愛のかたち
ハッと気がついた時には、祐司は暗闇の中にいた。
一瞬パニックに陥りそうになりながらも、祐司は身じろぎしながら、思わず言葉がこぼれ出た。
「……ここはどこだ?」
暗闇の中にいると思っていたが、祐司の目元には目隠しの布が巻き付けられている。手足だけではなく、どうやら両手・両足も紐で縛られているらしい。
一体なぜこんなことになっているのか? 覚えている限りで、祐司は記憶の中を探る。すると――。
『やっと、起きたね』
不気味な声が祐司の耳に届いた。
その声が不気味な理由は、人間の声ではないからだ。テレビや動画でよく見聞きするような、ボイスチェンジャーを使用しているのだろうことは、その声を聞けば一発だった。
「お、お前は誰だ。なぜ俺を……?」
見えないということは、恐怖だった。思わず声が裏返りそうになったのを、祐司は必死に食い止める。
『坂本祐司くんだよね?』
ゴクリと喉が鳴った。この男は自分のことを知っているのだ。
「なぜ、俺の名を知っている?」
誘拐か? いいや、誘拐するには相手に理がない、と祐司は咄嗟に思う。
祐司の実家は曽祖父の代から続く工場を営んでいる。とはいっても、景気は右肩下がりに落ち、今や借金まみれだ。身代金を要求したところで、払えるわけもない。むしろ身代金狙いの誘拐ならば幼なじみの――。
「祐司……?」
その声を聞いた瞬間、祐司ははじけるように声を上げた。
「美穂!」
震える声で、祐司の名を呼んだのは、祐司の幼なじみの有田美穂だった。
「祐司……ここ、どこなの? 私達、どうなるの……?」
今にも泣きそうな声が、祐司の少し離れた先から聞こえる。
「お前! 美穂を、俺と美穂をどうするつもりだ⁉」
美穂の不安そうな声を聞いて、祐司の中でさっきまでどこかへ隠れてしまっていた勇気が、どんどん溢れ出てくる。
さっきは身代金が目的ではないと思った祐司だが、美穂がここにいるということは、相手の目的はたぶん金だろうと、確信をつく。
祐司の家は貧乏だ。けれど美穂の家は逆だった。
美穂の父親一代で立ち上げた事業が好調に売上を上げ、今や億万長者と言われる人々にあたり、生まれた場所が違えばこれほどまで家庭環境が違えるものなかと、祐司は幼な心ながらに思っていた。
『祐司くん、僕は君と一緒にクイズゲームがしたいんだ』
「……クイズゲームだと?」
犯人の意図が汲み取れず、祐司は顔を顰めた。とはいっても、きつく縛られた目隠しでは、それをするのも困難だと祐司は思った。
『君と有田さんは許婚同士だそうじゃないか』
「それが、どうした」
そう、祐司と美穂は許嫁同士だ。ただし、親同士が決めた間柄だが。
ドラマでよくある設定だ。祐司の家の事業が傾き、借金は泡のように膨らんでいき、長年続けてきた工場をたたまないといけなくなり、たたんだところで借金が多額すぎて父親の首は回らない状態だった。
そんな中で、幼い頃からよくしてくれていた幼なじみの有田家が、出資を決めてくれた。有田家は子供に恵まれず、やっとできた子供が美穂だった。
美穂の将来の相手にと祐司が婿に来る前提で、借金をチャラにしてくれたのだ。
もちろん、双方の両親は美穂と祐司の意見を尊重してくれている。したがって美穂と祐司が高校を卒業する今年、二人は将来結婚を誓うのかどうかの選択肢を、美穂と祐司は迫られていたのだ。
この犯人が美穂や自分の名前だけでなく、許嫁のことも知っているであろうことは、今の祐司にはゆうに察しがついていた。
そうでなければ、自分が美穂と一緒に捉えられている意味が分からなかったからだ。
『風の噂によると君は……こんなに可愛い許嫁がいながらも、別に彼女がいるそうじゃないか』
「さっ、触らないで!」
美穂の悲鳴にも似た声が、真っ暗な視界の中で響き渡る。
「おい! 美穂に手を出してみろ、容赦しねーぞ!」
『おー、怖いこわい。浮気者のくせに、言葉だけは一人前だね』
「うるせぇ! 俺と美穂は親が決めた間柄だ! そもそもそんなこと、お前には関係ないだろ! お前は一体何が目的だ! 俺と美穂に何の用があるっていうんだ!」
祐司は必死に手首をよじる。横たわったままで手首に巻かれたロープをなんとか外そうとするが、きつく結ばれたそれはびくともしない。
