とさざれの方に視線を飛ばす。
ギグは静かにうなずいた。
「そうだな。年を重ねるにつれて身体も変わっていく。お前はまだ若いから、今は勢いで何とかなっているんだろうが。いずれ身体が付いて行かない時がくる。俺はそうだ」
「……」
ボニファースは、無言で下唇を尖らせた。後ろ頭をガリガリとかく。
「俺も一度、食事をまともに取らず迷宮に潜って、空腹で倒れそうになったこともある。だから、こうしてちゃんと腹を満たしてから向かう事にしている」
淡々と諭すギグに押され、ボニファースはうーだのあーだの言いながら、また頭をかく。更に押すならここか。
さざれは先ほどより語調を和らげて、笑顔を作った。
「ボニファース。やつがれはな、なにもこれ全てを飲めと言っているわけではない。ただ、ホットドッグだけでは到底足りぬだろうから、せめて一杯だけでも飲んでから行けと、そう言っておるのだ」
台所から大き目のマグカップを持ってきて、それにスープを汲んで差し出す。
子どものように眉を下げ、自分とスープとを交互に見るボニファースに、柔らかく微笑みかけた。
「椅子に座らんでもよいから、それだけは飲んで行ってくれんか。やつがれもな、なにもお主の食生活を貶すつもりはない。ただ、お主が迷宮内で無為に傷つくのを見たくないのだ」
と、ため息を吐いて視線を逸らす。俯いた拍子に前髪をさらりと垂らせば、悲嘆にくれる青年の出来上がりだ。
「今日は深くまで潜るのだろう? 大迷宮は下りれば下りるほど、危険が増すと聞いておる。もしそこでお主の身になにかあればと思うと、やつがれは……」
弱々しい声音を作って、喉から絞り出す。
うぐっ、と前方から弱ったように呻く声。
視線を逸らしたまま、器用にボニファースの様子を伺う。やがて、大きなため息を吐く音がした。
「……分かったよ。これだけな、これだけ」
渋々と言った調子で、ボニファースがマグカップをひったくった。よし、とさざれは内心拳を握る。
ボニファースはきょろりとテーブルに視線を向けた。胡椒でも入れるのか。そう呑気なことを考えるさざれの横にあった水差しが、がっしと掴まれる。心の中で握った拳がほどけた。
ガラスの水差しが勢いよくかたむけられる。湯気の立つマグカップの中に、水がだばだばと注ぎ入れられた。湯気が勢いよく四方に飛び散る。
「っは?」
さしものさざれも、一瞬眼前の光景が理解できずにフリーズした。ギグも驚いたように目を瞠って動きを止める。
二人をフリーズさせたボニファースは、マグカップの縁ギリギリまで水を注ぐと水差しを置く。そしてそのまま、一気にスープを喉に流し込んだ。
そこでようやくさざれの思考が追い付く。
ああ、成程。熱いスープは一気に飲めないから、水を入れて冷たくしたと。とりあえず二人に言われたから飲むが、味が薄まろうと気にしないと。とにかく食べる速度だけが大事だと。成程、成程。――殺す。
悲嘆の表情が急速反転。鬼の形相に変化。テーブル上のバターナイフを引っ掴み、一気にボニファースに肉薄しようとし――
「さざれ、駄目だ」
「んぎいいいぃぃぃ! 離せギグ殿あやつ殺すううぅぅぅ!!」
さざれの動きを読んだのか、いつの間にか近寄っていたギグに背後から押さえ込まれた。
「それは良くない、やめろさざれ」
「ぎいいいいい腕力ううぅぅぅぅぅ!!」
暴れるが、腕と腰にがっちり絡んだ腕の力は強く、抜け出せない。
「え、えーっと……?」
ぎいいい、と唸りながら暴れるさざれを、ボニファースが目を点にして見つめる。
「気にするな、行ってこい」
少しでも気を緩めれば脱出しそうなさざれを渾身の力で押し留めつつ、ギグはそう声をかけた。殺意の矛先をさっさと逃がさねば。
「お、おう。んじゃ、行ってくらあ!」
自分がさざれの地雷を踏んだらしいと遅まきに理解したのか、慌ただしくボニファースがリビングを出ていく。その際にドアの上枠に頭をごちんとぶつけていた。
やがて玄関のドアの開閉音と、ドアに付けたベルの音がして、気配が遠ざかって行く。
「……」
