ほんの少し、一歩だけ
死が身近にやって来たことは、幾度もある。
ロクな薬も手に入らない中、流行り病にかかった時は死を覚悟した。初めて戦場に出た時も血と火薬の臭いに死を強く思った。
ボニファースにとって、“死”とはふと気づけば隣にいる存在だ。音も気配も無いが、それは自分がヘマをやらかした時、すぐにやってきて命を狩り取ろうとする。
だからボニファースは、常に戦っている。お前なんかに負けてたまるか、俺の命が終わるのはここじゃないと。死の影が隣にやって来た時、そう己を鼓舞して暗い影を追い払っている。
つまり、なにが言いたいのかといえば。
「大丈夫か、ボニファース」
「……っ、おう……」
ボニファースは弁当のおにぎりを丸飲みし、喉に詰まらせて死にかけていた。
異常に気付いたギグがすぐ背中を叩いてくれたので、大事には至らなかったが。まだ圧迫感のある胸を、拳でどんどん叩く。
「ほら、茶だ」
差し出された茶を、一気に呷る。冷たいそれが喉を通り、勢いが良すぎたのかまたむせた。
「……大丈夫か?」
「はっ、なに入っ……!」
「鼻に入ったのか。ほら、紙」
差し出された紙を受け取り、遠慮なく鼻をかむ。鼻に水が入った時のように、上顎の辺りにひどい違和感があって、気持ち悪い。
何度か唾を飲み込んで、はああ、とボニファースは大きく息を吐いた。
「ああ、クソ……ひでえ目にあったぜ。なんだよこの、オニギリって奴はよ」
恨めしい目で、ボニファースはおにぎりと言う料理を睨む。
白い小さな穀物が、三角の形に固められているものだ。見たことが無い。大きさはヴィリスの拳くらいで、これくらいならいつものように丸飲みできると思ったら、やけに粘り気があり見事喉に詰まらせた。
「さざれのいた地方では、主食として食べられているものらしい。こっちではライスと呼ばれているが、ライスは知らないか?」
真向かいの席に戻ったギグが問う。それに首を振って否定した。
「知らねえよ。ウチはパンか豆が基本だからよお」
「そうか。パンよりは腹持ちが良いぞ。俺は好きだ」
食べかけだったおにぎりを口に運び、ゆっくりと咀嚼し飲み込んでからギグはそう言う。ボニファースはそれに曖昧な返事をしながら、ひょいひょいとソーセージをつまんだ。一口、二口噛んでごくりと飲み込む。
今死にかけたこともあって、流石におにぎりにもう一度手を伸ばす勇気は無かった。
「サラダも食べた方がいいぞ。ほら」
差し出されたタッパーに詰められているのは、白っぽいポテトサラダ。赤や緑の角切り野菜が混ぜられていて、なんとも美味しそうである。
「……それ、マヨネーズ入ってっか?」
ポテトサラダといえば、マヨネーズだ。これにたっぷりとマヨネーズをかけて食べるのが、ボニファースは好きだ。
「分からん」
食べてみろ、と言われたので、スプーンでごっそり掬って口に運ぶ。口内に、クリームチーズのミルキーな味わいが広がった。ごくりと飲み込むが、マヨネーズ独特の味は無い。
「普通ポテトサラダにはマヨネーズだろ、なんでクリームチーズなんだよ。変な奴だよなあ、さざれの奴」
テーブルに頬杖をつき、ボニファースは愚痴った。
早食いでは味が分からないだろう、とよく言われるが、そんなことはない。ちゃんと味は分かっている。さざれの料理は何度か食べているが、どれも美味い。ただなんというか、ボニファースの好みとは少しズレているのだ。
ボニファースはガーリックが山ほど入ったパスタや、マヨネーズをたっぷりかけた揚げ物など、ガツンとパンチのある味が好きだ。だがさざれの作る料理は、そういうタイプのものではない。
「なんつーか、お上品っつーか、薄味っつーかさあ。うめえこた、まあうめえんだけどよお」
「そうか」
ギグが相槌を打ちながらポテトサラダにスプーンを伸ばし、口に運ぶ。
滑らかな口当たりだから、すぐに飲み込めるだろうに、時間をかけて咀嚼し、飲み込んでいる。
さっさと食べ終わったボニファースは、片足をたんたんと踏み鳴らした。遅い。
ギグの食べるスピードは、ゆっくりだ。一口一口は大きいものの、咀嚼が長い。延々と噛んでから飲み込むから、時間がかかる。
ボニファースの周囲に、そうやってのんびり食事をする奴は誰もいなかった。みんな、早くても五分かそこらで食べ終わる。だから黙って待っていると、尻がむずむずしてくる。時間を無駄にしているようで、落ち着かない。
