8月18日 pm8:14
ブシはリビングのソファで横になったまま、かすかな寝息を立てていた。かけたタオルケットが落ちないかと心配もしたが、よほど深い眠りについているのだろう。身動き一つしないので、手持ち無沙汰になってボーッとブシの横で座っていた。
マユが病院から帰ってきたのは暗くなってからのことだ。少し前にスマホにメールがあったから分かっていた。もう少しで帰宅するよ。
もう少しっていつだよと心の中で突っ込み、帰宅するのはボクの家なのか、マユ自身の家なのかどっちだよと、脳内でツッコミを繰り返しているうちに、玄関のドアが開く音がして、リビングにマユが姿を現した。
仰々しいほどの包帯で武装して帰ってくるかと思いきや、手にガーゼを貼られただけの軽装備での帰宅に拍子抜けした。
「よ!」
マユがボクに向かって軽く手を上げる。
「お!」
そんな軽い挨拶にボクも付き合うことにした。
「どうだった?」
基本的にボクはマユのことなら何でも知りたいが、もちろん現実はそんなに簡単ではない。マユと過ごした時間は人よりも長いと自負しているけれど、それでも知らないことは意外と多い。
例えば――マユの恋愛のこと。中学までは同じ学校だったから何となく分かる。ボクの勘違いじゃなければ、マユは二人の男子と付き合っている。一人は一つ年上の先輩。バスケ部のキャプテン。もう一人はクラスメイト。こちらは一転して、どちらかいえば無口で大人しい眼鏡男子だった。
高校からは別々になってしまったから、マユの男性遍歴をボクは全く知らされていない。
実はマユと会う時期はムラがあるのだ。毎日のようにボクの家にやって来ては、やれお腹が空いただの、やれネイルをして欲しいだのと言ってくる時期もあれば、一ヶ月、全く音信不通の時もある。
詳しく調べたわけじゃないが、この音信不通の時期とマユが彼氏のいる時期とは符合するんじゃないかとボクは勘ぐっている。確信が持てないのは、聞いてもはぐらかされるからだ。え? そんなに会ってなかったっけ? 気にせいじゃね?
明らかにその話題を避けている節があるから、ボクはそれ以上深く突っ込むことができないでいる。
「どうって、何が?」
「何って怪我の状態」
「縫う必要はないって。血も止まりかけてたし。消毒して、塗り薬塗って、ガーゼ貼られて帰ってきただけ」
思ったより呆気なかったよ。
ボクに向けられたマユの苦笑の異変にボクが気づかないはずがない。似つかわしくない口角の上がり方。不自然。違和感。粟立つ気持ちを必死に抑えた。
「そか。大したことなくてよかった」
マユに合わせ、ボクも苦笑する。必死過ぎて、顔が引きつるくらいに。
「でしょ? 私もそう思う」
マユの目の前にボクは立った。背の高さはほとんど変わらない。目と目が合う。メイクされたマユの目は本当に綺麗だ。その目がボクから逸れた。負けず嫌いのマユが――だ。
「それだけ? 違うよね?」
目は口ほどに物を言う。その典型。大したことないことはベラベラ話すのに、ボクが本当に聞きたいことをマユはいつも話さない。彼氏のこともそうだし、マユがボクのことをどう思っているのかだってそう。
「……他に何があった?」
ボクはマユに問いかける。マユの目から涙が落ちるのをボクは見逃さなかった。
マユの頭にそっと手を置く。いつもなら嫌がるのに今は違う。うつむいて、必死に何かに耐えている。
「……残るかもって」
「残る?」
「傷がね……もしかしたら残っちゃうかもって」
マユの肌は本当にハリがある。余分な肉がついていないから、女の子特有の柔らか曲線は描いていないが、その分健康的な美しさが増長されている。その肌に、10センチにわずかに満たないくらいの長さの傷が居座り続けるかもしれない。
冬の季節はともかく、夏場には日焼けよりも機能性を重視して半袖でいることの多いマユだが、それでは傷口が隠せない。女の子にとってそれがどれほど辛いことか。
気づけばマユを抱きしめていた。
「大丈夫……」
普段なら笑いながら逃げ出すマユが、抱きしめられるがままにしている。
「何が大丈夫なのさ?」
耳元でマユのささやく声がくすぐったい。
