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突然ですが、武士拾いました  作者: 和久井 要
9/14

8月18日 pm3:48

 しばらくマユとブシは抱き合っていた。美人と美少女の抱擁は絵になるなだなんて思いつつ、言葉もかけずにしばらく二人を見守っていた。


「帰ろっか」


 二人の空間に水をさすのはいかがなものかと思ったが、いつまでもここにいるわけにはいかない。ここは関係者以外立入禁止のエリアだ。職員に見つかれば注意されることは間違いない。

 ボクの言葉にマユがほっぺを膨らませた。


「私たちの邪魔してぇ」

「仕方ないでしょ? ここにずっといるわけにもいかないし。いい加減、遊園地に戻らないと」


 そこでマユは思い出したように柏手を打つ。


「そうだそうだ。お土産買わないと。ずっと楽しみにしてたんだった」


 これほどの窮地に立たされていたのに、しつこく土産のことを覚えていることは尊敬に値する。


「分かった分かった。とにかくメインゲートに向かおう」

「やった。ブシコ、おそろで何か買おうねぇ」


 マユがブシの頭をクシャリとやる。笑顔でマユを見上げるブシの顔は本当に眩しい。まさに天使。

 多分、これがマユの目的の一つだ。ブシとの思い出として何か形あるものを残したい。


「おそろで買うなら、ボクも混ぜてよ」


 いつまでも傍観者では寂しい。口を挟んだが、けんもほろろに突き放された。


「ダメダメ。男子禁制だから」

「意味分かんないって」

「分かれよ、ユイ」

「分からないし、分かりたくもない」


 ボクとブシが並んで歩き、マユはボクたちに顔を向け、一歩先を後ろ向きに歩いていた。


「ちゃんと前向かないと危ないよ。こけるぞ」

「分かってるって、大丈夫大丈夫」


 マユの顔に笑顔が戻った。つられてブシも笑っている。少しはいい思い出になっただろうか。ボクとマユだけじゃなく、ブシにとっても。 

 この時、ボクたちは完全に油断していた。全て解決したものだと思っていたのだ。ブシを取り戻した。男女も逃げ出した。あとはお土産を買って――帰るだけ。


 実際、ボクは晩ごはんのメニューを考えはじめていた。今日こそは照り焼きハンバーグを作ってみようか。ブシは食べてくれるだろうか。それとも全く別のものがいいだろうか。ブシの大好物の筑前煮でもいいかもしれない。冷蔵庫の中を思い出し、足りない材料を頭の中でピックアップしていく。

 それこそが大きな間違いだった。せめてお客さんのひしめく遊園地のエリアまで気を張っているべきだったのだ。


 それを思い知ったのは、マユが横道からT字路に差し掛かった時のことだ。

 壁の向こう側から不意に伸びてきた腕が一閃された。瞬時には何が起こったか分からなかったが、マユの顔が驚き、そして苦痛に歪み、ボクの思考は凝固した。ボクの脳が動き出したのは、ボクの耳にマユの悲鳴が届いた時だ。マユは体をくの字に曲げ、左手の手首から肘の間を押さえていた。

 

「マユ!!」


 マユに走り寄る。角の先に逃げたと思った男がその場に立っていた。手には折り畳み式のナイフ。男の背後には女もいる。

 

 ようやくここで全てを理解した。マユが男に襲われ切り付けられたのだ。


「子供を渡せ……」


 男が言い放つ。ナイフの刃先が微かに揺れているのは興奮状態にあるからか、それとも自分のしでかしてしまったへの恐怖なのか。男の表情が先程のオドオドした表情とは明らかに違っていた。人を切りつけるという、ある一線を越した人間はかくも普段と表情が違うものか。

