8月3日 pm1:46
エメリーボードというヤスリで爪の形を整えていた。アーチ型になるように。ここでは形を整えることを一番に意識にする。ある程度、納得いく形になれば、バッファに代えて仕上げをする。間違えても爪切りは使わない。仕上げが済めば、今度は表面を削る。シャイナーを使うのだ。
表面がツヤツヤになればいよいよベースコートを塗る段になる。
何でこんなことをしているかというと――昼ご飯を食べ終えたところで、マユが急に指を差し出してきたことに端を発している。いや、厳密にはマユは食べ終わっていて、ボクはまだ口の中に食べ物が残っている状態だった。
「ユイ、ネイルして」
「な、なんだよ。いきなり」
慌てて口の中のものを飲み下す。
「いいでしょ!! ね? ネイルして」
こちらの都合は関係ない。それでも不思議とそこまで嫌な気分にさせないのはマユ独特の空気感というか甘え方から来るものだ。
「ね? 早く早く」
「分かった。 ……分かったから!!」
かくしてブシが洗い物をしてくれている間に、マユの指にネイルを施すことになったのだが、ネイルをしろと依頼してくるわりに、所々、爪の先端が欠けているというのはどういうことだろう。気持ち悪くないのだろうか。
本当は甘皮の処理もした方がより綺麗に見えるようになるのだが、そこまで面倒はみていられない。
このようにケチをつけてばかりだが、実際、マユの指は何度見ても綺麗だ。指が細くて長い。極めつけに爪の形がいい。だからネイルのし甲斐もあり、施しているボクの方も実は楽しかったりする。
作業は欠けた爪の先端を整えるところから始まって、ネイルが施せるだけの下準備を終えたところで、ボクはマユの顔を見た。
「デザインは?」
「お任せで」
マユは人にネイルをねだるわりには、リクエストはほとんどしてこない。爪に色がついていればいい。その程度なのかと勘ぐった時期もあるにはあったが、今は、ボクのセンスを信じてくれていると、そう解釈することにしている。
「りょーかい」
各々の爪の先半分、かつ交互交互の指に黄色と緑色のネイルカラーをそれぞれに塗った。黄色や緑と言っても、白色の混じった優しい色合いのものだ。そのまま乾燥させる。
マユを放置している間に、ブシの横に立ち、洗ってくれた皿を拭く。
「ブシ、ありがと。一人でやらせてごめん」
「案ずるな」
「うん、助かる」
ブシを預かるようになって一週間が経過していた。
ブシの母親からのコンタクトは一切なく、ブシ自身、何も語らないものだから、ブシの名前も年齢も一切不明のままだ。従ってブシと出会った時と手にしている情報はさして変わらない。
しかしだてに一週間、一緒に暮らしてきたわけじゃない。
まず、はっきりしたのは、手紙に書かれていることは概ね事実だということだ。
父親が見ようと録り貯めておいたものの、忙しくて放置されていた時代劇を再生すれば、確かにブシは大人しく画面に食い入るようにして見ている。特に"くノ一お七"という時代劇が大好きだ。田母神京という女優が主演しているドラマで、京は凛とした美人で理知的でありながら、過剰な押し出しもなく、それでいて存在感はしっかりと放っているあたり、ただものではない。ボクも好きな女優だったりもする。
食事もそう。和食が続いているが、マユのようにあれが食べたいこれが食べたいと駄々をこねることもなく、喜んで食べてくれている。
手紙の中には軽い知的障害というフレーズがあったが、これは正直分からない。そういう子と接したことがないから、ボク自身、判断材料を持ち合わせていないからだ。
でも――ブシを見ていても、別に障害なんて感じない。ブシは聡いのだ。手伝いは率先してやってくれるし、飲み込みも早い。今や、こちらが料理を始めると、料理の種類を判断して、既に皿やら調味料やらが用意されていたりする。
はっきりと断言できるのは、マユの百倍は役に立つということだ。ブシの面倒を見るという建前で、マユはボクの家に居座ってはいるが、ボクとブシでマユの面倒を見ているような気にさえなってくる。
もう家に帰ったら。何度も何度も口にしていた。実家が近いだから毎日毎日、ボクの家に泊まる必要はない。ノリコさんの手前、できるだけ帰宅させたいのだが、マユはどこ吹く風だ。
ブシコは私に懐いてるから、私がいないとメソメソ泣いちゃうかもしれないよ。
大丈夫。ブシは本当にいい子だから。そうはっきり断言すると、マユはムキになってブシに近寄る。そんなことなよね? 私と一緒にいないと寂しくて泣いちゃうよね?