「もし……もしだけど、マユが売れ残ったらボクが貰ってあげるから」
「バカにしてる?」
マユがボクを見上げてくる。泣いて、でも笑っている。未だかつて見たことないくらいに今のマユの顔は美しい。そう思った。
「売れ残ったりしないから。サッサとツバをつけておかないと誰かのものになっちゃうよ」
嫌だ。嫌だ。嫌だ。どけだけマユがボクの知らないところで恋愛していても、最終的にはボクのところに戻ってくると――特に根拠はないが――そう思っていたから、今までは静観することができていた。
でも、これからは違う。ボクたちは成人した。法律上は親の許可なく自分の意思だけで結婚だってできてしまう。 大学も順調にいけば来年には卒業。大学を卒業したら――これまた就職活動の結果次第ではあるが――いよいよ社会人の仲間入りだ。
社会人になったらボクは家族を作りたかった。そして――ボクの思い浮かべる家族にマユは不可欠なのだ。
「うん、そうする。ツバつけとく」
ボクはマユの顔に自分の顔を近づける。ボクの気持ちを察してくれたのか、マユが目を閉じるのが見えた。マユがボクの気持ちを受け入れてくれたことがとにかく嬉しかった。多少の照れを残しつつも、ボクもゆっくりと目を閉じた。
もう少し、もう少しでボクの唇がマユの唇に到達する。そんなタイミングで、ブシが動いたのが音と気配で分かった。慌ててマユの体を離し、ブシの方を見れば、ブシは寝ぼけているのかまぶたを擦っていた。
「ブシコ、おはよう。眠れた?」
マユがブシの元へと移動して、視線を合わせるために膝をつく。
「マユたん殿……戻られたか?」
寝起きでまだ覚醒していないからか、呂律がうまく回っていない。でもそれが可愛かったりする。
「うん、戻った戻った。戻られたよ」
「そか。その……かたじけない」
ブシがペコリと頭を下げる。
「何が?」
「怪我のことじゃ」
「あぁ、大したことないよ。結局縫わずに済んだし。その程度だからブシコは気にしなくていいよ。ノープロブレムだからね」
「そうか……ならばよい」
そうか――の後の間が気になった。単に寝起きだからなのかもしれないが、実はブシは先程のボクとマユのやり取りを聞いていたんじゃないだろうかと考えずにはいられなかった。
みんな食欲もわかないものだから、晩ごはんは軽いもので済ませた。
その後に、代わり番こにお風呂を済ませ――マユは腕を濡らさないようにビニールを巻いて、シャワーで済ませた――早々にパジャマに着替えて、リビングに布団を敷いた。
結果的には今日は実行犯を撃退できたが、それで犯人が諦めたとは限らない。
一階はまだ雨戸がある分、安心だ。しかし、二階はそうはいかない。石を投げつけられれば、窓が割れる。寝ていて顔にその破片が降り注ぐことを想像をして背筋が凍る。
だからボクたちはリビングで固まって寝ることにした。みんなで川の字になって寝るのもいいが、固まっていれば安心というわけでもない三時間おきにボクとマユが交代して、寝ずの番をすることにした。どうしても睡魔に襲われた場合は我慢し過ぎずに相手を起こすこと。居眠りしてしまっては何の意味もない。
夜中の三時間というものがどれほど長いものかは定かではないが、スマホのゲームをしようと決めていた。
怪我も負い、肉体的にと精神的にも疲弊しているであろうマユを先に眠らせた。部屋の灯りは一番弱いものにして、ボクは胡座をかく。スマホにイヤホンを挿し込み――物音に気づくように片方だけ――早速ゲームのアイコンをタップする。
ブシを迎えに来ると手紙にあった期限まであと十日。遊びに出かけられるわけでもなく、部屋で過ごす時間が続くのだから、やりかけのゲームもクリアできるかもしれない。そんな意気込みでゲームを立ち上げたものの、タイトル画面から先に進められない。全く気持ちが乗らないのだ。
画面はそのままにして、ボクはブシの寝顔に視線を送っていた。こんな非常時でも、ブシは怪獣に変身していたので、少しばかり心が和む。
ブシの寝言を思い出していた。確かに聞いたのだ。ママ、会いたいよ、とブシが言ったのを。普通の女の子であれば何も珍しいことではない。しかし、ブシが武士以外の言葉を口にするのは初めてだった。