 それでもボクは恐怖は感じなかった。視界の先には常にマユがいて、小刻みに肩を震わせているのが目に入っていたからだ。


「お前……」


 怒りで握った拳が震えていた。それに気づいたのかマユがボクの腕を握った。


「私は大丈夫だから」

「大丈夫なわけないだろ!!」


 刃物で手を切られたのだ。何が大丈夫だと言うのか。


 マユの手を振り払い、男に近づく。


「く、来るな。お前も……切るぞ。本気だぞ」


 ボクに向かって男がナイフの刃先を向ける。


「それがどうした」


 ボクは歩を止めない。


 マユはボクにとって唯一無ニの存在だ。ノリコさんを貸してくれただけじゃない。小さい頃から男女だと言われ、周囲に距離を取られていたボクに対して、マユだけは何も変わらなかった。

 ユイ、一緒に帰ろ。ユイ、髪の毛結って。ユイ、宿題忘れた、ノート写させてよ。ユイ、ユイ、ユイ……。何でもユイ、いつでもユイ。どこでもユイ。それにどれだけ救われてきたか。

 周囲が白い目で見てることも陰口を叩かれていることもマユは知っていたはずだ。それでも、いや、だからこそ、マユは毎日ボクの前に現れてくれたのだと思う。


 マユはボクの絶対だ。マユを守らなければいけない。マユを傷つける存在がいたとしたら、必ずボクがぶっ潰す。


「ユイ、危ないから行っちゃダメ!!」


 背後からマユの叫び声。本当はそんな名前じゃないのに、いつでもマユはボクのことを"ユイ"と呼ぶ。止めてよ。そう何度言ったことか。その度に可愛いからいいじゃんとマユはどこ吹く風なのだ。


 ボクの名前は唯一(ゆいいつ)と書いて唯一(ただひと)と読む。ユイなんて女の子みたいな呼び方は本当は好きじゃない。


「……許さない」


 男のすぐ目の前まで来た。男の瞳が小刻みに揺れている。恐怖を感じているのだ。ボクは真っ直ぐに男の瞳を見据えて、もう一歩前に出る。

 例え刃物を向けられようとも、いやその刃物に刺されようとも、ボクは構わない。マユさえ守れれば――それでいい。

 ボクはそのまま男のTシャツの襟を両手でつかみ、背後の壁に男を背中から押し付ける。ギョ。魚のような声が男の喉から漏れ出す。


「よくもマユを……」


 ナイフはボクの脇腹のそばにある。刺せるものなら刺せばいい。その一心で男を壁に押し続ける。実際、チョンチョンと刃先が当たっている。しかし刺すだけの度胸はないのか、男はナイフを持っていない片手だけで何とかボクを押し返そうとする。


「止めなさいよ!!」


 背後から突然のマユの悲鳴。思わず振り返ると女がブシに近づこうとしていた。それを阻もうとマユが女とブシの間に割って入っている。


「マユ!!」


 マユの顔を見て、血が伝い赤く染まる手の甲を見て、再びボクの体に熱くなる。

 火事場の馬鹿力という奴だろうか。次の瞬間には、ボクは男を地面に叩きつけていた。体育で少しだけ習った柔道の技のように、足をかけて振り払ったのだ。もちろん実戦で意図的に使えるものじゃない。単なる偶然に過ぎない。

 弾みでナイフが男の手から離れ、床を滑る。そのナイフが女の足に当たって止まったのは何の因果なのだろう。

 すかさず女がナイフを手にした。背筋に冷たい汗が這う。女の目がすわっているのがボクの目から見ても明らかだったからだ。


「マユ、ブシ、逃げろ!!」


 ボクは叫ぶ。

 マユがブシの手を引き、女の脇をすり抜けようとするも、女がナイフを振り回すのでうまくいかない。

 女に威嚇されながら、マユたちはジリジリと後退を始め、結局は、マユとブシは先程までいた路地の突き当りの左奥付近まで退却を余儀なくされた。背後には鉄製のドア。退路は断たれた。女はナイフを持ったまま、マユたちの前に立ちふさがる。手を握り、横並びになっていたブシをマユが自分の背後に移動させ、マユは両腕を目一杯に広げ、必死にブシを隠そうとする。


