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だから私は、世界滅亡に青春を捧げた

作者: 藤 ゆみ子

 プロローグ


 卒業式を翌日に控えた日の放課後、誰もいなくなった教室で机に向かい、真剣な表情で紙を一枚ずつめくる私の親友。

 そんな彼女を私はただじっと見つめ、待っていた。そして、どれくらいの時間が経ったのか、彼女はゆっくりと顔をあげる。


「なんか、らしくないね。荒削りというか」

「私もそう思う」

「あと、なんか設定詰め込み過ぎじゃない?」

「私もそう思う」

「でも、それがお兄っぽい感じもする」

「それは、よかった……」


 この小説を一番に読んでもらうのは彼女にしようと決めていた。彼女に読んでもらわなければいけなかった。この小説を書いてなにか意味があるのかと言われたらわからない。ただの自己満足かもしれない。でも、書かずにはいられなかった。書かなければいけないと思った。


 少し会話をし、最後は『面白かったよ』と言う彼女の言葉にそれ以上求めることはせず、コピーして閉じただけの小説を受け取る。

 そして二人で教室を出ると、私は部室へと向かう。彼女はそのまま帰ると言い、途中で別れた。

 もう、だれもいない文芸部のドアを開く。長机とパイプ椅子、何も並んでいない本棚だけがある、綺麗に片付けられた部屋。春からは違う部活の部室になるらしい。二年間、文芸部は私ただ一人だった。本来なら三人以上の部員がいなければ廃部だが、先生や周りの人たちが私に気をつかい、私が卒業するまでの間誰も廃部なんて言葉は口にしなかった。それがありがたくもあり、腫れ物扱いされているようで居心地の悪さを感じることもあった。


 それでも私は先輩との約束を果たしたかった。


 先輩、完成しましたよ。先輩の書きたかった物語。納得してもらえるかはわからないけど、私はそのために三年間の高校生活を、青春を、全て捧げました。


 世界滅亡を創りあげるために――。




 ――五月十日   一年三組 宮園 一花


 高校生になって約一ヶ月、文芸部があることを知った。文芸部があるなんてパンフレットには載っていなかったのに。

 いつも教室で一人本を読んでいる私に、文芸部と美術部の顧問を兼任しているという担任が教えてくれた。入学式前日、数年前から猛威を奮っている新型の感染症にかかり、一週間遅れて登校した私は友達をつくれずにいたのだ。それは、ゴールデンウイークが明けてからも変わらなかった。

 私は放課後、おそるおそる文芸部の部室だという部屋を訪ねた。

 ゆっくりとドアを開け、視界に入ってきたのはなぜかスマホを険しい表情で見つめ、盛大なため息をつく男子生徒。ネクタイが青色だから二年生だ。

 その先輩はドアが開いたことに驚いたのか、勢いよく顔を上げる。そして私を見ると表情がぱあっと明るくなった。

「一年生だよね?! もしかして入部希望?!」

「えっと……はい、そうです……」

「ほんとに?! ありがとう! こっちきて、ここ座って」

 長机とパイプ椅子と本棚だけがある部室に入り、促されるまま椅子に座った。

 先輩はスマホを伏せて置き、そして部活紹介を始めた。

「文芸部部長の守屋匠、二年です。あと二人三年生の部員がいるけど、受験生になるから退部するという先輩を説得して名前だけ残してもらっただけの幽霊部員です。活動内容は読書、執筆、取材活動なんでもありです。俺は、放課後主にここで執筆してます。部室には来てもいいし来なくてもいいです。でもできるだけ来てほしいです。俺が寂しいから……」

 最後だけなぜか切実な感情が含まれていて、守屋先輩の性格がなんとなくわかる部活紹介だった。

 それ以外は普通の文芸部って感じだけど、一つ気になったことがある。

「取材ってなんですか?」

「取材は、執筆のための取材だよ。えっと……」

「あ、一年の宮園一花です」

 取材という言葉が気になって自分の自己紹介をわすれていた。名前を告げると先輩はにこりと微笑む。

「一花ちゃん、いい名前だね。世界にたったひとつの花」

「ありがとう、ございます」

 初対面で、名前の意味を褒められるなんて初めてだった。文章を書く人ってみんなこんな感じなのだろうか。それから先輩は自然に私のことを一花ちゃんと呼ぶ。

「一花ちゃんは読む人? 書く人?」

「一応、どっちもです……」

「おお! じゃあ書くときにさ、取材ってしない? そんな大掛かりなことじゃなくて、例えば雨上がりの空を描写したいときに、雨上がりの空を見上げてみるとか、猫を登場させたいときに猫を観察してみるとか」

「そういう、小さいことならしているかもしれません。逆に、なにか綺麗なものを見たときにそれを書きたくなったりとか」

「いいねいいね。そういう見て、聞いて感じることをたくさん経験することが取材だよ」

 なるほど、と思った。物語は作者の経験だとよく聞く。無意識に自分の一部が登場人物に投影されていると。だから、たくさんのことを経験して感じることで物語が広がって、深みが出てくるのかもしれない。私はまだそんなところまで到達していないけれど。

 私は鞄から一冊のノートを取り出した。中学生になったころから趣味で書き始めた物語。小説の書き方なんて勉強していないし、子どもっぽい恋愛物語だけど、私の好きをたくさん詰め込んだ物語。今までだれにも見せたことはないし、文芸部に入ったからといってこれを見せるかどうかはまだ決めていなかった。でも、この先輩にならいいかなと思った。私が書いた物語を読んでもらいたいと思った。

「これ、私が書いたんですけど、良かったら読んでもらえますか?」

「もちろんだよ」

 先輩は心よく了承してくれ、ノートを受け取った。でもどこか暗い表情をしている。そういえば、ドアを開けたとき、すごく大きなため息をついていたな。

「あの、もしかしてなにかありましたか? 私のことは気にせず、ご自分のことしてもらって大丈夫ですよ」

 私は伏せてあるスマホに視線を向ける。先輩はすごく驚いた顔をした。

「一花ちゃんは人のことをよく見る子なんだね。……実はコンテストの結果発表があったんだ」

「コンテスト、ですか」

「二次選考までは通過してて、でもなんの連絡もないから受賞してないのはわかってたんだけど、やっぱり結果発表を見るとだめだったんだなって実感が湧いてきてね」

 その気持ちはなんとなくわかる。私も一度コンテストに応募したことがあるから。一次選考すら通らなかったけど、結果が出るまでのあの異様な緊張は今でも覚えている。通過作品の中に自分の作品がなかったときの落胆する気持ちも。

「それは……残念、でしたね……」

 気持ちはなんとなくわかっても、かける言葉はわからなかった。先輩がどんな作品を、どんな思いで書いたかはわからなかったから。それでも先輩は私に笑いかける。

「もし受賞してたらさ、コンテスト受賞作家在籍! って貼り紙貼って、新入部員を呼び込むつもりだったんだ。あと一年、三年生が卒業するまでに部員を二人増やさないと廃部になっちゃうから。でも、結果発表見て落ち込んでたら一花ちゃんが来たんだ。きみは文芸部の救世主だよ」

「救世主なんて言い過ぎですよ。それにまだ一人足りませんよ」

「それでもこのタイミングで来てくれるなんて奇跡だよ」

 救世主とか、奇跡とかすごく大げさだけれど、先輩の純粋な瞳に今日来て良かったと思った。高校に入って、誰かとこんなふうに話しをするのは初めてだ。私の高校生活どうなるんだろうと不安だったけれど、一つ楽しみができた。


 それから放課後は毎日部室に行った。小説を読んだり、物語の設定を練ってみたり、先輩と他愛のない話をしたり。そんな時間が心地良くて、私にとってこの日常が欠かせないものになっている。

 クラスでは相変わらず本ばかり読んでいるけれど、そんな日常にも慣れてきた。

 今日も部室でひたすら小説を読んでいる。先輩はノートに向かって何やら頭を抱えていた。新作を考えているらしい。うーんと唸りながら先輩は顔を上げ、私を見る。盗み見していたのですぐに目が合った。そして私が読んでいた小説に目を向けると優しく笑う。私は、この先輩の表情が好きだ。

「一花ちゃん、今日は短編集読んでるんだ」

「はい。今までずっと一つの作品をダラダラと書いてたので、次はしっかり起承転結でまとまった短編書いてみようかなと」

「短編いいね。この前見せてもらったお話もすごくよかったよ。展開はゆっくりだったかもしれないけど、主人公の心情の変化が丁寧に描かれていて一花ちゃんらしいなって思ったよ」