驚き――というよりどこか納得していた。
今思えば、やはり無理があったのだ。妙に聡いブシ。段取りを覚えるのも得意だし、コミュニケーションを取ることに苦労したことも一度もない。知的障害と言われても、どこかピンボケている。
言葉に言い表せない歪み。でも、ブシは必ずしも武士でいる必要がないと分かった今、その齟齬は一気に瓦解した。やはりブシは普通の女の子だったということだ。
そうなると疑問が溢れ出す。
その格好も、暇さえあれば刀を振り回す行動も、古めかしい言動さえも――それはそれで結構可愛いのだが――全て演技だということならば、和食が好きで洋食が苦手なのはどうか。時代劇が好きなのかどうか。
考えれば考えるほど、何もかも分からなくなる。
ブシの母親はブシを誰かに預けようと画策した。多分、ブシを守るため。しかし身近な人間にかくまってもらってもすぐに犯人にブシの居場所が見つかってしまう。だからボクが選ばれた。ボクとブシはあの日が初対面だ。何の接点もない。犯人も容易にたどることができないと考えた。
でも、ここでつっかえてしまう。
ボクとブシに接点がないということは、あの日、ボクの家の玄関先に立ったのは、単なる偶然だったということになる。見ず知らずの土地に来て、娘を武士の格好をさせ、片っ端から娘を家の前に立たせ、家人が帰ってきたら声をかけ手紙を見せたというのか。
8/28に迎えにいきます。それまで預かってください。要約すれば手紙はこんな文面だ。預かってほしい事情も書かれていない。女の子のプロフィールも書かれていない。肝心なことがことごとく抜けている。胡散臭い。いかがわしい。手紙を読んだ人の大半はそう感じ、読んだ先から断る理由を考えるはずだ。少なくともボクはそうだった。
その結果、何軒目かは分からないがブシはボクの家にたどり着いたということか――と考えたところで、ボクの脳みそがそれを全力で否定した。
あまりに非効率過ぎる。いつになったら匿ってくれる人が見つかるのかも分からないし、何よりあまりにもリスキーだ。
警察に通報される可能性は無視できない。身元を隠すための武士になっているのに、警察ではそんなものが通用するはずがない。最初からちゃんと事情を説明して、頭を下げた方がいくらか確率も上がるというものだ。
では最初がたまたまボクの家だったとしたら? そんな突飛な想像までして、やはり受け入れられずにいる。
あまりにも都合がよ過ぎる展開だ。ボクがブシの親なら、やはりある程度、成功する見込みの相手に絞りたい。
ならばボクの家の前に立てば、匿ってもらえるという確信があったというのか。
ボクに関して、いや、ボクの家に関して全てを調べ上げていたという可能性。父親がしばらく不在で、かつ母親もいない。いるのはお気楽な大学生の息子だけ。バイトをしている様子もない。加え、今は夏休みだ。時間を持て余していることを想像するのは容易だ。
でも、それだけでは薄っぺらい。ボクがブシを預かる保証にはならない。いくら暇でも、誰でも預かるわけではない。
実際、ボクはブシと会った時、けったいな格好をしているブシを無視しようとした。厄介だと思ったのだ。しかし玄関の真ん前に立たれていては、無視したまま家に入ることなんてできない。意を決し、文字通り"仕方なく"ブシに声をかけた。
これが最初のあらましだ。そして、ブシからいきなり手紙を渡された。読めと促され、便箋に目を走らせ、手紙を読んでも尚、状況がうまく飲み込めず、うろたえ、逡巡し――そうだ、そこでマユに声をかけられた。
相談したら即答だった。預かるしかないでしょ。その一言での一刀両断。見事な切れ味といって差し支えない。
この瞬間、ブシを預かることが決定したと言っても過言ではない。マユはボクに家のドアを開けさせ、ブシを家の中に招き入れた。今思えば、半ば強引と言えなくもない。
マユは可愛いものが大好物だ。竹を割ったようなハッキリとした性格でもある。面倒見だっていい。だからブシのような女の子を見ればはしゃぎ、預かるとなれば、迷うことなく突き進むことに何ら違和感を抱いていなかった。
