8月11日 am10:16
洗濯を干すと真夏の日差しは凄いのだとつくづく痛感させられる。すぐに乾いてしまうのだ。
午前中、乾いた洗濯物をリビングで畳んでいた。ボクのもの、マユのもの、そしてブシのもの。畳んでは、それぞれに分けていく。
ブシはテレビの前で、床に正座をして時代劇を見ていた。武士らしく刀を肌身離さず、体の脇に置かれているのはさすがというべきか。さらにその隣にはピンクのリュック。
そんなブシのすぐ背後にガラスの天板のローテーブルがあり、隣にはソファが置かれている。
今はマユが横たわり、雑誌を片手にボリボリとあられを食べている。個別包装になっているあられだ。一つ食べるごとに当然だがゴミが出る。ゴミ箱は部屋の隅にあり、寝転がっているマユが手を伸ばした程度では届かない。まとめて捨てる気なのかどうかは定かではないが、ローテーブルの天板の上に、破られたあられの包装袋が堆積していた。いや、既に飽和状態にあり、一つ二つ、袋が床に落ちているのがボクの視界にも入っている。
基本的にボクはそこまで几帳面な性格ではない。
机の上が多少散らかっていようが、少しくらい床にゴミが落ちていようが、普段なら特に目くじらを立てることはしない。それなのに――今ばかりは、どうしてかイライラしてしまっていた。
洗濯を畳みながら、イライラの根源を考え、その一端に、ここ最近、リビングに掃除機をかけられていないことがあるのだと気づいた。
リビングは共有スペースだ。あまりこだわりはないつもりでいたが、個人のスペースならいざ知らず、共有スペースくらいは綺麗にして、みんなで気持ちよく使いたい。
そもそもブシとマユがリビングに居座ることになったきっかけが頂けない。
我が家の間取りは4LDKだ。文字通り四つの部屋と別に、リビングダイニングキッチンがあるという意味に他ならない。まず一階にはLDK。トイレ、お風呂。それ以外に客間が一つ。
客間は畳敷きの和室で八畳の広さ。床の間もあり、掛け軸もかけている純和風の部屋だ。価値までは定かではないが、素人目には高そうな壷も置かれている。
ここは父親のお気に入りの部屋だから、触らずにしておきたい。
二階には三部屋。内訳としては、父親の部屋とボクの部屋が各一つずつ。
そうなのだ。二階には一部屋空いているのだ。ボクはその部屋を使って欲しいと何度もマユにもブシにも進言したのだが、二人とも階段を上がるのを嫌がった。
その結果がこの有様だ。リビングは散らかし放題。掃除機をかけるどころか進んで片付ける気配も感じられない。リビングはクーラーが効いていて快適だから、炎天下の外に出るはずもなく、常にマユとブシに占拠されている状態で、掃除をする機会さえ逸しているのが現状だ。
「はい、洗濯物畳んでおいたから、各々で片付けてね」
少し険のある物言いになってしまったが、マユもブシも気にした様子はない。はい、とも、ほい、とも取れる生返事が二つあったきり。
ボクはそれでもできる限り感情を押し殺し、ブシの分の洗濯物はピンクのリュックの隣に、マユの分はローテーブルの横に置いた。最後にボク自身の洗濯物を手に、自室のある二階へ上がる。
クーラーが効いているのはリビングだけだから、一気に額に汗が滲む。それでも今ばかりは清々しい。リビングのダラダラした空気感に辟易していたのだ。普段よりゆっくりと洋服タンスに服をしまい、リビングへ降りてくと、時代劇は終わり、ブシは刀を振り回していた。
刀を振る度にハッというブシの気合の入った声がリビングにこだまする。マユはそんなブシの声を気にする様子もない。ブシの足がローテーブルに当たった。あられの包装袋がまた一つ二つ床に落ちていくのが目に入った。
「ブシコ、邪魔だし危ない」
ようやくそこでマユが注意する。しかしソファに寝転がったままで、かつ間の抜けた声ではどうしても説得力に欠ける。
「鍛錬じゃ。気にするでない」
「もぉ。ほどほどにしてよね」
