4 断末魔
ゲオルクの手がディアナの首から離れ、流れるように左手首を掴んだ。拒むことはおろか、もはや身体の震えを隠すことすらできないディアナに構わず、その手を己の目の高さにまで持ち上げる。
食堂のシャンデリアのもとで、薬指の指輪は鈍い光を返していた。
「“背教者”は目星をつけてた。かの魔女は引きこもる前からずっと、今でも、古い金の指輪をつけてるって」
ゲオルクの右手がディアナの左手首から甲を滑り、薬指へ向かい。
そのままするりと指輪を抜き取った。なめらかな細い指の、どこにも引っかかることもなく。
ディアナは息をつめ、小刻みに震え、目だけはらんらんと大きく見開いて、その様子を凝視していた。
「“未亡人”はけして屋敷から出ないのに、身の周りのものは何もかも一級品で揃えてある。服も、靴も、宝石も、家具も。本人にはまるで不釣り合いな汚れた指輪を、朝も夜もつけ続ける意味はなんだ? 親の形見だから? そんなつまらない理由だけか?」
男の右手には指輪。左手には斧。下僕の刃物扱いの正確さを、主人はよく知っていた。
震える唇が小さく動く。
やめて。
ほとんど息しか吐いていないその動きに目を細めて、男は指輪を宙に放って手斧を振り上げた。
決定的な瞬間から目を逸らすように、ディアナは両手で顔を覆い下を向いた。
堪えきれなかった笑みを隠すために。
ばかなおとこ。唇はひそかにそう動いた。
「……多分、そうなんだろうな」
低い呟き。
「え?」
直後、指輪は、かつん、と音を立てて床に落ちてきて、少し転がった。
無傷のまま。
ディアナはつい、手で覆ったままの顔を上げて男を見上げた。
「指輪は形見。本当にそれだけなんだろう。――“未亡人”ディアナ。けして屋敷を出ないあんたが、絶対に“ゲオルク”に触らせなかったのは、これだけだった」
振り上げられた手斧は下ろされず、上へと放り投げられる。
シャンデリアの光を反射してきらめいたのは、刃に絡まった亜麻色の髪。それはすぐにディアナの視界から消えた。
そして、ガシャンと頭上で大きな音がした。
――逆襲のチャンスはここだけだった。
魔女から不死を奪ったと、相手が確信して意気揚々とディアナを殺したと思い込んだとき。
完全な勝利だと油断して、それが覆されたとき。
このハンターに魔女への恐怖を思い出させられるチャンスはそこだけ。この夜、ディアナが矜持を失わずに勝てるチャンスは、そこだけだった。
「……あ、」
絶対に、負けないはずだったのに。
――文字盤から、つう、と鮮やかな赤い液体が一筋垂れて、接していたディアナの頭から額へと伝い落ちる。
なまあたたかい。
胸の内が、どくりと音を立てた。
「ああああああああああぁぁぁぁっ!!」
理解した瞬間、それは断末魔のようにあたりに響き渡った。
同時に、深々と斧が刺さった柱時計からは真っ赤な液体があらゆるところから噴出して、それはさながら破られた心臓のようだった。
「いや、嘘、そんなっ、ああああああたしの心臓がァァァァ!!」
泣き叫んで、液体が流れ出るのを阻止するように手で抑えても、指の隙間から噴き出すのは止められない。
無駄だった。もとより、傷がついたらそれでおしまいなのだ。廃墟となった生家から運び込んでから、襲い来るハンターに見させ、そして絶対に触れさせなかった古い柱時計は、魔力を急速に失っていく。
やがて、すべての液体が出切ったのか、壁と床と天井とを真っ赤に染めた柱時計はうんともすんとも言わなくなった。
もう針も動いていない。
完全な静寂を、ハンターの無情な問いが破った。
「何か言い残すことは?」
柱時計にすがりついたまま、ディアナはぴくりと顔を動かして、表情のない目で振り返った。その口が小さく動いているのに気づいたゲオルクが、険しい顔で手を噛ませる。
「っ!」
「やめろ。変身は。弱ってる今動物に変身したら、自力で元に戻れなくなるぞ。狼の首なんか持っていっても、報奨金は貰えないんだよ」
もはや勝利は揺るがないことを、男は確信していた。問いも忠告も、ディアナへの嘲笑でも皮肉でもなく、死にゆく敗者へかける義務的な情けに過ぎない。
それがありありとわかることほど、悔しいことはない。
ディアナは暴れた。力任せにゲオルクの手を振り払おうとすれば、あっさり解放される。その余裕にかえって頭に血が上り、破れかぶれに飛びかかれば容赦なく腕を取られて捻り上げられる。軋んだ肩に悲鳴を上げると、男の手はまたあっけなくディアナを離した。