無理やりに抱きしめられ、困惑したブシの顔を何度見たことだろう。
「ねぇ、ユイ、まだぁ?」
大方の皿をしまい終わった頃、待ちくたびれたマユが声をかけてきた。ご丁寧にずっと両手首から先をブルブルと振り続けている。
「ちょっと待って。状態を見るから」
マユの手のひらを持ち、ネイルカラーの乾き具合を確認する。大丈夫。そう判断し、次の工程に進む。
ドットデザインを施そうと考えていた。安直ではあるがなかなか可愛いデザインに仕上がるのだ。
マスキングテープに穴を開けたものを貼ったり、爪楊枝の先で一つずつ点を描く方法もあるにはあるが、絆創膏を使うという手もある。今回はこれで行くことにした。
色を乗せた先端の半分に絆創膏の穴の空いているテープの部分を貼る。もちろん、何度か肌に貼ったり剥がしたりして、粘着力を弱めておくことも忘れない。そうしないとせっかく塗ったネイルカラーが剥げてしまうからだ。
絆創膏の穴の上から白色のネイルカラーを重ねる。当然、穴の部分だけ爪に残るというシンプルな仕掛け。絆創膏の穴の位置がそのまま反映され、手書きするように位置が乱れることがないのがメリットの一つ。
このまましばらく放置。一つ塗るごとに乾かさなければならないが、それは我慢。ネイルとは時間のかかるものなのだ。
片付けが終わるや否や、ブシをソファに座らせて時代劇を見せていた。手持ち無沙汰の時のブシはすぐに刀を振り回す。ブシ曰く、鍛錬を怠ってはいけないのだそうだが、これがいささか厄介だ。
豪邸でもあるまいし、リビングがそんなに広いわけではない。正直、稽古は外でやってほしいものだが、作務衣を来た小さな女の子がおもちゃとは言え、刀を振り回していたら当然ひと目を引く。
ブシの名前さえ知らないのだ。どこの子? なんて近所の人に聞かれたらうまく答える自信は毛頭ない。だからできる限り、ブシには室内にいてもらっている。運動不足も心配だし、日光に当たった方が健康にいいことは頭では理解しているが、背に腹は代えられないというのが現実だ。
ボクもまた家事が一段落したところで結んでいた髪の毛を解いていた。
うつむく度に髪の毛が落ちてきて視界を塞ぐ。あぁ、本当に鬱陶しい。その都度耳に髪をかけてはいるが、一時凌ぎに過ぎず、フラストレーションは溜まる一方だ。
ならば髪を短くすればいいだけの話なのに、ボクは髪の毛を切りに行くのがとても嫌いだ。切られること自体は別に好きでも嫌いでもない。でも、髪を切りにいけば、会話の一つもしければならない。それがネックだ。
ボクはボクの身の上のことをよくも知らない人間に、あれこれと詮索されることが嫌いだし、何より億劫で――とにかく怖い。
苦肉の策として、自分でどうにか切れないものかと試みたこともあったが、納得のいく結果につながらなかった。ならばと思い、マユに切ってもらったものの、マユ曰く"誰も真似のできないカリスマ的な曲線"を描かれてしまい、外に出るのもためらうほどの髪型を体験するハメになった。
後悔先に立たず。覆水盆にかえらず。それからは一度たりともマユに髪の毛を触らせてはいない。残念だが、それが現実だ。マユとハサミは出会わない方が幸せだと学習した。
未だマユが手首より先をパタパタさせている間に、ボクは洗濯ものを畳み始めた。
少しずつブシのものが増えていた。下着もそうだし、作務衣も替えが二着。私服にいたってはたくさん。どれもマユが買ってきてくれたものだ。
ボク自身はバイトをしていない"しがない大学生"の身分ではあるが、父親がどうみても多過ぎる生活費を置いていってくれているので金銭的には困っていない。ボクの小さい頃より、生活面のサポートをノリコさんに頼みっぱなしだったから、父はきっと日本の物価がよく分かっていないのだ。
でもボクもバカじゃない。下手に忠告して生活を困窮してもかなわないので、取り立てて父には何でも言わないでいる。そんなこんなで、ブシの服などの必要経費はボクが――正確には父の懐から――出している。
「あのさ……」
洗濯ものを畳みながら、マユを見る。
「何?」
「勝手に人のTシャツ着ないでくれるかな?」