「ありがとうございます……」

 読んでもらったはいいが、待っている間すごく恥ずかしかった。お返しにと読ませてもらった先輩の作品が素晴らしかったから。面白くて、夢中で最後まで読んでしまった。こんなに素敵な物語を書く人に、私はなんて拙いものを読んでもらったんだろう。もっと上手くなりたいと思った。もっと誰かの心揺さぶる物語を書いてみたい。

「どんな短編を書くの?」

「やっぱり恋愛物語が書きたいなと思うんですけど、具体的なことはまだ……」

 書きたいけれど、書くのって難しい。だから、今はひたすら小説を読んでいる。すると先輩はペンを置き、ノートを閉じた。

「ねえ、取材にいかない?」

「取材、ですか? でも私、まだなに書くかも決めてなくて……」

「別になにかするって決めて行かなくていいんだよ。一花ちゃん言ってたでしょ、綺麗なものを見たときにそれを書きたくなるって。書きたくなるようなことを探しに行こうよ。実は俺もちょっと行き詰ってるんだ」

 取材のあとはそのまま帰るからと、荷物をまとめ部室を出る。流れに任せてついて行った先は、学校の裏にある墓地公園だった。なんで墓地? と思ったけれど、先輩はお墓が立ち並ぶ丘をどんどん登っていく。お墓参りに来たというわけではなさそうだ。

 お墓のある区域を通り過ぎ、丘を登りきると開けた場所に出た。木製のフェンスがあるだけで他には何もないけれど、街の景色を一望できる開放感のある場所だった。

「墓地の上にこんなところがあるなんて知りませんでした」

「なかなかここまで登ってくることはないよね。でも、俺はこの場所が好きなんだ。一花ちゃんにこの景色を見せたくて」

 先輩はフェンスのところまで行くと少しだけ身を乗り出すようにして遠くの景色を眺める。私も横に並び、同じようにフェンスに掴まって眺めてみた。何も言わず、しばらくの間じっと見つめる。それは、沈んでいく夕日に赤く染まった街がゆっくりと色を変えていく様子だった。

「日が沈んでいくのを見てると一日が終わるんだなって思いますね」

「ここから朝日は見られないけど、日はまた登って、また沈んでいく。繰り返しだけど、流れていく景色を見てると、世界は生きているんだなって思うよね」

 世界は生きている。そんなふうに考えたことはなかった。繰り返していく日々の中、自分のことだけで精一杯で、世界なんてそこにあって当たり前だと思っていた。でも、物語を創るって世界を創るってことだよな。この景色を見ていると、なんだか壮大な物語を書きたくなってくる。

「なんか、壮大な話を書きたくなってくるね」

「あ、私も同じこと思ってました」

 二人で顔を見合わせクスリと笑う。先輩はこの景色を見て、どんな物語を書くのだろう。

 日が沈んでしまった空は星たちが瞬きはじめ、また違った世界を見せてくれた。


 そろそろ帰ろうと墓地の丘を下る。カチカチと不規則に明かりを灯す街灯が、夜の墓地の雰囲気を際立たせている。来た時よりも先輩の近くに寄り、早足で歩く。

「おばけとか怖いタイプ?」

「怖いですよ。先輩は怖くないんですか?」

「小さい頃は怖かったかな。でも今はそんなに」

「すごいですね……」

 墓地だからといって絶対に幽霊がでるとは思っていないし、この墓地でなにか出るみたいな噂も聞いたことはないけれど、どうしても雰囲気にのまれてしまう。

「俺だってさ、いつか死んでこっち側になるじゃん?」

「幽霊側ってことですか?」

「そうそう。俺が化けて出たら一花ちゃん怖い?」

「驚きはするけど、そんなに怖くはないかもです。むしろ会いたいかも……」

 先輩がいつ死ぬかなんてわからないし、死んだとして成仏できずに幽霊になるかどうかもわからないけれど、きっと会いたいと思ってしまう。幽霊でもなんでもいいから、もう一度会いたいと。それほど私にとって先輩は大切な人になっている。

「ありがとう。そんなふうにさ、もし幽霊に遭遇したとしても、どこかの誰かにとっては会いたい人で大切な人なんだって思ったら怖くなくなるよ」

 ちょっと強引な考え方だなと思う。それに本当に幽霊に遭遇したら、絶対に叫んで逃げ出すはずだ。けれど、先輩があまりにも明るく怖くないよと言うから、もしかしたら怖くないのかも、と思ってしまう自分もいる。

「先輩なら幽霊に話しかけたりしそうですね」

「さすがにそれはしないよ」

 先輩はクスリと笑う。でもすぐに真剣な表情になった。

『本当に怖いのは生きている人間だよね』

 小さく呟いた言葉は、このだれもいない静かな暗闇で聞き取るには十分だった。いつもニコニコして明るく前向きな先輩だと思っていたけど、なにか抱えていることがあるのだろうか。聞いてもいいのだろうか。わからないけれど、先輩の本心を見せてくれた気がして、少し踏み込んでみたくなった。

「なにか……あったんですか?」

 先輩は困ったように笑うと小さく首を振る。それでも、ポツリと溢すように話してくれた。

「俺じゃないんだけどね。妹が……学校でいろいろあって、それから笑わなくなったんだ。笑わないというか、無表情?」

 妹さんのことを思い浮かべているのだろう。悲し気で、心配しているような、そんな表情だった。学校でいろいろ、なんて安易に想像がつく。きっといじめの類なんだろう。無視とか陰口とか、物を隠されたりいたずらされたり。どの程度のことかはわからないけれど、心に傷を負うのに程度なんて関係ない。妹さんはすごくつらい思いをしたはずだ。

「あ、そんなに深刻に捉えないでね。妹ってけっこう強いやつでさ、そんなことがあっても本人はあっけらかんとしてて、全然楽しそうではないけど毎日学校行ってたし、今は新しい環境になって上手くやってるみたいだから」

「そう、なんですね……」

「でも、泣いたり笑ったり怒ったり、そういうのが全然なくなった。まるで感情がなくなったみたいに。前はすっごい明るいやつだったのに。人をこんなに変えてしまうのは結局人で、それってすごく怖いことだと思う。でも、だからこそ俺は妹を泣かせたいんだ」

「え? 泣かせたい?」

 笑わせたい、じゃないんだ。

「俺の書いた小説で妹を泣かせる。それで、感情を取り戻す。それが俺の目標」

 もちろん部員を増やすこともね、と付け足した先輩はいつもの明るい先輩だった。妹さんを感動させて泣かせたい。それが先輩の小説を書く意味なんだ。私が小説を書く意味ってなんだろう。ただの趣味で、書きたいと思うから書いている。なにか目的があるわけではなかった。

 人は人を変えることができる。それは良い方にも悪い方にも。私は、誰かを良い方に変えられる、感動させられる小説を書くことができるだろうか――。


 それからも、先輩との取材は続いた。

 私が恋愛物語を書きたいと言ったから、先輩が学校でカップルを見つけてこっそり観察なんかしてみたり。なんか、のぞき見してるみたいですねと言ったら、先輩は向こうは隠れてないんだから見てもいいでしょと笑った。だから私も開き直ってたくさん人間観察をした。放課後、先輩と一緒に屋上へ行って運動部の部活を眺めたり、至る所から聞こえてくる吹奏楽部の練習している楽器の音色に耳をすませてみたり。今まで何も感じていなかった日常が、一つ一つ意味のあるものなんだと感じる。


 そして今日は部室でお互いペンを走らせている。

「先輩、もうなに書くか決まったんですか?」

「うん、決まったよ。一花ちゃんは?」

「私もだいたい決まりました」

 見て、聞いて、感じたこと、書きたいと思ったこと、浮かんだエピソード、キャラクター像、まとめることがたくさんある。書きたいことが決まると、もっと知りたいと思うことが出てくる。

「一花ちゃん、夏休みに入ったら取材しながら執筆も進めよう。思い切って遠出とかしてみてもいいし」

「遠出、いいですね。楽しみです」

「俺、行きたいところあるんだ――」


 どこに行くか、どんなことをするか、たくさん話をした。こんなに毎日がワクワクするなんていつ振りだろう。それも、全部先輩のおかげだ。高校生になって初めての夏休み、きっと充実したものになる。


 そう、思っていたのに――。


 一学期の終業式の日、朝一番に担任の先生に話があると呼びだされた。

 それは私にとって、とてもつらく、心がえぐられるような、現実だった。


「二年の守屋が昨日の帰宅途中、事故にあって亡くなった――」

 

 



 『終わりゆくこの美しき世界で』    一年二組 花森 カズハ



「先輩、最後の瞬間ってやっぱり怖いですよね」

「最後の瞬間よりそれまでの方が怖いんじゃない?」

「あー。確かにそうかもですね」

「現に今だってみんな恐怖と闘ってるでしょ」


 夏休みを三日後に控えた放課後、文芸部の部室。二年生の高屋タクミ先輩は私の質問に答えながらも原稿用紙にひたすら物語を綴っている。なんでこのご時世原稿用紙なんですか、と聞いたらこの方が没入できるからと言っていた。結局あとからパソコンに書き直さなければいけないのだから手間なのになという本心は言わずに、そうなんですね、と返したのは三ヶ月前私がこの文芸部に入部したときだった。かくいう私も今はノートに向かっているのだが。