近くに立つ時計に目をやる。十五分も経っている。なのにギグの前にあるタッパーの中身は、半分近く残っている。それが更に、ボニファースをイライラさせる。
早く食っちまえと言ってやろうか。それくらいは言っても許されるだろう。
「なあ……」
「頼んでみればいいだろう」
と、口内のものを飲み込んだギグの言葉が被さった。
「む。すまんな、被った」
なにを言いたかったんだ、と目が瞬く。
「や、いい。あんたが先でいいって。んで、なにが頼んでみればいいなんだよ」
「さざれに。自分はこういうものが食べたいと、頼んでみたらいいだろう」
「はあ?」
予想していない言葉に、ボニファースは目を点にした。
それから、笑って手を顔の前で振る。
「頼んでみろって、それでマジで作ってくれんのかよ、あいつ。『そんな味の濃いもの作るわけがないだろう阿呆かもっと考えてもの言え』とか言うんじゃねえ?」
さざれは普段は優しくて穏やかだが、料理に対しては強いこだわりがあるイメージがある。下手なことを言ったら、鼻で笑われそうだ。
だがギグは、「そんなことは無いぞ」と静かに否定した。
「俺もこの間、チーズを揚げたものが食べたいと言ったら作ってくれたからな」
「ええー……マジかよ」
「なるたけなら、好きなものを作ってやりたいと言っていたからな。明日は色々作ると言っていたし、折角だから頼んでみたらいいんじゃないか?」
「あー、明日……」
明日、という言葉にトロワの笑顔が脳裏に浮かんだ。
心の隅に追いやっていたことが戻ってきて、ボニファースの胸が重くなる。思わず溜息を漏らすと、ギグがスプーンを置いた。
「ボニファース」
アイスブルーの瞳が静かな光をたたえて、ボニファースを真正面から射抜く。
「あ?」
「そんなにトロワが憎いか」
直球の質問。
一瞬、言葉が止まる。心臓がびくっと跳ねた。
「憎い、って……なんだよ急に、大袈裟だなあ!」
ははは。口から上滑りした笑い声が漏れた。頬がひくりと引きつる。
ギグが、無言で見つめる。ボニファースも見つめ返す。内面を見通すような強い視線に耐えられず、すぐに目を反らした。
石畳の割れ目から這い出る小さな虫を見ながら、ぼつりと零す。
「嫌いとか、憎いっていうか……無理なんだよ」
トロワの顔を見る度に、崩壊して瓦礫と煙に包まれた国土が脳裏をよぎる。
ボニファースは破壊され、塵の舞う中で生まれた。
祖国、朔月の国が攻め込まれ、国土の三分の二を奪い取られたのはおよそ三十年前。戦後の混乱も冷めやらぬ中、産声を上げた。
生まれた時からなにも無かった。
父親も、母親も、家も。
そんな子どもばかりを集めた孤児院でも、なにも無かった。
遊び場も、教科書も、腹を満たす充分な飯も、冷えた手を温める薪も。
大人達はいつも嘆いていた。全ては帝国のせいだと。あいつらがこの国を蹂躙したせいで、こんな目にあっているのだと。
過酷な生活で抱いた負の感情が、花の帝国への怒りに変わるのに時間はかからなかった。止める孤児院の大人を振り切って軍に入ったのは、十二歳の誕生日。
帝国への怒りと憎悪を訓練に全てぶつけ、ボニファースはめきめきと腕を上げた。元から才能があったのかもしれない。
そうして軍を再編した祖国が、花の帝国に戦を仕掛けたのは二年前。そこからは、小競り合いを続けながら国土を少しでも取り返そうとする毎日だ。
「迷宮都市に花の帝国の軍人が数名入った。なにをしているのか探れ」――そう、上官から直々に命令が下ったのは一か月前。
迷宮都市。無法の地。そこで見つけたのが、トロワだ。
まだ十五歳で、自分よりだいぶ年下。素直で明るい、魔法に長けた子ども。人懐こく、自分にもよく話しかけてくる。いくら邪見にしても、笑顔のまま。
朔月の国が蹂躙された時に、こいつは生まれていなかった。二年前から続く争いの中でも、こいつの姿を見かけたことはない。恐らく、配属場所が違うのだ。
だから、ボニファースが直接、トロワになにかをされたわけではない。
だが、こいつは花の帝国の軍人だ。自国をぼろくそにした帝国に仕える存在だ。
それだけで、ただの笑顔がひどく嫌なものに見える。放つ言葉が耳障りに聞こえる。視界に入る度に、怒りと憎悪がわいてくる。
「あんたは大家のバーさんの条件の為に、あいつを好きになれって言うんだろうけどよ。どうしたってあいつ見てるとイライラして、気持ち悪いんだよ!」
だん、と怒りに震える拳をテーブルに叩きつける。迷宮産の木でできたテーブルは丈夫で、それくらいではびくともしなかった。
