3 誤算
雨が、ぽつぽつと窓を濡らし始めていた。
そんな微かな音を蹴散らすように、せわしない靴音が邸内に響く。合わせるように、赤いドレスが翻った。
小柄な体躯。なめらかな鎖骨。労働を知らないやわらかな腕。
抱えられた、亜麻色の髪の首。
――切られた首を抱えて走ったディアナは、真っ暗な寝室に飛び込んで叫んだ。
「どういうことなのテレサァァァァ!!!!」
首から飛び出した絶叫を受けて、壁の鏡がぼんやり光る。鏡面の中央からさざ波が広がり、程なくして眠たげな女の姿が映し出された。
『なにかしら、真夜中に騒々し……まあディアナ、あなた頭が』
「なにが『まあ』よっ、ふざけないで!!」
目を丸くして、テレサがディアナの惨状に言及しかけたが、鏡の前に掲げられた頭が怒鳴り蹴散らした。
「あの傀儡人形が反抗したのよ! あたしに突然斧振りかぶってきてこのざま! テレサ、あんた失敗作押しつけてきたんじゃ……」
首と身体の断面同士を押しつけながら叫んでいたディアナは、そこでふと、黙り込んだ。
テレサの様子がおかしいことに、気がついて。
『……ああ、よかった! なかなか動き出さないから、ひょっとして怖気づいちゃったのかと心配したけど。ようやく、機が熟したってとこなのかしら』
ぐらつく首をしげしげと眺めたあと、ホッとしたような声で紡いだ、言葉の違和感。
ディアナの顔がこわばった。
「何……? どういうこと…?」
『ねぇディアナ。あなたここで、こんなことしていて大丈夫?』
眉尻を下げたテレサが気づかわしげにディアナの言葉を遮る。
『だってハンターが同じ屋敷の中にいて、あなたの命を狙ってるのに。夏からだから、かれこれ四ヶ月、じりじりとチャンスを窺っていた最強のハンターがね』
ディアナは凍りついた。
「……テレサ、あんた、まさか、」
掠れた問いには答えず、鏡像が水面のように震えた。
鏡から消える直前、頬に手を置いたテレサは笑った。耐えきれずに漏れたような、そんな笑い方だった。
『夜は長くて月もなし。今夜は、魔女退治にはうってつけ。ね、ゲオルク』
窓の外で、稲光が走った。
もとに戻った鏡に、ディアナ自身の呆然とした顔と、寝室の入口に立つ大柄な男の影が浮かび上がって、消える。
遅れて雷の落ちる音。この屋敷を破壊しようとするような、そんな轟音だった。
「……ここにいたのか、“未亡人”」
撃鉄の上がる音とともに、静かな声がディアナの耳に届く。
低く、少し掠れたような声。男の声。
“未亡人”の寝室では、ありえない声だった。
雨がだんだんと強くなる。
突如、猟銃を構えていた男が首を横に傾けた。一瞬前まで鼻があったその場所を、一振りのナイフが通り過ぎて、背後の壁に深く刺さる。ナイフの刺さったところから、壁は異臭を放ちながらぐずぐずと腐っていった。
「……騙してたのね」
ディアナは両手で首の切れ目を押さえ、顔は鏡に向けたまま、呟いた。男は灰色の目をナイフの刺さった壁からそちらへ移す。
「テレサの術は解けていた。解けていたのに、おまえはそのまま“ゲオルク”のふりを続けて、ここにとどまっていたのね」
部屋の空気がぐらりと淀んだ。暗い寝室の奥、魔女のいる場所から床が震えて波打つ。絨毯から、ぼこ、ぼこ、と熱された粘液のように重たげな泡が生じ始める。
それは、徐々に男――ゲオルクの足元へ向かって広がっていった。
「あのハンター、回復してたわね。魔女謹製の薬を与えたのはおまえ? 逃がそうとしたの? なぜ? お友達だった? ……それとも、あたしが殺すよう命じたから?」
ゲオルクのつま先の手前で、泡が弾けて、そこから枯れ枝のような腕が伸びて足首を掴もうとした。
だが、亡者の手は男を捕まえる前に銃弾で弾かれた。絨毯の上にぱたりと落ちたそれを、男は猟銃を構えたまま真新しい靴の先で横に退ける。
「棺、見てないのか。あんたが呼ぶ前から、ゲオルクって名前だったんだが」
「うるさい、それはあたしの下僕の名前よ!!」
