オープン・シート
十数年前に某(作中漏れてますが)MMORPGの小説コンテストに投稿したものです。
最後の入学試験を終えて、全力でひとつ大きな伸びをした僕は、後頭部が痺れるような、えも言われぬ開放感を感じていた。しばらく視線を宙に浮かべながらその余韻に浸っていると、ふと思い返して使い古したこげ茶の革鞄のポケットに入っている携帯を取り出してみた。幾分うんざりする程の着歴とメール。母さんだ。
この大学を含めて、全部で3つの大学を受験しようと思った理由は、実は僕自身には殆どないと言っていい。小さい頃はほぼ放任主義と言ってよかった僕の母親は、中学へ入ると同時に見事と言っていいほどの教育ママへと変貌を遂げた。そして僕の中学、高校時代と、事あるごとに「できるだけ良い大学へ行きなさい」と言われ続けてきた。別段やりたいことも見つからず、平凡な学生生活を6年続けることになる僕は、母さんのその重圧をはねのける熱意も反抗力もないまま、さほど友人も作らず(これは性格もあるだろうが)、クラスの連中がしていたような遊びも満足にせず、言われるがまま日々勉強に励んできた。おかげで常にそれほど悪くない成績を修め、この冬には、鉛色の空を見慣れた僕にとって衝撃的な青空を望む東京の大学を受験することになったのだ。受験前、どの大学を選ぼうか迷っていたときに、またしても母親は例の呪文の如きフレーズを繰り返した。別段、どの大学に行きたいなどという希望も無かった僕は、自分の成績で行けるかどうがギリギリのラインの大学を、適当に上から順番に3校選んで志望校にした。結局、母の言うような「できるだけいい大学」を選ぶ羽目になってしまったのである。
そんな僕にも、唯一といっていい楽しみがある。
小説を読むことだ。それもファンタジー小説に限る。一番最初に出会ったのは、中学に入る前に参考書を買いに出かけた時の書店でだった。分厚い参考書を目の当たりにして、まるで油っ濃い料理でも食べたかのように胸焼けをおこした僕は、空ゲップをしながら書店の表に出て空気を吸った。まるで溺れそうな魚みたいだった。ガードレールに腰を下ろしてため息をつくと、なんだか意味も無く悲しくなってきた。本屋の店先に積んである文庫本を、片っ端から放り投げたくなった。といって、本当に投げ出すような度胸の無い僕は、1冊1冊、乱暴に広げては置きを繰り返した。10冊目くらいに開いた文庫本は、今までのものと少し毛色が変わっていたので、ちょっと置くのを戸惑った。よくよく覗いてみると、不思議な形の剣が描かれていた。後で知ることになるが、それはシミターと呼ばれる曲刀の一種で、大別すると日本刀もこれに属するという。その本は、いわゆるロールプレイングゲームに登場するアイテムを解説する内容の本だった。しかも、物語を通じてアイテムを紹介していく形式で書かれており、僕は読み始めた数秒でこの本の虜になった。こんな事を書いていいんだ、とも思った。普通に話せば明らかに馬鹿にされそうな空想世界を、こんなにも真面目に、真剣に、果てしなく自由に描いている。読みながら僕は説明できないような嫉妬心に気づきながら、読み進めることを辞めることができないでいた。結局、分厚い参考書の間に挟まれて買われることになったその本は、密かに勉強の合間に繰り返し読まれることになった。その後、図書館で調べ物と称して様々なファンタジー小説を読みあさった。が、最初に読んだこの本だけは別格だった。無論、この受験旅行にもカバンの一番奥にしまわれて同行している。もはや表カバーはすり切れて用を成さなくなっている程であるが、それでも僕は気にすることもなく、むしろ長い年月を一緒に過ごしてきた同胞のように、今もこの本を読んでいる。
カバンの隅にそれがあることを確認した僕は、今この開放感を母さんの幾分金属音に似た声で台無しにされるかと思うと、口の中に苦いものが広がるのを感じた。答案用紙を集める試験官をわき目に、とりあえず今終わった旨母さん宛にメールを入ることにした。直接電話をするのは後にしよう。これから帰宅までの時間は、僕にとって中学以降、初めてと言っていい程完全に解放された時間だ。もしここが海だったら、意味もなく絶叫している自分が目に浮かぶ。多分、この寒い時期でもそのまま海に走り込んで凄まじい狂態を見せることができる自信さえある。自慢にもならないが。