「マユ!!」


 マユの元へ向かおうと足を踏み出すも、ボクは蹴っつまずいた。何かがボクの足に引っかかっていた。足元を見れば、男がボクの右の足首をつかんでいる。


「離せ!!」


 左足で男の手を蹴る。でも、歯を食いしばり男はなかなか手を離さない。

 一方で、マユも必死に防衛していた。女の両手を掴み、攻撃を拒んでいる。ナイフを奪えれば形勢逆転になるが、さすがに簡単にはいかない。

 マユが交戦している間、ブシはしゃがみ込むと、ピンクのリュックを肩から下ろし、中に手を入れて何かを探し始めた。眉間に皺を寄せ、必死に手を動かしているがなかなか探し物が見つからない。


 痺れを切らしたのだろう。ブシがチャックを全開にして、リュックを逆さまにするのが見えた。そのまま力任せにリュックを上下に振った。リュックから白い紙のようなものが大量に床にばらまかれる。予想より遥かに多い量だ。リュックはその白い紙でほぼほぼ埋め尽くされていたのではないか。そう思うくらいに。

 丁度その時、均衡が保たれていたマユと女のつばぜり合いに終焉が訪れた。女が肩でマユを突き飛ばし、マユが派手に尻もちを着いたのだ。

 女がナイフを持ち直すのが見えた。女の顔は完全に狂気に歪んでいた。


「マユ!!」


 今一度、目一杯、男の手を踏みつけた。刹那、急に足が軽くなったのが分かった。足元に目を向ける。ボクの足首から男の手が離れていた。

 ボクは地面を蹴った。頭にあるのはマユとブシのことだけ。命に代えてでも、ボクは二人を守らなければならない。

 でも時は止まらない。

 女がナイフを持つ手を後ろに引いているのが見えた。ヤバイ。間に合わない。しゃかりきになって足を動かす。でも思うように距離は縮められない。

 その時、マユのすぐ背後でブシが白い紙の山の中から黒い筒状のものを手にするのが見えた。


 ――あれは?


 見覚えのあるものだ。ボクとブシが初めて一緒に買い物に行った時、刀の代わりにマユがブシに渡したもの。これでユイを守ってね。確かこんなことを言っていた。そう――あれは特殊警棒だ。間違いない。


 マユに手渡されたブシが特殊警棒をリュックに入れたところは見ていたが、反対にリュックから出したところを見た記憶はなかった。そのままなっていることをブシ自身が覚えていたのだ。いや、もしかしたらリュックの重みから常にその存在を意識していたのかもしれない。

 警棒を手にしたブシがボクを見た。その目がボクに何かを伝えたがっている。

 ボクはうなずいた。分かる。ブシの思いもボクと同じだ。

 ブシはボクに向かって特殊警棒を投げた。


 特殊警棒は縦回転していたものの、不思議なくらいに綺麗に手の平に収まった。見れば、丁度バトンくらいの長さだ。初めて触ったものの、その先端を引っ張ることで容易に伸ばずことができた。120センチの一般用の竹刀からしたら長さは役半分くらいだろう。心もとないと言ってしまえばその通りだが、贅沢は言ってられない。

 高校の途中まで剣道をしてきた。部活には入りにくかったから知り合いの経営している近所の道場で鍛錬を積んできた。そこでも周囲の目が気にならなかったわけではなかったが、面を着けている間は意識しなくていいし、稽古が終わった後も何のしがらみもなくすぐに帰宅できるのが部活と違ってありがたかった。


 棒状のものの扱いは人より慣れているという自負はある。歯を食いしばって地面を蹴り続け、いよいよマユたちに近づいた時には、女が後ろに引いたナイフを持った手を前方に繰り出す瞬間だった。