叫ぶディアナが振り返ったのを皮切りに、泡立つ床の至るところから、枯れ木のようにやせ細った人型のなにか――亡者が、何体も飛び出してきて、ゲオルクに襲いかかった。誰もが、侵入者を捕まえてその骨を折り、肉を噛み血をすすろうと向かっていく。ゲオルクは猟銃で手近な何体かを殴り倒したが、多勢に無勢である。
猟銃を落とした男が手を腰の手斧に伸ばすが、その身体が亡者たちに群がられてディアナから見えなくなるのに、十秒もかからなかった。
ディアナは鋭い眼差しを緩めた。怒りと嫌悪で焼き切れるようだった頭が少し冷えてきた。熱を逃がすように首を振ろうとして、まだ断面がくっつききっていないことに気がつき、ムッと顔をしかめる。
気を取り直して、愚かな敵が地獄の子羊たちに捕食されるさまをゆっくり見届けることにした。
中では男が暴れているらしい。その証拠に、たまに亡者の何人かがその場に倒れたり、枝のような腕が飛んできて床に落ちたりしている。
「……やれやれ、元気だこと」
足元まで転がってきた亡者の腕を見て呟く。抵抗の証だ。
それもそうか。力仕事のために、毎日、栄養を考えた食事を作り、食べさせていたし、体も鍛えさせていたのだから。――亡者にとっても、襲いがいがあるだろう。
ディアナは鏡を背に、手近にあった椅子に座った。ベッドサイドのチェストには、ミント水の水差しが置きっぱなしになっていたが、爽やかな香りは亡者たちの腐臭で完全にかき消されている。
ディアナは鼻につく臭いを逃がそうと、窓を見て手をひとふりした。鍵が開く音ののち窓がひとりでに開け放たれて、雨粒が風と一緒にばたばたと飛び込んでくる。入れ違いのように、亡者の腕が一本窓の外へ飛んでいく。
一命をとりとめたあのハンターには、ゲオルクが死んだことを伝える役割を担わせよう。そう、ディアナはひそかに心に決めた。
だが、無傷で帰還させるのも癪に障る。街に帰ってからも悪夢や幻覚に惑わされるよう呪って、正気を失うまで苛むことにしよう。
それから、テレサ。この落とし前はどうつけさせようか。ただ報復に行くんじゃなくて、もっとあの女のプライドをずたずたにする方法を取りたい。そうだ、そうしよう。
窓の外に使い魔の蜘蛛を放ちつつ、そんなことをぼんやり考えている間に、部屋の隅での攻防が収束に向かっているのを感じた。
四ヶ月の結果がこれ。あっけないものだ。
何気なく見遣った床にはかなりの数の四肢が散らばっているが、血の汚れはない。亡者は血がないから、生きた人間の血を求めるのだ。
――床に、血がない。
ディアナはハッとして、亡者の集まっていた場所をもう一度見た。
廊下から差し込む明かりにわずかに照らされて浮かび上がったのは、ひどい有り様だった。
床は一面、バラバラにされた亡者のかけらで足の踏み場もない。
そして、彼らの最後の一体は、ゲオルクに片手で首を掴まれて、バキバキとへし折られているところだった。
「二ヶ月ぶりに見たが、こいつらずいぶん柔くなったな」
「――っ!」
薪の束のようになった亡者が床に放り捨てられる。我に返ったディアナは怒りの形相で椅子から立ち、背後の鏡を壁から外す。低く呪文を呟いてから、鏡をゲオルクへと向けた。ゲオルクはちょうど猟銃を拾い直したところだった。
「……バカな男。魔女との戦いで真っ先に負けるのが、腕力しか取り柄の無いハンターなのに」
薄明りに照らされた男の顔が鏡面に映ったところで、鏡を自分に向けたディアナは余裕のある笑みを取り戻した。
魔女の鏡はディアナの顔に向けられているが、そこにはゲオルクの顔が映ったままだった。鏡の中のゲオルクは、現実のゲオルクと同じように眉を上げてディアナの次の行動を注視している。
「ざんねんだけど、これでおまえの頭部はあたしの手のひらの上」
薄く微笑みながら、ディアナはとん、と指で鏡の中のゲオルクの額を小突く。――現実のゲオルクが、忌々しそうに額を押さえた。
「まずは、その声を聞かなくて済むよう喉から潰しましょう。それから目、耳、額の順よ」