実は今日着ようと思っていたTシャツが朝から見当たらなかった。白地で、有名なスポーツメーカーのロゴが胸の真ん中にデカデカと描かれているものだ。取り立ててオシャレなわけではなかったが、とにかく着心地がいいので、ローテーションで着回している。
どこにしまったんだろうと探していたら、しっかりマユの体を包んでいるのを見て、納得した。
実はボクとマユは背丈も体格もほとんど変わらない。マユのことをスリムだスリムだと言っているが、ボクも大概、ガリガリじゃない? ちゃんと食べてる? とノリコさんに常日頃から心配されている身だ。
元々太りにくい体質なのに加え、食べることにあまり執着がない。今でこそブシに食べさせるためにも一日三食欠かさず食べているが、普段なら面倒臭いというだけで、簡単に一食二食抜いてしまう。背格好が似ていて、一緒にいる時間も長いとこれば、一つのものがボクの家とマユの家を行き来することは大して珍しいことではない。
だからしばらく探して目的の服が見つからない場合は、ボクはノリコさんに聞くことにしていた。
「ボクの服、マユのクローゼットに混じってませんか?」
「あら、ごめん。また、マユが借りてったの?」
ノリコさんはすぐにマユの部屋に捜索に行ってくれる。そして大抵、10分かそこらで探し求めていた服を手に、ノリコさんはボクの元に戻ってくるのだ。
「それは……お互い様でしょ」
マユが憎らしげにボクを見返す。ボクが着ているのは、黒地で、やはり胸の真ん中に"電光石火"と漢字で書かれているものだ。
「あ、やっぱりこれってマユのだったんだ」
とぼけてやった。何が電光石火なのかは分からないが、度々、マユが着ているのをボクは目撃していた。あまりに悔しかったから、反撃にボクはマユのものを着てやった。ただそれだけ。
10日も一緒にいるとマユの着る服のローテーションも分かってくる。今ボクが着ているTシャツは、明日マユが着る予定だったものだ。今日、その服を着るということは明日の朝に洗濯するということになる。取り込むのは早くて明日の午後一くらい。午後からわざわざ着替えることは少ないから、そう考えれば、このTシャツは明後日しか着れないことになる。
ざまあみろ。我ながら器が小さいなと思うが、度々、かくのごとく反撃で溜飲を下げている。これくらいは許されるはずだ。きっと。
「もういいでしょ? そろそろ乾いたんじゃない? 疲れた。疲れたぁよぉ」
乾くのを待つのに飽きたのだろう。突然、マユが叫び始めた。
「そうだね。そろそろかな」
近寄ってボクはマユの指先を確認する。大丈夫。マユの指から絆創膏を外す。うまくいった。最後にトップコートを塗る。これを乾かせば終了だ。
「はい。手をパタパタさせて。乾かしたら終わりだから」
「はーい……了解」
うんざりした顔をしつつも、マユに最後の手首のパタパタを開始させた。
その間、ボクは冷蔵庫の中を確認しつつ、頭の中で晩御飯のメニューを組み立て始める。
大根がある。しかも葉付きだ。じゃあ大根の味噌煮をしよう。人参とごぼうはある。こんにゃくは買ってこればいっか。頭の中で段取りを弾く。
大根の葉はもちろん捨てない。卵とじもうまいが、今日は味噌汁の具に。ごぼうの一部をささがきにして、豚肉もあるから豚汁にするのもいいかもしれない。ほうれん草はおひたしにしよう。あ、ゴマも切らしている。買ってこないと。
そこで、いつも和食ばかりで文句を言っているマユのことを思い出した。振り返れば、今も一生懸命、手首をパタパタさせている。
挽き肉でも買って来て、たまにはハンバーグでも作ってやろうか。
これはリベンジだ。以前ハンバーグを出したことがあったが、ブシの食いつきはあまり良くなかった。全く食べなかったわけではないが、小さい子供は無条件にハンバーグを好むと思っていただけに少し残念だった。もっとも肉が嫌いなわけではいないようだ。実際、すき焼きは案外食べてくれた。
と言うことは――醤油とみりんとお酒の組み合わせが吉なのか。
挫折の後、そんな仮定を導き出していた。確かに以前は、少しオシャレにしようとずっと保管されていた缶詰のデミグラスソースを使った。それがいけなかったのかもしれない。だから、ハンバーグはハンバーグでも、照り焼きハンバーグにすれば、もう少しブシも食べてくれたんではないか。そんな予感があった。
その時だった。
「あ、ごめん。今日、晩御飯いらないから」