 マユは両手を顔の前に翳し、固く目を閉じている。


 ――間に合え。間に合ってくれ。

 全てがゆっくりに見えた。目を見開いた女の顔。何がそこまで彼女を狂わせたのかがボクには理解ができない。女の鋭角に曲げられた肘の角度が開いていく。それに従い、ナイフの先端がマユに近づいていく。


「届けぇぇぇ!!」


 目一杯手を伸ばす。狙うは繰り出されたナイフの刃先。マユの体のすぐ近く。 理屈じゃない。反射だ、直感だ。いや、もう本能と言ったっていい。届くのなら、ボクの手のひらでナイフを受け止めたっていいと思っている。それくらいの強い気持ち。

 そして――ゴツッという確かな感触が手のひらに伝わった。


 警棒の先はナイフの先ではなく、女の手の甲にヒットした。結果、すんでのところで刃先が逸れ、マユの顔のすぐ横を通過していった。

 走り寄った勢いのままボクは女に突っ込んだ。ボクと鉄製のドアの間に女が挟まる形になる。少しでも衝撃を和らげようと警棒を持っていない方の腕を壁についたのは、せめてもの情けだ。それでもギョッのようなギャッのような濁った声を漏らし、女は床に倒れ込んだ。直後、警棒で突かれた手の甲を逆の手で押さえ、苦悶の表情でうずくまる。

 今度は安堵する余裕はなかった。ナイフは? ボクは目を泳がせ、少し離れた床にナイフが落ちているのを発見した。慌てて足を伸ばし、僕はそれを蹴り飛ばした。


「マユ!! ブシ!!」


 間に合った。大きく肩で息を吐く。


「ありがとう、大丈夫」


 切られた手を反対の手で押さえながらマユは笑みを浮かべている。

 生きてる――マユが生きてる。それだけで泣きそうになる。安堵しているボクとマユをよそに、ブシはマユの切られた方の手を引っぱり、その甲にハンカチを乗せた。マユはハンカチをきつく縛るブシに対して、もう片方の手をブシの頭に乗せた。


「ブシコ、大好きだぞ」


 マユの言葉に対し、ブシは満面の笑みを浮かべる。

 ボクもその流れの乗り、ブシの肩に手を置こうとしたところで、マユがボクの背後に目を向けたまま顔を強張らせるのが見えた。


「ユイ!! 後ろ!!」


 反射的に警棒を払っていた。再びナイフを持って切りかかってきた男の手首の辺りに打撃を加えられたのは単なる偶然だ。

 ナイフが宙を舞う。武器を失っても、男はボクに向かってきた。鬼のような形相に、一瞬、背中を怖気(おぞけ)が走ったが、マユとブシの気配を背後に感じたボクは、気持ちが途切れることはなかった。

 男が手を伸ばしてくる。ボクは反射的に膝を折った。剣道では絶対に狙わない箇所だが、全身全霊をかけて攻めてくる相手を打ち砕くには、これしか浮かばなかった。


 男の(スネ)に向けて、全力で警棒を一閃した。弁慶の泣き所。人が人である以上、絶対に鍛えることのできない場所でもある。予想以上の衝撃で手が痺れた。同時に雄叫びが頭上から降ってくる。男が発したものだ。手の痺れに歯を食いしばる。でも、男のダメージはこの比ではないばすだ。

 男は脛を押さえて床の上で七転八倒している。ざまあみろなんて思わなかった。思う余裕もない。ただ一刻も早く、この場を立ち去りたい、マユとブシの安全を確保したい。それだけだ。


 視線をマユたちに戻せば、ブシは地面に落とした白い紙を拾い集め、必死にリュックに入れていた。マユも片手だけでそれを手伝っている。ボクもそれを倣った。

 白い紙は大量の封筒であり、便箋を折り畳んだだけのものも混じっていた。折り畳まれているだけなので、偶然開いてしまっているものもあって、何やら文字が見えた。


「見るな!!」


 ブシに一喝され、はっきりとした内容までは読めなかったが、それが手紙であることだけは分かった。そして理解した。


 リビングの掃除をした時、リュックに触れただけでブシは激高した。それくらいにこの紙や封筒はブシに取って大切なものなのだ。出会った時に見せてもらった母親からと思しき手紙。多分、同じだ。きっとこれらの同じ差出人からの手紙で埋め尽くされている。ブシはこの紙や封筒を守っていたのだ。

