紅梅修羅庭園
白い梅の花が、咲き乱れている。木々の向こうから差し込む木漏れ日が、柔らかな草むらに淡い陰影を刻む。
どこからか吹いてくる風は甘い梅の香りと――濃厚な血の臭いを運んできていた。
颶風。無数の花びらが風に引き千切られ、宙にぱっと舞う。
獣の胴体目掛け、横薙ぎの一撃。黄色の毛並みが切り裂かれ、紅がしぶく。舞い散る花びらが赤に色づいた。が、傷は浅い。
「っらああ!」
気合一閃。一歩力強く踏み込み、槍を下から振るい上げる。通常の槍と違い曲刀のようになった穂先は、突くより斬るに特化している。獣の首を骨ごと両断。丸い塊が宙を舞う。
一拍。間を置いて、血が勢いよく吹き上がる。梅がたちまち赤く染まる。重々しい音を立て、太い身体が横倒しになる。丸太のような腕が、弱々しくもがいてすぐに力を失った。ぐちゃ、と鈍い音。頭が地面に転がる。
頬に飛んだ返り血を拳で拭って、ボニファースは槍を振るって血を落とす。首を落とした獣は、完全に絶命していた。
黄色い体毛、突き出た鼻面。ぱっと見、熊に似ているが両腕だけが異様に発達し、太く大きい。丸太熊。地上には生息せず、この大迷宮のみで生息が確認されている迷宮生物。自分以外の生き物を見ると襲い掛かってくる獰猛性を持つが、倒すのはさほど難しくない。腕が大きい分、隙も大きい。
「確か、こいつの爪って安いんだよなあ。まー、一応持ってくかあ」
生息数が多く、倒しやすいこともあって、売ったとしても一本百~二百コル程度にしかならない。それでも加工しやすく丈夫な為、武具の他、釘としてよく使われている。需要が多いのだ。
槍を地面に突き立て、腰のベルトに刺した採取用のナイフを抜く。このナイフも、丸太熊の爪を加工したものだ。欠けていない爪を探し、それで根本から切り取る。綺麗なものは三本だけだった。
「毛皮は……あー、ボロボロにしちまったし、やめとくか。後は、肉だよな。こいつの肉でうめえとこって、どこだあ?」
がしがしと頭をかいて、ボニファースは眉を寄せる。
一番筋肉が発達している腕だったろうか、いや腹だったか。どちらかだった筈だが、思い出せない。
「あー、えー、まあいいか。腕にしとくか。焼けば食えるだろ」
胡坐をかき、ぶつぶつと呟きながら、手を動かす。
地上のものより強い迷宮生物を倒すのは慣れたが、特定の部位を傷つけずに倒したり、倒した後に捌いたりするのはまだ慣れない。細かい作業は、ボニファースは苦手なのだ。
「あー、クソ! 硬ぇなあ、こいつ! 岩かよ!!」
発達している分、みっちり詰まった肉は、中々骨から剥がれてくれない。脂でナイフが滑り、手は血まみれになるばかり。それでいて作業は全く進まない。イライラする。ここ数日胸に巣食っている靄がそれに絡んで、更にイライラとボニファースの気分を荒ませる。
焼肉。全員で。
全員ということは当然、あいつもいる。
「ぶわっ!?」
苛立ちを押し隠すように、ナイフを乱暴に動かす。途端にぴゅっと血が飛び、顔にかかった。
生暖かく生臭いそれに辟易しながら、ボニファースは思い出す。
「そういや、先に血抜きやらなんやら、しねえといけねえんだったか……」
顔の血を拭いたかったが、手も血まみれだ。
ぐちゃぐちゃに刻んでしまった肩口は、とてもではないが美味そうな肉には見えない。
濃厚な血臭が漂う梅の園で、ボニファースはでかい背中を丸めてため息を吐いた。
六道大迷宮が一、紅梅修羅庭園。
白梅の木と柔らかな草むらが広がり木漏れ日差し込む、一見して穏やかな雰囲気の場所であり。常に、血の香りに満ちている。
先ほど丸太熊の血が染み込んだ地面は、既に乾いていた。身を柔らかくそよがせる草も淡い緑色を取り戻し、散った血はどこにも見当たらない。
その代わり、近くに幾本もそびえる太い白梅の木。雪のように白かった梅の花が、真っ赤に染まっていた。
毒々しい血色の梅がそよぐ度に、真新しい血臭がボニファースの鼻を刺激する。
