8月20日 pm5:21
途中、マユのスマホを何度か鳴らした。マユの方がマユの家の近くにいるのだから、先にたどり着いてブシを探してほしかった。
でも電話には出てくれない。
必死にブシを探しているのだろう。昔からマユは一つのことに集中するとその他のことが全て疎かになる。
イライラしながらも炎天下の中、病院からひたすらにペダルをこぎ続け、汗だくになりながらもボクはマユの家の前に到着した。
スマホで時間を確認する。夕方の五時を回っているのに、季節は八月だ。日光はジリジリと肌を刺す。
最初から――ブシがボクの家の玄関先に立ったところから、もう少し冷静に物事を考えるべきだったのだ。ブシとボクは境遇が似ている。ボクとブシは同じ考え方をしている。ボクはブシのことを理解している。ブシとマユの二人の様子を眺めて、ボクとマユとを勝手に重ね合わせて、理解しているつもりでいた。
でも違った。全然違う。全く理解できてなかった。
あの日――買い出しから帰ってきてブシの姿が家からいなくなっているのに気付いた瞬間、ボクに正体を怪しまれていると知ったブシが居心地の悪さと危機感で家を出たんだと思ってしまった。あからさまにボクとの距離を取っている節もあったし、今回の事件に関して、ブシはきっと自分自身を責め続けている。
やみくもにボクの家を一人で出たところで、犯人から逃げ切れる確証はない。むしろ捕まる可能性の方が高い。
だからボクはブシが自暴自棄に陥っているのだと考えた。ブシが捕まればボクやマユはもう犯人から狙われない。古き良き日本の自己犠牲の精神か、あるいは英雄にでもなったつもりか。
そこまで考えてしまったからこそ、ボクは必死にブシを探した。汗だくになり、無駄にあれこれと推理して少しでも可能性のありそうな場所に赴いた。
でも今なら分かる。
――安易過ぎる自己犠牲はブシには似合わない。
ブシは実年齢より遥かに建設的な考え方をする女の子だ。そう思うのはボク同様、甘えたいと思う大人と接する時間が極端に少なかったからにほかならない。ボクの場合は仕事でほとんど家にいない父親であり、ブシの場合は手紙ばかり残す母親になる。
甘えられない分、子供は色々なことを考える。どうしたら安心できるか。守られていると心を温めることができるか。
もちろん簡単に物事が進むはずがない。世の中は自分中心には回っていない。自分の気持ちばかりを優先すると、加速度的に鬱憤も溜まる。
結局、小さな子供に何ができるわけでもなく、ただただあがき続ける。それでも満足する結果が得られず、惰性のようにそれを繰り返していくうちに、最も効果的な解決方法を見つけてしまう。
しまう――とは、それが子供には到底似つかわしくない方法だからだ。
余計なことをせず、余計な波風を立てず、ただただ心の安定だけを考える。慣れてしまえば造作もないことだ。期待、希望、願望。欲望の類の心情をそもそもをなきものとして扱える。
ことあるごとにそれを繰り返す。やがて妙に大人びた聞き分けのよい子供ができ上がるというわけだ。
ボクにせよブシにせよ、効率的かつ確実な方法を選ぶはずなのに、どうしてあの日、ブシは見ず知らずのボクの家の玄関先に立っていたのかがずっと分からなかった。偶然か必然か。必然ならどうやってボクにたどりついたのか。
でも、ノリコさんという鍵を見つけてしまえば、そんな迷宮も直線道路とさして変わらない。
ノリコさんはボクの家の状況を熟知している。加え、マユは分かりやすい性格だ。ブシに会わせさえすれば預かると言い出すことくらいボクにだって確信が持てる。そして――ボクはマユの申し出は断らない。そんな主従関係にも似たボクとマユの関係をノリコさんも当然、分かっている。
蓋を開ければとてつもなく簡単な等式だった。腹を抱えて笑ってしまうくらいに。
ボクたちは最初からノリコさんの手のひらの上で転がされていたというわけだ。
ボクは呼吸を整え、門扉の前に立つ。
何も遠くまで探しに行く必要なんてなかった。右往左往する必要もなかった。汗だくにならなくてよかった。ボクの家から二軒隣。たった50メートルにも満たない距離。移動するのはこれだけでよかった。
