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おんじ

作者: 竹下博志

 アルムおんじが理想だった。正確に言うと、アルムおんじのような生活が理想だった。

ちなみに、アルムおんじというのはアルプスの少女ハイジに出てくるおじいさんだ。若い時分にやんちゃをして、人嫌いになり、アルプスの山奥で一人暮らしをしている。大きな犬がいて、羊を飼い、時々山に入って薪を拾い、これで暖房兼囲炉裏の燃料として使う。言ってみれば自給自足の生活だ。ぜいたくを言わなければ、けっこう好き勝手出来る。一人が気楽でいいというタイプの人間にとっては最高の環境である。離れていれば愛しい誰かが、近くにいるとうっとうしいというのはジッドを読むまでもない。誰かと一緒に暮らしていれば、ストレスだらけだ。例えば、物にはそれぞれに置き場所というのが決まっていて、それはある意味ルールである。だから、縦のものが横になっていてもイラっとするタイプの人間にとっては同居人は苦痛の種である。

机の上のものが机の端の線とそろっていないから、それを真っすぐにするというポアロのあの行動を読んで、友達になりたいと思う。それが私だ。本屋に行けば乱雑におかれている本をきちんとそろえてから帰る。それが私だ。トイレに入れば入る前よりもきれいに掃除してから出てくる。それが私なのである。

おそらくこのこだわりの線引きは本人にしかわからないもので、他人に理解できるとは思わない。また理解させようとも思わない。

生活のリズムにしてもそうだ。おんじくらいの年齢になると、朝型の生活に決まっている。太陽と同時に目を覚まし、日没と同時に就寝する。そのリズムは一定で、休日だけ違うというわけにはいかない。毎日決まった時間になれば寝床に入り、決まった時間に起床する。休日の前日は夜更かしして、休日は朝寝するというのは一見楽なようだが、かえってしんどいのだ。毎日、仕事があろうが、休日であろうが、同じリズムのほうが体は楽なのである。そして最も楽なのが、太陽に生活を合わせることだ。それが同居人が夜型だったりすると、嫌になる。朝早く起きて、一仕事して、朝ごはん食べて、ゆっくりしているくらいの時間でもまだ同居人は就寝中である。下手すると、昼前くらいまで寝ているかもしれない。だからと言ってどちらかの生活リズムに合わせようとは思わない。人類が何か他の動物の餌だった時代には、群れで生活しながら、誰かが常に見張りとして起きていた。交代で寝ていたのだ。だから、その生物学的な行動を規制しようとは思わない。しかしながら、昼と言えば、私にしてみればもう半日済んだ感覚だ。夜型の人というのはおそらくテレビに生活リズムを合わせているからそうなるのだろうとも思う。私は基本、地上波のテレビは見ない。番組はくだらないし、ニュースは同じことの繰り返しで、時間の無駄だ。ドラマや映画はサブスクのチャンネルで見ればいいし、バラエティは時間の無駄なので見ない、ニュースはインターネットで、あるいはスマートフォンで十分に事足りる。逆に海外のニュースがリアルタイムで入手できるから、こちらのほうが有益だ。国内のニュースだけから情報を得るというのは何とも片手落ちだ。コメンテーターもテレビではやはり制約があって、つまらないコメントしか言えなかったりする。とりあえず、当たり障りのない事だけを言っている。いかに苦労して、当たらず障らずのコメント言うか言葉を探している、それは番組を見ていても感じられ、それに付き合わされるのは大いに迷惑だ。その点ネットのコメンテーターは一般人だからなかなか辛らつだ。おまけに専門家のコメントが有ったりして、それも含めて役に立つ場合が多い。ある意味便所の落書き同様で、もちろん情報の取捨選択は自分でしないといけないが、そのリスクをカバーして余りあると思っている。むしろ主体的にニュースを選択できる。そこがネットの利点で、テレビのような能動的なメディアは好きではないのだ。しかし、テレビ好きが同居していると、一日中テレビがついている。テレビはついているが本人はスマートフォンをいじっていたりして、集中してみているわけではない。やかましくて本を読んでいても集中できない。家が広ければ、問題ないが、そういうわけにはいかないのが現実だ。それにテレビがないと一日は長い。いろいろやって、本を読んだり、掃除をしたり、映画を見て、ジョギングをして、自分で食事を作りと、それだけやってもまだ時間はある。これがテレビとともに生活していると不思議なことに、気が付くと時間が飛び去るように過ぎている。その間、家の中は何も片付いていない。どこもかしこも汚れたままだが、食事の準備はしなければならないから、掃除は後回しになる。こんなわけでテレビ好きの家の中は汚れたままだ。テレビ見ながらごろごろして、食べて、動かない。どんどん太ってくる。受け身の情報垂れ流しなので、脳も機能低下する。