紅梅修羅庭園。
庭園に咲く白梅は、流れた血を吸い上げる。
流れた命で白梅は、蠱惑的な紅色に自らを染め上げる。
その為、この迷宮では常に血の香りが周囲を支配している。
ナイフを仕舞い、ボニファースは空を見上げた。地の底にある大迷宮の癖に、空は青い。太陽もある。時間が経てば日が沈み、月が顔を出す。わけが分からない。
血の臭いさえ無ければ、地上の野原のようで、ひどくのどかだ。
「焼肉なあ……」
ぼんやりと空を見ながら、そんなことを口にする。大迷宮に入ってからもう何度、それを口に出したろう。明日のことを思うと、鉛でも飲んだように胸が重くなった。
肉は好きだ。特に焼いたものが好きだ。熱い鉄板に乗せた肉のジュージューという音と香ばしい匂いは、食欲を刺激する。想像するだけで、口内に唾が溜まってくる。
ルームシェアをしている連中と一緒、というのが更にいい。ヴィリスが言うように、あまり他メンバーと交流してこなかったボニファースだ。人と話すのは好きだが、慣れていない相手と話すのは少し苦手で、自然と避けていた。ヴィリスにねだられたのもあるが、交流を深める良い機会だ。
だから焼肉をすること自体は、楽しみなのだ。
ただ。
「……あいつさえいねえんなら、もっといいんだけどな」
薄暗い感情が乗ったぼやきが口をつく。
青空に、こげ茶色の髪と目の、明るい少年の影が映る。それにダブるように火の手を上げながら崩れていく街と、花の徽章が見えた。
ち、と小さな舌打ちが漏れる。胸の奥で暗い怒りの炎が燃え上がり、眉が自然と中央に寄った。
背後の茂みが、音を立てて揺れたのはその時だった。
「ボニファース。そっちはどうだ」
咄嗟に槍に伸ばした手が、中途半端な位置で止まる。振り向けば、茂みをかき分けたギグの姿があった。
伸ばした手を動かして、己の前に横たわる巨体を指さした。さも、驚いてなんかいませんよと言わんばかりの風を装う。
「こっちはこいつが一体だったぜ。そっちはどうだよ」
獣と人間の足音を聞き間違えたとバレるのが嫌で、平素通りの声を出してみせる。
「マッドフィッシュと、六足シカがいた。マッドフィッシュは群れだったから、そこそこの数が獲れたな」
ややくぐもった声が、成果を伝える。ボニファースは口笛を吹いた。
「へえ、大量じゃねえか」
がちゃ、と義肢がこすれる音を立てながら、ギグが近寄ってくる。
誤魔化せただろうか、と緊張しているボニファースの内心に気づいていない様子で、ギグは横たわる丸太熊に目を向けた。
「あまり大きくないな。子どもか」
「え? あ、あー……ま、あそうだな。なんつーか弱かったし、うん。ガキだった!」
これで小さいのか。これでも、ボニファースより頭一つはでかいのだが。
薄い色の瞳が、ボニファースが乱雑に刻んだ肩口に止まる。
「骨は確かに高く売れるが、専用の道具が無いと無理だ。硬いからな」
「お、おう! いやー、ナイフでいけると思ったんだけどなあ、流石に無理だったわ!」
ギグはどうやら、ナイフで骨を切り取ろうと悪戦苦闘していたと思ったらしい。それに全力で乗っかって、がっはっは、と大声で笑って誤魔化す。
口から下を防毒マスクで覆っているのでよく分からないが、ギグも笑ったらしい。目元が緩んだ。
右の義肢に付けたナイフホルダーから、太いナイフが抜かれる。刃の方を持ち、こちらに差し出してきた。
「こいつの肉はまずいが、心臓は美味い。それだけ持っていこう」
「おう、分かったぜ!」
自分の覚えていたことが丸っと間違っていたのに頭をかこうとして、血まみれだったのでやめる。代わりに口の中で小さく舌打ちをして、言われた通り腹を裂いて心臓を取り出した。
リュックに入れていた保冷膜――アイスバットの皮膜を加工したものだ――で包み、潰れないよう箱に詰める。これで心臓の鮮度が保たれる。
