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さようなら、田中太郎。

作者: 突然の嵐

文庫本を拾った。誰かの落とし物だ。

出入りの激しい駅の構内に転がっていたそれには、くっきりと靴のあとが残っている。何故かしら、可哀想に思った。

汚れをはたき落としコートのポケットに押し込む。いつもなら駅員にでも押しつけるところだけど、私はとても急いでいた。だから急ぎ足で電車に乗り込んでさっさと駅を後にした。



文庫本のことを思いだしたのは、家に帰ってからだった。

すっかり日が落ちて外は真っ暗。部屋も真っ暗。電気をつけて、荷物をおろして、そしてコートを脱ぐ途中で文庫本の存在に気が付いた。


ソファに腰かけて、取り出したそれをじっと見つめる。

薄茶色の文庫カバーには、相変わらず靴のあとが残っている。汚れを指先でスルリとなぞり、その指で表紙をめくった。


私は普段、本を読まない。そもそも真面目に本と向き合ったのなんて遠い昔。小中学生の頃、読書感想文を書くためにいやいや読んだくらいだ。

だから中表紙に印字されたタイトルと著者名を見ても、いまいちピンとこない。ただ直感的に「難しそう」と思っただけだ。まかり間違ってもこの本を読むことはないだろうな。


まぁでも、読まないにしても、カバーは変えてあげなければと思っていた。汚れた服を着たままなんて、さぞ気持ち悪かろう。


私は妙な使命感にかられ、文庫本からカバーを剥ぎ取った。


「あれ?」


そして“それ”を発見した。カバー裏に印字されていた文字を。

規則正しく並ぶ七つの数字に県名と地名が続き、最後に誰かの名前が書いてある。それは紛れもなく誰かの住所と氏名だった。

予想外の事態に呆気にとられた私は、呆然と文字を眺めた。けれど状況を理解するにつれ、トクトクと鼓動が早くなりはじめ、口角がつり上がり……とどのつまり、この事態に興奮していた。


仮にこの文庫本の持ち主(推定)の名前を「田中太郎」とでもしておこう。

どうやら田中太郎はこの文庫カバーを作るさい、大判の茶封筒をリサイクルしたようだ。書類なんかが入れられているアレだ。


幼い頃、誰もが親や教師に言われただろう。「自分の持ち物には名前を書きましょう」。田中太郎はそのいいつけを忠実に、あるいはたまたまなのか、とにかくお利口にも守っているらしい。

けれどもわざわざ茶封筒を再利用する辺り、おおざっぱなのか面倒くさがりなのか、はたまた綺麗な用紙を用意できないほどに貧しい暮らしをしているのか……想像するだけでワクワクしてしまう。私の頭の中に、まだ見ぬ田中太郎の人物像が勢いよく組み上がっていく。


田中太郎、一体どんな人なのかしら?


外したばかりのカバーを文庫本にかけ直しながら、私は今週末の予定を考え直すことにした。家でゴロゴロ映画でも観るつもりだったけど、この住所へ行ってみてもいいかもしれない。いや、行く。決して、下心などではない。断じてない。私は落とし物を持ち主のところに届けたいだけ。善意百パーセントだ。

そうと決まればやることは一つ。スマートフォンを取り出して、件の住所周辺をリサーチしておこう。



さて、週末になった。

私ははずむ足で家をあとにした。こんなにウキウキしたのは小学校の遠足以来だ。


幸いにも田中太郎の住む場所は、我が家からそれほど離れていなかった。電車をいくつか乗り継げば、半日とかからずに行ける距離だ。

人で混み合う車内。私は端っこに追いやられ、潰されないよう気を付けながら窓の外へ目を向ける。ギュンギュン流れていく景色が映画のワンシーンのようで、なんだか特別なものに思えた。


この数日で私の脳内の田中太郎は、うだつの上がらないサラリーマンへと成長をとげていた。会社ではペコペコと上司へ頭を下げ、家では妻と子供にないがしろにされ、少ない小遣いから買った本を読むことだけが生きがいのさみしいおじさんだ。

あぁ、可哀想な田中太郎! きっと文庫本をなくしてさぞ悲しんでいることだろう。はやく届けてあげないと。


私は使命に燃えている。



電車を乗りついで辿り着いたのは、なんてことはない、ごく普通の住宅街だった。


建ち並ぶ家々の少し汚れた壁や色あせた屋根。太陽光を浴びて泳ぐ洗濯物の群れ。近くの家の庭から聞こえてくるはしゃぎ回る子ども達の声──

他人の生活感に溢れたこの場所に一人でいると、少し心細くなってくる。アウェーで戦うスポーツ選手の気分がちょっぴり理解できた。


キョロキョロと辺りを見回す私を、手を繋ぐ親子連れが不思議そうに、もしくは不審そうに、一瞥して通り過ぎていった。自身のテリトリーに入り込んだ異質な存在に対して、それは至極当然の反応だった。

ごめんなさいねぇ。心の中で頭を下げつつ、早足に通りをつっきる。念入りに地図を眺めて、散々シミュレーションしたのだ。田中太郎の家にはすぐに辿り着いた。


別に豪邸やら魔王の城やら、そんな大層なものを想像していたわけではない。わけではないけど、田中邸はごくごく普通の一軒家だった。この住宅街によぉく馴染んでいる。

けれど私にとっては魔王の城も同然だ。

ラストダンジョンへ挑む勇者の気分で、インターホンへ指を当てる。


いざ、囚われの田中太郎を救いださん!


