月下美人
「授業終わったらまたここで会いましょう」
ぐるぐるとこの言葉が頭を回る、朝から母の再婚や彼女のことで頭がパンク寸前だ。この状態では当然授業にも身が入らない。大好きな国語の授業でもほとんどの時間を棒に振ってしまった。こんなことは滅多にないのだが。そのせいか、5時限目に保健室に行くように言われてしまった。正直、助かった。僕はそのまま保健室のベッドに飛び込み眠りについた。
「…くん、…きくん、愛生くん起きて」
養護教諭の声で現実へ引き戻される。時計を見て僕の背筋は凍った。
「ごめんねえ、とっくに帰ってると思って気付かなかったの。」
左手首についている母からの贈り物は18時を指していた。おおよそ3時間も寝てしまった。部活をしているわけでもないが、朝彼女から言われた言葉が僕の焦燥感を駆り立てる。
生徒玄関を出て駐輪場に目を向けると 夕闇の中にもかかわらず、美しい黒い天使の輪に目を奪われた。その輪の持ち主は僕の姿を見つけるなり、一夜しか咲かない美しい花の開花を思わせるような、浮世絵離れした美しさの笑顔をこちらに向けた。
「愛生くん!」
夏とはいえ、夜は冷える。そんな中で授業が終わる16時から約2時間も待っていたというのか。
「もう、朝言ったこと忘れて帰ったのかと思ったよ」
彼女は美しい笑顔を崩さずに続ける。
「一緒に帰ろ!」
僕は、謝罪の言葉も、詫びの言葉も発せずに彼女に手を取られ、自転車に乗り込み帰路に着いた。