道中
夏休みに入り、二週間程たった。気温は三五度を超え、常に喉が渇くので唾が砂漠のオアシスのように私に恵みを与えていた。
毎年この時期になると、家族でおばあちゃんの家へ行く。荷物は昨日のうちにリュックサックに詰め込んであるので、着替えを済ませれば車に乗り込むだけだ。小さいころは夢の国へでも行くように心躍らせていたのだが、ここ二、三年は憂鬱な気持ち抱くようになった。同級生の男子の会話も幼稚に感じることが多くなったように思う。私は大人の扉にノックをするくらいには成長したのかな、と少し誇らしくなった。今から、向かうおばあちゃんの家は関東平野の住宅街からはいくつもの山を越えた、田んぼと畑で広がっている盆地のすみっこに位置している。車を何時間も走らせていくのだが、道中は曇天がつづら折りにそびえたつ山々の頭の上を散歩している呑気な天気だった。心象風景というものが現実にあるとするならば、犬の心象風景はきっとこんな感じだろうなと思った。どこまでも続く脇のガードレールを横目で流しながら、私は少しずつおばあちゃんの家へ近づいていくのを確認していた。
出発してから長い時間がたった。ここまでの退屈な時間は山、田んぼ、住宅街、トンネルと、いった感じに単調な景色が流れていた。これらの景色の中には人によっては胸を躍らせる思い出や何にも代え難い経験をいっぱい生みだしているのだろう。だけど、これらの景色も宇宙の隅から観察すると、光の届かない星のように小さく、数ある星のように当たり前に存在しうる、ちっぽけな景色になる。私はこのことに小さな好意を覚えた。私のこれまでの人生は、どこにでも見られるような使い古されたプロットの陳腐な物語であるような気がしてならなかった。
交差点の曲がり角で見覚えのある景色に思い出がシャッターを押した。靄がかかったような微かな記憶の中のモノクロの現像写真と今目の前に広がるフィルムの映像が私の認知機能の下で一瞬重なり合った。市街地への経路が書いてある標識、いかにも田舎らしいスバルの看板、田んぼを両側に持つこの道路、この視界に広がるものはすべて、小さいころにおばあちゃん家に近づいたのだと心を躍らせていた景色である。長年押し入れに閉まっておいたモノクロ写真に色が付き、色鮮やかに修復されたようだった。だが、この感情は誰にでもあるもので誰にでも経験あるものだと思うと感情が白銀の吹雪の中の雪女のように透き通っていて薄れたものなっていった。冷えた透明の心を抱えながらも、単調で軽快なリズムを刻む景色がもうすぐ終わろうとしていることにさみしさを覚え、名残惜しさがするりと胸の隙間を通りぬけた。