ブシは多分、ここにいる。いや、例えいなかったとしても、ノリコさんが必ず何かを知っている。
一つ深呼吸をして、ボクはインターフォンを押す。聞き慣れたメロディーが家の中で鳴った。
予想通りブシがここにいて、会えたとしたら、ボクはその時、どうするだろう。待つ間、そんなことを考える。
心配したよと抱きしめるのか。勝手にいなくなったらダメだと叱るのか。
いや――多分、そのどちらでもない。
マユは嫌がるかもしれないが、ボクはブシを連れ戻そうとまでは考えていなかった。マユにあんなことがあった以上、もうボクたちでは手に負えないことは明白だからだ。
今はただブシが無事ならそれでいい。後はブシの意思を尊重する。
ただ腑に落ちない点がいくつかあって、可能ならば真相だけは確かめたいとは思う。
一番気になるのは、ブシが武士の格好をして侍の言動をしている理由だ。ボクたちと過ごすために、どうしてそこまでの大袈裟な仕掛けが必要だったのか。さらにボクの推測通り、ブシの母親が女優の田母神京だとしたら、ノリコさんとの接点は何なのか。
インターフォンを押しても一度目は応答がなく、しばらく間を開け、二度目を押す。今度はすぐに聞き慣れたアルトな声がボクを出迎えてくれた。
「はい、藤沢です」
「ノリコさん? ボクです」
名乗る必要はない。声で分かるはずだし、インターフォンにはモニターも付いている。
しばしの沈黙の後、玄関のドアが開いてノリコさんが顔を出した。ボクは門扉を開け、玄関へと続く階段を上る。
「ユイちゃん、どうしたの?」
Tシャツにひっつめただけの髪。メイクもしていないのに、マユと違ってノリコさんの目はぱっちりした綺麗な二重だ。総じて美人。小学生の頃の授業参観にノリコさんが来てくれた時なんかは、クラスメイトたちの視線を集め、意味もなく自慢げだったことを覚えている。
ノリコさんは保険の外交員をしている。その美貌と理知的な話術、愛想の良さと相まって、成績は常にトップクラスらしい。
ノルマが達成できれば、ある程度、時間の融通がきくようで、月末に近づいた今日も午前中で仕事を切り上げたか、もしくは休みだったということも考えられる。
今日のノリコさんはボクの知る普段のノリコさんとは違った。玄関のドアは小さめにしか開けられず、まるで立ちふさがっているようにも感じられた。
ボクを中に入れたくないと言う気持ちの表れ、ということだろうが、ならばこそより一層、ここでむざむざ帰るわけにはいかない。
「あの……トイレ借りていい?」
「え? どういうこと?」
苦し紛れに口から出た言葉に、ノリコさんは虚をつかれた顔をした。
当たり前だ。ボクの家は二軒隣。慌ててトイレに行きたいのであれば、インターフォンを押して、誰かが出てくるのを待つよりも、自分の家に走った方が間違いなく早く用が足せる。
「あぁ……ボクがちょっとした用事で外に出ている間にマユがね、ボクの家を施錠してしまってて……でも、マユと連絡がつかないんだ。だからノリコさんの家でトイレを借りようかと思って」
とっさに出た割にはマシな言い訳。少しだけ自画自賛。
「あぁ……そうなんだ。ホント、困った子ね、マユは」
「借りていいよね?」
そこまで話せば、断ることはできないはずだ。
ようやくノリコさんの体が退き、ボクはノリコさん宅への侵入に成功する。
「お邪魔します」
三和土にブシのものらしい靴は見当たらなかった。でも、それくらいは想定内だ。最初にインターフォンを鳴らした時、応答がなかった。モニターを見てボクだと気づいて、急いで隠蔽工作をしたという可能性は排除できない。
家に上がったボクは廊下を進み、そのままトイレに入る。ノリコさんがトイレの横を通り、リビングに入っていくのが音で分かった。
便座に座り、聞き耳を立てる。何か不自然な物音はしないか。ブシの気配はないか。
もちろんそんなに簡単に証拠なんて見つかるはずがない。不審な音も聞こえないし、ブシらしい気配も感じない。