意図的ではないと思うが、マユが読み終わった雑誌を床に放り投げ、畳んでおいてマユの洗濯物に当たり、綺麗に積み上げておいた洗濯物はもろくも崩れた。
――ここまでが限界だった。もう黙ってはいられない。
「掃除するから退いて!!」
ボクは強行手段に出た。テーブルの上のあられの包装袋を乱暴にゴミ箱に叩き込むと、掃除機を持ってきて、リビングの床にかけ始めたのだ。イキったモーター音にマユが眉根を寄せたのが見えた。
「ちょ、ちょっと、何も今掃除機かけなくても」
「煩い!!」
脱いだままのマユの靴下が、ソファの下に潜り込んでいるのを見つけた。指先で引っ張り出し、リビングの入り口付近に投げる。もちろん後で洗濯機に放り込むためだ。
改めて床を見れば、案外といろいろなものが落ちているのに気づく。ローテーブルの下にはクッキーの包装袋。ソファの脇には、マユが普段持ち歩いている鞄が転がった状態のままで放置されているし、その横には、書きかけのまま放置されている大学のレポート用紙や資料、そして筆記用具まで散乱している。挙句の果てにはスマホまで。
ボクは大きくため息を漏らし、これみよがしにそれらを手で退かしながら、掃除機を走らせた。
クルリと向きを変える。今度、掃除機の行く手を阻むのはブシのピンクのリュックだ。退かそうと、それに右手を伸ばしたところで不意に激痛に襲われた。
「痛っ!!」
初め、何が起きたのか理解できなかった。ただ視界の端にブシの刀の先端が入ってきたという程度の認識。しばし間を開け、ようやくその刀先で叩かれたのだと理解した。
「ブシ……何するの?」
「触るでない!!」
ブシはピンクのリュックをボクの目の前からかっさらい、まるで宝物を守るように大事大事に胸の前に抱きかかえた。ボクはブシを睨みつける。そんなに大切なら床になんて放置しておかなければいいのだ。それも口で注意するだけならともかく、問答無用で刀で叩くなんて。
「ちょっと退かそうとしただけでしょ?」
睨みつけるだけでは飽き足らず反論する。
「煩い!! 黙れ!! 勝手に触るなと言っておるのじゃ!!」
ブシの乱暴な言葉が無遠慮に投げつけられる。プチ。ここで最後の最後の臨界点を越した。
「……あぁ、そう」
指先がワナワナ震える。どいつもこいつも――。
「――ボクの邪魔ばかりする」
掃除機のヘッドで目一杯床をぶっ叩いた。一度だけではない。何度も何度も。
「この部屋から出て行け!! 掃除の邪魔!! 目障り!! 早く!! 早く!! 早く!! 部屋から出てけ!!」
マユがいち早く反応した。
「ユイを怒らせるとヤバイ!! ブシコ、外行くよ」
さすがにマズいと思ったのだろう。ブシも頷きマユに近寄る。
「その格好じゃダメ。着替えて」
ブシも必死だ。先程畳んだばかりの洗濯物からジーンズとTシャツを乱雑に取出し、作務衣を脱いで着替え始めた。マユがどんどん服を買ってくるから、そのバリエーションも増えているのだ。
作務衣は脱ぎ散らかしたまま、部屋を出ていこうとする。
「ブシコ、刀は置いてって」
ブシと初めてスーパーに行ってから、何度かブシも外出するようになっていた。服装さえ普通にしていれば、ブシはほとんど喋らないことが分かったからだ。
もちろん外出と言ったって大した外出ではない。せいぜいが近くのコンビニか、そのコンビニから徒歩10分くらいのちょっとしたショッピングセンターくらいまで。
それ以上はブシが嫌がらるし、この暑い最中に行くべきでもないだろうという判断。
もちろん刀は置いていく。その置き場所は何となくではあるが、テレビの横に決まっていた。壁に立てかけるように置けば場所も取らないというわけだ。
結局、マユは着の身着のまま、ブシの方は着替えこそすれ、髪の毛はひっつめたまま――外出する時は、ツインテールがデフォルトだが――ピンクのリュックを持って、マユに引っ付くように慌てて外に出ていった。
久方ぶりにリビングにはボク一人だけになった。はぁ、と一つ息を吐く。ようやく平穏が訪れた。清々しい。落ち着く。