『さっきも言っただろう? ゲームがしたいんだよ。君が有田さんを取るのか、それとも……』
ベリッとテープがめくられる音が聞こえたと同時だった。その後に聞こえた声に、祐司は愕然とした。
「祐司! 助けて!」
泣き叫ぶようにそう言ったのは、佐野ほのか。祐司の彼女だった。
厳密には彼女ではない。二人は付き合ってはいないのだ。けれどゆくゆくはそういうなるつもりで裕司もほのかもいる。
祐司は高校を卒業したら美穂との関係を清算し、家の借金は自分で返済していくつもりだったのだ。
多額の金額を返済するには、ただ稼ぐだけでは借金は返せない。バイトをしたところで大きな金額は見込めないと分かっているだけに、祐司は別の方法を模索していた。
学校に行きながら、プログラミングの勉強を独学でしながら、株や仮想通貨にまで手を出し始めていた。
そうやって自分でお金を稼ぐ術を身につけ始めていたのだ。
そうして高校を卒業と同時に、美穂と美穂の両親、そして祐司の両親に伝えて納得を得てから、ほのかとは正式に付き合おうと考えていたのだ。
ほのかはそれを理解し、了承していた。だからこそ、今、ここにほのかがいることで祐司の怒りと焦りが一気にあふれた。
「俺達は付き合ってない! ほのかは関係ない!」
『ほのかは関係ない……じゃあ、有田さんはどうなってもいいんだ? 薄情だねぇ。彼女の父親に借金を肩代わりして貰ってるくせにさ』
「そんなもん、俺が頼んだことじゃねーよ! 俺の借金でもない! そもそも借金なんてもんは、俺が全部返済してやるよ!」
『……それは、有田さんはどうなってもいいって意味で、いいのかな? ゲーム終了だねぇ』
「借金は関係ない! だから美穂も関係ないだろ! お前は俺に用があるんじゃねーのかよ!」
祐司はずっと探っていた。この男の目的を。
お金なのかそれ以外なのか。けれどそれなら拉致は美穂だけでいいはずだ。それなのにこの男は祐司を拉致し、祐司にゲームを持ちかけている。
何より、ほのかがここにいることが決定的だった。そしてそれは同時に、この男の目的がお金ではないことの裏付けでもあった。
この男の真意はきっと、美穂でもほのかでもなく、自分なのだろうと混乱した頭で推測していた。
『君はどうやら頭がキレるようだね。素晴らしい。そうでなくては有田さんのご両親も君を大事な一人娘を許嫁になどしようと考えなかっただろうね』
「さっさとゲームとやらを話せ。美穂とほのかをさっさと開放しろ」
『そうはいかないよ。このゲームには二人にもいてもらわなくっちゃ」
「祐司、私は大丈夫だから! だから――きゃあ!」
ほのかが叫んだと共に、激しい音が祐司の耳に届く。バンッという音が響いた後、さらにドンドンッとなにかを蹴るような音が聞こえ、祐司の中に不安な気持ちと焦りがふくらむ。
「ほのか! 大丈夫か⁉」
ほのかからの応答はなく、ただ嗚咽のような声が聞こえる。
「おい! ほのかに何をした!」
『話の邪魔をするから、ちょっと黙ってもらっただけだよ』
そう言った後に、再び激しい音が暗闇の中に広がる。その音と共に、ほのかが呻く声が聞こえた。
「やめろ! ほのか! ほのかっ‼」
祐司は床に寝そべりながら、何とか立ち上がろうとした。両手、両足を縛られているせいで、上手く立ち上がれないが、体を跳ねさせるようにして、必死になってほのかの声がした方へと向かおうとしていた。
「ほのか! ちくしょう! ほのかに手を出すな!」
『あーあ、汚いなぁ。君は本当にこんな子がいいんだ?』
祐司は再び反論しようと叫ぼうと口を開けた、その時だった。ツンとした鋭い香りが、祐司の鼻をついた。
それは、アンモニアの匂いだった。その匂いとともに、ほのかが声を殺して泣きじゃくる音が聞こえる。
「……っのやろ」
ほのかを思い、祐司は思わず涙がこぼれた。けれどその涙は人知れず。目隠しをされているせいで、それが頬を伝うことはない。
下唇を必死に噛み、流れ出る涙を食い止める。
自分のせいでほのかが危険な目に遭っている。けれど自分は何もしてあげられない不甲斐ないこの状況に、苛立ちと苦しみを感じていた。
「お前の目的はなんなんだよ。なんで俺を……」