 一頻り白い紙をリュックに入れると、すぐさまリュックのチャックを閉める。


「走れ」


 マユとブシの背中を押し、先に行かせる。

 振り向けば、女は戦意を喪失しているようで床に座り込んでいる。未だ身悶えている男の近くにナイフが落ちているのが目に入った。


 背後から投げつけられでもしたらたまらない。ボクは通り抜け様に、ナイフをできる限り遠くに蹴った。とりあえずの安堵を得ると、マユとブシを追って進む。

 数歩進んだ床の端に、白い紙が一つ落ちているのが目に入った。時折風が入り込んでくるから、その風に運ばれたのかもしれない。ボクはその紙を拾い、ジーンズのポケットにねじ込んだ。丁寧に扱うべきものだろうが、その時はそんな余裕はなかった。


 立入禁止エリアから園内に出たところでマユたちに追いついた。

 警棒の縮め方が分からず、仕方がなく伸びた警棒を手にしていたが、それに気づいたマユがひったくるように警棒を奪うと、すぐさま戻してくれた。


 そこからはとにかくあまり目立たないように意識して移動した。決して走ることなく、できる限り人混みに紛れることを意識した。少しくらい遠回りしてでも、とにかく人の多い場所を探し歩いた。

 時折背後を見ては、あの男女の姿を探した。さすがに男はすぐには立ち上がれはしないだろうと想像はついたが、女だけでも後をつけてきている可能性はあると考えたのだ。

 二人の姿を目にすることはなく、メインゲートに近づくにつれ、男は大丈夫だったのだろうかとそんなことを考えていた。警棒を振り回した時の手応えがまだ手に残っている。


 脳裏を過るのは"過剰防衛"の四文字。きっと公になってもきっと認められるはずだ。いや、犯人はことあるごとにナイフを振り回し、実際にマユに怪我を負わせたのだ。それはあの男女だって理解しているに違いない。仮に大きな怪我をしていたとしても、警察に届け出ることなんてできないはずだ。


 男女らしき姿を見つけることなく、どうにかこうにかメインゲート前に到達した。マユの手に巻かれたハンカチが赤く染まってしまっている。あまりにひと目に着くからと、その上からボクの持っていたハンカチを結んだ。


 さすがのここに来て、マユはお土産を買いたいとは言わなかった。できるたけ早くこの場を立ち去りたいとマユも思ってくれているのだろう。

 タクシーに飛び乗ってでもとにかく駅を目指そうと考えていたが、運良く駅へと向かう路線バスが出発しようとしていたので慌てて飛び乗った。ボクたちが最後の乗客となりバスは出発。当然、バスの中に男女の姿はなかった。

 何事も起こらず無事、駅へ到着し、電車に乗り換える。バスの中も電車の中も大した会話はなかった。終始、ブシがマユの切られた手を気にし、大丈夫だからとマユが慰めるシーンがボクの目の前では繰り返されていた。


 そんな二人のやり取りを眺めながら、事件のことを考えていた。

 急に思い立って――もちろんマユの強引な申し出で――遊園地に向かったにも関わらず、ボクたちは犯人に襲われた。今日、遊園地へ向かうのはボクでさえ想像もしなかったことだ。従って待ち伏せは無理。となれば犯人は常日頃からボクたちを監視していたということになる。

 監視していた犯人=あの男女と決めつけるのは尚早だ。誰かに依頼されブシを連れていこうとしたことは間違いないが、彼らは単なる実行犯であり、監視役は別にいたとしてもおかしくはない。そう思ったのは、彼らの発言自体に”やらされている感”が満ちていたし、監視からずっとしていたにしては、計画がおざなりな気がしたからだ。


