フェルの持論とケツドラム
頬がぶにっと両手で挟まれて、いつの間にかフェルが立ち上がり、自分の目の前にいたことに気が付いた。息がかかるほど近くに、完璧な黄金比で形作られた顔面がある。
「うぶっ?」
「いいか、空箱。中身っていうのは、そいつ自身にしかないものだ。それだけの唯一絶対のものだ。かけがえのないものだ。そんな、どこにでもある肩書も、経歴も、特技も、私はこれっぽちも興味無い。お前はただ、宝箱をキラキラゴテゴテと装飾しただけだ。中身はカラカラ空っぽ。いくら煌びやかに外装を整えても、中身が無くっちゃつまらんだろう。お前、豪華な宝箱の中身が空っぽだったらガッカリするだろう。私は今、そんな気分だ。お前以外のここの連中は、みんなみんな個性的な宝箱で、私は大好きなんだ」
間近にある珊瑚の瞳が、夢見るようにうっとりと緩んだ。
「さざれは嘘だらけの宝箱だ。ダミーがたくさんあって、どれが本当か分からないよう人を惑わしている。でも一番大事な中身は、丁寧に丁寧に傷つかないように保存している。ギグは分かりやすい。あいつは透明な宝箱だ。わざわざ開けなくても中身が分かるが、それも私は好きだ。ヴィリスは見た目こそ可愛い宝箱だが、中身はああ見えて凶暴だぞ。面白い。きっと開いたら、中の宝物は可愛いとはかけ離れたものだろうな。ボニファース、あいつは中身を分かってないタイプの宝箱だ。自分でちゃんと宝物を仕舞っておきながら、なにを入れたか分かってないんだ。あれもあれで私は嫌いじゃない」
歌うように流れる、言葉の波。心地良いテノールが紡ぐゆったりとしたそれに、トロワは丸い瞳を何度もぱちくりとさせた。
正直、言っていることの半分も理解できない。ただ、気になるところがあった。
「なあ。さっきから宝箱、宝箱って言ってるけど、人は宝箱じゃないぞ?」
「いいや、宝箱だ」
く、く、とフェルは笑う。
先の穏やかな声音と違う。音程がズレたオルゴールのような、不協和音だった。
「宝箱だ、人は。この世の人間は全て、宝箱だ。分かるか? 人はな、見た目からは思いもよらない宝物が詰まっている。そこらの浮浪者は見た目こそ薄汚い宝箱なのに、『中身』には誰も見たことのない美しい景色が詰まっていた! ああ本当に美しい景色だった! 毎日眺めてもあれは飽きない!! キラキラゴテゴテといつも派手な貴族の宝箱の『中身』は、甘ったるいイチゴジャムと硬いスポンジのケーキだった! 味も素朴で美味いとは言えなかったが、それこそがそいつの宝物だったんだ! ああ、本当に美しいんだ、面白いんだ、お前達宝箱は! なにが入っているか分からない! 楽しい、楽しい、楽しいんだ! お前達を開ける瞬間はいつも、ワクワクする!!」
爛、と目が暗い輝きを帯びる。
トロワはやはり、言っていることが分からず目を瞬かせる。
「――だから、お前はつまらない」
輝いていた目が冷たくなる。
狂喜、ともいえるほど高ぶっていたテンションが、一気に冷え込んだ。ぶにぶにと頬を挟まれながら、トロワはただフェルの言葉を聞き続ける。
心臓がどうしてだか、とことこと駆け足になった。
「なにを言っても中身が無い。食事を必要としないと言った時はちょっと面白いと思ったが、それも所詮、他人から言われた言葉を鵜呑みにしているだけ。自分でちっとも考えない。ああつまらない、つまらない。見た目ばかり豪華なハリボテ宝箱だ。誰がそんなものを見たいと思う。お前のようなつまらない宝箱に、誰も興味を持たない」
フェルが、口を軽く開けた。そこから息の塊が吐き出される。吐息が音になって耳に届く。
――あ。
トロワの心臓が、大きく跳ね上がった。瞳がびきりと凍り付く。息が上手くできなくなる。言葉が喉の奥で痰のように絡んで、なにも出てこない。
どうしよう、どうしよう。失望させてしまった。ため息をつかせてしまった。怒られる。
ため息は嫌だ。怖い。自分に向かって落とされるため息は特に嫌だ。成果を上げられなかった時、失敗した時、いつも誰かがため息を吐く。肩を落とし、大きく息を吐く。望まれていることが、できていない。その事実はいつもトロワに、胸を刺されたような痛みを運ぶ。
帝国に忠実な道具として、完璧に全てをこなさなければいけないのに。
「あ、え……と……」
謝らないと。失望させて申し訳ありませんでしたと。次は絶対に成功させてみせますと。
でもフェルは、花の帝国の軍人でも研究者でもない。なにに失望したのか分からない。なんと言って謝ればいい。分からない。考えられない。
「ふうん。あながち全て空っぽってわけでもないのか」
でもやっぱりつまらないな、と突き放すように言ったフェルの顔が、不意に良いことを思いついたといわんばかりに輝いた。ぱちんっ、と指が鳴らされる。
「そうだ。お前、折角それだけ外側は豪華なんだ。ちょうどいいから、私の宝物入れにしてやろう。空っぽのお前に私の持ってる宝物をきっちり詰め込んだら、外も中も綺麗な宝箱になるな。うん、それがいいそれがいい、そうしよう」
フェルの絹糸のように細い髪が、風も無いのにさわりと揺れた。魔力のうねりが、トロワの肌に伝わる。魔法だ。フェルは魔法を使おうとしている。なんの。分からない。このまま黙っていては危ない。動かないと。反撃しないと。なにを使われるか分からないが、このままではきっとやられる。