『君は本当に勝手な人間だね。有田さんが可哀想だと思わないか?』
「やめて! 触らないで!」
恐怖におびえる美穂の叫び声。その声に反応するかのように、祐司も叫ぶ。
「おい! 美穂に手を出すな!」
『どの口がそんなことを言うのかな? 有田さんをたぶらかしておいてさ』
「俺がいつ……!」
祐司は頬に、靴の底の感触を覚える。きっとこの男が自分の頬を踏みつけてるのだろうと察した。
『両親に許婚として君をあてがわれ、彼女は一途にそれを守ってる。彼氏も作らずにいるというのに、君はどうだい? 他の女にうつつを抜かしてさ』
「だから……」
足を押しのける勢いで口を開こうとするが、男はさらに祐司顔を強く踏みつける。
『佐野さんとは付き合ってないって? ならなぜ許婚を解消しない? それはお金に目がくらんでるからだろう? 家への融資を絶たれたら困るからだろう? 結局は金なのだろう?』
「違うわ! 私が祐司にお願いしたんだもの。高校を卒業するまで、許婚でいましょうって。お互いに別の好きな人が出来たのなら、その時は高校卒業と共に許嫁を解消しましょうって。祐司がそうしたんじゃなくて、私がそう言ったのよ!」
男は祐司の顔から足を上げた。ジャリジャリと足音が祐司の元から離れていくのを聞いて、ハッと我に返った。
「おい! 美穂に手を出すな! お前は俺とゲームがしたいんだろう! してやるよ! だからこれ以上二人には手を出すな!」
その言葉に、男の歩く足音がぴたりと止まった。
『いいよ。じゃあゲームをしよう。君がゲームに勝てば解放してあげる。なぁにゲームは簡単だよ。君が二人のことをどれくらい知ってるのかって話だから』
「どういうことだ?」
『まず、有田さん。彼女の生年月日は?』
祐司は再び眉を寄せる。質問の意図も、ゲームの内容にも意味を見出せないでいたからだ。
「祐司!」
『しー。君が答えちゃゲームにならないよ。代わりに答えたら罰として、彼がしんじゃうかもねぇ』
くっくっくっ、と笑う男の声に、美穂は静かになった。
「あっ、あなた……私のストーカーなんでしょ? ねぇそうなんでしょ? なんでこんなことするの? 相手は私だけでいいじゃない。祐司を、佐野さんを解放してあげてよ」
ストーカー。その言葉を聞いて、祐司が疑問に思っていたことが全てつながった。
美穂が以前祐司に相談していたのだ。いつも誰かにつけられてる気がすると。誰もいないはずなのに視線を感じることがあると。
その予想は的中した。数日後、美穂の元に一通の手紙が届いた。中身は美穂のプライベートな写真だった。
中には家の中で、美穂以外知らないような写真も入っていた。
その時は警察に相談し、解決したのだと美穂は言っていたのだが――。
『有田さん。安心して、僕は君を傷つけたりしないよ。ただ、君を傷つけるヤツを懲らしめるだけだから』
「私はそんなの望んでない!」
金切り声を上げる美穂だが、男は聞く耳持たず、祐司に向かってこう言った。
『さぁ、答えてよ。曲がりなりにも許嫁なんでしょ? 幼なじみだしさ、それくらい知ってるよね?』
「……7月7日」
祐司の呼吸は浅い。
ドクドクとかき鳴らす自分の心臓の音を聞きながら、男の返事を待つ。
『んー、正解。さすがに簡単すぎたかな?』
男はぐるぐると部屋の中を回っている。その様子は床に響く男の靴音から感じていた。
『じゃあ次は佐野さん。ここは公平にいこうか。佐野さんの誕生日は知ってるかな?』
「9月12日」
最近誕生日を祝ったばかりだった。とはいっても、安物のアクセサリーをプレゼントしただけだったのだが。
公式に付き合っていない二人だが、お互いに思い合っているのは確かで。それは数か月前、ほのかが祐司に告白したことがきっかけだった。
祐司も同じクラスであるほのかのことが気になり始めていた矢先だった。ほのかは祐司の家の事情を知った上で告白していた。
だからこそ二人は、正式に付き合うまで友達の関係を維持していたのだ。
心の底に愛情を秘めながら……。
『有田さんの時よりも回答に歯切れがいいねぇ……正解だよ』
「さっさと次の質問を教えろ」
『威勢がいいねぇ。そういうの嫌いじゃないよ』