ボクは水を流すことなく、ソーっとトイレのドアを開けた。リビングには人の気配。多分、ノリコさんだ。それを確認して、足音を立てずにボクはトイレを出た。もちろんブシを探すために。
まずは洗面所とお風呂を覗くが誰もいない。続いてトイレの正面にある和室に入る。
和室は六畳ほどの大きさの続き間になっていて、小さい頃、何度かマユとかくれんぼをした部屋でもある。
部屋の真ん中に鎮座している座卓は、ボクがよく隠れたものとは違う真新しいものに変わってしまっていたが、床の間も縁側も記憶の限りではあまり変わった感じがしない。もちろん経年劣化はあるだろう。だが、その差が分かるほど、最近はボクはこの家に足を踏み入れていない。そんなことをしなくてもマユの方から遊びに来るからだ。
視線を移せば床の間には小さな向日葵が花瓶に生けてあるのが見えた。花のチョイスがいかにもノリコさんらしくて顔がほころぶ。ノリコさんは元気に見えるものが好きなのだ。
しばらく眺めていたが、長居は無用だ。ボクは息を殺して、隣の和室との襖を慎重に開いた。
畳が敷かれているだけの部屋で何も置かれていない。綺麗に掃除はされているが、何かに使われているという感じもしない。
ここにもブシの姿もない。
このまま二階を探索しようか。二階にはマユの部屋がある。その隣はノリコさん夫婦の寝室。あと記憶が確かならば特に使われていない部屋が一つあるはずだ。もう一人子供が欲しかったと以前ノリコさんは言っていたが、旦那さんがあまりに忙しくて一緒にいる時間が短かったのかもしれない。
マユの父親は長期で海外赴任をしている。大きな企業に勤めていて、何でも海外のインフラを整備する仕事をしているのだとか。仕事が一段落するとまた別の国に行くという塩梅で、ボク自身、会ったのは今まででたったの数回しかない。
とにかく二階に向かおうと思い、振り返った時、ボクの視線の先にはノリコさんがいた。部屋と廊下との境目で、困り顔で腕を組んでいる。
「ユイちゃん。もうボケちゃった? この部屋はトイレじゃないよ」
もちろん本気でそんなこと言ってるわけじゃない。顔を見れば分かる。これでも幼少期は母親のように慕ってきた女性だ。
リコさんはボクの真意に気づいている。
この状態で見つかったとあれば言い訳はできない。ボクは開き直ることにした。
「会わせて欲しいんだ」
「誰に?」
「ボクとマユが預ってる女の子に」
「女の子いなくなったの?」
「それはノリコさんが一番よく知ってるはず」
ノリコさんはボクなんかよりずっと人生経験を積んでいる。こんな揺さぶりでは表情一つ変えることはない。
「とにかくリビングに入って。お茶しながら話聞くから」
ノリコさんに言われるがまま、ボクは和室を出て、リビングに入った。
見慣れた風景だ。今どきのアイランド型ではなくL型のキッチン。長めのキッチンカウンターが置かれ、キッチンとダイニングの境界線になっている。その手前には四人がけのテーブル。テーブルの隣からはリビングだ。カーペットが敷かれ、ローテーブルと二人がけのソファ。
こちらはボクの記憶と寸分の違いもない。懐かしい。懐かしいのに、恐ろしく今は居心地が悪い。
「お茶出すから座って」
ノリコさんに言われた通りにする。
しばらくして、ノリコさんがグラスにお茶を入れてやってきた。
藤沢家の夏の冷茶と言えば、麦茶じゃなくほうじ茶と決まっている。一口含めば、今も変わりなく、少しだけ凝り固まった心を解きほぐしてくれる。でもボクはもっぱら麦茶を作る。ほうじ茶も嫌いではないが、ボクの中での冷茶はやはり麦茶なのだ。
「ユイちゃん。私、女の子なんて知らないわよ――」
向かいにノリコさんが座った。ボクはノリコさんの一挙手一投足に注意を払う。諦めたようにノリコさんは肩で大きく息を吐いた。
「――っていうのは通用しなさそうね」
ボクはポケットから手紙を取り出して、開いた状態でテーブルの上に置いた。その手紙にしばし目を落とし、ノリコさんは大きな大きなため息をつく。
「ったくこんな手紙残しておいてどうするのよ。だからこんなもの持ち歩いたらいけないって言ったのに」