 先輩の没入を邪魔しようと思っているわけではないが、私は会話を続ける。自分の筆が進まないからだ。

「どうやったら怖くなくなると思います? 巨大隕石が落ちてきているのをただ見ているしかできない時間って絶対に怖いですよね。ああ、いまから世界は滅亡するんだって」

「落ちてくるの見なければいいんじゃない? 下向いとくとか」

「下向いてたって強烈な光線と耳をつんざくほどの轟音が響くって言うじゃないですか」

「地下に隠れとくとか」

「もう日本に地下はありませんよ。てか普通に生き埋めになるじゃないですか」

 適当なことばかり言うなあ、と思いながらもその適当さが心地よかった。まるでこれからやってくる現実はなんでもないことなのかもしれないと思わせるほど。

「そういえばうちのクラス、入所者が出たんだ」

「え……そう、なんですね」

 思っているさなか、急に現実に引き戻される。先輩は酷な人だ。

 『入所者』それはもう、人ではないことを意味する。


 ゾンビウイルス。なんてチープな名前のウイルスなんだと思うが、感染すればまさに名前の通りゾンビのように自我を忘れ、他者を襲い、人ならざる者になる恐ろしいウイルスだ。

 感染経路は不明。どんな人がどうやって感染しているかもいまだわかっていない。なにせ、四年前に突然人がゾンビになり、発見されたウイルスなのだ。ゾンビウイルスに関する研究は進められているが進展はない。感染者は治すことも放置することもできず、保護施設という名の監禁施設に入れられる。

 世界が滅亡するのが先か、人類が滅亡するのが先か。どちらにしても滅亡するのだから未来は真っ暗だ。

「最後の瞬間、ゾンビになってたら恐怖なんて感じずに終わるかもね」

「それは笑えませんよ」

 笑えないといいながら、ぎこちなく笑い先輩を見る。

 先輩は顔をあげて窓の外を見ていた。私もつられて外を見る。いくら夏とはいえ、ギラギラと照りつける太陽は夕方とは思えないほどの熱をこの地球に注いでいた。

「先輩、最後の瞬間に私と一緒にいてくれますか」

「カズハちゃんといられたら楽しい最後になるかもね」

 楽しい、なんてことはないだろう。それでも、最後の瞬間に一緒にいたいと思える人だ。先輩もそう思ってくれているのだろうか。


 四年前、アメリカに突如現れた宇宙人らしき生物が置いていったデータ。世界各国の有識者たちが解読を続け、一年前やっとそのデータが何を表しているかが解読された。だがそれはあまりにも絶望的な現実を突き付けるだけの、人類にとって知りたくもなかった情報だった。

『五年後、十㎞を超える巨大隕石が地球に衝突する』発表された時点で隕石の軌道を計算し地球への衝突は免れないと断言していたことから、もっと前にデータの解読はされていたのだろう。

 きっと関わった識者全員が得体の知れない宇宙人の置いていったデータなどでたらめであってくれと願っていたはずだ。だがそれはでたらめでもなんでもなかった。残された時間はあと一年。

 ただでさえ謎のウイルスによりパンデミックが起きている今、人類を絶望させるには十分だった。

 もう、誰も助かろうなんて思っていない。最後の日がくるまでどれだけ有意義に過ごせるか、ただそれだけ。表面上は平和な世の中だった。

 そしてその謎のウイルスはちょうど宇宙人が現れた一ヶ月後に発見されたため、宇宙人が置いていったのではないかと言われている。


「中高と一番大事な青春時代に世界滅亡と向き合って生きていかないといけないなんてひどいですよね」

「それもそれで青春かもしれないよ」

「先輩はやけに開き直ってますよね」

 一年後、隕石が落ちてこなかったら。ゾンビウイルスの特効薬が開発されたら。世界が滅亡しなかったら。そんなことをいつも考えている。こんな抱えきれない恐怖なんかじゃなく、将来の不安と闘っているのだろうか。もっと必死に勉強なんかしてどこの大学行こうかなんて言っているのだろうか。好きな人に告白して、青春を謳歌しているのだろうか。そんなことをしても意味がないと思ってしまう私は、目の前にいる優しい先輩と無駄話をすることだけが楽しみだった。

「カズハちゃん、そろそろ帰ろうか」

「あ、はい。そうですね」

 私は全く書いていないノートを閉じ、鞄にしまう。せめて種書きくらいしようと思っていたけどなにも浮かばなかった。どんな物語を書くかは決めているのに、何を書くかは決まらない。書きたいのに書けない。書いたところで誰が読むというのだろう。書いたところで消え去ってしまうのに。そんなことを考えるようになっていた。今まではあんなに好きだったのに。物語を綴ることが。自分の世界を創りあげることが。

 学校を出て先輩と並んで歩く。空はこんなに明るいけれど、先輩はいつも家まで送ってくれる。何があるかわからないからと。心配してくれるのが嬉しくて、一緒にいられる時間が楽しくて、お言葉に甘えている。

「執筆、行き詰ってるの?」

「え……と、書きたいことはあるんですけど、それをどんなエピソードでどんな風に表現すればいいいのか具体的な内容で悩んでて」

「恋愛ものだっけ?」

「そうです。幼馴染の、純粋でそれでいて切ない感じの話なんですけど……」

 私には彼氏もできたことがなければ、そういう幼馴染だっていない。全て私の憧れと妄想から構想を立てた物語だ。でも、小説を書くってそういうことだよなとも思っている。

「カズハちゃん、物語を書くときに大事なことってなんだと思う?」

「読者に伝えたいことを明確にしておくこと、とかですか?」

「それも大事だけど、重要なのは体験だよ」

「体験、ですか……」

「読者は物語を読みながら、その世界を疑似体験するんだ。決して現実では起こりえないような体験、それでいてどこかリアルな心情、そんな物語に読者は没頭し、心奪われていくんだよ」

 これは俺の持論だけどねと言った先輩は、ここからが本題だと私を見てにこりと笑う。

「作者はそんな物語をどうやって書く? もちろん想像力だよね。でもそれだけじゃ補いきれない。カズハちゃんは今まさにそこでつまずいてる。だったら自分で経験するんだよ。実際にじゃなくていい。本を読んだり映画を観たり、あとは取材! これ重要!」

「取材?! 難しくないですか?」

「ものによっては難しいけど、幸いカズハちゃんが書こうとしてるのって現代の恋愛ものでしょ? 身近な人に話を聞くとか、書きたいシーンの舞台となる場所に行ってみるとか」

「身近な人っていっても、モデルになるような幼馴染カップルなんていますかね……」

「探せばいるでしょ。俺も手伝うよ」

 自分のこともあるのに手伝ってもらうのは悪いと言ったけれど、先輩はこれは自分の取材でもあるからとなぜか私よりやる気満々だった。


 そんな話をした翌日、先輩は早々に幼馴染同士で付き合っているというカップルを連れてきた。なんとも仕事が早い。とういよりも、元々知っていたのかもしれない。


「俺と同じクラスの和泉ユウコさん。と三年のユキトさん」

「花森カズハです。取材に応じていただいてありがとうございます。よろしくお願いします。」

 先輩が紹介してくれ、私は頭を下げる。ユウコさんとユキトさんもよろしくと微笑んでくれた。その表情が似ていると感じたのは気のせいではないと思う。

 わざわざ放課後に部室まで二人でやってきてくれて、話を聞かせてくれるのだという。いい人たちだ。

 部室にある長机を挟んで私とタクミ先輩、向かいにユウコさんとユキトさんが座る。取材なんて初めてだし、先輩たちに囲まれて緊張する。

「えっと、まず二人の出会いを教えていただけますか?」

 当たり障りのない質問からした方がいいかなと思ったけど、なぜかくすりと笑われる。

 そしてユウコさんが優しく答えてくれた。

「家が隣同士の幼馴染だから、生まれたときからずっと一緒で出会いっていう出会いはなかったかな」

「たしかに、そうですよね」

「カズハちゃん、本当に聞きたいこと、知りたいことってどんなこと? 答える答えないは二人の自由だし、なんでも聞いてみたらいいと思うよ」

 本当に知りたいこと……。私が書きたいこと。

「お二人は、お互いに言えない秘密とかありますか?」

「私はないよ。子どものころから何でも見せてきたし何でも言ってきたし今さら隠すことなんてないかな」

「僕はあるよ」

「ええ! うそ!」

 ユウコさんは隣に座るユキトさんの方を勢いよく向き、驚いている。きっと、ユキトさんに秘密があるなんて思っていなかったのだろう。

 秘密ってなに、教えてよ、まあそのうちね、という二人のやり取りがすごく微笑ましい。秘密にされていることがあり、秘密にしていることがある。それでもお互いに信頼しているんだろうなということが見ているだけでわかる。