さほど今日の試験の出来が良いわけではないが、そんなわけで多分ほかのどの受験生よりもニヤけながら試験会場から出た僕は、大使館の多い閑静な路地を抜けて駅へと向かった。杉並木が多く落葉が常に湿っているような地元とは違い、どこか垢抜けたような町並みと乾いたアスファルトが、季節も異なる別の世界に来たような感覚にさせる。ふと、この大学がいいかもしれない、と思った。といって試験が終わってしまった今、その選択肢はもはや僕にはないわけだが。
3つの大学を受けるために確保したホテルは、ここから駅一つ向こうにある。しばらく歩いて駅へ着いたものの、例の妙な開放感というか高揚感が試験終了から今も続いていることで、このまま荷物をクロークへ預けたホテルへ帰り、新幹線に乗るのが惜しい。とりあえず駅の通路を抜けて向こう側へ出ることにした僕は、そういえば腹が減っていることに気づいた。小心者を自覚する僕は大きなイベントや肝心な時に必ず下痢をするため、今日も極力水分や食事をしないままでいた。結局朝から腹に入れたものと言えば、カロリーメイト2本とチョコレート3粒だけだ。気付いてしまったおかげで腹の空き具合が尋常ではなくなってきた。急に足取りも重くなった気がするのは錯覚ではないはずだ。これはまずい。こんな都会で行き倒れなど笑い話にもならない(そんなことにはならないだろうが)。ひとまず何か腹に入れなければ。
ふと見ると、小さめのショウケースに鮮やかなオレンジ色のスパゲティーが鎮座ましましていた。見たところ明らかにナポリタンだ。僕が今まで生きてきた歴史の中でその殆どの期間、好物ランキングの筆頭に位置し、しかも二位以下をぶっちぎりで引き離し未だ独走状態のナポリタンスパゲティーだ。しかも悪いことにそのデコレーションは、見えない僕がフォークを突き刺し、今にもすすり上げようとしていた(少なくとも僕にはそう見えた気がした)。気がつくと僕は店へと続く階段を、半ば登りきろうとしていた。ナポリタン。辺りに誰もいないのを確認しながら残り僅かな階段を上りつつ、軽く口に出してみる。口内はもはや唾液の洪水だ。最後の階段を幾分よろけながらナポリタンへと到着した。いやこの場合、登頂というべきだろう。ナポリタン登頂。アイガーやキリマンジャロも真っ青だ。そんな馬鹿なことを考えながら、ビタミン不足と空腹で震える手でガラス張りのドアを開け放った。
異様な光景が目の前にあった。最初にそれを見たときは間違ってメイドカフェに入ってしまったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。ちょっと動くと肩が触れそうな程密集したパソコン群を前に、スーツ姿や私服の連中が盛んにマウスをカチカチ蠢かせている。その脇を華麗なステップで通り過ぎながら、トレイに乗ったハンバーガーやらカレーライスを目の前に置いていく、むやみに胸を強調したメイド服姿の女の子達。ところが僕の頭の中は既にナポリタンでいっぱいで、突然眼前に展開された不測の光景をうけつけることができず、僕は阿呆のように半ば呆然と立ちつくしていた。
「インターネットカフェ『シェイク』へようこそ!」
おもむろに後ろのレジから声をかけられ、心臓が爆発しそうになりながら振り向くと、どうにもこうにも、これまた目のやり場に困るような、そんな感じのメイド服の女の子がにっこりと僕を見ていた。うかつにしゃべると、とんでもない素っ頓狂な声が出そうだったので、しばらく打ち上げられた魚のようにパクパクしてしまう。我ながらみっともないことこの上ないが、時が戻せない以上もはやどうしようもない。
「ご利用ですか?」
幾分、いぶかしげな視線になった彼女の助け船だ。はい、と蚊の泣くような声で言うことしかできなかったのは、腹が減っていたのと、あのショウケースがこの店の物か不安になったのと、他の店員より二割増突出した彼女の胸部のせいだった。
