カラッポトロワ
ヴィリスが手足を広げて寝そべっても、まだ余るほど大きい鉄板が、宙に浮いた水球の中でぐるぐる回る。
晴れた空の下、庭でトロワは鉄版を洗っていた。
明日、肉や野菜を焼く為に必要なものなのだという。さざれ達が物置から見つけてきたが、長く使っていなかった為かだいぶ汚れていた。これと、他の道具をピカピカにするのが今日のトロワの仕事だ。ちなみに前の住人――大家達が家具や道具を残しているので、物置には色々なものがあった。鉄板を乗せる台や鉄網などもあり、それらも一緒に水球の中で回転している。
陽の光を弾きながら回転する、複数の水球。杖を掲げてそれらを操りながら、うーんと首をかしげる。
「やっぱり変だよなあ。なんでみんな、肉なんて食いたがるんだろ。あんなの食っても、栄養吸収悪いって言われてるのに」
甘味などの嗜好品と違い、確かに穀物や肉、魚に野菜などは栄養が詰まっている。だが、それらは調理過程で半分以下になってしまう。――というのが、花の帝国の研究者達の見解だった。
その点、彼らが開発した栄養粉末は一食に必要なものが、全て詰まっている。こちらの方が断然、効率が良いと研究者達は言う。
花の帝国のすることは正しい。そしてその中でも研究者達は、トロワの親ともいえる存在だ。親の言うことは絶対。なんの間違いも無い。
だからトロワは、他の人達が好んで肉や野菜、甘味を食べるわけが分からない。
栄養吸収効率が悪い、と研究者が結論を出しているのに、なぜ食べるのか。
帝国以外の人達はともかく、同僚達も、「これだけってのはなあ……」「頭でっかち連中はなに考えてんだか……」と難色を示し、食堂にばかり通っている。
どうして研究者達の言うことを聞かないのか、トロワにはそこが分からない。聞いてみたが、「当たり前だろ」という答えしか返ってこなかった。
「さざれは、みんなが仲良くなるためって言ってたけど。別に食わなくても、いいんじゃねえのかなあ」
わざわざ、ものを食べる必要はないのに。テーブルを囲んでお喋りをすればいいじゃないか。それでも仲良くなれるんじゃないのか。
そう言ったら、さざれに「やつがれはな、それでは物足りんのだよ」とにっこり笑って告げられた。よく分からないので首をかしげたら、「いずれ分からせてやる」と言われた。仄暗いものを含んだ笑みが怖かったが、やっぱりよく分からなかった。
――分からないことはね、考えなくていいんですよー。分からないってことは、お前に必要の無いものですからねー。
かつて研究所で教わった通り、さざれとのやり取りをそれ以上考えることなく、そこで思考を打ち切る。
「あ、キレイになったな!」
トロワは、浮かぶ水球の方に意識を移した。
透明だった水球が、茶色く濁っている。杖をくるりと回して、水球を消す。宙に浮いていた鉄板や網が落ちてくるが、そこに風を飛ばして受け止め、ふわりと着地させた。
黒光りする表面を伝う水滴も、風で吹き飛ばす。
自分の顔が映るほど、ピカピカになった鉄板を覗き込み、トロワはそばかすの散った頬を綻ばせた。
「えーっと、さざれは確か外に干しといてほしいって言ってたっけ」
言われたからには、完璧にこなさなければ。
トロワは、杖をくるりと回した。円環の中に浮く宝珠が回転を激しくし、魔法陣が杖の先に展開。洗ったばかりのそれらを風で浮かせ、壁に立てかけるようにする。
これでいい。これで、トロワの仕事は終わりだ。
「よしっ、おーわり!」
杖を持ったまま、ぐっと両手を上に伸ばす。仕事を完璧に達成したという満足感が胸中に広がり、トロワは歯を見せて笑った。
時間も大してかかっていない。仕事も完璧。洗浄に使った魔法は初歩中の初歩のもので、魔力も大して使っていない。これなら、さざれも満足するだろう。
手早く、正確に、効率良く。
道具に望まれているのは、それだけなのだから。
「ほうほう、これはナッツと茸の炒めた奴か。こっちはなんだ、白身魚のマリネか? こっちの赤いのはなんだ? なんか辛酸っぱい匂いがするな。よしよし、どれも美味そうだな。よくやったぞ、さざれ」
「あ、フェル」
リビングに戻ってくると、ちょうど台所からフェルが出てくるところと行き遭った。
結っていない髪は頬にかかり、バスローブを一枚だけ羽織っている。窓から入った日光に照らされて、緩い合わせ目から見える薄い胸板が、うっすらと白く光っていた。
この瞬間を絵に閉じ込めておきたいと思うような美麗な姿だが、トロワにとってはただのフェルだ。だから、笑顔で手を振る。
「おはよっ! 今起きたのかー?」
「ん……ああ、トロワか」
顔に当たる光を鬱陶しがるように細められた瞳が、こちらに向く。
「あれ、それってさざれが作ってた奴じゃないか?」
フェルの手の上には、お盆があった。その上には小鉢が三つ乗っている。その中に入っているものに、トロワは見覚えがあった。さざれが朝に作っていた奴だ。さざれの横で食器を洗っていたので、知っている。
首をかしげる間にも、フェルは大股でソファに近づく。丸テーブルにお盆を乗せると、ごろりとソファに横になった。
「そうだ、さざれが作ったり買ったりした奴だ。あいつが買い物に行ってる今の内に、ちょっとつまもうと思ってな。起きたばっかで小腹が減ってるんだ」
ま、安心しろ。明日分はちゃんと残してやった。
