8月18日 am9:22
何気なくつけたテレビでは、甲子園で行われている高校野球の全国大会が放送されている。
時折響く歓声。実況のアナウンサーの声のトーンも歓声に合わせて上がっていく。どうしてここまで実況が興奮しているのだろうかと耳を傾ければ、どうやらプロ注目の投手が投げているらしい。
野球はあまり詳しくない。ルールだってよく知らない。投手が球を投げ、打者がバットでそれを打つ。球が前に飛べば塁に向かって走る。無事一周してホームを踏むことができれば1点。チームごとに攻めと守りがあり、互いに点を取り合い、最終的に多く点を取った方が勝ち。分かっているのは、それくらい。
そんなボクでも画面に映る細身の投手のゆったりとしたフォームから投じられた球が、打者をきりきり舞させている様子を見て、たたならぬものを感じることはできた。
マユとブシが不審な車に横付けされてから一週間。最初の三日ほどは本当にビクビクして、ことあるごとに二階から外を眺め、不審者を探していたものだが、今となっては本当に道を聞かれただけなんじゃないかと勘ぐってしまうくらいに平穏な日々が続いている。
――あまりに平穏な日々が続き過ぎて、気づけばお盆が過ぎてしまっていたくらいだ。
父は長男ではないから、我が家には仏壇はない。従って迎え火も送り火もしていないし、鐘楼馬も作らないし船も流さない。
じゃあ親戚の家にでも行くのかといえば、父親の仕事の忙しさに関係あるのかどうかは分からないが、ボクの知る限り、父親はほとんど親戚付き合いをしていなかった。
もしかしたら母親との離婚に関係しているのかもしれないが、聞いたところでまともに答えてくれるわけでもないし、ボク自身も今更そんな話を蒸し返したくもないから特に問い詰めたりはしていない。
じゃあ、そんなボクにとってのお盆とは何か。
一言で言ってしまえば何の変哲もないただの夏の数日間ということになってしまう。強いて言うならば、ニュースで高速道路の渋滞の映像を眺め、何で混むのが分かってて出かけるのだろうと思う日であり、スーパーでは高級な食材や大盛オードブルばかりが売られ、買い物に困る日といったところか。
テレビから甲高い音が響いた。ようやく好投手からヒットを打ったようだ。アルプススタンドが盛り上がっている。若々しいチアリーダー。男臭い応援団。ザッツ青春。そんな光景が画面一杯に広がっている。
リビングは極めて平和だった。聞こえる音はテレビのみ。マユは珍しくローテーブルにレポート用紙を広げ、ペンを走らせている。ブシは新聞の折込チラシに目を落としていた。覗き込めば、家電量販店のチラシで、さらにはおもちゃやテレビゲームの欄だ。
「何か欲しいものあるの?」
そう聞くが、ブシは首を横に振るばかり。
「いらぬ。眺めているだけだ。気にするでない」
おもちゃやテレビゲームなんて、この年頃の子供なら当たり前に興味の一つでも抱きそうなものだが、未だにブシの好みが分からない。確かにボクの中の常識が通用しない領域がブシにはあって、根拠はないが、手紙に書かれていたことは、そういうことなのかと妙な納得をすることが度々あった。
「よし!! 終わったぁ」
急にマユが両手を上げて歓声を上げた。どうやらレポートを書き終えたらしい。どうりで先程から静かなはずだ。
「うわっ。凄い達成感。エベレスト登頂に成功した気分。ヤバい。私、有名になれちゃう」
例えがあまりに仰々しくて、ぐうの音も出ない。
以前、登山は登頂より下山の方が事故が多いと聞いたことがあった。登頂しただけでここまで有頂天になるのだから、実際に登頂したとしても油断のし過ぎで、きっとマユは無事に家には帰れない。まぁ、死ぬ間際までポジティブで、我が人生悔いなしだなんて、笑顔で言い放って死ぬのならば、それはそれでマユらしい伝説の作り方だと言える。
ボクの心配をよそに、レポート用紙や筆記用具一式をしまうと――しまうと言うよりはソファの脇に追いやるだけだが――マユはスマホをいじり始めた。
真顔だった顔がニヤケ、しまいにはしきりに画面をスライブしながら、うわっ、涎が止まんねぇぜとつぶやきながら口元に手を持ってくる。
何を見ているのだろうかとソッとマユの背後に立てば、見ているのはブシの浴衣写真だった。水色地に赤の金魚が泳いでる柄の浴衣。輪投げをしている瞬間の画像で、真剣なブシの横顔が映っている。
可愛いとは思うが、この写真で涎を垂らすなんて、マユの中に住んでいるのは、乙女なのかエロ親父なのか。
「変態っ……さすがにキモい」
ボクはマユの頭をコツンと軽く叩く。
「痛いなぁ。だって可愛いんだから仕方がないでしょ?」
そう言ってスマホの画面をこちらに向けてくる。
ほれほれ、あんたも涎垂らしな。
「垂らしません」
「いい加減意地を張ってないでいいから」
「意地も張ってないって」
この写真は、つい数日前、三人で夏祭りに出かけた際に撮ったものだ。
マユがブシと一緒に行きたいと駄々をこねたのがきっかけで、よくよく聞けば、どうしてもブシに着せたい浴衣を入手したのだとか。
目の前が一瞬暗くなったが、近くの神社で催された祭りだ。近所だから裏道も知り尽くしているし、交番の場所も分かっている。ということは考えようによっては、つい先日の不審者がまだ近くをうろついているかどうかを試す絶好の機会とも言えなくない。