男は再び祐司のそばに歩み寄り、かがんだような様子が、布の擦れる音と、声の聞こえる位置から察した。
『次は有田さんが一番大切にしてるものってなーんだ?』
「母親に貰ったテディベアだ」
『あれ、意外と迷いがないんだね? 答えはどうだろう、有田さん?』
「正解よ」
美穂の答えに、祐司は安堵する。
美穂の母親は美穂を生んだ時に亡くなっている。美穂にと購入しておいたテディベアのぬいぐるみは、美穂が生まれる前に、母親が美穂へと用意していたものらしい。
美穂は幼い頃からそれを大事にしていた。それは成長した今でも。
『本当に? 有田さん、嘘はダメだよ』
「嘘じゃないわ」
さっきよりも反論に勢いがない。けれど美穂の一番大切なものがあのテディベアでないとすれば、今の祐司にほかの答えは見つからない。
『なるほどね。じゃあ祐司くんはちゃんと、許婚を最低限演じてたってわけだ』
男が引き下がった様子に、祐司はほっと息を吐き出した。
『じゃあ次は佐野さん。祐司くんは佐野さんにとって大切なもが何か、知ってるのかな?』
「……ブレスレットだ」
紐で縛られ、身動きのとれない手のひらに、ジワリと汗がにじむ。正直祐司には、この答えに自信はない。そうだといいなという願いを込めた、答えであり、それをほのかが否定しないことを心から望んだ。
美穂の時とは違い、裕司がほのかと親しくなったって一年。さらに言えば、美穂という許婚がいる手前、祐司なりに美穂に気を使って公にはほのかと接触しないように心がけていた。
だからこそ、祐司は美穂のことはよく知っていても、ほのかのことは美穂に比べれば知らないことが多いのだ。
『佐野さん、答えはどうなのかな?』
「あっ、当たってるわ……」
ほのかが絞り出すように言った言葉を聞いて、祐司はいたたまれない気持ちで胸が張り裂けそうな思いだった。
このクイズはいつまで続くのか。正直なところ、このクイズゲームには意味などないように思えていた。男は美穂のストーカーなのであれば、正直美穂への質問には慎重になって答える必要がある。
しかしほのかに対してはどうか。男がほのかのことを美穂以上に知ってるとはあまり思えない。たとえ回答が外れていたとしても、ほのかもあえてそれを訂正するとも思えない。
となればこのゲームの意図とは一体なんなのか。結局のところ、祐司が美穂に対する正しい答えを言い当てられなくなるのを待っているのか……。
そんな風に考えていると――。
『そのブレスレットはそんなに大事なものなのかな? お祭りの出店で購入したような、安価なものだとしても?』
その言葉を聞いた祐司は、カラカラに乾いた喉をゴクリと鳴らす。
この男は美穂のことも調べ上げているのだ。ブレスレットは祐司がほのかの誕生日にプレゼントしたものだった。プレゼントをした時、普段は口数の少ない彼女が満面の笑みで喜んでくれた。たとえ数百円の安物で、男が言うようにお祭りの出店で購入したものだとしても。
あれからほのかが欠かさずそのブレスレットをつけている様子から、きっと気に入ってくれているのだろうと感じていた。そして、それが彼女にとって大切なものであるようにと願いを込めて、祐司は答えたのだ。
『だけど残念なお知らせがあるんだ』
男はおかしそうにくっくっと声を殺しながら笑う。変声器を使っているせいか、その言い方は男の不気味さに拍車をかける。
『この答えの中に嘘がある』
「どういうことだ?」
『そのままの意味だよ。答えに嘘がある』
ドクン、と心臓が跳ねた。
「なにが嘘だって言うんだよ。二人とも正解だって言ってるじゃねーか」
『そうだね。だからそれが嘘だって言ってるんだよ』
コツコツと小さな足音を鳴らしながら、男は祐司から離れていく。すると同時に「きゃっ!」という美穂の小さな悲鳴が聞こえた。
「ほのか! 大丈夫か⁉ おい――」
祐司の言葉を遮るように、男はこう言った。
『佐野ほのかさん。嘘はいけないね』
「嘘なんかじゃ……!」
――ドン! と地鳴りのような音が響いたと同時に、ほのかが悲鳴をあげながら泣き叫ぶ。
「やめろ!」
『そのブレスレットが大切なんて、嘘でしょ?』
「嘘じゃ……」
『だって君、有田さんのお父さんに頼まれて、祐司くんに近づいたんでしょ?』
……はっ?