結局、そのままこの店のシステムをうわの空で聞くことになり、そして僕は席に案内された。幸運なことに周囲はそれほど混雑しておらず、列の端に座った僕の隣は数席分、誰も座っていなかった。本当は個室にしてもらいたかったが、この店は個室がないらしい。
「何かご用がございましたらお気軽に声をかけてくださいね」
そう言うと、彼女はさっきの場所へ戻ろうとした。もはや空腹と恥ずかしさの不等式が逆転していた僕は、なんとか彼女に最大の謎を問いかけることにした。
「あ、あのー」
「はい?」
「階段の下のショウケースなんですけど、この店のですか?」
「はい、そうですよ。当店自慢のスパゲティーナポリタンです!」
このときの僕の顔は、多分試験会場での笑顔よりも凄いことになっていたんじゃないかと思う。なにより、そう言った彼女の笑顔も凄いことになっていた。余程のオススメ品なのだろう。そして、僕はそのとき、もう、限界。
「それ、ください。なるべくはやく・・・」
一瞬、目を丸くした彼女は、それで全てを把握したのだろう。しばらくおまちください、と目で笑いながら、レジの後ろにあった申し訳程度についている厨房へと向かった。そこから十数分、僕は”待つ”という、今の自分にとって本当の地獄が待っていることを思い知る羽目になった。
彼女がそのナポリタンを持ってきたことを、実はよく覚えていない。なぜなら、電源さえ入れていないパソコンのキーボードに頭をつっぷしていたからだ。とんとん、と肩を叩かれ、あっと起きあがると、トレイから立ち上る湯気の向こうから、彼女の笑顔がかろうじて見えた。
「おまたせしました、スパゲティーナポリタンです」
そう言いながら、目の前のパソコンデスクの引き出し式のテーブルを引き出すと、うやうやしくその当店自慢のものを乗せてくれた。その脇に、コンソメスープらしいカップもある。そして、粉チーズ、タバスコ。
「ごゆっくりどうぞ。」
そう言いながら笑顔を残して彼女はきびすを返すと、またレジの方へ消えていった。しかし、残念ながらその期待には応えられそうにない。僕は、粉チーズをありったけナポリタンにかけると、タバスコはかけずにフォークでむしゃぶりついた。文字通り「むしゃぶりついた」という形容に等しい食い方だったと思うが、このとき自分を客観的に見る余裕などなかった。イタリアなら明らかに周囲から非難を浴びそうな程の派手な音を立ててすすり上げながら、ここが日本で良かったと痛烈に思う。
うまい。
味わうヒマなど無いはずなのに、この旨さはどうだろう。完璧なゆで具合。均一にまとわりつく少し辛めのソース。時折カリッという食感を与えてくれる豚肉。ピーマンやその他の野菜もきっちり自己主張している。そしてなによりこの量だ。未だ成長期を自認する僕を、視覚的にでさえ満足させてくれるこの量は、今のような限界状態となっていた胃袋でさえ十分な量だった。と、半分ほど食べた頃に、下に何かやわらかいものを見つける。オムレツだ。これは反則的でさえある。一口食べると、少し辛いソースが見事に中和され、口内に優しく響き渡る。
ものの数分で食べ終え、ほっと一息つきながらコンソメスープを飲み干した。これはちょっとカルチャーショックだ。東京は恐ろしい。喫茶店ならまだしも、インターネットカフェでこのグレードを出された日には、地元のような田舎ではどこもたちうちできないだろうな、と思わでのことを心配してみる。
ここでようやく、辺りを観察する余裕ができた。よくよく見ると店内はさほど広くもなく、奥の方に広がっていたと思ったのは大きな鏡のせいだった。こういう店ではよくある手法なのかもしれない。30席ほどのオープン席には、入り口で見かけた20代後半とおぼしきサラリーマン風のスーツ姿の男性と、自分とさほど変わらないような私服の若者が二人、隣り合わせに座ってなにやらひそひそ話しつつ、お互いの画面を交互に見ている。
そういえばフリードリンクだったなと思い、コーヒーでも飲もうとして席を立つと、パソコンラックの上段にレシートがあるのに気がついた。よくよく見てみると、どうやら2時間コースで入ってしまったらしい。それさえも気づかなかったとは余程腹が減っていたんだなあと少しため息をつく。別段この後予定があるわけでもないが、残り1時間40分近く、ただぼーっと過ごすのも芸がない。とりあえずコーヒーでも飲んで考えようと、ドリンクバーへ歩いていった。と、例の二人組の脇を通るとき、ちらりとパソコンの画面が目に入った。なにやらゲームをやっているようだ。ああそうか、これがオンラインゲームなんだな、と、高校の友人達が時折騒いでいたのを思い出した。