マユが突然、そんなこと言ってきたのだ。
「へ? どういうこと?」
「合コン行くから」
「合コン?」
「うん、そう。午前中に連絡があってさ。でも、ホントは行きたくないんだよ。数合わせみたいなもんだし。でも断り切れなかったんだ。ゼミの子の誘いだから」
ボクもマユと大学生だが、通う大学は違う。マユの大学の交友関係をボクは知らない。
ほとんど無意識にマユの大学生活を想像して――いや、妄想しかけて止めた。ポジティブな、いや時としてアグレッシブとさえ言えるマユの行動を、周囲にどのように眺めているのだろう。それとも猫なんか被ったりしているのだろうか。
「いつ出発?」
普段、買い物に行く時は、マユにブシを見て貰っている。ブシは聡い子だし、勝手に家から出たりするような子ではないことは重々承知しているが、だからといって万が一急な来客でもあった場合にブシに対応させるわけにはいかない。
そのような時は居留守を使えばいいのだが、実直なブシのことだ。言いつけても、多分、玄関を開けてしまう。
「えーっと」
マユが掛け時計を見た。
「4時頃?」
既に3時を少し回ってしまっている。
「全然時間ないじゃん。晩御飯の買い出しに行こうと思ってたのに」
まだネイルも終わっていない。
頭の中で逆算する。スーパーまでは徒歩で片道約20分。素直に歩けば間に合わはずもないが、普段ほとんど使わないが自転車という秘密兵器が残されている。
自転車をカッ飛ばせばギリギリ間に合いそうだ。そんな見積もりを立てたところで、そうは問屋が卸さないことを知らしめられた。
「ごめんだけど、仕度するから私も時間ないよ」
万事休す。わざわざ仕度をすると宣言するからには、マユは一度、家に戻るということだ。
何せ、マユは着の身着のままでこの家に居座っている。スマホの充電器でさえ、ボクと兼用になっているという始末だ。着替えは度々、家に取りに戻っているから、それなりにボクの家の方にシフトしてはいるものの、マユのメイク道具一式をこの家で見た記憶がない。
それで事足りるのだ。何故なら、マユは普段ほとんどメイクはしないから。億劫なのが一番の理由だろうが、実はマユはメイクを施すことで驚くほどのクールビューティーに変身する。三白眼気味の目も、奥二重も、ツケマをしてアイラインを引けば、涼やかな目に激変する。
フルメイクのマユが街を歩けば、いろんな男に度々声をかけられる。写真撮らせてくれない? 芸能界に興味ないかな? そんないかがわしい誘いから、家の店で働かない? 君ならすぐNo.1になれると思うよ、というストレートなものまで。
それが一々面倒なんだとマユは口を酸っぱくして言っている。
断わり切れずに渋々出席する合コンとは言え、武装はしていくのだろう。急に施させられたネイルも、合コンの為――ということだろうか。
チクリと胸の奥が傷んだ。気が進まない合コンと言えども、やはり出会いを求めているということか。
「分かった。晩御飯のメニュー考え直すよ」
今、冷蔵庫にある材料で作ればいいだけの話だ。ブシはマユのように文句は言わない。体裁くらいいくらでも整えられる。だからメニュー変更くらい大したことではないのにどうしてだろう。言葉尻が不躾になってしまう。
「怒らないの。ちゃんと帰ってくるから、ね?」
マユはボクの肩をポンポンと叩いた。あえてそんなことを言ってくるということは、ひとときとは言え、ブシの面倒をボク一人に押し付けてしまうことへの罪悪感からか。
不意にマユは顔を寄せ、ボクの顔をじーっと見つめる。
「やっぱユイの顔は綺麗だね。怒った顔も」
「……やめて」
綺麗だなんて言わないでほしい。ボクはすぐさま顔を背けた。
そうそう、それよりさ。そんなボクに構わずマユが言葉を続ける。
「たまにはブシコを外に出してあげたら? 一緒に買い物に行ってきなよ」
「は? 何言ってるのさ?」
時にマユの言動はボクの想像を遥かに凌駕する。
ブシとスーパーを歩けば、間違いなく噂になる。それくらいマユだって分かっているはすだ。
だがマユは笑っていた。わずかに右唇を上げていた。
それはある意味危険信号だ。
「私にいい考えがあるからさ」
小さい頃、とびきりの悪戯を考え出した時のマユの顔を思い出していた。