「あいつとニコニコ笑いながら明日話せってか? 仲良くハグでもしろって!? 無理なんだよ、無理! そういうの想像しただけで吐き気がすんだよ!!」
激情を叩きつける。まぎれもない本音だった。トロワを通じて帝国の内情を探れという、上官の命令さえ無ければ今頃、トロワをぶった切って家を出ているだろう。
ボニファースの響き渡る大声に、休憩所にいる人々が視線を向けたが、すぐに興味無さそうに視線を戻した。怒号が響くのは日常茶飯事だ。
肩を大きく上下させ、息をするボニファース。それを見つめていたギグが、ゆっくりと口を開いた。
「別に、好きになれとは言ってないぞ」
「っは?」
荒い息を吐く口から、素っ頓狂な声が出た。
明日は全員で焼肉をするから、良い機会だしトロワと仲良くしろ、喧嘩をするなと言う話ではなかったのか。
疑問が顔に出たのか、ギグが苦笑するように口の端を緩めた。
「落ち着いて思い出せ、ボニファース。俺はそんなことを一言も言ってないぞ」
「あ、あー……」
そういえば。
トロワが憎いのか、と聞かれただけで、それ以上のことは聞かれていない。
「いいかボニファース。お前とトロワの間になにがあるのか、俺は知らない。無理に聞きだす気も無い。俺だって、嫌いな奴はいる。そいつと仲良く笑いながら飯を食えと言われたら、奴が席に着いた瞬間に殴り殺す」
「お、おう……?」
過激な発言が飛び出た。
「それくらい嫌いだ」
きっぱりはっきりと断言するギグ。
「考え方を変えたらいいだろう。嫌いな奴と仲良くする為に飯を食うんじゃない。弱みを握る為に飯を食うんだ」
「えーっと……あんた、なにを言いたいんだ。さっぱり分かんねえんだが」
唐突な言葉に戸惑い、ボニファースは眉を寄せた。
手を振ってきた知り合いらしい男に手を振り返してから、ギグは淡々と続ける。
「食事時間は、相手の口から弱みや機密を聞きだす絶好のチャンスだぞ。腹が満ちれば口が緩くなる。酒とそいつの趣味に合う話題の一つもあれば、なおいいな。情報をぽろぽろ吐き出すぞ。それを使えば、相手の人生をどうとでも壊せる。……そう思えば、嫌いな相手と共に食事を取るのもやぶさかではないだろう」
「あんたわりと外道だな!?」
「そういう考え方もあるということだ」
ギグは涼しい顔で、茶を飲む。
「さっき言った嫌いな奴と一緒に食事をして、情報を漏らさせて逮捕までいった時は胸がすっとしたぞ」
「しかもやってたのかよ!!」
信じられない、とボニファースは目を激しくしばたたかせる。
そういう絡め手を使って、相手を陥れそうな奴には見えなかったのに。人は見かけによらない。
こほん、とギグが咳払いを一つ。気まずそうに、目がそらされる。
「……まあ、これは俺の先輩が提案した手段だ。俺が考えたわけじゃない」
「そ、そうだよな。あんた自主的にそういうことする奴っぽくねーもんな、うん」
「生理的に無理な相手を、必死になって好きになる必要も無いだろう。そういう心構えでいれば、少しはお前の心が楽になると思ってな」
「……」
むぐ、とボニファースは口を噤んだ。
言われた言葉を、脳内で咀嚼する。
黙り込んだボニファースに、なにを思ったのかギグはやや語調を和らげた。
「当日はなにも、お前達二人だけじゃない。俺達もいるんだ。もし気まずくなっても、俺やさざれが場を流す。だから、あまり気負うな」
「…………おう」
ぶっきらぼうに、ボニファースは顎を引くようにしてうなずいた。
上官からの命令は、花の帝国が迷宮都市でなにをしているのか探ること。
確かにトロワの口から直接それが聞ければ、命令は達成できる。ギグの言うように仲良くなる為ではなく、あくまで上官命令の為という大義。そう、全ては朔月の国の為。
そう思うと確かに、少しは楽に話せるような気がした。ほんの少しだけだが。もしトロワにキレて怒鳴りそうになっても、押さえてくれる人がいるというのも、支えになる。
「まあ、なんだ……ヴィリスにも、もっとちゃんと話してえって泣かれたしよ」
ガシガシと頭をかいて、視線を明後日の方に向ける。
「肉を食う間くれえは、我慢してやる」
「いいと思うぞ。それくらいで」
ボニファースは、三白眼でじろりとギグの前に置かれた弁当を見た。
「……ところであんた、さっさと食い終われよ。俺、さっさと帰りてえんだけど」
「もう少し待て。ちゃんと味わいたい」
食べ終わったのは結局、そこから更に二十分経った後だった。