凍り付いていたこげ茶の瞳が溶けた。いつの間にか手から放していた杖を、手探りで探す。
フェルが口を開き、そこから呪文の詠唱が漏れる。トロワの杖先に、魔法陣が展開した。
◆◆◆
「ただいま。……で、なにをしておるのだ、お主らは」
「え、ええっと……その、フェルがな、あの……」
トロワが胸の前で人差し指同士をつんつんとさせ、しょんぼりと眉を下げている。
大変申し訳ありませんでした、私がやりました。と、言いたげなその態度と、その背後のフェルを見て、さざれはなにがあったか把握した。ざっくりとだが。
ヴィリスが、フェルの尻をぺちぺちと叩いて遊んでいる。そのフェルはといえば、台所とリビングを隔てる扉に頭から突き刺さり、尻から下をこちらに突き出すような形になっていた。
「ねえねえ、なにしてるのー? フェルのお尻、全然可愛くないねー! 可愛い弱者ね、可愛い弱者! だからヴィーの勝ち! ヴィー可愛いから!」
「えーい、うるさいうるさい! 抜けないんだ引っぱり出せ!」
「いーやっ」
意外と元気な声が扉の向こうから響いている。
さざれは、ついと丸テーブルに視線を向けた。空っぽになった小鉢が三つ。またつまみ食いをしていたのか。……まあ、ちゃんと自分の分を小鉢に取り分けたことだけは評価しよう。
囮ゼリーで便所と蜜月関係を築いておいて、まだ懲りないのかと思わないでもなかったが。
しょぼくれているトロワの顔を見上げ、さざれは微笑してみせた。
「フェルのつまみ食いを止めてくれたのか? すまんなあ、トロワ。しかし魔法で吹き飛ばすと、家が壊れるのでな。今度からは」
と、言いかけたさざれを遮ってトロワが声を上げた。
「あっ、えと、違うんだ! フェルがさ、宝箱だとか、空っぽだとか言って、あの、た、ため息、ついて、それでオレを宝箱にするとか言って、魔法を使おうとしてっ、それでつい……」
でもちゃんと、手加減したから! 本当だから!
慌てた様子でそう続けるトロワ。
魔法、とさざれは内心で眉をひそめた。
フェルは魔法を使えたのか。そんな素振りは微塵と見せなかったが。そしてトロワになんの魔法をかけようとしたのか。
それに、宝箱にするだの、空っぽだのというワードも少々気にかかる。
数年前、ちらと聞いたことがある。人間を「宝箱」と見立てて、魔法によって人の中身を丸ごと宝物に変えてしまう殺人鬼”トレジャーハンター”の話を。ここのところ、めっきりその話を聞かなくなっていたが。
まさか、あのつまみ食い大王が? 全裸でキュウリをボリボリ齧るような奴が?
「いいかさざれ! 私はただそいつが空っぽだと言っただけだ! あと、それだけ外側が豪華なら、中に宝物を詰めれば映えそうだと思っただけだ! あとマリネ美味かった!!」
尻が足をばたつかせながら、もごもごと叫ぶ。
ひとまずフェルが殺人鬼かどうかの話は横に置いて、さざれは成程とうなずいた。
「では、またしてもつまみ食いをした阿呆には、罰を与えねばならんなあ」
「なあんでそうなるんだ! まず私をここまでぶっ飛ばしたトロワに罰を与えろ、トロワに!!」
罰、という言葉にトロワの肩が大きく跳ねる。その肩を軽く叩いて、さざれは憤る尻に向かってにっこりと笑った。
「トロワに関しては、魔法を使おうとしたお主の自業自得よ。そも、やつがれはつまみ食いをされんように、これらを鍵付き冷蔵箱の方に入れていたはずだが?」
「ああ、あの程度なら針金で開けられるぞ。ちょろいちょろい」
「ヴィリス、その尻思いっきりしばいてよいぞ」
「よしきたー!」
「あっだああ!?」
スペーンペンペーンとリズミカルに響く音をBGMに、固まってしまっているトロワの肩をもう一度叩く。
「トロワ。鉄板やらなんやらを洗っていてくれて助かったぞ。おかげで、明日は美味い肉が焼けそうだ」
「本当っ? オレ、役に立ってる? 完璧だったっ? ため息つかない!?」
立て続けに問いが放たれる。幼さの残る顔が、焦燥に彩られていた。ローブの胸元がぎゅうと握りしめられている。必死ともいえる形相を見上げて、さざれは安心させるように口元を緩める。
「うむ、ため息なぞつかんとも。やつがれでは、ああもピカピカにできんからなあ。お主の手柄よ、トロワ。本当に助かった」
言い含めるように伝えると、トロワは明らかにほっとした様子で肩を落とした。
「そ、そっか……良かった……うん、そっか、良かった……そうだよな、オレ、役に立ってるもんな……」
大丈夫、大丈夫。ちゃんと役に立ててる。つまらなくない。空っぽじゃない。大丈夫。
何度も、何度も、自分に言い聞かせるように呟く。
自分には価値があるのだと、必死に己を納得させている様子は、正直痛々しい。
それを哀れに思うのと同時に、さざれの忍としての部分は冷静に分析を続けていた。
自己否定やため息を吐かれたくらいで心が揺らぐようなら、まだこの子は普通の感性を取り戻せる余地がある。真に面倒なのは、他人になにを言われようとも「己は完璧な道具である」と認識を崩さない阿呆なのだから。