ボクに向けた言葉ではない。その矛先は間違いなくブシに向いている。
しばらく自分の中で反芻しているのか、ノリコさんは何度か首を縦に振っている。
待ちきれず、ボクの方から口を開いた。
「今日の昼過ぎに、その女の子がボクの家からいなくなったんだ。さらわれたことも考えたけど、マユは物音一つ聞いてないし、家のどこにも荒らされた形跡もない。ドラマや映画みたいに一瞬で気絶させられたら可能かもしれないけど、実際は、クロロホルムを嗅がせてもすぐには失神しないし、鳩尾を殴ったり、首筋を手刀で意識を落とすなんて、あまりに危険過ぎるから、小さな女の子にやるには現実的じゃない。だからボクはその女の子が自らの意思で家を出て行ったと思ってる」
ブシやらブシコという呼び名はボクやマユが言っているだけだから、ノリコさんの前では使わなかった。ノリコさんはきっとブシの本名を知っているだろうから、ここで使うには滑稽過ぎる。
「最初は母親を探しに行ったんじゃないかと思った。方々《ほうぼう》を探し回ったんだけど見つからない。そんな時、この手紙を見つけたんだ」
ボクは手紙を指差す。
「あの子とノリコさんとはどういう関係?」
ボクの見立てではブシの母親は女優の田母神京だ。でも一般人が芸能人と知り合うことなんてそうそうあることじゃない。すぐ浮かぶ可能性と言ったら、幼馴染であるとか、同じ学校であるとかではあるが、そもそもノリコさんと京は親子ほど年が違う。その可能性もあり得ない。
残るはノリコさんと京の母親が知り合いという可能性だが、ネットを調べた限り母親の情報を見つけられらかった。よって現時点では不明。
「マユはどこにいるの? ユイちゃんの家?」
ノリコさんが話をはぐらかす。
「違うよ。女の子を探すためにあっちこっち走り回ってる」
ボクの着信に気づかないくらいに、マユは必死になっている。
ボクよりもずっとずっとマユはブシのことを可愛がっていたから尚更だ。だからこそ、一秒でも早くブシの安否を確認して、マユに知らせてあげたい。
「そう……あの子、猪突猛進だからね。一つのことにのめり込むと他が見えなくなるし」
「マユのことはいいから、質問に答えてくれるかな?」
未だかつてここまでノリコさんにイライラしたことはなかった。
その時、インターフォンが鳴った。
「ごめん。ちょっと待ってね」
ノリコさんが画面を確認しに行く。
ボクの位置からは死角になっているから、画面の表示自体は確認できない。もしかしたらマユだろうか。そんなことを考えていると、ノリコさんがボクの方を向いた。
「通販で頼んでおいた品が届いたみたい。受け取ってきてもいいかな?」
「どうぞ」
ボクはうなずいた。
ごめんね。すぐ戻ってくるから。
パタパタとスリッパを鳴らし、リビングを出て、玄関に向かうノリコさんの背中を眺めながらボクは今一度、ほうじ茶を喉に流し込んだ。
玄関先から一言二言やり取りする声は聞こえていた。もちろんそんなに大きな声で会話をしているわけじゃないから、内容自体は聞き取れない。
やがてノリコさんが戻ってくる足音がして、ボクはノリコさんの到着を待った。
ノリコさんがリビングに顔を出した直後、ボクは激しく後悔した。彼女の背後に一人の男の姿があったからだ。
男はスーツ姿だった。年の頃はノリコさんより少し若い程度。眼光が鋭く、すぐにノリコさんの助っ人なんだと分かった。
「ちょ、ちょっとどういうこと?」
「ユイちゃん、どうか何も聞かずに帰ってくれる? お願い。乱暴なことはしたくないの」
今、何もせずにこの家を出れば手出しをしない。ノリコさんはそう言っている。
「全然意味分かんないって。だからどういうことなのさ?」
思わず立ち上がっていた。
ブシはこの家にいる。じゃなければここまで強引なことはしない。どうぞ、好きなだけ家の中を検めてくださいと、ノリコさんならきっとそう言うはずだ。
一階は見た。残された可能性はニ階。
「全てうまくいくと思ってたのよ」
「うまくいくって何が?」
「まさかマユが襲われるだなんて、想定もしていなかったの」
ボクの質問はやはりはぐらかされる。
マユが襲われる。想定外。うまくいく。