そもそもボクはその不審者を見ていないのだから、未だにピンとこないのだ。もちろん二人が嘘を言ってるとは思っていないが、その男は本当に道を聞きたかっただけなのかもしれないという線も消せずにいる。それなのにいつまでもビクビクして外に出られないでは、あまりにも窮屈かつ退屈過ぎる。
結果から言えば、夏祭りを思う存分楽しむことができた。マユは始終、浴衣のブシにご執心で、ずっとスマホのカメラをブシに向けていた。
フランクフルトを食べるブシ。りんご飴を食べるブシ。金魚すくいに挑戦するブシ。そしてマユが今一番お気に入りの輪投げをするブシ。
おそらくはこの日一日で、スマホの容量のかなりの部分をブシの写真が占めたはずだ。一体どこまでブシを溺愛しているのだろう。
結局ボクは不審者の姿を未だに見ていない。
「ねね? 夏休みの大仕事も終わったことだし、どっか行こ」
不意にマユがそう提案してきた。
「行くってどこに?」
「うーん……海とか?」
「ま、まさか?」
水着まで用意してあるのかと思わず口にしかけて、辛うじて呑み込む。
「買ってない買ってない。これから購入しようかと思ってるだけ」
どんな水着に目をつけているのか想像するだけで恐ろしい。マユの好みからセパレートタイプは必須だろう。まさかのTバッグを履かせる気ではと破廉恥極まりない想像までしてしまって、より身震いが酷くなる。
実際、"海"という単語を耳にして、ブシはかなり怪訝な顔をしていた。色々と着せ替え人形にされて、いい加減、うんざりしているのだ。
「お盆過ぎたら海は無理っしょ」
クラゲの被害が高まると聞いているし、何よりブシをスケベ親父マユの手から守らねばならない。
「そっかぁ。残念。だったら遊園地とか」
「この暑いのに?」
「うん、暑いのに」
「わしは行かん」
「って言ってるけど? 誰か大学の知り合いでも誘えば?」
合コンに行ってきたばかりではなかったか。
「イヤイヤ。ブシコと一緒に行きたいの!! ひと夏の思い出を作りたいの!!」
ブシのストレートど真ん中の否定に、マユは全身で反撃を試みる。
「で、もし行くとしていつ行くよ?」
このまま放置しておいてもきっと話は終わらない。ここぞという時のマユはスッポンのごとくしぶとさは並大抵のものではない。 それが分かっているから、行くか行かないかは別にして、話を聞いてみることが、一番手っ取り早く話を収束させる方法だとボクは経験から分かっていた。
「もちろん、今から」
「はぁ? 今から?」
再びブシを見れば、ブシは全身で否定している。
「賛成1、反対2。却下ということで」
「ちょ、ちょっと……待ってよ」
マユは慌てて立ち上がると、ソファの裏側から鞄を持ってきた。
「用意してきたんだって、色々と」
20%Offの遊園地の割引券。それ以外にも水族館の半額券や、映画の1000円チケットもある。トドメにタウン情報誌。表示には夏休みを100%満喫するスポット特集の見出しとある。
「もうすぐお母さんが迎えに来ちゃうでしょ?」
「8/28って手紙には書いてあったね」
一度も連絡してきていないから、本当に手紙通りになるのかは定かではない。万が一迎えに来ないということは――今は考えないようにしている。
「でしょ? だったらあと十日じゃん」
それだけしかないじゃん。マユは項垂れる。
「そうなったらブシコとお別れでしょ? もうずっと会えないかもしれないしさ。だからさ、思い出作っとこうよ。ううん、ブシコとの思い出を作りたいんだよ」
武士の格好をした女の子を近所に見られたくなくて、極力、ブシが外に出るのを控えていた。連れていくとしたら近くのスーパー、コンビニ、頑張ってもコンビニより少しだけ先にあるショッピングセンター。本当にそれくらい。
確かにこれでは思い出にもなりはしない。ブシコに絵日記の宿題があっても書く内容はいつも同じ。夏休みの思い出というテーマの作文なんてあろうものなら白紙で提出しなければならない。
「分かった。でも、明日の方がいいんじゃない? 朝からお弁当の用意だってできるし」
「あいにくと明日は雨。降水確率90%。明後日も今のところ雨の予報」
また明日、明日と先延ばしにしているうちに期限が来てしまう。多分、マユが言いたいのはそういうことだ。
ブシがスクッと立ち上がり、作務衣を脱いで、自主的に着替えを始めた。花柄のミニ丈のふりふりスカートに、白地のTシャツの上に、カーキ色のキャミソールを重ねる。
そのブシ自身が行動を開始したことでマユは上機嫌だ。外出する時は侍の格好は厳禁。ブシは理解が早い。
「おいで。髪の毛結ってあげる」
素直にブシがマユの前に座る。
マユ自身、人の髪の毛をイジるのが好きだ。度々、ボクも結われては、遊ばれている。ポニーテール。三つ編み。恥ずかしくて、その都度、すぐに解いてしまうのだが。
マユは喜々としてブシの髪の毛を弄っていた。まず前髪を三つ編みして両サイドに流す。それを後頭部でお団子にした髪型。これだけでグッと大人っぽく見えるから不思議だ。
「うん、可愛い可愛い」
ついでにメイクしちゃおうか。マユが化粧ポーチを持ってきた時点で、今まで大人しかったブシが急に抵抗を始めた。
「嫌じゃ、嫌じゃ」
「綺麗になるのに?」
ブシは首を横に振るばかり。今度ばかりはブシは一向に受け入れる様子はなく、ついにはマユの方が折れた。
「分かった。だったらリップだけにしよう。いいでしょ?」
コクンとブシは頷き、大人しくなる。薄いピンクのリップ。血色がよくなったように見え、グッとブシの顔が華やいで見えた。