十分にボニファースの足音が遠くなったのを確認して、ギグは暴れていたさざれをそうっと解放した。
「クソ……おのれ馬鹿力め……」
暴れたことで乱れた衣服を整えて、さざれはギグをねめつける。涼しい顔をされたので舌打ちも追加しておく。
さざれの筋肉は敏捷性としなやかさに特化しているが、力比べに弱い。なので先ほどのように純粋な腕力でがっちり固められてしまえば、逃げるのが難しいのだ。頭に血が上っていれば更に、である。
バターナイフを置いてボニファースが出て行った扉を睨み、更に舌打ち。
「あとで煮えたぎったスープでも飲ませてやろうか、あやつ」
椅子に縛り上げて、漏斗を口に差し込んで。
「拷問はよせ」
「やかましい」
椅子に座り直して、食事を再開する。スープは少し冷めてしまっているが、十分美味しい。これに水を入れる暴挙をかましたボニファースは、絶対に許さん。
フォッグキャロットと怒りを一緒に噛みしめていると、「さざれは」とギグが口を開いた。
「確かに、食に一家言あるように思う。ボニファースの言うように、料理人だったからか?」
口の中のものを飲みこんでから、こくりとうなずく。
「……ま、そうさな」
馬鹿正直に「国で忍をやっていた」と言うわけにはいかない。ので、さざれは「牙の国で料理人をやっていたが、大迷宮で採れる食材に興味を覚えてやってきた」とギグ達に説明している。
迷宮都市を選んだ理由は、日々の生活が刺激的で退屈しなさそうというのもあるが、最大の理由はここでしか食べられない食材や料理だ。嘘は言っていない。
「食を疎かにする者は正直殺しても良いとやつがれ思っている」
「それはどうなんだ」
「お主も危なかったからな」
「む」
じろりと睨めば、視線が逃げた。
「……ま、一家言というほど上等なものではないよ。単純に、作った料理を美味いと言ってもらえるのが好きなだけなのだ、やつがれは」
それは、さざれの本心だ。
自分の作ったものを、「美味い」と純粋に喜んでくれる。その顔が好きだ。
「だからなあ、あの阿呆のように食事を疎かにする奴を見ると、どうしてもなあ。先ほどはすまぬ」
「意外と力が強くて驚いたぞ」
「まあ、いずれは大迷宮に潜って、己で食材を狩ろうと思っているゆえな。戦えるようそれなりに鍛えてはいる」
そういうことにしている。
ギグは納得したのか一つ頷いた。
「ボニファースも、きちんと食事を取るようになってくれればいいんだが。あれではいつか倒れるぞ」
「全くよ。戦場やら大迷宮内ならまあ、早食いも大目に見ようよ。だがここは血の臭いの無い食卓だぞ。どこに急ぐ必要があるのだ」
さざれ自身、忍の仕事時は悠長に食事など取っていられなかったから、携帯食料で済ませることも多かったし、立って流し込むのはしょっちゅうだった。だが、それでも任務が無い日は料理を作ってゆっくり食事を取り、時には食べ歩きをするなどして、ささくれた精神を落ち着かせていた。
人には人の考え方があるのは分かる。ボニファースにも、自分なりの理屈があるから、あんな食生活でも満足しているのだろう。
そもそもそう考えていたから、さざれも最初は口を出さないことにしていたのだが。
「……そういえば、知っておるかギグ殿」
行儀悪いのを承知でテーブルに肘を置き、手の甲に額を乗せてさざれは呟いた。陰鬱な口調で。
「我ら六人、いまだ一堂に会して食卓を囲んだことは無いのだ」
「む」
その言葉に、ギグも少し眉を寄せる。
一つ、重要な懸案事項がある。
「ここを借りる絶対条件、なんだったか覚えておろう?」
ギグは無言でうなずいた。渋い顔で、さざれは大家から言われた言葉を思い出す。
――ここに住む人みんなで「仲良く」暮らしてね。さもないと、出て行ってもらいます。
それが唯一絶対の条件だった。
大家の思い描く「仲良く」がどの程度かは分からないが、少なくとも今の状態は「仲良く」暮らしているとはとても言えない。
なにせ今だ、全員一緒にご飯を食べたことが無いのだ。
「なんとかして、食事だけでも共にとりたいものだがなあ」
ぼんやりと、さざれは呟く。雨は激しさを増し、今日の内に止みそうにはなかった。