男の言っている意味が分からず、祐司は開けた口から言葉を発するのも忘れて、男の言ったことを理解するのに躍起になっていた。
『有田さんのお父さんはさぞお金を積んだんだろうね。祐司くんの好みを調べ上げて、慎重に、かつ自然に、祐司くんを惹きつける為に』
「嘘だ……」
精一杯絞り出した言葉は、たったそれだけ。
けれど男はさらに話を続けていく。
『嘘だと思うんなら、佐野さんに聞いてごらん。もしさらに嘘をつくようなら、僕が彼女に制裁を加えることになるけど……答えてくれるよね、佐野さん?』
「ひっ」と小さな声が聞こえたとともに、ほのかは恐怖におびえた声でまくしたてるように話を始めた。
「そうよ……あたしはお金さえもらえればそれでよかったのに……こんなの聞いてない!」
そう言い放ったほのかの声は、祐司が聞いたことのないような、悪意に満ちているものだった。
ずっと口止めされていたものが、この男によって明るみに出たとなれば、隠しておく必要もないと思ったのかもしれない。そう思ってか、ほのかは突然豹変した。
「なんで私がこんな目に遭わなくちゃいけないの……? 私は雇われただけなんだから、開放してよ! お願い!」
「ほのか……本当に……?」
ほのかの切羽詰まった言葉に、これは何かの悪夢だと言いたげに、ただじっとほのかの言葉を待つ。
脳裏では自分の事を好きだと言ってくれ、付き合ってはいないもののデートを何度か重ねた、あの時のほのかの姿が、目隠しをされている中でよみがえる。
「あんたなんか……お金が絡んでなきゃ近づかなかったわよ」
震えながら涙を流し、そう言ったのであろう言葉は、風前の灯火とでもいいたげに、とてもはかないものだった。
祐司は身じろぎ一つせず、開いた口をワナワナと震わせる。
『はーっはっはっはっ! どうだい! 聞いたかい? これが真実だよ!』
「……嘘だ」
考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて。
そうして出た言葉は、なんとも陳腐なものだった。
「嘘じゃないって言ってるでしょ! どこまであんたはおめでたいんだよ! あんたのせいで私は……ひっ!」
電光石火の如く、ほのかは叫び散らす。けれどそれを制したのは、ドスッと重い重低音。ほのかは男に殴られたのだろう事は容易に想像がつく。
けれど祐司はそれと止めに入るほどの気力はもう、残っていなかった。
『キミはもう必要ない。さっさとゲームの舞台から降りてもらおうか』
「いっ、いや……!」
涙ながらに懇願する言葉を最後に、男はほのかの口を何かで縛った。ほのかがうなる声が聞こえるが、それもやがて聞こえず、静かになる。
『祐司くん。ゲームはまだ続いてるんだよ。勝手に舞台を降りないでほしいな』
静かになった祐司のそばに、男は再び近づく。けれど祐司は何も言わない。
突然全てがどうでもよく思えていたからだ。
「……祐司」
美穂の声を聞いて、彼女を助けなければという気持ちが沸き起こる反面で、それすらどうでもいいと思う気持ちがあるのも確かだった。
『君は勝手にゲームを降りられないよ』
祐司の脳裏にはほのかとの思い出で溢れていた。それが走馬灯のように繰り返し祐司の意識を支配する。
『君はすでにもう一つ答えを間違えてるんだ。あれ? 興味がないのかな? そんなことでは有田さんを救えないというのに』
「……俺が何を間違ったって?」
なけなしの理性で、祐司はそう聞いた。
ほのかがどうであれ、これ以上美穂を危険な目には遭わせられないと、そう思って。
美穂は幼なじみで、許婚で、そして祐司の良き理解者でもあった。そんな彼女を放っておくことはやはりできない。
美穂の父親にも顔向けできない、とそう思ったからだ。
『そうそう、そうこなくっちゃ』
「さっさと答えろよ。俺が何を間違ったんだ」
『答えに決まってるだろ? 君の答えた有田さんの大切なものは、テディベアなんかじゃなかったって言ってるんだ』
適当なことを言う。そう祐司は思い、プッとその場に唾を吐き出す。
『信じてないね? 本当だよ。ねぇ有田さん?』
「ち……違う。祐司の答えは正しいわ……」