ボクはただただ混乱する。目の前の見知らぬ男の存在に、その混乱は助長させられる。
「まさか、ノリコさんが全て計画したことだっていうの?」
「ここまで過激なことになるだなんて、完全に予想外だったけどね」
ノリコさんがブシの母親とどういう関係かは依然として分からない。ブシ自身にどんな価値があるのかもだ。
ノリコさんに対峙したまま、ボクはある推論を作り上げていた。
ノリコさんはブシをさらいたかった。そんな時、ブシのは母親からブシを預かる依頼が来た。しかし、そのままノリコさんがブシをさらってしまえば、ノリコさんに疑いがかかる。
だから、まずボクとマユに面倒を見させることにした。ノリコさん自身、仕事をしているから常にブシを監視はできない。ボクたちを利用したのは、その補完をするという意味合いもあったかもしれない。
そして、あの若い男女を雇い――いや、雇うというより弱みを握って協力せざる得ないようにして、ブシをさらおうとした。
いや、そもそもさらうことまでは求めていなかったのかもしれない。ほんの少し脅すことができればよかったのだ。少しでも危機を感じさせさえすれば、賢いブシはあの手紙の通り、ボクたちに内緒でノリコさんに助けを請う。
その時こそが絶好のチャンスだ。そのままブシをさらい、知らぬ存ぜぬを貫き通せばいい。
この計画を成功させるための肝は――ボクたちにブシとノリコさんのつながりを知られないこと。だからブシに武士のいでたちをさせて、"知的障害"というカモフラージュの鎧で固めた。
あとはボクたちに素性を話さないよう、もっともらしい理由をブシにたらし込めばいい。実際、ブシは一言もボクやマユに、名前や住所のような個人情報は口にしなかった。
でも何もかもが想定通りに進んだわけじゃない。雇った男女がノリコさんが思う以上に、大仰に危機感を感じてしまったことが事件を起こす引き金になっている。
女の子を連れて帰らなければ大変なことになる。男女はそう言っていた。正気を失った男女は、脅迫用に用意しておいたナイフをそのまま武器として使い、実際にマユの腕を切りつけてしまった。
後から思えば、その程度の怪我で済んだことはラッキーだった。実際、ボクはマユを守れるなら刺されても構わないと、ナイフを持つ男の至近距離まで近づき、格闘までした。加え、ブシが渡してくれた警棒がなければ、マユが今、どうなっていたかも分からない。
「ブシを渡せ……」
何が――何も聞かずに帰れだ。全然違う。そうじゃない。
マユが傷つけられた。この事実は変えられない。例え、マユの母親のノリコさんでも許されることじゃない。今までずっと信じてきたのに。感謝もしてきたし、恩もずっと感じてきたのに。
こうなれば、意地でもブシに会わなければ気が済まない。ブシに会うにはニ階に上がる必要がある。
男はリビングの入り口付近に立っている。ここを通らなければニ階に続く階段には辿りつけない。
ボクは強引に男を退かして、道を作ろうと思った。
しかし、そうは簡単に問屋は卸さかった。
一瞬だった。一瞬で状況が暗転した。
男に腕をつかまれた瞬間、ヤバイと思う暇もなく、腕をひねられたと思ったら、床に腹ばいにねじ伏せられていた。
腕は背後に回され、そのまま固定される。痛みを感じつつ、それでも諦め切れず、力任せに暴れるものの、苦痛が増すばかりで解放には至りそうもない。
「離せ……離せよ!!」
もう叫ぶくらいしかできなかった。
「ブシいるんだろ!? 逃げろ!! お前は騙されてるんだ。早く逃げろ!!」
叫びながら体をよじるがムダだ。抵抗を止めさせようとしているのか、より一層締め付けられ、しまいには絶叫しか口から出て来なくなっていた。
反撃もできない自分に泣きそうににる。
何て非力なんだ。マユに怪我をさせてしまった。挙げ句にブシさえ守ってやれない。情けない。本当に情けない。
そのまましばらく床に這いつくばっていたように思う。
「違うよ」
不意に頭上で幼い女の子の声がした。目を見開き、首をねじれば、辛うじてブシの顔が視界に入った。作務衣を着て、髪の毛はちょんまげのよう。着の身着のまま、ボクの家からこの家に移動してきたということか。