そう嘯いて、フェルは小鉢に手を伸ばした。指でつまんだ魚の切り身を舌に乗せ、喉の奥に滑り落とす。ごくり、と白い喉が上下した。
「ん、オレンジ系の味付けだなこれ。美味い」
初春の雪がとけるかのように、氷のような美貌がふわと緩む。
「お前も食うか?」
「ううん、オレはいらねえ!」
指に付いたタレを舐めながら、フェルがちろりと珊瑚色の視線を向けてくる。
「ふうん、どうしてだ。つまみ食いをすると怒られるからか?」
首を横に振る。いつものように笑顔のまま、口を開く。
「オレ、そういう無駄なもの食わねえんだ! 栄養が無いから」
「……ふうん?」
ナッツを口に放り込み、ぽりぽりと齧るフェル。トロワはソファの傍に立ったまま、そんなフェルを見下ろした。
「大したことを言うじゃないか。それ、お前が考えてそう決めたのか?」
口にものが入ったまま喋るので、フェルの言葉はもふもふと聞き辛い。それでも意味を汲み取って、トロワは首を横に振った。
自分で決めたわけじゃない。全ては我らが偉大な花の帝国、その研究所の意向だ。
「ああー……成程、成程な」
そう伝えると宝石のように透き通った美しい瞳が、熱を失った。
「お前、空箱なのか」
大きな欠伸を一つし。
「道理でつまらんわけだ」
そう、フェルは吐き捨てた。
「……空箱?」
空箱。つまらない。
トロワは、首をかしげる。
唐突に言われた言葉は、抽象的で意味が分からない。ただ、こちらを見下している、馬鹿にしているということだけは、はっきりと分かった。
むっ、とトロワは唇を尖らせる。
よく分からないなりに、腹が立った。唐突に馬鹿にされるいわれは無い。
「なんだよ、空箱って。オレは空箱なんかじゃないぞ!」
「いーや、空箱だ、空箱。空っぽの宝箱だ」
フェルはひどくつまらなそうに、手をはたはたと振る。
「お前は中になーんにも入ってない、中身の無いカラカラ空っぽの宝箱だ」
ナッツと茸の欠片がついた指先が、トロワを真っすぐに指さす。
鼻先に指を突き付けられ、トロワはこげ茶の目をぱちくりと瞬かせた。少しだけ波立った心が、すぐに落ち着くのが分かる。
なんだ、そんなことか。
トロワの中に、なにも無いと勘違いしただけか。そういえば、フェルとは生活時間が違うから、あまり自分と関わることが無かった。だから、知らないのか。そういうことなら、仕方ない。誰にだって間違いはあるのだから、そこに怒るのは筋違いだ。
間違いは正してやるべきだと、研究所の人達も言っていた。
だからトロワは、フェルを真っすぐ見つめた。どん、と胸を叩く。
「なんだよ、そういうことかあ。安心しろよ、オレは中身ならちゃんとあるぞ!」
「ほーう」
フェルは目を眇めた。ごろりとソファの上でうつ伏せになり、トロワを上目遣いで見上げる。
「そこまで言うなら、聞かせてみろ。お前の中身とやらを」
挑発的な言葉に、ふふん、とトロワは自慢気に笑った。
「オレはな、花の帝国魔術部隊第四軍所属の軍人なんだぞ! 今は軍を離れて、この迷宮都市の調査に来てる!」
マリネを指でつまみ、口に放り込みながらフェルが鼻を鳴らした。
「それはただの肩書だ。お前の中身じゃない」
「あ、そっか」
成程、とトロワはうなずく。言われればそうかもしれない。なら他になにがあるだろう。深く考えなくてもすぐ出てきた。
「えっとなあ、オレさ、研究所で生まれたんだ! 基本的に魔法って、後天的でしか身に着かないだろ? でもオレは生まれた時から魔法が使えるように、色々調整して生まれたんだ! オレの前に生まれたアンとドゥは、性能がいまいちだったらしいけど、オレは――」
「それもお前の経歴だ。お前の中身じゃない」
言葉を遮り、すげなく切り捨てられる。
「ええ、これも違うのか? えーっとじゃあ……」
トロワは、むむっと眉を寄せた。中身、自分の中にあるもの。他になにがあるだろう。腕を組む。自然、眉間に眉が寄った。
「あっ、魔法! オレ、土の魔法が得意だけど他にも――」
「それはお前が使える特技ってだけだろ。お前の中身じゃない」
「それって、中身じゃないのか……?」
「違うな。魔法なんて、誰だって使えるだろ。お前だけのものじゃない」
白く細いフェルの指先に、赤い食べ物がつままれる。指に吊り下げられたそれが、上から口内に落とされて。ぱくり。
「む、やっぱり辛酸っぱいなこれ。なんだこれ。でもシャキシャキしていて美味いな、うん」
気に入ったのか、そのままフェルは赤い食べ物をひょいひょいと口に運ぶ。
その様を見ながら、トロワはええと、と考え込んだ。
肩書、経歴、特技。
このどれもが中身じゃないのか。これは、トロワという存在を構成するものなのに。だから、自分の中身だと思っていたのに。
いつの間にか、トロワはその場に座り込んでいた。
腕を組んで、うんうんと、考える。
中身、中身。オレの中身。肩書でも、経歴でも、特技でもないもの。それだけしかない。分からない。分からないことは、考えるな。それは自分にいらないものだ。
ふつり、とそこで思考が停止する。
帝国に尽くし、利になることだけを行えばいい。自分の存在意義はそれだけでいいのだ。
「フェルの言ってることはよく分かんねえけど、オレには関係無いな!」
だからいつも通り、ぱっ、とトロワは笑顔を浮かべる。その顔をどうしてか、フェルはじっくりと見つめた。