ロクなもんじゃない。

会話。これも必要ない。世間話などは興味がないし、芸能ニュースも興味がない。人のうわさなどはなおさら。どうでもいい誰かがどうしようとどうでもいい。それに自分以外はほとんどがどうでもいい誰かなのだ。それに会話というのはアインシュタインとボーアが交わしたような会話を会話と呼ぶのであって、まあ逆に多くの人は光の正体が何であろうと興味がないだろうが、私としてはそういった会話を楽しめる人材が皆無に近いので、必然的に会話は不要となってしまうのだ。

ただ、アルムおんじみたいに山に暮らそうとは思わない。それから、犬は不要だ。世話が面倒だし。可愛いとも思わない。臭いし。それに私は虫が嫌いなのだ。特に山の虫は勘弁してほしい。アリなんかまるでSFのように大きいし、名前も知らないようなやたらと触角の長い羽虫とか、マッチョでカブトムシみたいなゴキブリとか、極彩色の毒々しい艶のある見るからに危険そうな何か、そういった輩は願い下げなのだ。だからと言って、昼よりも夜のほうが賑やかな都会も困りものだ。だから田舎町がいい。小さなスーパーが近所にあるくらいの町がいい。スーパーは野菜と乳製品が買えればそれでいい。ほかの必要なものはネットで購入だ。服も靴も問題ない。何度かネットで買い物するとサイズの心配はしなくてよくなる。サイズ、いわゆるS、M、Lとかではなく、着丈や身幅で服を考えるようになるからだ。

ところで田舎町も虫がいるが、これはマンションの上階に住むことで避けられる。

というわけで、田舎町のマンションの上階に住んでいる。テレビはあるが、ネットだけつながっている状態だ。日没と同時に就寝し、日の出前には起きている。朝は暗いうちからジョギングに出る。走っているうちに、夏だと日の出を迎えるが、冬は帰ってからもまだ暗い。

今日も走りに出る。周囲は畑である。夏だがまだ暗い。

 そして畑で、女の子を拾った。暗がりだったがそこだけがぼーっと光っていたのだ。

拾ったが、届け出るわけにはいかないだろうと思っている。

女の子は銀色でつるんとした乗り物に乗っていたのだった。カヌーのようだが、少し胴が太い。そして女の子はシートに体を横たえていたが、こちらに気づくと微笑みかけてきた。

そう、このカヌーはおそらく宇宙船なのだろう。

スーパーガールの様に。

スーパーガールを拾ったらどこへ届ける?届けた後はどうされる?とてもじゃないが届け出る気にはなれなかった。黙っていれば穏便に済ませられるのではないか?そう思いながら、私は女の子に近づいて行った。

そして、これが竹藪だったらほかの名前だなあと思いながらも、その子を見るなり、私は心の中で彼女にハイジと名付けていた。

だってスーパーガールの名前は知らないし。

ハイジはちょうど五歳くらいであろうと思われる。乗ってきた宇宙船は、私がハイジを抱き上げると、役目を終えたとばかりにゆっくりとどこかへ飛んで行ってしまった。やはりというか、なんというか、プロペラもなければ、噴射口もない、小さなうなり声のような動力音がして、ゆっくり浮かび上がると、そのままふわふわと上昇して見えなくなってしまった。日本の防空体制はどうなっているのだろうか?とも思ったが、この手の話にはこういった事は付き物なのだ。深く考えてはいけない。