自由になった拍子にディアナの膝は崩折れた。その場で床の上に四肢をつき、ただうつむく。長い髪が濡れた身体に張り付く様子は、肩でハアハアと息をしていなければ、さながら溺死体のようだった。
「言い残すことはないのか」
「……殺せばよかった」
見下ろしていたゲオルクの、眉がぴくりと動く。
「またそれか」
「殺しておけばよかった……。殺しておけばよかった、おまえなんか、さっさと殺しておけばよかった!!」
「未亡じ」
「そうすれば、こんなことにはならなかったのに!! さっさと殺して、屍人形にして、二度と反抗できないようにしておけばよかった!!!」
慟哭する魔女に息を吐くと、ハンターは柱時計に刺さったままの手斧に手を伸ばした。深く刺さっていたそれは、いとも簡単に男の手に戻ってくる。
そして、晒された魔女の首に、冷たい視線を落とした。
「そうすれば、喋らなかったのに!! あたしの首が切られることも、テレサの裏切りがわかることも、作った薬勝手に使われることも鏡割られることも水差し壊されることも不死を失うこともなかったのに!!」
ハンターは淡々と、狙いを定めるように、背中を丸める魔女の頚椎の上で手斧を軽く揺らした。
首を落とすにはけして十分とは言えない大きさの得物で、一回で切り落とせるように、調整する。
「そうすれば、あたしのゲオルクは、いなくならなかったのに!!」
ここだと決めれば、あとは早い。
薪を割るのと同じくらいのためらいのなさで、その手の斧を振り上げた。
魔女の、最後の後悔は、とても小さな声だった。
「……新しい外套なんて、いらなかったんじゃない……」
それきり、静かになった。
「……おい、クソ女」
頭上から投げかけられる、低い声。
どれほどの時間泣きじゃくっていたのかと、ディアナははたと気がついた。
どうせ死ぬのだと、無理心中から生き延びたとき以来と思われる遠慮のなさで泣いていたのに、どうやらまだ生きている。
「聞いてるか? 自分の状況わかってんだろうな」
体を起こして見上げれば、憎いハンターが苦み走った顔でこちらを見下ろしていた。
何をしているのだろう。
こちらに言い遺すことはあるかと聞きながら、自分が聞かせそびれていたことでもあったのだろうか。
死人に、何を言うつもりか。
「あんたはもう不死身の魔女じゃない。一度でも致命傷を負えばそのまま死ぬ、そこらの魔女と同じだ。今までは報奨金が高くても、腕に覚えのあるやつだけが恐怖をおして挑んできたが、命が惜しいやつはまず手を出してこなかった。これからは違う」
「……これから?」
ふざけたことを言うものだ。これからなんて、そんなものがこの身にあるかのように言う。
「あんたが不死じゃなくなったと外に知られれば、報奨金が下がる前にと大挙してハンターが押し寄せる。もとから不死じゃなかった魔女以上に侮られる。今度は、誰もあんたを恐れない状態で、襲われる」
言われてみればそうかもしれない。実際にはそこらの魔女より強かったから、名前も売れたし不死の術も会得できたのだが、なにせ怖がられなければ、魔力は半減する。身に染みてわかっている、が。
「……なんのはなし?」
「でも俺が黙っていれば、そうはならない」
ディアナは呆けたように口を開けたまま、見上げていた。
言われていることの意味が、うまく捉えられない。
けれどゲオルクは、左手にだらんと持っていたままだった手斧をひょいと食堂の隅に投げてしまった。置いてけぼりのディアナをよそに、彼だけは状況を把握しているようで、いまだかつてない饒舌さで語り続ける。
いまだかつてないというか、さっきはじめて対話可能であるとばらされたわけだが。
「よく聞け泣きべそ女。ハンターたちの前で、俺は今まで通り、あんたの下僕として振る舞ってやる。魔術で操られてるふりをして、ハンターたちを追い返すていでここから出す。これまで来た奴らには、魔女の弱点を探るために潜入しているから邪魔するな、と言ってある。奴らは二度と来てないだろう。これからもそうする。あんた、命知らずどもが大人しく帰るよう、脅かすくらいの魔術はまだ使えるんだろ」
ディアナは相変わらず、ぺたんと座り込んで一方的に話すゲオルクを見上げているだけである。
けれどさすがに、自分の判断と魔術のみで生き抜いてきた魔女ではある。じわじわと、男の話の要旨が飲み込めるようになってきた。