「ブ、ブシ……」
ブシはしゃがみこんで、ボクの視線に合わせようとした。
「ブシ、逃げるんだ」
もう一度、そう言った。
「落ち着いて」
「逃げろ……」
「大丈夫だよ。落ち着いて――ユイ」
ブシにユイと呼ばれたところで、ボクの体から力が抜けた。
「私は騙されてなんかないよ。ホント、大丈夫だから」
侍の言葉遣いじゃない。ごくごく普通の女の子の話し方。この話し方を聞くのはニ回目だ。ただし、以前は寝言で聞いただけだから、ボクに向けられるのは初めてのことになる。
「でも……」
「約束を守るためにはユイには本当のことを話せなかったの」
「約束?」
突拍子もない単語に、頭がついていかない。
「だから武士の格好して、話し方も変えてて。でも……紛らわしいことして、ごめんなさい」
すまぬ、でもなく、かたじけない、でもなく――ごめんなさい。
別に何ら不思議な言葉ではない。でもブシがそう言うとやはり違和感がある。
「意味が分からないよ」
男がボクを拘束する手を緩めた。ブシを探そうとするボクの行動を阻止するもので、ブシが目の前に現れてしまえば、さしあたりボクを力でねじ伏せる必要がなくなったと判断したのだろう。
自由になったボクはゆっくりと上体を起こした。
「どういうこと? 約束って何?」
ブシが口を開こうとするのをノリコさんが手で制した。
「私から話すわ。いいよね?」
ブシはゆっくりとうなずいた。
ボクはノリコさんに視線を移した。
「約束をしたの、あなたのお母さんと」
耳に入っている言葉は確かに日本語なのに、不思議なほどボクの脳みそがそれを言葉として認識するのを拒絶した。
ボクがまだ幼い頃、母親の断片を見つけたくて――父親は母親に関しては、一切口を開かない――まさに藁にもすがる思いでノリコさんに母親のことを聞いたことがあった。
私が今の家に越してくるより前に、あなたのお父さんは既に離婚していたの。だから、ごめんだけどあなたのお母さんのことは何も知らないんだよね。
それがその時の返事だ。
ノリコさんならきっと何でも知っている。炊事洗濯掃除、全てに関してテキパキとこなすノリコさんは、その頃のボクの中では、全知全能の存在で、ノリコさんなら何でもできる、ノリコさんなら何でも教えてくれる、そう期待していただけに、この返事を耳にした時、ボクは心底落ち込んだ。
思い返せばその頃からだ。
ボクが自分の心に蓋をしがちになったのは。諦めることに、割り切ることに慣れ始めてしまったのは。それなのに――。
「お母さんのことなんて知らないって言ってたよね?」
さすがのボクも強い口調になっていた。
「ごめんね」
「そんな言葉いらないよ!!」
「とにかく話を聞いて」
――うるさい、と言い返そうとした刹那、腕をつかまれた。腕をつかんだのがブシだと分かったボクは言葉を飲み込んだ。ブシの前で大人げない態度を取りたくない。せめてもの意地というやつだ。
「ごめん。でも……話を聞いてくれるかな?」
ブシに腕をつかまれ続けていたボクは、ただうなずくことしかできなかった。
「清川麻美って知ってる?」
知ってるも何も、日本国民なら誰でも知っているような大女優だ。残念ながら清川は50歳の若さで他界している。報じられている病名は乳がん。往年の大女優も病魔には勝てなかった。
ボクがブシの母親だと思っている田母神京は、この清川麻美が立ち上げた芸能プロダクションのクリアストリームプロダクションに所属している女優だ。
様々な要素が繋がっていく。
「その清川麻美さんが……ユイちゃん、あなたのお母さんなの」
ノリコさんの言葉が、今日はいちいち理解できない。
「意味が……分からないよ」
「だよね。突然、そんなこと言われても、意味分かんないよね」
ボクはノリコさんの顔を見て、固まった。
ボクは笑ったノリコさんしか記憶にない。そりゃあノリコさんにだって色々とあるだろう。でも、少なくともボクの前だけでは悲しい顔一つ見せたことがなかった。
そのノリコさんが――泣いていた。