ハイジは私に抱き上げられても驚いたりはしなかった。大人しく、抵抗もしない。それどころか、しばらく二人して宇宙船を眺めていたが、じっとこちらを見て、いきなり「おじいさん、私はハイジって名前なの?」と聞いてきた。どうやら心を読んでしまうらしい。日本語が通じるのは世話がないが、心を読まれるのは困る。しかも、おじいさんと呼ばれる筋合いはない。

「わかった。心は読まないようにするわ。その代りなんか言いたいことがあったら、言葉にしてね。で、おじいさん以外になんかリクエストある?」

賢い子だ。

「わかったよ。ありがとう。」少し考え「それからやっぱりおじいさんでいいや。」と言う。ほかに良い呼び方があるとは思えない。

だんだん薄明るくなってきた。ハイジの顔もはっきりと見える。黒い髪に黒い目。角やしっぽはない。着ているものは銀色のつなぎだが、連れて歩いていても違和感はないだろう。

「家に帰るけど。一緒に来るかい?」

「うん。おじいさん。そのつもりよ。お腹すいたし。朝ごはん食べたいなあ。」

「何が食べたい?グリルドチーズサンドイッチは好きかい?」

「わーい。やったー。大好きよ。」

やっぱりな。これは前もって周到に準備されている気がする。それでも私はこの茶番に付き合うことにした。誰かが何らかの目的をもって送り込んできたのは確かだろう。もしかしたらハイジ自身が目的をもって乗り込んできたのかもしれない。そのハイジはあたりをきょろきょろ見回している。時折指さしては、「あれ何?」と聞いてくる。いずれも他愛もないものだ。コンビニだったり、特産品の桃を模った町の看板だったり、ゴルフの練習場の大きなネットだったりするわけだが、説明の度に、とても大切な秘密でも聞いたかのように大げさに反応するハイジを見ながら、いつもの道が予想外に楽しいと感じたのだった。腕に感じる重みとぬくもりが心地いいことは言うまでもない。この細い骨と柔らかい体、髪のにおい、好奇心に輝くひとみ、いずれもまぎれなく普通の子供のものだった。

ちょうど川にかかる橋に差し掛かった時、空に青みがさしてくると同時に、うろこ雲が朝焼けとなって、反射し広がる赤銅色と吸い込むような青の競演になった。夏には色とりどり、キャンプやバーベキューが行われる広い河原の真ん中を浅い清流がカーブを描いて流れている。身を乗り出して水面のきらめきを見ようとするハイジに「落ちるなよ」と声をかけた。

厄介だが、歓迎すべき厄介ごとというものはあるものだ。そして、落ちたら飛べるのかな?と一瞬よぎった考えを、すぐに打ち消した。

家に帰り、ハイジと一緒にキッチンに立つ。フライパンを温め、バターを溶かして、トーストを切り分け、フライパンで焦げ目をつけながら融けたバターをしみこませる。いい香りがしてきたトーストの上にチーズをのせ、もう一枚トーストをチーズの上に載せたら、ひっくり返して新しいトーストにも焦げ目をつけながらバターをしみこませる。ハイジの目はこの過程にくぎ付けだ。このトーストから再びいい香りが立ち上がってくると、ハイジのテンションもさらに高まり「いい香りね」と小躍り状態。同意を求める目線をこちらに配るところが何とも可愛い。そのころ、中に挟まれたチーズは良い感じに溶け出してきている。これが基本のグリルドチーズサンドイッチだ。次のやつはハムをさらにはさみ、クロックムッシュにする。最後のやつは更に卵液につけて焼き、モンテクリストにする。こうして三種類のサンドイッチを作り、横にメープルシロップを添え、小さく切り分けて二人で分けつつ食べる。たくさん作りすぎたかな、とも思ったが、二人ですっかり食べきってしまった。ミルクをごくごく音を立てながら飲み終わるとハイジの口には白い髭が出来ている。