 だからあの男女を撃退したからと言ってそこで終わりではなく、監視は続いていると考えるべきだろう。ならば自宅は危険だ。どこかに逃げることをずっと考えてはいるがあいにくと妙案が浮かばない。


「うち来る?」


 不意にマユがそう言った。ボクがずっと黙り込んで考えごとをしているのを見て、意図を察したらしい。だてに付き合いは長くない。


「ううん、止めとく」


 マユも何度か家を行き来している。着換えを取りに行ったり、メイクをしに行ったり。それを見逃されていると考えるのはあまりにも都合がいい。マユの家も犯人に把握されている。


「じゃあどうすんの?」

「分からない」

「遠慮しなくてもいいのに」


 遠慮なんかじゃない。目くらましにならないばかりか、ボクやブシがマユの家に潜伏すれば、ノリコさんを巻き込むことになる。それに――。


「そうじゃなくて、ブシのことをうまく説明する自信がないんだ」

「うちのママ、そんなに頭でっかちじゃないよ。ちゃんと説明したら分かってくれる」


 あのね。ボクはマユの切られた手に視線を向ける。


「その手のことはどう説明すんの? ブシを狙っている犯人に手を切ちゃったんだよねって言って、仕方ないわね、これから気をつけなさいよで済むと思ってるの?」


 ボクの言葉にマユは言い淀む。

 ノリコさんのことはボクもよく知っている。頭でっかちじゃないことも、頭ごなしに否定せずにこちらの意図を汲み取ってくれることも。

 でも今回は違う。マユはノリコさんの娘だ。娘のことを大切に思わない母親はいない。

 ズバリそのままの説明をしたら、まず間違いなく警察に通報される。ブシの名前も年齢もボクたちは何も知らない。手紙一つでそんな子供を預かっている状況が明るみに出れば、混迷は避けられない。

 結局、今まで通りボクの家に戻った。見張り役の犯人の姿が分からない以上、下手に逃げ回る方が危ないのではないかと思った結果だ。

 すぐに一階の雨戸を締め、二階のカーテンも厳重に閉じてから、隙間から道路を見下ろす。

 不審者、不審な車、不審な物。どんな些細な変化でも見逃さないつもりで凝視したが、気になる変化を見つけるには至らなかった。


 手紙にフジを迎えに来るとあった8/28まであと十日。こうなれば籠城してやろうと考えていた。いざとなれば110番すればいいし、隣近所だって顔見知りなのだから、叫べは何かしてくれる可能性はある。

 一息つくと、マユは自宅に戻っていった。病院に行くためだ。保険証もいるし、一日二日で癒える怪我ならともかく、ナイフで切りつけられたとあれば、さすがにノリコさんに隠せない。

 ただし理由は都合よく改ざんさせてもらった。

 遊園地に行った。その時、はしゃぎ過ぎて転び、鋭利な石に手を当て、ザックリ切ってしまった。たまに羽目を外し過ぎるきらいのあるマユならではの言い訳。ただし、遊園地に鋭利な石が落ちていることを信じてくれるかは賭けみたいなもの。


 ボクとブシの二人きりのリビングは思ったよりも広く感じた。普段、正座ばかりのブシだが、今はソファの上で体育座りをして、膝の間に顔を(うず)めている。

 その小さな背中に何度疑問を投げかけようとしただろう。

 君は一体何者なんだ? どんな名前で、何歳で、どんな家族に囲まれているんだ?