でも――もし、マユがブシを預かるために一芝居打ったのだとしたら。
腕に鳥肌が立った。ボクは過去から現在に至るまでマユのワガママを散々聞いてしまっている。その力関係はもちろんマユだって熟知しているはずだ。
強く押せば、ブシを預かることできる。マユにはその確信があったはずだ。
まさかマユが。ボクはマユの顔を覗き見る。熟睡していて微動だにしない。
ボクはマユのいい所も悪いところもたくさん知っているつもりだ。実直で表裏がなくて面倒見がいい。反面、雑で飽きっぽく、自己中でワガママ。
困ったところがないわけではないが、総じてマユは何かにつけて小気味いい。そのテンポが好きでいつでも隣にいたいと思ってしまう。
幼馴染で親友で恩人で憧れ。世界で一番大切な人だとボクはそう断言できる。
唐突にマユが体勢を変え、左腕が露わになった。真新しいガーゼ。その奥にはナイフで切られた傷があるはずだ。
ボクはフーっと一つ息を吐く。
マユがブシを匿うことに一役を買っていたとして、では何故、マユはブシを外に連れ出そうとしたのだろうかという疑問がわいてくる。ブシは狙われていたのに。
辻褄が合わない。でもマユはことあるごとにブシとおでかけをしたがった。ブシが可愛いから、ブシと思い出を作りたいから。夏祭り然り、今日の遊園地然り。そのために様々な可愛い服を用意し、ブシに着せようともしていた。
ならば――マユはブシが狙われることを知らなかったのだとしたら。
そうなるとブシを匿うのではなく預かるという意味合いに変わる。ブシを外に連れ出すことに不自然さがなくなるかわりに、ボクの家の前に立たせ、茶番ともいうべき偶然を装った出会いを演出する意味がなくなる。
そもそもそうなればマユの家でブシを預かればいいだけの話だ。いや、ノリコさんに頼みにくい何らかの理由があったのか。いや、マユはそれくらいのことでボクに遠慮なんてしない。一方的に理由を説明し、勝手に決定事項にしてしまえば済むはずだ。
考えれば考えるほど訳が分からなくなってくる。ピースをいくつか無くしてしまった不完全なジグソーパズルを眺めるかの如く、気持ち悪さばかりがこみ上げてくる。
どれだけ考えても結局は振り出しに戻る。マユを信じたい気持ちが強いからなのかもしれないが、マユはやはり、ボク同様、あの時、初めてブシと出会い、ボクと一緒に、この騒動に巻き込まれてしまったのだと信じたい。
考えは一向にまとまらず、ボクは布団の上、あぐらをかいてただただ過ごした。立ち上げていたスマホのゲームはとっくに画面を閉じていた。
スマホで時間を確認する。AM4:38とある。三時間ごとの交代の予定だったが、眠くなる気配もなく、この際だから、朝まで過ごし、マユが起きたら交代して布団で横になろうと考えていた。
家の中からも外からも物音一つ立つことなく、朝の五時を回った。スマホの電池残量はとうの昔に100%になっていて、スマホからケーブルを外し、ボクは立ち上がった。
キッチンカウンターの端がボクのスマホの定位置のようになっていて、今日も例外なくそこに置く。
朝ごはんの準備をする前に、コーヒーを飲んで頭の切り替えをしようと思い、冷蔵庫の中からコーヒーが入った瓶を取り出した。ボクは市販のアイスコーヒーのあの独特な苦味があまり好きではなく、夏場はもっぱら水出しコーヒーを自作している。
水出しコーヒー用のポットが市販されてるから作り方は簡単だ。ストレーナーと呼ばれる網状の容器にコーヒーの粉末を入れ、ポットの口にセットする。あとは上からゆっくり水を入れ――軟水の方が相性がいいので、軟水のミネラルウォーターを買っている――蓋をして冷蔵庫で八時間ほど寝かすだけ。寝かせた後はすぐにストレーナーを外す。コーヒー粉末を長く水に漬けすぎると雑味が出てしまうからだ。
コーヒー豆は近くの行きつけの店から仕入れた中炒りの豆を、アイスコーヒーを作る直前に電動のミルで細挽きにしたものを使っている。そのミルも、安価で買いやすい回転式は豆に熱が伝わってしまい風味が落ちるからと、高価なコニカル式のものを使用している。もちろんこれらの費用は全て父からもらった生活費でまかなっているのだから、贅沢この上ない話だ。