それを見ていると、胸が苦しくなった。

「髭が出来てるよ」指で口の周りのミルクを拭き取って、自分でその指をなめた。ハイジはそれだけでくすくす笑っている。それを見ながら、どうしてこんなことがこんなに心を乱すのだろうと、自分で自分に驚いてしまう。

目を覚ました鳥たちの声やカエルの合唱が聞こえだすと、すっかり明るくなったが、ハイジは満腹してどうやら眠たくなったようだ。ごろりと横になったかと思うと、寝息をかきはじめた。近づいてみると、メープルシロップの香りがする。どうやら手についているようだが、拭き取るのは起きてからでもいいだろう。まだ早朝と言える時間で涼しいので今は大丈夫だが、起きてくるころにはきっと暑くなっていて寝汗をかいているだろう。起きてきたときにアイスクリームなんかがあればきっと喜んでくれるだろうと思った。ハイジの喜ぶ顔と声が頭をよぎって、私はこっそり玄関から抜け出した。コンビニに行ってアイスクリームを買うためだ。

コンビニに向かう途中でも私はハイジの喜びようを思い浮かべて、うきうきしていた。

ところで、私は作家をしている。売れない作家だが、外に出なくていいため、めったにコンビニにも行かなかった。外に出るのは、必要最低限なのだ。人嫌いの私にとっては理想的な仕事だった。その人嫌いの私だが、私の書く小説は実は人情物なのである。どうして?と言いたいところだろう。その通りかもしれないが、私の小説はある意味強烈な嫌味なのである。つまり実際にはこんな人情味あふれる人間はいないという事を踏まえて、人間ならば、これくらいのことは当たり前だという説教をも兼ねている。言い方を変えれば理想を描いているともいえるが、やはりニュアンスとしては、こんな奴いないだろう、という嫌味なのである。

そんな私がうきうきしている。血のつながりのない子供ではあるが、やはり孫くらいの年齢の子供というのは良いものらしい。翻って我が子に関する子育ては後悔しか残っていない。愛情も薄かったんだろうとしか言いようがない。自分の娘がまだ小さい時に、あれは小学校の低学年くらいだったか、二人で海水浴に行ったことがあった。近所の海水浴場で、特に観光地のものでない地元の人たちだけが遊びに来るような小さな浜だ。お昼は家で済ましてきたので、身軽なもので、車の中で着替えると、娘には浮き輪を持たしてやり、砂浜にはビーチマットを敷いた。それだけの簡単な海水浴である。娘は喜んで海に向かって走っていったが、私は何となく泳ぐ気にもなれず、仕事の疲れもあってか砂浜で座っているうちに眠ってしまった。かなり寝てしまったと見えて、起きたらもう夕方だった。誰もいない海で娘は一人で浮き輪につかまって泳いでいた。波に見え隠れしながらバタ足をしている。監視員がいるような浜ではなかった。ぞっとしてふと上を見たら、海の家のおばさんと目が合った。どうやら彼女がずっと見ていてくれたようだ。その証拠に私が起きると、おばさんは奥に引っ込んでしまった。あの夕日の中でたった一人で泳ぐ娘。波に見え隠れして、小さな足をばたつかせているあの光景。ことあるごとに私の脳裏をかすめるあの光景。どうして、一緒に泳いでやらなかったのだろう。そんな時間は長い人生の中でほんの一瞬でしかないのだ。一度失ってしまえば、もう手に入らないものなのだ。孫への愛情というものは、そういった事を取り返すという作業なのだろうか?

いや違うだろう。ハイジにいくら優しくしてみたって、娘への後悔は無くならない。むしろ、余計に深まっていく気がする。取り返しのつかない後悔をいつまでも続けることに何らかの意味があるとしたら、ある意味、罪を背負っていくという事なのだろうか?この思いを忘れるなという事なのだろう。