以前はこれが普通だった。父親は平日週末に限らずほとんど家にはいない。研究に没頭しているからだ。だから家にボク以外の人間が訪れるのは、マユがたまに顔を出すくらい。
お腹空いた。ネイルして。開口一番、マユが口にする言葉は大抵決まっている。小さい頃からそう。お菓子食べたい。何かない? 髪の毛結って。三つ編みは飽きたから他のしてね。
食べることとオシャレのことばかり。小さい頃からマユはちっとも変わっていない。
そっか。そうだった。ボクは小さい頃からマユにペースを乱されて続けている。ノリコさんを貸してもらった恩返しのようなものだと、最初こそ割り切っていたつもりだったが、いつしかマユにあてにされるのが嬉しく思う自分がいることに気づくようになった。
好きなことのはずなのに、どうしてイライラしていたんだろう。何もかも今更ではないか。
脱ぎっ放しのブシの作務衣を畳み、ソファの上に置いた。
ちょっと言いすぎたかな。軽い反省。でも――せっかく一人になれたのだ。こんな機会を逃す手はない。
ボクはよし、と気合を入れ、クーラーを消し、窓を開けた。刹那、降り注ぐけたたましい蝉の鳴き声。アブラゼミに混じって、クマゼミの声も少なくない。蝉のハーモニーに耳を傾けつつ、徹底的にリビングに掃除機を走らせた。ローテーブルやソファも動かし、その下まで念入りに。
その後は雑巾を持ってきて、そこらじゅうを拭きまくる。
スッキリした。汗だくの額を首から下げたタオルで拭ってから、ふと痛みに気づき、右手に目をやった。
手首と甲の間くらいにはミミズばれ。ブシに叩かれたところだ。目視してしまったからか、今はそこがジンジンと脈打っているのが感じられる。
ブシは普段あまり感情を表に出さない。ましてや、暴力を振るうだなんて想像さえできなかった。
トリガーは間違いなくあのピンクのリュックだ。あのリュックに一体何が隠されているのか。刃先を向けた時のブシの顔。ただ事ではない獣のような眼光。先程は怒りに任せて何をするのかと言い返したものの、今となっては背筋が凍えた。
思い返せば、ブシはずっと体の隣にピンクのリュックを置いていた。寝るときでさえそう。リュックの隣には刀。この並びは不動だ。掛け布団から伸びた手が、ピンクのリュックに乗っかっていることも珍しくない。
お風呂に入る時でさえ、ブシはピンクのリュックを脱衣所に持ち込んでいる。歯を磨く時に至っては、リュックを背負っていた。置き場所がないから、そこらへんに置いておくと邪魔になるから、そうブシが気を回したのだろうと勘ぐっていたが、今となっては引っかかる。
あのリュックの中には人の目に触れてはいけない何かが入っている。そうでなければ、剣先まで繰り出したブシの行動の説明が付かない。
でも――と考え直すボクがいる。出会った日、ブシに見せられた手紙の文言を思い出していた。
知的障害があること、さらに一つのことに固執することがあると手紙にはあった。ブシがただ単にピンクのリュックに固執しているだけで、実はリュックには何の秘密もないという可能性はないと言いきれるのか。
さして膨らんでもいない小さなリュックだ。ブシでさえ軽そうに持っている。大したものが入っているとも考えづらい。
リュックのことを――そして何よりブシのことを考え、廊下も掃除機をかけ、気づけば正午を過ぎていた。
「いけない」
ボクは慌てて掃除機を片付け、リビングに戻って窓を締めると、再びクーラーをつける。その足でキッチンに移動し、まずは大きな寸胴鍋にお湯を沸かし始める。
まな板を調理台に置くと、ネギを細かく刻み始める。それが終われば、オクラも刻む。トマトも刻んでしまおうか。刻んだ野菜をそれぞれ三等分して、小皿に盛り付けていく。
夏の昼といえばそうめんだ。
毎日続けば飽きてしまうものだが、たまに食べればやはり夏の風物詩。夏を目一杯感じることができるし、美味しいなぁと素直に思う。
また、そうめん? きっと誰しもが一度は口にしたことのあるセリフだ。でも、ボクはそんなセリフは聞きたくない。