タオルで手とナイフの血脂を拭いてから、ギグに返す。ホルダーにナイフを仕舞ったギグは、己の肩に下げた長方形の保冷箱と、ボニファースのリュックとを順に見て淡々とした声を上げた。
「帰るか。昨日もある程度肉は狩っているし、十分だろう」
「おう」
立ち上がって槍を抜き、肩に担ぐ。
「俺が先行するから、後ろを頼む」
「あー、分かった」
大迷宮内は、決して安全ではない。現在ボニファース達がいる一階層は、細かな地図が作られるほど探索され尽くしているが、それでもだ。
幸い今は、近くに迷宮生物の気配は無い。太い木の影や茂みに視線をちらちら向けながら、ボニファースは少し低い位置にあるギグの頭を見下ろした。
「あんたさあ、よくそんなお遊びみてーな装備で迷宮潜ってるよな」
「む?」
振り向かないまま、ことん、と首がかしげられる。ギグの装備はどれも実用性というより、見栄え重視のものに見える。
鼻から下を覆う、黒光りする重厚な防毒マスク。この庭園は血臭がひどいから、マスクを付ける探索者は多い。ただギグのは計器が脇に付いていたり、よく分からない管が伸びていたりと装飾過多だ。
生身の左手には籠手、左足の膝から下はブーツ。どちらも革製だが、関節の辺りに金属製の鋲がいくつも打ち込まれ、木漏れ日に反射して輝いていた。
「好きだからな」
返事は一言だった。それで足りないと思ったのか、少しの間を置いて補足するようにくぐもった声が続ける。
「確かにデザインを重視したが、防具としても十分な性能だ」
「へえ」
とてもそうには見えないが。
ボニファースは防具にあれこれ飾りが付いているのは、どうもなよなよしている風がして苦手だ。実用一辺倒という無骨なデザインの方が、強そうで好きだ。だから自分の身に付けている防具も、飾りは一切付いていない。愛用の槍も同様だ。
「……あんたってよお、ここ長いんだっけか?」
「一年だ。前は二区にいたが、金が溜まったからな。四区に引っ越すことにした」
「へえぇ。別にそのまんま、二区にいりゃ良かったじゃねえか。なんでまた」
「寂しいからな」
「はあ?」
思わず、足が止まる。
寂しい。寂しい、とは。
周囲の気配を少し探る様子を見せた後で、ギグが立ち止まった。そのまま身体ごと振り返る。
「俺はどうも、一人が苦手らしい。二区はルームシェアのできる家が無い。だから、ルームシェア用の家が多い四区に引っ越すことにした」
「へ、へえー……あんた、意外となんつーか、寂しがりなんだな」
「そうだな」
素直にうなずいて、ボニファースの目をしっかりと見つめる。
「だから、お前が大迷宮の土に埋まるのは見たくない」
「はっ?」
先ほどからボニファースの口からは、間の抜けた声ばかりが漏れる。
ギグは周囲に潜む獣の気配を探りつつも、噛んで含めるように言った。
「さっき、気を抜いていただろう。あれが俺でなかったら、怪我をしていたかもしれない。油断は禁物だ、気を付けてくれ」
う、と呻く。
「あと、迷宮生物の中には血に毒を持つものもいるから、手袋は持ち歩いていた方がいい。それと素手で解体すると、単純に手が臭くなるぞ」
うう、とまた呻く。
血を拭ったにもかかわらず、両手からは拭いきれない獣臭さが漂っている。とても臭い。鼻をかいたり、髪を直したりしたら臭いが移るんじゃないかと、躊躇するくらいには臭い。
「まあ、あー、分かってっから。今日はちょっと、忘れてただけだからよ」
淡々としているが重い言葉が、ボニファースの口から反発を奪う。反駁できず、結局そんなことを言って茶を濁した。
ギグはその答えで満足したのか、一つうなずいてくるりと前を向く。
「口うるさくてすまないな。ただ明日は全員で焼肉なのに、一人欠けるのが嫌だったんだ」
「あー……」
明日は全員で焼肉、という言葉にまた、気分が沈んだ。
急に黙りこくり、黙々と歩くボニファースに、ギグがちらりと視線を向けたがなにも言わずに前を向く。