セミは早朝にある種のセミが鳴いて、暫くやんだ後で別の種類が鳴き出す。今は二番目のセミの時間となっていた。もうそろそろ暑くなり始めたアスファルトの歩道をコンビニから帰りながらそんなことを思い出していた。アイスは二種類買った。板チョコモナカのタイプとバニラミルクのカップタイプだ。前者は息子が、後者は娘が、いつもこれだった。他にいろいろあるのに、とも思ってみたが、私の場合はジャイアントコーン一択だったので、人のことは言えないなと、少し笑った。こうしてアイスクリームを買いに行くこと自体、久しぶりだったのだ。うちに帰ると、ハイジはまだ寝ていた。やはり寝汗をかいている。額に張り付いた髪の上から、こんなこともあろうかとコンビニで買い求めたガーゼのハンカチでそっと押さえて汗を取ってやる。この小さな子供が、あの宇宙船に乗ってやってきたことを考えると、この寝汗はとてもアンバランスな気がした。起きてきてアイスがあったら喜ぶだろうなと思いつつ、早く起こして、その顔を見たい誘惑にかられながら、寝顔を見ていた。が、ハイジに合わせてやる服やなんかが全くないことに気づいた。娘はもう社会人になっていて、子供時代のものはもう何もないかもしれない。しばらくぶりに自宅に行って、取りに帰ることを考えたが、無駄足に終わるだろう。寝ているハイジの横にそっとメジャーを当てて、身長を測った。100センチとちょっとである。体型は普通なのでどれでも合うだろう。早速、服はユニクロのアプリでとりあえず必要そうなものを注文した。これも後で好みを聞いてみて、買い足せばいいと思った。

アマゾンに移って、布団や歯ブラシ、子供用の歯磨き、スプーン、コップなどを注文した。アマゾンは次の日、ユニクロは明後日に届くとのことだった。

そんな風にしてハイジとの生活が始まったのだった。五歳と言えば、娘は大人しい子供だったし、息子は常に全力でふざけているような子供だった。幼稚園に迎えに行くと、テレビを見ていることがあって、大勢の子供たちの中で、娘は必ず一番後ろにひっそりと座っていたし、息子は一番前でかぶりつくようにしてテレビを見ていたものだった。ハイジはどちらかというと、その中間といったところだろうか。まあ、男の子と違ってやはり女の子は扱いやすいのかもしれない。息子は常にハイテンションで、どこかから飛んだり、跳ねたり、何かを振り回したりしていたが、そういうことは一切なかった。ただ一度、すごくテンションが上がったことがあって、それは動物園に行った時だった。天王寺動物園は入り口を入ると、先ずゾウがいる、次がキリンで、三番目がライオンだ。この三大スターが入ってすぐに目の前に現れるというのが、子供にとっては相当嬉しい演出とみえて、入るなりいきなり、「ゾウさーん!」と叫んで走り出した。ゾウに向かって走り出したにもかかわらず、ゾウの檻に行くと今度はキリンがどうしても目に入る。で、ゾウは素通りで、「キリンさーん!」とこれまた叫んで走り出す羽目になる。ところが、やはりそれ以上のスターはライオンなのだ。最後は「ライオンキングー!」と叫んで走り出した。彼女の中ではライオンはライオンキングなのだ。それにしても、すっかり動物園の思うつぼだった。この最初の三連発の興奮で、体力をいい加減で使い切り、その先にはスター性の薄い動物が続いたこともあって、そこからは落ち着いて動物を見るハイジなのだったが、エサやりコーナーが再度彼女に火をつけてしまった。これはカップに入ったペレット状の草食動物の餌を観客が自らやることが出来るという人気コーナーで、動物自体は多少エキゾチックなシカ程度で、見ていても刺激的でもなんでもないなのだが、これにはまってしまったハイジはカップの餌の在庫が無くなるまで、何度も何度もやり続けた。どうもエサをやるときに草食動物の長い舌で指先をなめられるのが、怖さ半分で、可愛さ半分のようだった。最初はおどおどとエサをやっていたが、そのうち慣れてきたと見えて、指をなめられるたびに、くすくす笑いながら楽しそうにえさをやるハイジを眺めていると、そういえば娘もこれが大好きだったなあと思いだされた。このイベントがあると必ずエサをやっていたものだ。