――この話、もしかして。
ディアナが、生きている前提で進められているのではないか。
「いいか魔女、俺は……」
そこで言葉を切ったゲオルクは、渋い顔で目を閉じた。何かとても飲み込みづらいものを飲み下すような深いしわを顔の至るところに刻んで、そしてもう一度目を開いた時には、ディアナはやっぱり自分はここで死ぬんだと覚悟した。
それほどの、鋭い眼光で睨まれた。
「……ディアナ。俺は、怒ってる。ものすごくだ。この四ヶ月、下僕だと言って犬っころのように扱われたことを、心の底から、憎んでも憎み足りないほど恨んでる」
「……」
「触るだけ触って知らんぷりとか許されねぇんだからな男相手に」
「……?」
眉をひそめていぶかしめば、悪鬼のような形相で凄まれた。
悪魔と契約しているはずのディアナを芯から凍り付かせたゲオルクは、突然しゃがんだ。急な接近に思わず後退ろうとすれば、さきほどディアナを殺そうとした手でガッと顔を掴まれる。
「これは取り引きだ。あんたの面子と命を守ってやる代わりに、俺をここに置け。殺そうとせずにだ」
いつの間にか、外の雨はやんでいる。
「返事」
催促してくる男の、焦れたような眼差し。
ディアナはおそるおそる、自分の顔を掴むごつごつとした手に己のそれを重ねた。引きはがそうとしたわけではないが、先ほど同様あっさり頬から離れる。
庭仕事のあと、水仕事のあと、いい子ねと言って軟膏を塗り込んであげた手のひら。そこから、さらに手首へと自分の指先を滑らせる。
脈拍を感じる。
自分にはもうないものだったから、やたらに早いと感じるリズムも普通なんだと思っていたが。
もしかして。
「ゲオルク、あたしと一緒にいたいの?」
ディアナは、涙に濡れた目をパチパチと瞬かせて、ゲオルクを見上げた。
男は、その緑の目にまっすぐ見つめられて、一瞬鼻白んだ。
ディアナの胸で、戻って来た心臓が、どくんと大きく脈を打つ。緊張で震える指先を男の胸元に伸ばす。相手の心臓の位置を探すように。
――今しかねぇとディアナが振り上げたガラス片を、ゲオルクが一瞥もせずに弾く。
柱時計の破片は弾き飛ばされて壁にぶつかり、砕けて床に散った。むなしい音が響いたが、互いを見つめ合う二人は目もむけない。
この夜、食堂に沈黙が落ちるのは、これで三度目。
「……嫌なら今すぐ」
「この先もずーーーっと一緒にいましょうね、ゲオルク!!!」
最後通告を早口で遮ったディアナの額から、冷たい雫が伝って落ちた。
***
月のない、晩秋の夜更けのことだった。
とある街の古い教会に、埋葬依頼の棺が運びこまれた。それが聖堂のすみの、洗礼用の水盆の前に安置されるのに立ち会った修道女は、数匹の黒い犬を連れている。
葬儀業者が立ち去ると、修道女は棺に興奮する犬を宥めて、小さな聖母子像の前に置かれた水盆へ向き直った。大理石でできたそれをとんとんとたたき、波紋を広げる水面を覗き込む。
「ディアナ? ディーアナー?」
何度か呼びかけても、水盆の水はろうそくに照らされた修道女と聖堂の天井を映すだけ。
ややあって、諦めたように、修道女――魔女テレサは、息を吐いて憂い顔を上げた。
「応答なし、か。……ふふ」
物思いに耽るような表情から一転して小さく笑いを漏らし、それからにんまりと口角をつり上げた。
「あはははははははっ! やった、やったわ、“未亡人”ディアナは死んだ! わたしがこの世で一番強い魔女になったんだわ!!」
大げさな笑い声が、人のいない聖堂内に反響する。天井画を仰ぎ見て歓喜に震える女の足元では、血走った目の黒い犬たちがしっぽを振って主人の周りを歩き回っていた。
「はー、すっとした。この四ヶ月間は気が気じゃなかったけど、終わってみるとなんだかあっけないわねお前たち。あんなに偉ぶってわたしを抑えつけてたディアナが、こうもあっさり死ぬなんて。やっぱりなんだかんだいってもいいとこ育ちのお嬢さんだわ、詰めが甘いんだから」
テレサはひとしきり笑ったあと、聖堂の身廊、側廊をくるくると踊るように練り歩いたあと、運ばれてきた棺のそばでぴた、と止まった。そのあとをついていっていた犬たちが追い付く。
「うふふ、おまえたちにも喜びのおすそわけよ。今日のごはんは、国境の戦場産で、身元不明なんですって。後処理はママがやってあげるから、好きなとこを好きなだけお食べ! なんといっても今夜は、このテレサが討伐優先度第一位の魔女になると決まった夜! ママより怖い魔女はいないんですものー!」