ゲームでもしてみるか。そう思った僕は、レジで何事かをしているさっきのメイド嬢に思い切って聞くことにした。
「すいません、こう、ファンタジー系のロールプレイングなオンラインゲームってありますか?できればタダでできるやつ」
「えっ?」
「あ、タダとかいうのは忘れてもらってもいいですけど」
「うーん、いろいろ種類があるんですけど・・・」
「そうっすか・・・あの、なんかこう、一番評判になっているような、綺麗な感じの」
「そうですねえ、えーっと、本来タダではないんですけど、ここからだったら無料でできるのがあるんですけど、それでいいですか?」
「あ、はい、お願いします」
結局、僕は言われるがままに手続きをとり、彼女がおすすめするその「リネージュ2」というゲームをすることになった。これが、この後大学生活が始まり、新しい出会いと別れを経験することになる「リネージュ2」との出会いだった。
一通り彼女に教えてもらった後、早速ログインしてみる。ちょっと見たことのない綺麗な画像。結構いいなこれ、と思いつつ、サーバの選択画面が出る。サーバ?これってどこにすればいいのかな・・・また彼女に聞いてみるか、と思ったその時。
「リネージュ2か。悪くないね」
はっとしながら、声がした後ろを見ると、何故か高校で同じクラスの瞭介がニコニコしながら眺めていた。
「瞭介?!」
「多分俺も吉晴と一緒の理由だよ」
と、瞭介は窓の外を親指で指した。外には道を挟んで、大きな校舎らしき建造物が威を唱えるかの如くそびえ立っていた。そうか、こいつも受験だったのか。
瞭介はクラスでも異質なヤツだ。実は彼とは殆ど話したこともないし、クラスでは普段、まるで目立たない。その割に、定期テストでは常にトップクラスで、殊に数学に限っては全国模試で1位を取ったなどという噂も流れた。しかも何故か学校のガラの悪い連中も彼をいじめたりすることなどなく、一目おかれている風だった。どうやら彼の父親が警察官であったことがその最たる理由のようだと、クラスの拡声器のような女子が話していたのを聞いたことがある。
しかし、高校に入ってすぐの頃、父親は亡くなったらしい。
いずれにしろ、まるで目立たない割に派手な成績を残している彼に、クラスの連中もそこはかとなく薄気味悪さを感じているようで、常に一人でいる風景しか思い浮かばない。そんなやつだった。
「なあ、サーバを迷ってるんだったら、エリカにするといいぜ」
「なんで?」
「俺もそこにキャラクタがいるから、なんか欲しいもんがあったらあげるよ。って言っても何が欲しいかまだわかんねえか」
そう言いながらクスクス笑う瞭介は、普段一人でいる暗さなど微塵も感じさせない程明るい笑顔だった。
結局、僕達はそれから3時間の延長をする羽目になる程遊んでしまった。話せば話すほど瞭介は様々な知識を持ってることがわかった。リネージュ2の事だけでなく、ファンタジー全般に関してもそうで、僕が思わずカバンから取り出した例の本を見たとき、彼は目を輝かせて俺も持ってる、と半ば叫んだ。あれからやや混雑気味となっていたこの店の店員、客、そして例の彼女もみんなこっちを見ていた。殆ど、睨んでいた。
結局、延長した時間が間近であることもあって(いたたまれなくなったことが最大の理由であることは否定しない)、二人で店を出ることにした。お互い今日帰ることになっていたので、帰りの新幹線で待ち合わせ、席を同じくしてさらに2時間、たっぷりとファンタジーの話をすることができたのである。
駅に着くと、彼はさらにローカル線をもう二駅乗り継がなければならず、名残惜しいが別れることになった。またな、と言った僕に、ちょっと焦り気味にまってくれと言いながら、彼はサイフから一枚の紙を取り出した。僕の近所のネットカフェのポイントカードだった。
「これから卒業式まで休みだろ?時間があったらここに行こうぜ。実はちょっと顔が利くんだ」