 その後もたくさん質問した。ケンカをしたときどうやって仲直りするのか、二人の思い出の場所はどこか、別れたいと思ったことはあるのか――。

 どの答えも私の想像とは違っていた。どちらかが先に謝って、話し合って仲直りするのかと思っていたけど、そんなことはしないらしい。ケンカをしてもただ自然にそばにいて、いつの間にか元通りになっている。話し合わなくても幼い頃から一緒にいると何に怒っているか何がだめだったかはわかっているから言葉じゃなくて行動で反省を示しているのだそう。

「じゃあ、付き合うきっかけはなんだったんですか? 幼馴染から恋人になるきっかけ」

「きっかけかぁ。好きだって気づいたのは中学生になったころだったんだけどね。生まれた時から一緒にいて一緒にいるのが当たり前で好きとか嫌いとか考えたことなかったの。でも、ユキトに彼女ができたとき、めちゃくちゃむかついた。ユキトの隣は私の場所なのにーって。だからユキトが彼女と別れたらそっこー告白したの。早くしないとまた他の人に取られちゃうって思ってね」

 自分の居場所だと思っていたところがそうじゃなくなったとき、気づく気持ちがある。それは私にもなんとなくわかる気がする。

「僕はずっとユッコのこと妹みたいにしか思ってなかったんだけどね。彼女も何人かいたし。でも、何度も好きだって言われて、ユッコのことを意識し始めたときに、お互い成長してこれから先いろいろ変わっていくけど、その変化を一緒に楽しみたい、ユッコのこれからを、そばで見ていたいって思うようになったんだ。それで好きなんだなって気づいたんだよね」

 変化を一緒に楽しみたい、そばで見ていたい、その言葉に計り知れない愛を感じた。幼馴染だからこその気持ちの変化、関係の変化があって、そして築かれた絆がある。二人の話を聞いていてそう感じた。


「最後に踏み込んだ質問いいですか?」

「もちろん」

「いいよ」

「最後の瞬間、お二人はどうやって迎えますか――」


 ◇ ◇ ◇ 


 「取材、どうだった? 俺はけっこう楽しかった」

 帰り道、いつものように並んで歩きながら先輩は言う。楽しかった、とは少し違うけれどとても有意義な時間だった。話を聞くだけでたくさんの感情を知ることができた。この世界には唯一無二の物語が至る所で繰り広げられているのかもしれない、そう思えた。気づくことができた。

「知ろうとしなければわからないことがあるんだって思いました。知ろうと思えば知ることができるんだとも」

「いい経験になった?」

「はい、とても。ありがとうございました」

 先輩は満足気に笑う。先輩も自分の取材というものができたのだろうか。

 幼馴染の恋愛物語を書くからといって、彼女たちをモデルに書くわけではない。それでも、私の知りえない経験や感情を知ることができてよかった。

「カズハちゃん、明後日終業式が終わったら遊園地行かない?」

「え? 遊園地?!」

「取材だよ。さっき行きたそうにしてたでしょ」

 二人に思い出の場所はあるかと質問したとき、口を揃えて遊園地だと答えていた。記念日、誕生日、クリスマス。どちらからともなく遊園地デートをしようと言い出す。遊園地は一日中お互いの笑顔を見られる魔法の場所なんだと言っていた。

 お互いそう思えるそんな素敵な場所があるなんていいなと呟いたのだけど、その呟きを聞かれているとは思わなかった。

「付き合ってくれるんですか?」

「もちろん、取材手伝うって言ったでしょ。疑似体験だよ。明日は俺たち幼馴染カップルね」

「カップルとして行くんですか?!」

 そこまでする必要があるのだろうかという疑念はあるが、先輩と過ごす楽しい時間を想像するだけで顔が緩んでしまいそうだった。

 もうずっと、楽しいと思えることなんてなかった。物語を綴っているときだけが、現実を忘れられる唯一の時間だった。でも私ちたにはまだ楽しめる時間が残っている。今日の取材でそう思えた。


『最後の瞬間、お二人はどうやって迎えますか』

『手をつないで、お互いだけを見つめて、笑い合って迎えます』




 ――七月二十五日   宮園 一花


 先輩が、事故にあって、亡くなった……?


 私の頭の中は真っ白で、先生に言われたことを理解することも、受け入れることもできずにいた。

 終業式の校長先生の話もホームルームの先生の話も全く頭に入ってこないまま、気づけば西日が差し込む部室にいた。

 先輩が、死んだ? そんなわけないよね? 昨日だって、夏休み楽しみだねって話してたのに。

 今日、終業式が終わったら遊園地に行こうって約束してたのに――。


 滲んだ視界を遮るように目を閉じる。生暖かい雫が頬を濡らす。私はこれから、どうしたらいいの。先輩のいないこの世界に、私は何を見つければいいのだろう。

 先生に、お葬式に行きたいと言ったら、ご家族だけで済ませるそうだから行けないと言われた。お別れもできない。

 もう、先輩の姿を見ることはないんだ。先輩の優しく笑う顔も、一花ちゃん、と呼ぶ声も、もうなにも……。そう思うと涙が溢れて止まらなかった。毎日泣いて、泣いて泣いて、また泣いた。

 つらくなることを分かっていて、夏休み、毎日部室へ行った。何をするわけでもなく、先輩と過ごした日々を思い出しては一日中泣いた。

 

 そんな夏休みのある日、今まで誰も訪ねてくることがなかった部室のドアが開いた。

 突っ伏して泣いていた顔を上げると、少しだけ見覚えのある女子生徒がいた。

 彼女はたしか、隣のクラスの人だ。美人で成績もよくて、それでいてクールな性格で、高嶺の花だ、なんて男子たちが噂をしていたのを聞いたことがある。でも、どうして彼女がこんなところに?


「宮園一花さん、だよね? これ兄の鞄に入ってたの。あなたのでしょ?」

「え……兄?」

 渡されたのは一冊のノート。先輩に読んでもらった、私が書いた小説。読んだあとに感想は聞いたけれど、ずっと先輩に預けていた。もう少しじっくり読むからと。

 そうだ、彼女の名前は守屋藍さん。まさか、彼女が先輩の妹だなんて知らなかった。妹がいるとは聞いていたけど、私と同い年で同じ学校だったなんて。

 私はノートを受け取ると、さらに涙が溢れてきた。そこには先輩の字で書かれた付箋がたくさん貼られていたからだ。

『ヒロインの心情がよくわかっていい』『この葛藤に共感する』『会話のテンポ最高!』『胸キュンだ』『このセリフ泣ける』

 拙くて荒い文章に、独りよがりな物語なのに、先輩はたくさん褒めてくれている。

 涙を拭い、鼻をすすっていると、守屋さんがポケットティッシュを渡してくれた。頭を下げて受け取ると、守屋さんはなぜか私の向かいに座った。

「お兄は小説が好きだった。書くのも読むのも。だから文芸部に宮園さんが入ってきてくれてすごく喜んでたよ。同じように小説が好きな子がきてくれたって」

 その言葉にせっかく拭いた涙と鼻水がまた流れてくる。

 守屋さんはその後何も言わず、私が泣き止むまでただそばにいてくれた。


「これ、わざわざ持ってきてくれて、ありがとう……」

「あなたのものなのに、勝手に捨てるわけにはいかないでしょ?」

 困ったように笑うその表情は、どこか先輩に似ている。妹は感情がなくなったみたいだ、なんて言っていたけれど、そんなことはない。すごく優しい表情をする人だ。

「先輩と、よく話しをしてたの? 部活のこととか」

「話しをしてたというか、一方的に聞かされてたって感じだけどね」

 少し呆れたように話す彼女は、きっと先輩のことを思い出しているのだろう。

 落ち着いてきた私は、また付箋に目を落とす。 一つ一つの言葉を嚙み締めながらページをめくっていると、ノートを破ったメモ書きが挟まっていた。

『やることリスト』そこに書かれていたのは、先輩が小説を書く前にやりたい、取材をしたい、と言っていたことだった。

 

『俺、次は終末系書くわ!』

『終末系、ですか?』

『一花ちゃんはあまり興味ないジャンルだから知らないかな? 世界滅亡だよ』

『いや、それはわかります。あまり読んだことはないですけど。SF小説ですよね? 匠先輩がSFなんて珍しいですね』

『書くのは難しくて挑戦したことなかったけど、好きなんだよね。滅亡の危機に直面した人々の人間模様が描かれた作品とか。絶望を目の前にあがいて苦しんでそれでも限りある時間の中で成長する姿とか育まれる愛とか友情とかさ! 絶対に感動すると思うんだよね』