獰猛な唸り声で使い魔の犬たちが歓喜を示す。テレサは釘抜きを持ち、鼻歌を歌いながらしゃがみこみ、ぽこぽこぽこっと棺の蓋に打ち付けられた釘を抜いていく。涎を垂らす魔犬たちの前で、棺の蓋が少し、浮き上がる。
その瞬間、棺の蓋は、テレサが持ち上げるまでもなくひとりでに飛んでいった。
「え」
パァンと一発、銃声が聖堂内に轟く。
――テレサは無傷だった。
だが我に返るのは早かった。ザッと青ざめて後ろを振り向く。
そこには、撃ち抜かれた頭部からだらだらと赤い液体を流す無残な聖母子像があった。
「……見つけたぞ、“背教者”テレサ」
ギャウン、と犬の悲鳴。
左胸をおさえて蒼白になっていた魔女は、びくっと肩を震わせて、棺のほうに視線を向けた。
かぶりつこうとしてきた魔犬をマスケット銃で殴り倒した遺体は、白い騎士服を着ていた。胸にバラと剣の刺繍を持つ、聖騎士独特の制服を。
もとは美丈夫だったであろうことをうかがわせる顔には、クマが色濃くしみつき、ろうそくの火でも明らかなほど青白く、頬はこけている。けれど青い目だけは爛々と輝いて、それが男の異常さに拍車をかける。
呼び起こされた記憶に、テレサの表情がみるみるうちに変わる。
「お……まえ……」
「探していた」
がたんと、聖騎士が棺から出てくる。テレサは後ろに下がろうとして、膝が踊ってうまく立てないことに気がついた。
「探していたとも、あの日から四ヶ月、ずっとだ……神が、夢の中で教えてくださった、おまえがこの街の教会にいると。この教会には本来ないはずの、聖母子像を狙えと」
迫りくる男に、テレサは冷や汗が垂れていくのを感じた。鼓動が早くなる。もう何年も感じていなかった、恐怖を思い出していた。
思い出したのはそれだけではない。目の前の男のこともだ。
何を隠そう、四ヶ月前、噂のハンターにディアナ退治の話をもっていくために赴いた戦場で、もののついでに荒らした聖騎士団のひとり。
魔女が現れた地獄の中で、テレサ自身が適当に選んだ、生き残り。
「やっと見つけた……“背教者”。……美しい、戦場の魔女。私のテレサ」
テレサは理解していた。聖騎士は、あのときのようにはテレサを恐れていないと。
恐怖は正気の人間にしか持ち得ないものだから。
背後には、己の“心臓”の亡骸。
「――ぎゃあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
夜更けの聖堂に、魔女の断末魔が響き渡る。
――棺のすみには、小さな黒い蜘蛛が蠢いていた。
「だはははははははははははは!! ざまぁみろっての裏切者め、あんたの“心臓”なんかバレバレだってのよー!!」
同じ刻限、森の奥の邸宅で、亜麻色の髪の魔女が粉々になった鏡を繋ぎ合わせて覗き込み、悪趣味な笑い声を立てていた。
床から天井までびちょびちょに濡れて、部屋の至るところに亡者のかけらが散乱する寝室のすみ。部屋同様に濡れ鼠で、頭から赤い液体まで垂らしながら悪辣な喝采をあげるディアナに、廊下から顔をのぞかせたゲオルクが呆れた目を向ける。
「やーいやーいザコ魔女ザコ魔女逃げろ逃げろ~! 詰めが甘いのはお前よバーカ! ゲオルク、ポップコーン作ってきて!」
「嫌だよ。客間片付けたからそこ行ってろ」
「……おまえどこで寝るの」
「同じとこだが」
「……」
鏡の中では、窓から逃亡した“背教者”を追って元聖騎士が夜の闇へと消えていくところだった。
月のない秋の夜。人々を震撼させた恐ろしい魔女が二人、それぞれ別の場所でほぼ同時刻に討伐された。
遺体も首も見つかってはおらず、墓の場所もわからない。だが後の世では、その夜を境に二人の身の毛もよだつような悪行はぱったり止んで、結果的には魔女の噂だけが一人歩きしていたと伝わっているから間違いない。
実に、魔女退治にはうってつけな夜だったのだ。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
追記(2025/08/06)
ムーンライトノベルズに加筆版があります。(テレサが他キャラに置き換わってますが)
サブタイトルがついていますがメインタイトルは「魔女退治にはうってつけな夜」なので、ご興味ある方のうちで18歳以上の方のみ、どうぞムーンで検索してみてください。