 マユを切りつけた相手を――あの男女に指示を下した真犯人を、ボクは到底許すことができない。だから知りたいんだ。ブシの本当のことを。どうしてさらわれそうになったのか。いや、そもそも誰に狙われているのか。


 でも実際には声として発することができず、そんな度胸のない自分に叱咤していると、微かな寝息がボクの鼓膜をくすぐった。体操座りの姿勢のまま、ブシは船を漕いでいた。

 当たり前だ。遊園地ではしゃぐだけでも体力を使うのに、見ず知らずの男女にさらわれそうになった。怖かったはずだ。目の前で大人たちの乱闘も目にしたし、ナイフでマユが切りつれられるのも目の当たりにした。


 視線を移せば、ブシの足元のカーペットの上にブシの赤いリュックが置かれているのが目に入った。ここにブシの秘密が隠されている。後ろ指をさされながらもボクはリュックのチャックを開けた。

 昼間も見た白い紙や封筒で溢れている。封筒は最初にブシと会った時に見せられたものと同じ柄――うっすらとピンク色の地に、それより少しだけ色の濃い桜の花びらを模したもの――と同じだと分かった。さすがに封筒を開けるのまではためらわれ、ただ折られているだけの紙を一枚手に取り開いてみる。

 ボクは目を見開く。

 ――ちゃんと大人しくお留守番しておいてね。


 一枚だけでなく、他の紙も。


 ――晩ごはんは冷蔵庫の中だよ。ちゃんとチンして食べること。

 ――いつも寂しくさせてごめんね。大好きだからね。

 ――洗い物してくれてありがとう。いつもいつも助かってるよ。


 初めて見せられた手紙と同じ筆跡。見やすくて丁寧な字。それなのにやたらと跳ねている癖。

 ボクが最初に見た手紙と違うのは、そこに愛が溢れていること。やはり手紙を書いたのは母親だとボクは確信した。


 この数枚の手紙だけで、普段のブシを垣間見ることができた。ひとりぼっちの時間が長いこと。文句一つ言わず、健気な物分かりのいい子供を演じていたこと。

 まるでボクのようだとも思った。思い返せばボクも愛に飢えていた。母親の欠片も知らなかったボクは父親を求め、それが叶わないと知ると、隣人に目が向いた。


 ――言わずもがな、ノリコさんとマユだ。


 そこだけは違う。ブシは母親を知っているにも関わらず母親の愛に飢えている。今も離れ離れになった母を――その母親の温もりや安らぎを――ブシは常に求めている。


 だから手紙の詰まったリュックを常に自分の脇に置き、もしくは背負い、守護神(カーディアン)よろしく肌見離さず守り続けてきた。

 ブシにとって、誰の目にも触れさせたくなかった母親からの手紙だったはずだ。でもあの時――マユがあの女に刺されそうになった時、母親からの手紙を全て地面に放り出すという判断をした。マユを守るには――リュックの底にあった警棒を取り出すためには――これしか方法がなかった。ボクだってそう思う。でも――だからといって、どれほどブシが勇気を振り絞ったことだろう。

 間一髪でマユを助けられたのは全てブシのおかげだ。


 不意にガサリと音がして、慌てて手紙をリュックに戻す。恐る恐る振り返れば、体操座りをしていたブシが、なだれ込むようにソファに横になっていた。目は閉じている。寝息も立てている。寝ている。

 そーっとリュックのチャックを閉め、ブシの顔を覗き込んだ。無防備なブシの顔がこれほどまでに穏やかなのだと初めて知った。ボクの知るブシはいつも凛としていたからだ。

 あまりにブシの姿勢が窮屈そうで、後頭部と膝の下に腕を入れ、仰向けの姿勢に変える。起きてしまうかなと思ったけれど、思いの外、眠りは深いようだ。

 手を離し、距離を取る。ブシに背を向けたところで、ブシが小さく声を発したように聞こえ、振り返った。

 不意にブシの目から涙が一筋流れるのをボクは見逃さなかった。

 その美しさにドキリとする。普段は強がっているが、その実、可憐な少女なのだ。

 涙はもう一筋、彼女の頬を伝った。思わず指先でその涙を拭おうと、指先をブシの顔に伸ばした。そして――。


「……ママ……会いたいよ」


 ブシの口から、武士のような言葉遣いではなく、ごくごく普通の少女としての言葉を漏れ出すのを初めて耳にした。

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