『たしかに、そういう青春物語は匠先輩好きそうですね』

『俺、絶対に書きあげるから一花ちゃん付き合ってね。取材とか資料集めとか』

『それはもちろん。私もたくさん付き合ってもらったんで、できることならしますよ』

『ありがとう! 一花ちゃんは頼りになるな』

『私、匠先輩の書く物語好きなんです。だから、楽しみにしてます』

『この話を完成させて、学校で配ってさ、部員増やしたいよね。学年変わる前に部員が三人以上にならないと廃部とか辛すぎ。せめて一花ちゃんが卒業するまでは存続させないと。あと、妹を泣かせないとね――』


 先輩、次は世界滅亡系の話書くって言ってた。いったいどんな話を書くつもりだったんだろう。

 

「守屋さん、先輩の鞄に『プロット』って書かれたノート入ってなかったかな?」

「ああ……たぶんあったと思う。なんのノートだろうって思ったのがあったんだよね」

「それ、譲ってもらうことはできる?」

「いいと思うよ。一応親にも聞いて明日持ってくるよ」


 翌日、彼女はちゃんと先輩のプロットノートを持ってきてくれた。

 私は先輩のノートを開く。……ん? なんだこれは、と思った。中はプロットじゃなくて設定案らしきものを書き連ねただけだった。世界が滅亡する原因をいくつかあげてみただけ? それとも全て詰め込むつもりだったのだろうか。

 それは分からないけれど、私はやることリストに書いてあったことを実行してみることにする。

 先輩が残したノートとメモを元に、私はこの小説を完成させる。先輩が書こうとしていたこの世界滅亡に向き合う人たちの小説を。先輩がやりたかったことをやり遂げるために。

 それが、今私にできるただ一つのことだと思うから。


 まず守屋さんに頼んで先輩の持ってる小説を全部借りた。

 そしてコンビニでバイトも始めた。取材をするための費用が必要だったから。夏休みはバイトに明け暮れ、合間で小説を読んだ。たまにバイトが休みの日は映画を観た。目的はなくても散歩をしてみたりもした。どれも、今まで先輩としてきたこと。しようと言っていたこと。


 夏休みが明けるとまた部室に通うようにした。土日はバイトをして、平日の放課後は先輩がいた頃と同じように過ごす。ただひたすら小説を読んでいるだけの日もある。時々、先生が部室を覗いてきては私を心配そうに見つめて去っていくこともある。何しに来たんだろうという疑問は四回目から湧かなくなった。たぶん、私の様子を見に来ているだけだ。私がなにかおかしなことをしないかとでも思っているのかもしれない。


「一花、顔怖いよ。少し休憩したら?」

 声をかけられ、ページをめくる手を止めると、藍がパックのカフェオレを机に置いて渡してくれる。自分の分もあるようで、彼女もパイプ椅子に腰掛けると、パックにストローをさして飲みはじめた。

「藍、ありがとう」

 小説に栞を挟んでから閉じ、私もカフェオレを飲む。

 あれからお互いに名前で呼ぶようになっている。夏休み、先輩の小説を借りるために何度か家を訪ねることもあった。お葬式には行けなかったけれど、仏壇の前で先輩に手を合わせた。その流れで一緒にお昼を食べたり、お互いのことをゆっくり話すこともあった。

 そうしているうちに自然と一花と呼ばれるようになった。先輩がずっと家で一花ちゃんと言っていたから、一花で定着しているそうだ。『だから、一花も藍って呼んで』そう言われてから、名前で呼ぶようになったのだ。

「ねえ、一花大丈夫?」

「え? なにが?」

「もっとさ、好きなことしていいんだよ。自分がしたいことをさ」

 先輩が言っていたように、たしかに藍は感情をあまり表には出さない。でも、すごく優しくて面倒見がいい。こうやって、いつも私のことを心配してくれる。そんな藍のことが私は大好きだ。先輩と同じように私も藍を泣かせたいと思う。笑って欲しいし、時には怒って欲しい。だから、私は小説を書く。世界滅亡という心乱される物語を。たとえ高校生活、青春を全て捧げることになっても。きっとそれが私の青春になるから。

「藍、ありがとう。でも、これが私のやりたいことだから」


 気がつけば、先輩が亡くなってから三度目の夏がきていた。

 私はずっと、先輩の見ていた世界を追い続けている――。

 



 『終わりゆくこの美しき世界で』   花森カズハ



「えー、風邪にはくれぐれも気を付けてください。少しでもおかしいと感じたらすぐに医療機関を受診し――」


 終業式が終わり、あとはホームルームで担任の話を聞くだけだと思っていたら、校長先生の話よりも長い話を聞かされている。しかも同じことを何度も何度も。

 風邪に気を付けなさいって言っているけれど、本当は風邪のことではない。ゾンビウイルスに気をつけろと言っている。そんなの、気をつけようがないのに。

 ただ、感染した初期症状として風邪症状があるらしい。はじめは風邪かなと思っていたら、なかなか治らず、一ヶ月ほど経つと意識が混濁しはじめ、そしてゾンビ化する。

 私も先週風邪で熱を出したとき、もうだめだと思った。このままゾンビになって自我をなくして施設に入れられてなんの感情もないまま最後の日を迎えるんだと。でも、薬をのんで一日寝ていたら次の日には頭はスッキリしていて、なにごともなく今に至る。

 空気感染でも飛沫感染でも血液感染でもないゾンビウイルスは、もはや宇宙人が人間を選別して感染させているのではないかという噂まで飛び交っている。まさに運としか言いようのないウイルスだ。

 そんなことを考えているうちに担任の話は終わった。私は荷物を持って、急いで先輩と待ち合わせ場所である校門へと向かう。きっと、待たせているはずだ。と思っていたら下駄箱を出たところで先輩と会った。先輩も急いでいたらしく、少し息が切れている。そんなお互いの様子に顔を見合わせ笑った。


 学校を出て、電車に乗って、遊園地にやってきた。今日まで学校ということもあり、人はそこまで多くない。それと、昼間は常に熱中症アラートが発令されている。小さな子どもや体調に心配のある人たちはこの時間帯に遊園地などの外での施設で遊ばなくなっている。

 太陽の膨張により、地球温暖化が急速に進んでいるのだ。宇宙人襲来と関係があるのかはわからないけれど、これも四年前からだ。

 制服も冷感の長袖シャツだし、露出部の日焼け止めは絶対に欠かせない。水分はいつも持ち歩いているし、鞄には冷却シートも入っている。こんな習慣ももう四年になれば、慣れてきた。この暑さにはあと一年で慣れることはないのだろうけど。

 それでも、汗をにじませながら、煌めく空間にキラキラとした目を向ける先輩の横顔を見るとこれくらいの暑さなんてまだまだどうってことないように思える。

「先輩、すごく嬉しそうですね」

「実は遊園地めちゃくちゃ久しぶりなんだよね。ワクワクしてる」

「私も楽しみにしてました。行きましょう!」

「まずはジェットコースターからだね」

「いきなりですか?!」

 なんて言いながらもジェットコースターは私も好きだ。あの爽快感は何度乗っても飽きない。それこそ暑さなんて吹き飛ぶほど。

 私たちは何度もジェットコースターに乗った。コーヒーカップもメリーゴーランドも空中ブランコも。ずっと楽しくて、先輩も楽しそうで、それだけで笑顔になれる。本当にここは魔法の場所だと思った。

 何時間も遊び、日も傾きはじめたころ、最後に観覧車に乗ることになった。

 揺れるゴンドラへ支えられながら乗り込み、向かい合って座る。なんだか照れくさくてすぐに外の景色を眺めた。

「わあ、きれい……」

 夕日に照らされた街の景色、その向こうにある山々、茜色の空。目に映る全てのものが輝いている。

「ほんと、きれいだね」

 先輩も景色を眺め、優しい笑みを浮かべていた。

「私、本当はもう書けなくてもいいかなって思ってたんです。書く意味あるのかなって」

「うん」

「でも、やっぱり書きたくなりました。書きます私」

 視線を先輩に戻すと先輩も私を見ていた。そして、やっぱり優しい笑みを私に向ける。

「カズハちゃんなら、きっと書けるよ。きみの、純粋で真っ直ぐで、それでいてどこか危なっかしい感情が隠れてる、そんな話は人の心を動かす力を持っていると思う」

 きっと先輩は、私が行き詰ってるだけじゃなく、書く気力を失っていることにも気づいていたはずだ。それでも捨てきれずにもがいている私のことも。

 