そう言って彼は走り去っていった。彼の背中を眺めながら、あいつがこんなに気の合うヤツだったなんて、この3年間はなんだったんだろうなあ、と少し鼻の奥がツンとなった。
しかし、そんなセンチメンタルな気分は一瞬で吹き飛ぶことになる。僕は肝心なことを忘れていた。母さんに、電話を入れるのを忘れていたのだ。あっとなってカバンの奥底にしまわれた携帯を見ると、憂鬱になるほどの着歴とメールが入っていたのである。時間は、もう夜の11時をゆうに回ろうとしていた。
自宅に帰った僕を待っていたのは、完全に予測したとおりの最悪のケースだった。母さんの心配はわかっているつもりだったが、さすがに試験後の身には応えた。結局それらは負のスパイラルとなり、人生初の口答え、人生初の泣く母親を見たことなど、様々に形を変えて僕に襲いかかってきた。
漸く、テレビとビールを愛する父が見かねて、母をなだめることで事態は収束することになった。母はまだ少しばかり嗚咽を漏らしながら、寝室へと父に連れられていった。僕は、ひとりになった。今日起こった全ての事が、非現実の世界の出来事であるかのような錯覚をおぼえ、少し目眩がして立っていることができず、居間のソファーに倒れ込んだ。
しばらくして戻ってきた父が、僕の背中をポンポンと叩いた。
「ハル、大丈夫か?」
うん、と言った僕は、自分が涙を流していることに気づき、驚いた。父にそんな顔を見せたくなかったこともあって、僕はソファに顔を埋めたままでいた。
「なあ、ハル。母さんをあまり悪く思うなよ」
「悪くなんて思ってないよ。今日みたいなのはたまたまだよ」
「たまたま、か」
と言って笑いながら、父はまた缶ビールをコップに注ぎ入れた。ひとくち、ふたくち飲んで、父はまた話し始めた。
「ハルは、母さんがいつも『良い大学に行け』って言ってたのをどう思う?」
「まあいいんじゃないの。良い大学出れば良いところに就職できるってわけでもないけど」
「ああそうか。そうじゃないんだよ、ハル」
何がそうじゃない?と思いながら、涙顔を隠していることも忘れて僕は父を見た。そんな僕を気遣ってかどうかわからないが、父は僕を見ずにまた一口、飲んだ。
「母さんが言う良い大学ってのは、なにも東大とかそういうところのことじゃないんだよ。」
父は、ようやく僕の顔を見て微笑んだ。
「要は、お前が本当にやりたいことを探すための大学ってことなんだ。それには、できるだけ自分の力を試す必要があるし、共に高め合い学ぶ友人も必要だ。お前はどうやら、あまりそういった事に関心がないのを、小学校の頃から父さんも母さんも知っていた。そういうことに関心が出るのは、父さんくらいの頃は大概中学生の頃だったけど、今は大学が相場らしいからねえ。だから、そういう場をお前に提供するために、お前自身ががんばるしかなかったんだよ。」
初めて聞く話に、僕は戸惑いを禁じ得なかった。そんなに考えてくれていたのか、このビールとテレビを愛する父は。
「勉強をやっていくうちにそういうことが見つかれば、仮にそれが高校卒業前に見つかったとしても、父さんと母さんは喜んでお前のことを送りだそうって話していたんだ。まあ結局、そうはならなかったけどね」
そう言いながら少し笑っている父は、やっぱり僕のことが心配だったんだなと改めて思った。ぐいっと最後に一飲みした父は、空いたコップと缶ビールを持って立ち上がり、流しへ行って洗い始めた。
「あー酔っぱらったな。俺はもう寝るぞ。」
「うん」
「明日、母さんに謝っとけよ」
「うん。父さん」
「なんだ?」
「・・・ありがとう」
父は背中を向けて寝室に向かいながら、ちょっと左手を挙げてひらひらさせた。照れくさかったのだろう。
複雑な疲労感を感じながら僕は自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込むと、今日一日を自分なりに考えた。本当にやりたいこと。共に高め合い学ぶべき友人。ふと、瞭介の顔が浮かんだ。明日、ヤツの言ってたネットカフェに行ってみるかな。そう思いながら、僕は漸く眠りにつくことができた。
新しい出発点が到来していることを、殊更に感じながら。