そんなこんなで、一年が過ぎて行った。また再び夏がやってきて、その間にハイジには特に何もなく、何もかもが普通の女の子と全く変わりなかった。目が光ったりはしなかったし、力は普通の女の子並みだったし、空も飛ばなかった。そういったことに慣れてしまうと、もう当初の出会いの不思議さは夢のごとく感じられて、本当のところもうどうでもよくなっていた。戸籍がないので、公共の施設は全く使えないし、病気になったらその時が困ったものだったが、病気になりそうな気配はなかった。このまま大きくなったらどうなるのか、という問いかけに対する答えはやはり当初の出会いが答えになるのだった。いつまでここにいるのかもわからないし、ハイジとの生活はとても楽しく、見ているだけでも満足感を与えてくれたが、深入りしないようにだけは気を付けていた。

いま彼女を失うことには耐えられそうになかったからだ。だから溺愛というほどのものではなく、マシューがアンをそっと、だが抜け目なく見守るように、私もハイジを見守っていたのだった。

ある夜の事だった。ハイジが急に起き出してきて、私を起こした。時間は真夜中すぎくらいだろうか。ハイジの顔はいつも私が見ている顔とは全く別の顔だった。紙のように真っ白な顔をして、「おじいさん」と言い出した。時が来たのだ。私は悟った。

「地殻の音が聞こえるわ。かなり早いけど。行かなくてはいけない。」

「どういうことだい?」

「私たちは順番に前の地震から大体75年過ぎるとここにやってくるの。この千年間で最短の周期が90年だったのよ。だから、予定通りに行けば私は最低でも20歳くらいまではおじいさんと一緒に居られたの。」

「・・・南海地震の事だね?もう来るのかい?」

「そうなの。」

「南海地震が来て、ハイジは何をするのかな?」

「私の力を使えば、地震のエネルギーを半分くらいにはできるのよ。地殻のずれが起きるところに行って、それを抑え込むの。詳しくは説明できないけれど、そのように私たちはプログラムされているの。全く地震をゼロにすることはできないし、失敗するとあまりエネルギーを小さくできない場合もあるんだけれど・・・」

「今までずっとここにきていたのかな?君たちの仲間は?」

「うん。」なんと、今までの南海地震は彼女の仲間によって小さくされていたのだ。本来の南海地震はいったいどれくらいの規模なのだろう。

「ところで、」これが一番肝心な質問だった。

「帰ってこられるのかい?」

「もちろんよ。」と、ハイジは元気よく言った。だが、私は嘘に気づいてしまった。

ここは合わせておこうと思った。だから、話題を変えた。

「どうして、君たちの仲間はそんなことをしてくれるのかな?」

「私たちの太陽系はもうかなり昔に無くなってしまったんだけど、その太陽が作り出した色々な物質がこの地球に使われているの。例えば、おじいさんの骨は私たちの太陽のかけらで出来ているのよ。もう、私たちは自分の星では生きてゆけないけれど、昔の人たちが、せめて自分たちのゆかりの人たちのことはできる限り守ろうって決めたの。だからこうしてやってきたわけ。」そうなのだ。ありうる話なのかもしれない。時間的にはもう人間に把握できる限度を超えてはいるが。

そうして、ハイジはベランダに出た。いつかの宇宙船が静かに空中に留まっていて、ベランダ越しにハイジはそれに乗り込んでいってしまった。その間無言だった。最後に一瞬だけこちらを見た。やはりもう帰ってこないのだと、確信した。

その日もやはり、時間通りに早朝よりジョギングに出た。畑のほうに目がいってしまうが何もない。気が付くと泣きながら走っていた。コースの途中でどうしても力が入らなくなり道路にへたり込んだ。その時、地震が来て比較的大きく揺れた。津波はあったものの、一部の被害にとどまった。

人柱。孔明の昔から、それはあった。世界各地に。余計なお世話だ。私は怒りの持って行き場をどうしようもできずにいた。

私は相変わらず一人暮らしで、人情物を書いている。作風は少し変わったといわれる。

変わったのは私の気持ちだった。人情物を嫌味で書こうとは思わなくなり、かけがえのないものを大切にしてほしいという願いを込めて書いている。

持って行き場のない怒りと悲しみが原動力だ。


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