 私が小説を書き始めたのは、中学生になったころだった。当時は謎のゾンビウイルスにより、学校へ行くことも、外へ出ることさえ制限されていた。私は家で本を読み漁った。没頭した。いつしか自分で書き始めていた。自分だけの物語を。ドキドキしてワクワクして、苦しくて切なくて、それでも心はときめいて、書き終わったときにはなぜか涙が溢れていた。読み返すと文章はめちゃくちゃだし、なにが言いたかったのかよくわからないけれど、書いているときだけはたしかに私は物語の中に生きていて、その世界を駆け抜けていた。

 謎のウイルスが空気感染しないとわかると日常は戻ったけれど、次は隕石が落ちて世界は滅亡するなんて言われた。神様はよほど地球が嫌いみたいだ。いや宇宙人か。

 それでも私は物語を書き続けた。でも、続けられなかった。それから一年がたち、刻一刻と世界滅亡が近づいてくるとだんだんと書けなくなった。書きたいのに、書けない。

 そんな中、入学した高校で文芸部があることを知った。説明会でもらったパンフレットには載っていなかったのに。おそるおそる訪れた文芸部で先輩と出会った。私は今まで書いた中で一番出来がいいと思う小説を先輩にみせた。

 『このお話を読むと君のことがよくわかるよ』それが先輩の感想だった。

 それから平凡な部活動が始まった。お互い机に向かって作業をしながら世間話なんかをする。先輩はたくさん原稿用紙に執筆しているけれど、私はノートに種書きしたり相関図を書いたり謎の詩を書いてみたりしているだけ。それでも、穏やかな時間が流れるこの部活が好きだった。

 だから先輩が『執筆、行き詰ってるの?』と聞いてきたことには驚いた。そういうことは言わないのかと思っていた。入部して三ヶ月、一度も書いていない私にずっと何も言ってこなかったから――。


「カズハちゃん」

 先輩は私の名前を呼ぶと、鞄から手のひらほどの小さな箱を取り出し差し出してくる。

「これは……?」

「プレゼントだよ」

「プレゼント? どうして? 私誕生日でもなんでもないですよ」

「でも今日俺たちは幼馴染カップルでしょ。恋人にプレゼントするのに理由なんていらないよ。開けてみて」

 すごく無理やりだなと思ったけど、プレゼントがあるなら事前にいって欲しかった。だったら私もなにか用意できたのに。まあ、普通言わないか。私は箱を受け取り、そっと蓋を開ける。

「これは……ラピスラズリ?」

 紺色の地色にパイライトがちりばめられた綺麗な石。それを組み紐に通してブレスレットにしたものだった。

「そう、恐怖を払うお守りらしい。この前、どうやったら最後の瞬間怖くなくなるかって言ってたから。気休めにしかならないかもしれないけど」

 困ったように笑う先輩。あの時私が言ったこと、気にしてくれてたんだ。先輩は真剣に書いていたし、返事は適当だったからこんなに考えてくれていたなんて思っていなかった。

「ありがとうございます。嬉しいです! もう、肌身離さす着けておきます」

 ラピスラズリはネガティブなエネルギーから解放され、強力な厄除けをしてくれる石だそうだ。

 そして真実を受け入れ、持ち主を自分が進む道へと近づけてくれる、と添えられたカードに書かれてあった。

 先輩が、私のことを思ってこのブレスレットを選んでくれたんだということがよくわかる。だから私もその思いに応えたい。ちゃんと前を向かないと。

「先輩、私取材に行きます」

「急にすごくやる気だね」

「水平線から昇る朝日が見たいんです。最後のシーンに必要なんです」

「水平線ってここらでは見られないんじゃない?」

「はい、だから遠征してきます。行きたい場所があるんです」

「随分と思いたったね。僕も付き合うよ」


 先輩はやはり自分にとっても取材だからと、一緒に行くと言った。それに取材をすると言い出したのは自分だから最後まで見届けたいんだと。

 観覧車を降り、そのまま遊園地を後にした。そして帰りながら、遠征の計画について話し合った。

 

 一週間後、私たちは朝日を見に行く――。




 ――八月三日    三年一組 宮園 一花


「珍しく家で一緒に映画観ようって誘ってきたと思えばゾンビ映画? 一花こういうの好きなの?」

「好きじゃない。他の映画は一人で観たんだけど、ゾンビものは怖いから一緒に観てもらおうと思って」

「だったら観なくてもいいんじゃない?」

「それはだめ。やることリストに書いてあったから」

「お兄のやつ? そんな律儀にやらなくてもいいでしょ。しかも私を巻き込んで」

 文句を言いながらも藍は私のクッションを抱え、胡坐をかいて座る。なんやかんや付き合ってくれる優しい親友だ。私も隣に座り、映画を再生した。出だしから不穏な雰囲気で、こういうのが苦手な私は心臓がもつか不安だ。気を紛らわせるために藍に話かけてみる。

「藍はさ、夏休み入ってからなにしてたの?」

「普通に受験勉強だけど。一花は夏休み入ってからずっと引きこもって映画観てるの?」

「映画は観てるけど、引きこもってるってほどじゃないよ。この前遊園地行ったし」

「遊園地? だれと?」

「一人で」

「ひとりぃ?! 猛者だな」

 本当は一年の夏、先輩と行くはずだった。行こうと思えばすぐにでも行けたけれど、なかなか行くことができなかった。一人が嫌だとかそんなんじゃない。きっと、先輩のことを想って泣いてしまう。ここに先輩がいてくれたら。そんなことばかり考えてしまう。後ろ向きになるのが怖かった。でも、もう時間がない。私はあと半年で先輩がやり残したことをやらなければいけないのだから。だから、行かなければいけなかった。

 藍は少し呆れた様子でポテトチップスに手を伸ばす。私はオレンジジュースを一口飲んだ。

「それも、リストに書いてある一つなの。行ったらカップルばっかりでなんか虚しくなったよ」

「そりゃそうでしょうよ。遊園地に一人で行く女子高生なんていないよ」

「藍は受験生だしあんまり誘うのも悪いかなって。映画に付き合ってもらうのは決めてたから」

 あんたも受験生でしょうよ、という藍はの言葉は聞き流し、私は机に置かれたノートに目を向ける。

 プロットノート、そこに挟んである『やることリスト』。

 二年前、先輩が亡くなって藍と出会ったあの日から、ずっと続けている。

 その一つがゾンビ映画を観ることだった。他にも、SF、恋愛、余命ものとたくさんの映画を観た。もちろん小説もたくさん読んだ。

「あとさ、明日から高知に行くから」

「高知? また遠いとこに」

「本当は南アフリカのフレデフォート・ドームに行きたかったんだけどやっぱり無理だった」

「ちょっと何言ってるかわかんないわ」

 フレデフォート・ドームとは世界最大の隕石衝突によるクレーターだ。リストにはそこに行って、この目でどんなものか見たいと書かれてあった。私は当時、本気で行くつもりだった。一年生の夏からバイトを始めて旅費も貯めた。でも、現実的に考えて高校生の私がそんなところへ一人で行くなんて無理だった。飛行機を乗り継いで南アフリカのヨハネスブルグまで行き、そこからバスで近くの町へ行く。そしてクレーターまでは徒歩で行かなければいけない。現地で宿泊しなければいけないし、なにより治安も悪い。バイト代が貯まったころ親に行きたいと言ったら絶対にだめだと言われた。どうしてだめか、一晩中懇々と説明された。同時に私のことを心配していることもわかり、そこで南アフリカ行きは諦めた。

 調べてみると、実証されているわけではないらしいが、日本にも隕石が落下してできたクレーターがあるらしい。それが高知にある。そしてもう一つ、太平洋の水平線から昇る日の出を見られる場所がある。これが、高知へ行く決め手だった。

 旅費は南アフリカに行くために貯めたお金がある。何時のバスに乗り、どこに着いてどこに行くか、日程表を細かく作り、母に見せて行かせてくれと言ったらあっさり了承してくれた。南アフリカよりは随分と近くなったと思ったのかもしれない。

「帰ってきたら、次はたぶん引きこもると思う」

「ついに始めるの?」

「うん。これでリストに書いてあること全部やり終えるから。本当はフレデフォート・ドームにいきたかったけど」

「それはもういいでしょ。お兄が生きてたって絶対に行ってないよ」

 結局、映画が終わるまでずっと藍と話していた。ちゃんとした内容は入ってこなかったけれど、雰囲気は掴めた。あとはこの目に壮大な景色を焼き付けてくるだけ。私は、先輩の感じたかったものを感じられるだろうか。