ディアナはゆったりそう言って、テーブルの果物籠から浮遊してきたナイフを手に取った。振りかぶって、鏡に向かって真っすぐ突き立て――
ようとしたが、切っ先が到達する直前、ゲオルクの持つ猟銃が発砲された。鏡はディアナの腕の中でパァンと粉々に砕けた。
バラバラと床に落ちていく鏡のかけらを見つめ、ディアナは驚きに固まっていた。術を解かずに鏡が割れたら、中に囚われた標的だって即死なのに。
「は……ハハ、本当に考え無しの、バカな男だったのね」
相手の予想外の動きに動揺しながらも、ディアナは勝ち誇って顔を上げ、そこで笑い声はついえた。
「すまない。かけらが喉にささったか?」
白々しい謝罪と猟銃をこちらに向ける男の姿に、ディアナは愕然とした。
鏡の術を解かずに鏡が割れれば、映る人間も同時に死ぬ術。
ディアナの得意な術のはずなのに、術をかけられたはずの彼は粉々の鏡をよそに、ピンピンしている。
「嘘、なんで」
なんで。
――まさか。
何年ぶりかに、背筋が冷えた。
思い当たった可能性に気づかれたくなくて、ディアナは右手で空を薙いだ。それを受けて、寝室の扉と窓が次々に閉まっていく。ゲオルクが眉を上げる。
すかさず、かたわらのミント水の入ったガラスの水差しを床に倒す。絨毯に落ちた水差しは割れることなく、ミント水がこぼれ出た。注ぎ口から、延々と、止まることなく。
無限に湧き出る水は驚異的な速さで部屋を水浸しにして、溜まっていった。出口のない部屋の中で水位がどんどん上がっていく。
ゲオルクは窓に猟銃の狙いを定めて引き金を引いた。たてつづけに数発撃ち、弾が無くなると窓辺に駆けよって銃身を叩きつける。だが、窓ガラスはひび一つ入らない。何度か叩いてそれが無駄だと悟ったとき、水位はもうゲオルクの胸まで来ていた。
灰色の目が、寝室の奥に向く。
魔女は首まで水に浸かりながらゲオルクを睨み返し、そのまま暗い水中に自ら潜っていった。ゲオルクが舌打ちする。銃を捨て、後を追って潜水するが、どこまで泳いでもどこにも魔女の姿はない。
水は、そのまま天井まで達した。
無人の食堂を、シャンデリアが煌々と照らしている。
惨劇の痕跡が拭いきれない床に、突如下からじわじわと水が滲み出した。
地下水が上がってきたのかと思うようなそれにはところどころにミントの葉が混ざっている。湧き水はすぐに大きな水たまりになり、そこからにょき、と腕が出てきた。続いてぐちゃぐちゃに濡れて乱れた亜麻色の髪、赤いドレスの胴。
最終的に現れたのは、この屋敷の女主人だった。
「ハァ……ハァ……」
ディアナは肩で息をして、よろめきながら立ち上がる。重くなった髪をかき分けて覗いた目には暗い炎が宿っていた。
「おのれ……ハンターめ……裏切り者どもめ!!」
後輩の魔女と下僕への呪詛の言葉を吐いた声は、震えていた。
声だけではない。壁について身体を支える指先もだ。晩秋の寒さに水に浸かったせいか、もしくは、怒りによるものだろう。
――怒りによるものだと、ディアナは自分に言い聞かせた。けして、あの灰色の目のハンターに怯えているからではないと。
たとえあの男が、もはやディアナを恐れていないのだとしても。
『ニヶ月ぶりに見たが、――』
ゲオルクはこの四ヶ月、ずっとディアナのそばにいた。片時も離れなかった。魔術でハンターを撃退するときも。
どんなに不可思議で残忍な所業でも、見慣れてしまえば、人はやがて恐れなくなる。魔女殺しを生業にするものなら、なおさらに。
魔女ディアナのやり口に、男は慣れたのだ。
このために、男は傀儡人形のふりをしてこの屋敷に居続けたというのか。
その事実に、自分はこんなにも動揺しているだなんて。
「……やっぱりさっさと殺しておけばよかったわ」
「後悔先に立たずってな」
背後からの声に振り返る。いつの間にか、食堂の入り口に、ゲオルクが立っていた。
ずぶ濡れなのはディアナと同じだが、灰色の目には迷いがなく、全身に生気と殺意がみなぎっていた。
「まだ生きてるの……しぶとい男。まさか、あたしの部屋を壊して出てきたっていうんじゃないでしょうね」