本日最高潮の盛り上げるを見せる私のテンションを、


「あら、田中さんなら先月引っ越したわよ」


という通行人の言葉がマリアナ海溝よりも深い深淵へと、一瞬にして叩き落とした。

私はインターホンを押す直前のおかしなポーズのまま、ぎこちなく通行人へ顔を向ける。


「あ……の。どこへ引っ越したかは……?」

「ごめんなさいねぇ。知らないのよ」

「そう、ですか」

「それじゃあ、私、急いでいるから。本当にごめんなさいね」


そう言い残し、申し訳なさそうな顔で去っていく通行人。取り残された私は、魔法が解けたようにようやくポーズを解き、元田中邸を見上げてため息をついた。

言われてよく外観を観察してみれば、確かに人が暮らしている気配はない。新聞を詰め込まれたポストや、取り残されて枯れてしまった花壇の花が哀愁を誘う。


──さようなら、田中太郎。

私の冒険はこうして幕を閉じたのである。



貴重な休日と電車代を費やしたというのに、結局私は田中太郎に出会えなかった。

手元に残ったのは捨て置かれた一冊の文庫本。可哀想なので私はこの文庫本を読むことにした。通勤中の暇つぶしとして。


読書の習慣などない私には、小さな文字を追いストーリーを理解する作業は困難を極めた。三ページ読んだ時点で、読むのをやめようと思ったくらいだ。

けれど、苦労したのははじめの内だけだった。ページをめくるたびに、物語にのめり込んでいった。こんなにおもしろいものを「難しそう」と食わず嫌いしていたなんて、なんともったいないことをしていたのか。

この文庫本との出逢いは、退屈な日常をおくっていた私にある種の革命をもたらしたのである。


──ありがとう、田中太郎。

感謝の気持ちを伝えれば、私の頭の中の田中太郎は照れくさそうに笑う。


くたびれたスーツを着た田中太郎は、今日もどこかで社会の荒波に立ち向かっているのだろうか。本当は、このイメージが崩壊するような強烈なキャラクターとの出逢いを期待していたのだけど、これが現実というものだ。

やろうと思えば名前から捜し出すこともできるだろう。でも、もういいのだ。私と田中太郎の物語はここでおしまい。それでいいのだ。


めでたしめでたし。



今日も今日とて電車の隅っこで本をめくる。

ようやくストーリー最大の謎が核心に迫り、そろそろ結末を迎えそうな盛り上がり。もう直接脳内に文字が流れ込んできてくれたらいいのに! そんなバカなことを考えてしまうくらいに、この物語はおもしろかった。

調べてみたら続編があることがわかったので、これを読み終えたらネットで続きをダウンロードするつもりだ。


いつになく真剣に文字を追う私。電車の中は沢山の人や音、においでごった返しているけど、今の私の頭には本のことしかない。まるで一人、世界から切り取られたみたい。


「あ! その本!」

「ふぁいっ!?」


突然近くであがった大きな声。自分の世界に引きこもっていた私は、一瞬で現実へ引き戻された。慌てふためき周囲を見回せば、大学生くらいの男の子と目が合う。彼は私の広げた文庫本を指差すと、興奮気味にたずねてきた。


「それ、お姉さんのですか!?」

「違うけど。もしかして」


ハッとした。

もしかして、


「田中太郎、さん?」


たずねたものの、どうにも確信が持てない。

目の前の男の子を上から下までサッと観察する。いかにも今どきの学生さんといった感じで、サラリーマンにはとても見えないからだ。家に帰っても、冷遇してくるような妻子はおそらくいないだろう。


私の頭の中の田中太郎像にヒビが入る。


男の子は「見ちゃったんですね……」と苦笑した。ホラー系、サスペンス系の映画で最も聞きたくない言葉の一つだ。

ゴクリと固唾を呑んで見守る中、男の子は予想外の答えを告げた。


「田中太郎は父です」

「え!? そうなのっ!?」

「え? はい」


なるほどそうきたか!

私の頭の中の田中太郎像がガラガラと崩れ去った。



その後、男の子からいくらか事情を聞いた。

ブックカバーが封筒のリサイクル品なのは、即席で用意したからだそうだ。おおざっぱなのにせっかちという、なんとも複雑な性格が話の端々からうかがえる。

そして、家を引き払ったのは父親(田中太郎)が転勤することになったから。けれど大学があるから、男の子はこちらに一人で残ったということらしい。


「ごめんなさい、勝手に読んじゃって」

「そんな! こちらこそ、拾ってもらってありがとうございます!」


男の子はペコリと頭を下げた。周囲の人達は彼に迷惑そうな目を向けたけど、愛嬌があっていいと思う。なによりお礼って大事よね。


「どういたしまして」


閉じた本を差し出すと、男の子はそれをじっと見つめた。

カバーについた足跡が気に入らないのかしら?

やっぱり新しいのをかけ直してあげた方がよかったかな?

そんな風に不安に思っていると、男の子はいきなり顔を上げた。何故か一歩、私の方へ近寄ってくる。


「あの……最後まで、読みました?」

「いいえ。もう少し残ってる」


不思議に思いつつ首を横に振る。すると男の子は小さくガッツポーズをした。それを見て、私は彼の考えていることをなんとなく察した。

男の子はほんのり頬を染めて、キラキラした目で私を見てくる。とてつもなくわかりやすい子だなぁ。


「それなら、読み終わるまで貸しますよ!」


うまい話には裏がある。

口元がゆるみそうになるのをこらえて、努めて平静を装う。けれどほんの少し意識して、上目遣いに男の子を見上げた。


「いいの?」

「はい!」


元気に返事をした彼は、ジャケットのポケットからスマホを取りだした。「情けは人のためならず」とはよく言ったものだ。

真似してスマホを取りだす私の心は、今ものすごくはずんでいた。それは新しい物語に出逢ったときの感覚に似ている。

もともと短編集【幸せな人たち】に載せていた話を独立させました。

チラシやら封筒やらでブックカバーを作るのは、私(書いてるヤツ)の習性のひとつです。

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