「高知、気を付けて行ってきなよ」

「ありがとう。お土産買ってくるね」

「うん。じゃあ次会うときは夏休み明けか。あんまり根を詰めすぎないようにね」

 藍はいつも私のことを心配してくれている。先輩が亡くなって、落ち込んでどうしようもなくなった私を支えてくれた。お兄さんを亡くした藍のほうがつらかったはずなのに。

 

 私の高校生活は全て小説に捧げている。

 先輩が書こうとしていたこの小説を書きあげるために。

 私は先輩のプロットノートを開く。


 タイトル『終わりゆくこの美しき世界で』

 世界滅亡を目前に繰り広げられる高校生男女の物語


 〇宇宙人により地球が侵略される

 〇謎の病原体により感染者はゾンビになる

 感染経路は不明

 〇巨大隕石が地球にぶつかる

 〇太陽の膨張により地球温暖化が急激に進み数年後陸がなくなる

 その後地球は太陽に吸収される


『やることリスト』

 映画を観る

 小説を読む 

 ジャンル SF 恋愛 青春 ファンタジー 医療 その他気になったもの

 散歩をする

 目についたものを書き留めておく

 南アフリカのフレデフォート・ドームに行ってクレーターを見る

 高校生幼馴染カップルに話を聞く

 遊園地に行く

 水平線から昇る朝日を見る


 三年生になる前の春休み、南アフリカに行くことを諦めた。だからバイトも辞めた。三年生になってからは部室に閉じこもって、小説を読んで、プロット練った。

 本当は私一人になった文芸部は廃部にする話がでていて、何度か先生が部室に訪ねてきたらしいけど、私の鬼気迫る表情で本を読む姿を見てそっとしておくことに決めたらしい。これは藍から聞いた話だ。そういえば、一年のときやたら先生が部室を覗いてきてたなと思ったらそういうことだった。

 家に帰ればそれなりに勉強もした。一応受験生だ。親に小言を言われて執筆が出来なくなる前に先手を打っておかなければと。だから成績もそれなりにいい。

 そして迎えた最後の夏休み。

 取材はもう少しで終わる。先輩が書きたかったものも少しずつわかってきた。

 でも私は、これで本当に先輩が書こうとしていたものを書くことができるのだろうか。

 私がやってきたことは正しかったのだろうか。そんな不安はずっと拭えないでいる。

 それでも私はやらなければいけない。これは、私自身が前に進むために必要なことだから。


 明日、私は高知へ行く――。




 『終わりゆくこの美しき世界で』    花森 カズハ



 夜行バスに乗り、十二時間かけて目的の場所へとやってきた。太平洋の水平線から昇る日の出を見られる場所。

「カズハちゃん、もう来てしまってなんだけど、こんな遠いところまできてご両親は心配しないの?」

「大丈夫です。心配はしてるかもしれないですけど、私がやりたことになにも反対はしないので」

 元々厳しい親だったわけではない。その上、一年後に世界が滅亡することが決まっている今、好きなことをすればいいと言われている。それは自分たちも子どもを放って好きなことをしているからではあるが。私はそれが嬉しいわけでも寂しいわけでもなく、ただ本当に好きなようにしている。今回の旅も行きたいと言えば、行ってらっしゃいと言われた。さすがに男の先輩と二人きりでとは言っていないけれど。

「先輩こそ大丈夫ですか? けっこう厳しいお家って聞きましたけど」

「大丈夫。何も言わずに出てきたから」

「ええ?! それ全然大丈夫じゃないと思いますよ。連絡した方がいいんじゃないですか?」

「今連絡したらすぐ帰らないといけなくなるからね。帰ってから存分に怒られるからいいの」

 本当に大丈夫なのだろうか。私に付き合っているせいで怒られるなんて申し訳ないが、先輩はずっと大丈夫と言っていた。親の雷なんてたいしたことない、隕石が落ちてくるより怖いものなんてないでしょ、なんて笑いながら。


 夜行バスを降りたバス停から路線バスに乗り換え、やってきたのは太平洋が一望できる海岸だった。田舎ではあるけれど、観光名所になっていて人もそれなりに多い。ご飯屋さんやお土産屋さん、大きくはないが水族館まである。

 バスを降りてまずは浜辺へ出てみた。岬と岬の間に広がる弓状の砂浜を先輩と並んでゆっくりと歩く。相変わらず気温は高いけれど、海風が気持ちいい。

 天気も良くて、どこまでも続く海の青と、雲一つない澄んだ空の青が遥か向こうで溶け合っている景色は、今まで私は見てきたどんなものよりも綺麗だった。きっと、明日の朝焼けはもっと綺麗だろう。

「いいところだね。カズハちゃん、連れてきてくれてありがとう」

「そんな……こちらこそ一緒に来てくれてありがとうございます」

 きっと、先輩がいるからこんなにも綺麗に見えるのだと思う。

 岬の端には小さな神社があり、海上安全や商売繫盛などのご利益があるらしい。あまり自分たちには関係ないご利益だね、なんて言いながらもこの場所の神様に挨拶をかねてお参りした。そして私は全然関係ないことをお願いした。叶うことのない願い。いつまでもこの綺麗な世界が続きますように。

 岬の神社でお参りした後は、休憩所のベンチに座りひと息つく。少しずつ、日も傾きつつある。朝日が見えるということは夕日はここからは見えない。この水平線に沈んでいく夕日も見られたらいいけれどそんな都合よくはできていない。残念だけど仕方のないことだ。

 そのまましばらく海を眺めていた。何の予定も立てず目的の場所に来たけれど、朝日を見るまでまだ相当時間がある。というより、夜を明かさなければいけない。いったん街へ行ってどこかに泊まる? 漫画喫茶とかで早朝まで時間潰す? でも、それではここに来るためのバスは動いていないし、街から歩いて来られるような場所ではない。どうしようと考えていたら、先輩がおもむろに立ち上がった。

「展望台、行こう」

「え? もう行くんですか? 夕日とかは見られませんよ?」

「それでも、綺麗だと思う」

 歩き出す先輩について浜辺から山側へ登っていく。展望台は比較的新しくできたもので、元々は灯台のある場所として知られている。坂道を登るとその灯台が見えてきた。そして広場に出ると丘を囲む柵の前に、高さ三メートルほどの展望台があった。他には何もなくて、この時間帯人もいなくて、ただ静かに佇んでいる。そんな展望台だった。

 二人で展望台に登り、さっきとは違う目線で海を眺めた。夕日は見えないけれど、赤く染まった海が少しずつその灯りを消していく様子をじっと見つめる。

「綺麗、ですね」

「そう言ったでしょ」

 先輩はフッと笑う。いつの間にか日は沈み、空には星たちがキラキラと瞬いている。

「先輩がくれたこのラピスラズリみたいです」

 私の左腕にはラピスラズリのブレスレットがつけられている。お守りの効果なのかはわからないけれど、このブレスレットを見ると心が落ち着いた。

 先輩は、空を見上げたまま私の左手をそっと握る。

「ねえ、小説の最後のシーンって、どんなシーンなの?」

「えっと……ヒロインが幼馴染の彼氏に病気を告白するんです。病気だから別れようって言うんですけど、彼氏は絶対に別れないって。病気はきっと治るし、もしだめでもずっとそばにいるって、朝日を背に抱きしめるんです」

 ちょっとベタすぎますかね、と笑ってみたが、先輩は真剣な表情で握る手の力を強めた。

「カズハちゃん、俺、帰ったらもう連絡とれない。学校も辞めるし」

「え?! どうしてですか?!」

 突然の告白に私は驚きを隠せずに、勢いよく先輩の方を向く。たしかにあと一年を好きに生きると言って学校を辞めていく生徒もたくさんいる。でも、先輩はそんなことは全く言っていなかったし、あと一年、今まで通り過ごすのだと思っていたのに。それに、連絡すらとれないなんてどういうことだろう。

「俺、風邪気味なんだよね」

 呟いた先輩の言葉に心臓が跳ねる。風邪なんて、だれでもひく。でも、うるさいくらいにどんどん鼓動は早くなる。

「そ、そうなんですね。私も、先月風邪ひきましたよ」

「もう、一ヶ月くらい治らないんだ」

「それは随分と手強い風邪ですね。こんなところにいないで早く帰って休んだほうが――」

「家には帰るつもりない」

「え……?」

 それが、なにを意味しているのか、なんとなくわかった。でも気づかないふりをした。

 先輩は星空を見上げたあと、ぎゅっと手を握り、ゆっくりと私の方を向く。今にも泣き出しそうな悲しい笑顔で私を見る。

 

『手をつないで、お互いだけを見つめて、笑い合って迎えます』


「先輩、私は笑いませんよ。だって、最後の瞬間はまだです。あと一年もあります」

「俺は、明日で終わりにするつもり」

 やっぱりそうだ。先輩はきっと自分で死ぬつもりなんだ。この旅が終わったら帰らずに命を終えようとしているんだ。四年前から自殺者は急激に増えている。ゾンビウイルスに感染していると気づいた人がゾンビになるくらいならと、どうせ世界は滅亡するんだからとその命を終わらせる。