「水差しを割ったら水が引いたよ。明日はあの部屋、掃除しなくてもよさそうだな。丸洗いされたんだから」
ディアナは答えられなかった。ゲオルクが一歩、部屋の中に足を踏み入れたのを見て、思わず足が一歩動く。言葉とは裏腹の逃げるようなその動きに、男も追うような動きを見せた。
雷の落ちる音が、雨音を割いて響き渡る。
やがてディアナの足は、背中が柱時計についたときに止まった。ゲオルクは、その目の前に立ちはだかった。その手に猟銃はなく、代わりに、腰に提げていた手斧が握られていた。
その刃に、亜麻色の髪が数本、絡んでいる。
男が持ち歩いていたのは、中庭でディアナの首を切った手斧だったのだ。
「……殺したければ、殺せばいいわ」
ディアナは視線を手斧から引き剥がし、相手を上目で見ながら、ひきつる口元で笑ってみせた。
「でもどうせ殺しきれない。さっきのハンターとのやり取りを見たでしょ? 何度でも、好きな方法で殺せばいい。……いずれ、あたしの不死身を実感して、恐怖が蘇ってくるわ」
「心臓を破ってもか?」
食堂に、沈黙が落ちた。
再び、時計の針の音だけが響く時間が過ぎる。
「……やってみればい、」
みなまで言う前に、男の大きな手がディアナの左胸を押さえこんだ。濡れたドレスの上から皮膚が沈められる感覚に、魔女が息を呑む。
「鼓動がしない」
冷たく、低く、けれどよく通る声だった。
まるでディアナに聞かせようとするかのように。
「不死を豪語する魔女に挑んだのは、初めてじゃない。だけど不思議なことに、奴らは狩れる場合と逃げられる場合があった」
ディアナは声を出せなかった。ないはずの血が、冷えていく錯覚にとらわれていた。
身体が記憶していたのだろうか。人が恐怖を覚えたときに、どんな感覚を味わうかを。
「首を切って確実に殺したはずなのに、その首が教会に引き渡したあと消えるんだ。それからしばらくして、別の街でその魔女の噂を聞く。報奨金はもらっているから仕方ない、追いかけてもう一度殺した。今度は教会に持っていく首以外、持ち物から服の一片まで残らず燃やした。そうすると、なぜか首は消えなかった。不死の魔女でも、殺すことはできる。殺し方を知ってさえいれば」
殺し方。さっきディアナがゲオルクに聞かせた言葉を、わざと繰り返しているのだ。
ディアナを追い詰めるために。
「――鼓動がしない。まるで心臓がないみたいだ」
心臓。
そこまで知っているのかと思えば、噛み締めた歯の間から憎しみのこもった声が漏れた。
「……テレサ、あのおしゃべり女……」
男は否定しなかった。
「他にも色々知ってるよ。魔女への対抗にいちばん大事なものは、恐怖を克服すること。不死の魔女は、“心臓”を破らないと殺せないこと。そしてその心臓は、左胸の臓器のことじゃないってこと」
男の指先がディアナの胸を伝う。左の、少し中央に寄った位置。
他の人間とは違い、熱も動きもない場所を。
「不死の術は、弱点を身体の外に設定する術なんだろう? それで肉体の弱点は消え、首を切られても、身体を焼かれても復活できるようになる。術が有効な間は左胸の心臓は動かなくなるから、設定した弱点のことを便宜的に“心臓”って呼んでるんだってな。便利な術だが、欠点がでかい」
武骨な手は、胸から鎖骨を伝い上り、むきだしの首にたどり着いた。
切られても血の一滴も流れなかった冷たい首。男の手で簡単にへし折られそうな、細い首。
「“心臓”が傷つけられれば術は解け、魔女は不死身じゃなくなるのに、大切な“心臓”は、他人の目に晒されていなければいけない。だから、不死の魔女は常に一人で生きている。誰にも自分の“心臓”がなんなのかを悟らせないため。それが実は堂々と誰かの目に触れられていると知られないため。俺が殺せた不死の魔女は、衣服か持ち物のどれかが“心臓”だったんだろう。……この四ヶ月、俺が魔女の下僕でいることに耐えたのは、恐怖を克服するためだけじゃない。どれが“心臓”なのか、見極めるためだ」