本当に、あいつ――トロワさえいなければ、普通に楽しみだったのに。
荒く地面を蹴りながら、ボニファースは胸中で吐き捨てた。
地上に戻ってくると、途端にむわりとした熱気が肌を舐める。汗がどっと出てくるが、空気が美味い。……雑然とした迷宮都市の臭いではあるが、濃密な血の臭いよりはだいぶ、いやかなりマシだ。
手と顔を洗い、思わず深呼吸をするボニファースの横で、ギグもマスクを首に下げて深く息を吐いている。
「……あんた、そのマスク付けてりゃ血の臭いは平気だろうが」
「血の臭いはな。ただ少し息苦しい」
「やっぱり見栄えばっかじゃねえか」
ははは、と笑う。ほんの少しだけ、胸に巣食う靄が晴れた。そのまま足を踏み出そうとするボニファースの手首が、ぐっと掴まれた。
「あ?」
「忘れていた。こっちに来い」
「へっ?」
ギグに、ぐいと腕を引っ張られる。なんだ、なんだ。狩った爪は換金した。肉も狩ったし魚も狩った。他になにをする必要があった。ギグの右手は義肢のせいか力が強い。振り払うどころか、こけないようにするので精一杯だ。
目を白黒させるボニファースに構わず、ギグはずんずんと進み続ける。目的が分かっているように、その足取りには迷いが無い。
なんだ喧嘩かトラブルかと見つめる、他探索者連中の視線が痛い。
「座れ」
「は?」
やがて辿り着いたのは、ちょっとしたベンチだった。
五区<ルタのヘソ>は基本的に大迷宮に続く大穴しか無いが、換金所や屋台、探索者達の休憩所のような所が穴の周囲に無数にある。ギグがボニファースを引っ張ってきたのも、その休憩所の一つだった。
丸テーブルと足の高いベンチがいくつか置かれ、探索帰りの者が何人か休憩している。
「おいおい、なんだよ。もしかして、疲れたからちょっと休憩してえってか?」
「そうだ」
からかう口調で言ったが、真面目腐った顔で返される。こめかみの辺りをこりこりとかいて、ボニファースは唇をひん曲げた。
やりにくい。
このギグという男、どうにも会話のペースが掴みにくいのだ。あと、急に突拍子もない行動を取るからなにをするか分からない。今のように。
「さざれが、弁当を持たせてくれていた。食べてから帰ろう」
ちら、と休憩所にある時計に目を向ける。
十二時半。確かにちょうど昼時ではある。だが、ここから家までは三十分もかからない。
わざわざ外で食べる必要もないだろう。そんな意味を込めた、胡乱な視線をギグに突き刺す。
「別に、帰ってからでもいいんじゃねえか? ちょっと歩きゃ、すぐ家に着くだろ」
「ボニファース」
アイスブルーの瞳が、それはそれは真剣な光を宿してボニファースを見上げた。重々しい口調で、重大な秘密か世界の真理かのように告げられた言葉は。
「弁当は外で食うから弁当だと思う」
「お、おう……?」
なにを言いたいんだこいつは。
とりあえず、弁当を食わないうちは帰らないということは分かった。腰かけたベンチから尻を上げる様子が無い。
自分だけ帰っても良かったが、「当然お前の分もある」という無言の圧力に屈した。大人しく向かいのベンチに腰かける。巨体を受け止めたベンチが、ぎしぎし鳴った。
「これが、おにぎり、という奴らしい。で、こっちがおかず。これがソーセージ、これが卵焼き、これがポテトサラダ、これが大根モドキと洞穴キュウリの炒め物。あと水筒にはお茶、それからデザートに……」
背負ったリュックから、手品のように次々とタッパーが出てくる。丸テーブルに、どんどん四角が並べられていく。
おいおい、とボニファースは頬を引きつらせた。
「あんた、これずっと背負って迷宮うろちょろしてたのかよ」
「砲弾三十個背負って山中行軍した時よりは軽い」
「そーかよ……」
タッパーの蓋が開けられると同時に、ふわりと焼けたソーセージの匂いが鼻腔を刺激する。
ぐう、と腹が鳴った。
どうやら、腹が減っていたのは自分もだったらしい。