 自我をなくして人を襲うような生き物になるって怖いと思う。そんなのなりたくないに決まっている。でも、まだ自分を保ったまま死ぬなんてもっと怖いはずだ。それに、死んでしまえば本当にこの世界からいなくなってしまう。

「知ってますか? 自分で命を絶ったら生まれ変われないらしいですよ」

「生まれ変わった時、地球はあるのかな」

「恐竜が絶滅するくらいの巨大隕石が落ちてきても、こんなに生命に溢れてるじゃないですか」

「でも、太陽が膨張していつか地球は飲み込まれて消滅するよ」

「それは、もっともっともーっと先です」

「これ以上暑い地球に生まれるのは嫌だな」

「私は、先輩がいなくなるのが嫌です。たとえ、違う場所にいたとしても、私のことがわからなくなったとしても、先輩と同じときに最後を迎えたいです」

「俺は、俺のままで終わりたいよ。カズハちゃんを覚えているまま死にたい」

「嫌です……嫌ですっ! 先輩じゃなくなってもいい! 私のこと覚えていなくていい! 先輩に、この世界にいて欲しいです! 死にたいなんて言わないで!」

 私は泣きじゃくった。わんわん泣いた。私の泣き声がどこまでも続く海の果てまで届くのではないかと思うほど。先輩は私をぎゅっと抱きしめた。気づけば、水平線の向こうから朝日が滲んでいた――。


 この世界はどうせ終わる。それなのに、あがいていたい自分がいる。目に映る景色が、まだこんなにも綺麗だったから。

 

 それから始発のバスに乗って駅まで向かい、帰りは電車を何本も乗り継いで帰った。

 私たちはもう何も話さなかった。それでも、繋いだ手は離さなかった。

 いつものように家まで送ってくれた先輩。最後に、私の左手を取り、ラピスラズリをそっと撫でる。『最後の瞬間、俺を思い出してね』そう言って先輩も自宅へと向かって帰っていった。


 私はそれから部屋に引きこもった。しばらく開いていなかったノートパソコンを開く。

 そして夢中で物語を綴った。書きたい。書かなければ。今まで見てきたこと、感じたこと全てを詰め込みたくなった。

 先輩が私に教えてくれたこと、残してくれたことを無駄にはしたくない。

 先輩と見た景色が、先輩の悲しく笑う顔が、目に焼き付いて離れなかった。

 夏休みが明けて学校行くと、二年生の先輩たちが『高屋くんが入所したらしい』と噂していた。私は自分のエゴを先輩に押し付けてしまったかもしれない。先輩にとって酷な選択をさせてしまったかもしれない。先輩に申し訳ないことをしたかもしれないと思いながらも、ほっとしている自分がいた。

 会えなくても、私のことを覚えていなくても、先輩は、まだこの世界にいる。

 理不尽なこと、苦しいこと、悲しいことは続いていくのかもしれない。それを仕方ないと言って受け入れるしかないのかもしれない。

 だって、どうせ世界は終わる。

 それでも、全てが終わるその瞬間まで、私は生きる意味を探してもがいていたい。胸を張って終われるように。それが、エゴを押し付けてしまって先輩に、私ができることだと思うから。

 

 『終わりゆくこの美しき世界で』   完




 エピローグ


 私はノートパソコンを閉じ、ゆっくり伸びをする。

 思ったよりも完成までに時間がかかってしまった。まさか、こんなぎりぎりになるなんて。

 まあ先月まで受験勉強の合間にやっていたから仕方ない、と自分に甘い言葉をかける。

 正直、出来はあまりよくない。気がする……。それでも卒業までに完成したことの安心感はあった。

 私は藍にメッセージを送る。『完成した。明日読んで』

 返事はすぐに返ってきた。『明日?! 急だな。いいけど』

 卒業式の前日にわざわざ、素人が書いた、しかも本人はさほど興味もない小説を読んでくれるなんて本当に良い親友だ。彼女がいたからこそ今の私がいるのだと思う。そして、悲しいきっかけではあったけれど、そんな彼女と出会わせてくれた先輩には感謝している。


 私は印刷した小説を鞄に入れ家を出る。

 自転車に乗って向かうのは、学校の裏側にある墓地公園。少し丘を登り、入口に自転車を停める。斜面に並ぶお墓の三列目を迷うことなく進んでいく。

 先輩が眠っているお墓の前で立ち止まり、手を合わせる。そういえば、何年も前に、私のお墓の前で泣かないで、そこに私はいない、っていう歌を聞いたな。たしかにここに先輩がいるわけではない。そもそももう、この世界のどこにもいない。でも、ここで手を合わせたくなるのが残された側の心情だ。それは、亡くなった人をいつまでも覚えていたい、想っていたいという気持ちがあるからだと思う。だから、先輩はここにいる。ずっと私の心の中に。

 私は供台に印刷してきた小説をそっと置く。目を瞑り、先輩の顔を思い浮かべる。


 先輩、今日は報告に来ました。先輩が書こうとしていた『終わりゆくこの美しき世界で』完成しました。

 あんなに熱く語ってたのに、全然プロットもできてないし何を書こうとしていたかも分からないし、本当に苦労しましたよ。先輩の書きたかったものが書けたかはあまり自信がないですけど、まあそれなりにできたと思います。

 そうだ先輩、クレーターを見に行くって書いてましたけど、隕石が落ちたらもう登場人物たちはいなくなるのでクレーターを見るような描写なんてありませんよ。

 私、南アフリカに行くなんて言ってバイトもはじめて意気込んでたのに。結局行けませんでしたけど。先輩はクレーターを見てなにを書こうとしていたんですか。それだけがどうしてもわかりません。もしかして、世界が滅亡したあと再生した地球を書こうとしていたんですか? 私には書けませんでした。あと、先輩は主人公を男子生徒にするつもりだったと思いますけど、難しくて主人公は女子生徒になりました。だって、カズハの想いが溢れて溢れてしかたなかったんです。おおめにみてくださいね。

 藍はこの物語を読んで、泣いてくれますかね――。


 そして私は、いつか先輩と見た夕焼けの街を眺めてから家へ帰った。



 翌日、卒業式を明日に控えた、午前で終わった学校の放課後。

 誰もいなくなった教室で机に向かい、真剣な表情で紙を一枚ずつめくる私の親友。

 そんな彼女を私はただじっと見つめ、待っていた。そして、どれくらいの時間が経ったのか、彼女はゆっくりと顔をあげる。

「なんか、らしくないね。荒削りというか」

「私もそう思う」

「あと、なんか設定詰め込み過ぎじゃない?」

「私もそう思う」

「でも、それがお兄っぽい感じもする」

「それは、よかった……」

 読み終えた藍の顔を覗き込むけれど、涙は滲んでいない。やっぱり、泣けるような物語は私には書けなかったか。先輩すみません、と心の中で謝罪する。

 廃部にはならなかったけど、部員が増えることもなかった。藍のことを泣かせることもできなかった。私はなにひとつ先輩の想いを継ぐことができなかったんだ。

「このお話、泣けないよね……」

 思わず溢していた。藍は肩を落とす私を見てフッと笑う。こんな表情は初めて見る。

「私、泣かないって決めてるから」

「え、どうして?」

「もう、一生分泣いたからね」

「そう、なの? いつ?」

「お兄が死んだあとだよ。いっつも一人で喋ってさ、私を笑わそうとしてるのか変な話きかされたり、毎日騒がしかったのが、急にいなくなったんだよ。本当、生活が一変した。お兄がもういないんだと思ったら見える景色が暗くなった」

 でも、と続ける藍は項垂れる私の頭を優しく撫でる。

「私より泣いてる一花を見て、泣かなくなった。だから、私の涙はお兄のところに置いてきたの」

 私は、藍の泣いているところを見たことはなかったけど、そうだよね。お兄さんが亡くなったんだもん。あんなに妹思いだったし、先輩はとっても素敵な人だ。そりゃ泣くよね。

 先輩、藍は泣いたそうですよ。見てましたか? 自分が死んで泣かせるなんて先輩は悪い人です。

 私も泣かせたかったです。いつか絶対に泣かせます。もちろんいい意味で、です。

「次はもっと感動させられるお話書くから」

 意気込む私に、すごく面白かったよ、と本心かどうかはわからない言葉を受け取る。

 でも、それ以上はもう何も聞かなかった。

「一花、ありがとう」

 そう言って満面の笑みを浮かべてくれた藍に、この笑顔を見られたことが、私の青春を捧げた一番の意味だと思った。

 


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