『いいや、正しかったっていうのが正解じゃないかな? だって君の本当に大切なものは、ぬいぐるみなんかじゃなく――祐司くんそのものなんだから』
「……はっ?」
ふざけたことを言う。そう思い、祐司は怒りを覚えた。
「俺たちは親が決めただけの――」
『そう思ってるのは、祐司くん君だけだよ』
「適当なこと言うな」
『なら有田さんに直接聞いてみようよ。ねぇ有田さん。君が嘘をつけば祐司くんがどうなるか、もう分るよね?』
男は祐司のもとから立ち去っていく。そして足音がピタリと止まったところで、美穂は震える声で、こう言った。
「祐司……ごめん……」
なぜ? どうして……? そう言いたい気持ちを押し殺し、祐司は事の成り行きを聞き届ける。
「本当はね。私はずっと、祐司のことが好きだったんだ」
「美穂……」
祐司は口をキュッと結んだ。なんて反応すべきで、なんて答えるべきか、考えあぐねいていたからだ。
「俺は……美穂をそういう風に、見たことがないんだ」
こんな形で言うことになるとは思っていなかっただけに、祐司としても戸惑うところだが、正直なところ、美穂の気持ちにはうすうす気づいていた。
気づいている上で、それを無視していた。
祐司にとって美穂は、幼なじみ以外にありえなかったからだ。
『佐野さんとの関係が偽物だったって分かった後、こんなにも真っすぐな気持ちを受け入れられないなんて、かーなーしーいーねぇー?』
男は再び祐司の元へとやってくる。コツコツと足音を床を通じて感じながら、祐司は何も言わない。
けれど男はそれを良しとはしなかった。
『本当に悲しいよ、祐司』
そんな言葉が聞こえたとともに、祐司の首に鋭い痛みが走る。
痛みと同時に、その場所が燃えるように熱く、そこから吹き出るものがなんなのか、祐司は瞬時に悟った。
大声で叫んでしまいたいところだが、どうやらすでに声帯は機能しなくなったようだ。
口をパクパクと開けながら、叫べもしない声を上げていると。
「最後のチャンスだったんだよ」
そう言った声は、祐司のよく知る声だ。
機械音でもなければ、機械で声を男に変えられているわけでもない。
「あの子の嘘を暴いてさ、私の素直な気持ちを知ったらきっと、祐司は目が覚めてくれるんじゃないかって思ったのに」
細くて柔らかな指が、そっと、祐司の視界を塞いでいた目隠しを外す。
「知ってた? パパは祐司とあたしの許婚に関しては反対だったんだよ? でもね、私がお願いしたの。祐司と一緒にいたかったから。祐司のことが本当に大好きだったから。昔からずーっと」
狭くて薄暗い。貸し倉庫のような部屋の中には、無残にも横たわって動かない、ほのかの姿。もう一人、同じように床に横たわっているはずの、美穂の姿は見当たらない。
「私達が高校を卒業するまでに祐司を振り向かせることができなかったら、許婚は解消だって、パパに言われてたの。だから私、必死だったんだよ? パパってはズルして、あんな子を雇ってまで邪魔するし」
床に横たわっているはずの美穂。けれど美穂は、祐司が想像していた場所にはいない。
祐司の目の前にかがみこんで天使のような笑みを浮かべている。ヘッドセットのようなものを頭につけて、ヘッドセットに装着しているマイクは今美穂の頭の上にある。
「私これでも必死だったんだから。祐司を魔の手から解放するために。こーんな大がかりで、ヘタな芝居までしてさ」
美穂は祐司の顔を両手でそっと掴む。祐司の首からは血が吹き上げている。美穂はそれすらも愛おしそうに、それをすくい上げ、手を祐司の血で真っ赤に染めている。
祐司は目を見開き、口をパクパクと動かす。
が、相変わらずそこから発せられる言葉は一つも出てこない。喉をナイフで切られたせいで、声帯はもう機能していない。
「でも、もう遅かったみたいだね。祐司はもう悪魔に魂を食べられちゃってたみたいだから」
祐司の首から噴き出る血は、どんどんその勢いを失っていく。同時に祐司の顔から本来の色も失われていく。
「だからせめて、あたしはあたしの祐司を取り戻そうって思ったんだ」
美穂は手についた真っ赤な血を、自分の口元にぬる。まるで真っ赤なルージュをつけるように。
「これでもう、祐司は私のものだ」
美穂は嬉しそうに頬を高揚させながら、祐司を抱き寄せた。
「――もう離さないよ、祐司」
【完】