フライパンでごま油を熱し、ひき肉を炒める。さらに刻んだキムチを投入。火が通れば、甜麺醤と豆板醤を加え、醤油と酢で味を整える。
それを大皿に盛り付け、スプーンを添える。
そうこうしているうちにお湯が沸く。そうめんを投入したところでキッチンタイマーをスタートさせる。カウントダウンが始まったのを確認したら、二連の薬味皿を出してきて、柚子胡椒、七味を盛り付けた。
昔は差し水をしたと聞いたが、今は火加減が簡単にできるから、その必要はない。吹きそうになっていれば火を弱めることは容易だし、逆に弱すぎたと思えば火を強めることも簡単だ。
タイマーの残時間を確認して、呑水を六つテーブルに並べ、予め作って冷やしておいた手作りのそうめんつゆを――夏場は重宝するから、作り置きしている――その容器ごと出してテーブルの真ん中に置いた。
昆布と鰹の合わせ出汁があれば簡単に作れるのだ。濃口醤油とみりんを加えるだけ。砂糖を入れる人もいるが、スッキリした味が好みなので、敢えてボクは加えない。
初めは通常のそうめんとして。次に薬味を入れて楽しんでもいい。飽きてきたらトマトを入れ、それを潰しながら食べれば、ちょっとばかりイタリアン風も楽しめる。そしてもう一つの呑水で、そうめんとひき肉を絡めれば、韓国風の味さえも楽しめる。なんて無国籍ぶりだろう。我ながらそう思うが、うまいのだから文句は言わせない。
キッチンタイマーが時間を知らせ、そうめんをザルに上げたところで、阿吽の呼吸という奴だろうか。玄関のドアが開く音がした。
茹でたそうめんを氷水で締め、皿に盛り付けながら、二人がリビングに姿を現すのを待つ。
「わぁ、ビックリした」
まずリビングに入ってきたのは、マユだ。
「どうしたの?」
そうこうしているうちにブシも顔を出す。
「いきなり車が横付けしてきたかと思ったら中の男が声かけてきたの」
興奮気味なのか少し顔を赤らめているマユに対して、ブシは蒼い顔をしていた。
「どっちに?」
「そりゃあブシコでしょ?」
「……マユタンでござる」
黒塗りの怪しい車が進行方向の少し前の道路脇に停まった。何だろう。怪訝には思った、その時は進路を変えるでもなくそのまま進んだのだという。
丁度車の横を通った時、不意に助手席のドアが開いた。サングラスをした男の顔が見えた。まだ若そうな男。多分、20代。一瞬のことだからその程度の認識しかなかったが、車を見た時から危機感を感じていたから、マユはとっさに身構えた。
「あの……少し話いいですか?」
言葉遣いは丁寧でも、トーンは全く優しくなかった。マユは即座に危険を察知した。
「すいません、急ぎますから」
マユはブシの手を握り、一目散に走って帰ってきたのだという。
恐くて振り返ることはできなかった。ボクの家が見えてきた時、ようやく振り返った時には不審な車や男の姿はなかった。
「単に道聞きたかっただけだったりするかもしれないけどさ」
ペロリと舌を出すお気楽なマユに対して、ブシは未だ蒼い顔をしていた。
「多分、そんなもんだと思うよ。大したことないって」
ブシの様子は気になったが、敢えて軽口を叩いてみる。少しは空気が軽くなるかと思ったのだが、強張ったブシの表情は一向に変わらない。
「あとをつけられなかった?」
「そんなの分からないよ。とにかく必死だったし」
二階に上がって、部屋の窓から道路を見た。ボクの部屋からだけじゃなく、父の部屋からも。道路が見えるのはこの二部屋だけなのだ。
見える範囲には、不審な人物も、気になるような車両も見当たらない。
「念の為、警戒した方がいいかもしれないね」
とりたてて被害があったわけではないから現時点では何もできない。
とりあえずご飯にしよう。二人に席に着くよう促す。
帰ったらごめんと一言謝ろうと思ったのに、そのタイミングを完全に逸してしまった。
その代わりではないが、そうめんを二人とも美味しく食べてくれた。一度で湯がいた分では足らず、追加で三束湯がいたくらいだ。
片付けをしながら、晩御飯はどうしよう。そんなことを考えていた。