アイスコーヒーのポットを手にしたところで背後で気配。振り返るとブシが立っていた。
「ごめん。起こしちゃった?」
少し寝ぼけ眼。怪獣のブシはやはり可愛い。そのブシは首を横に振る。
「……たまたまじゃ」
「そか」
ブシは相変わらず武士らしい口調を崩さない。
「コーヒー飲む?」
ブシは首を縦に振る。
「砂糖とミルクは? 両方?」
それに対してもうなずく。
ボクはお気に入りのマグにコーヒーをブラックのまま注ぐ。ブシには夏らしく涼やかな切子にコーヒーを注ぎ、砂糖とミルクを加えたものを、コルクの丸いコースターとともにテーブルに置いた。
「どうぞ」
「かたじけない」
ブシは今まで通り椅子の上に正座し、湯呑のように両手で切子を持つ。背筋を伸ばす姿勢はお手本のように綺麗で、両手で丁寧に切子を口に運ぶ様は茶室で抹茶をたしなんでいる茶道家のよう。
ボクはブシの対面に座り、コーヒーをすすりながら、ブシの様子を眺めていた。
あくまで"武士"で居続けようとするブシ。一つ屋根の下で一緒に暮らしているのに、本当に無意識の時くらいしかボロを出さないことは敬服に値する。
そこまで必死に武士の芝居を打っているということは、そうせざる得ない事情をブシ自身がちゃんと理解しているからに他ならない。
ブシは頑なに秘密を守っている。未だに名前や年齢さえもあかさない徹底ぶりだ。
でも、やはり秘密を明かしてほしいと思うのだ。ボクたちはもう赤の他人なんかじゃない。事件に巻き込まれてしまった運命共同体だ。実際、実行犯と対峙し、マユは負傷した。その傷はずっと残るかもしれない。
ブシの事情を知ってさえいれば結果は違ったと思う。ボクは絶対に外出を許してはいない。外出をしないということは遊園地にも行ってなかったし、マユが怪我をすることもなかった。
もちろん家にいたらいたで安心だったかどうかは分からない。でも、事情を知っていれば今より様々な防衛策を講じることはできたはずだ。
病院から帰ってきた時のマユの様子が頭から離れない。いつも前向きなマユが泣いていた。嬉し涙や感動の涙なら今までも何度も見てきた。でも、初めて見た悲しみに満ちたマユは涙は、ボクの胸を深く深くえぐった。
マユはボクにとって絶対に守らなければならない唯一無二の存在だ。何人たりとも、マユを傷つける人間を許すことなんてできない。
それが――例え幼い女の子だとしてもだ。
「あのさ」
ブシに話しかけていた。
「何じゃ?」
ボクはブシの顔を見据える。
ブシに聞いてどうする? 心の葛藤。こんな幼い子を問い詰めて何になる? 事情を生み出すのは大人だ。しがらみにがんじがらめになるのも大人だ。ブシだってそんな大人の勝手に巻き込まれているだけ。分かってる。そんなことくらい頭では理解している。
でも割り切れない。気持ちが言うことを聞いてくれない。
ブシと目が合う。ブシは真っ直ぐに人の目を見てくる。武士だから。侍の心を持っているから。最初はそう思っていた。しかし、武士のふりをする現代の普通の女の子なのだ。
ブシの母親はきっとしっかりした人なんだろう。ブシを見ていれば分かる。ワガママを言わない。率先して手伝いもしてくれる。
一方で大人の顔色を見る傾向が強い。多分、大人がたくさんいる環境で育ってきた。だとしたらどうしてその大人がブシを守れない? ボクやマユを巻き込んで、見て見ぬふりができる?
ブシが――ブシを取り巻く環境全てが許せない。
「君は……何者なんだ?」
余計なことは口にしなかった。言いたいことの全てをこの言葉に託した。
実際、ブシは激しくうろたえた。目が踊り、ボクに視線を合わせようともしない。答えを探している。こういう場合はどのように言えばいいのか、母親から聞いていなかったのだろう。
でも、多分、正解なんてものはない。ボクがブシならば何も答えられない。
「――ユイ!!」
その時、横槍が入った。マユがボクを睨んでいた。
「……マユ?」
寝起きの悪いはずのマユが足早にテーブルに近づく。
「何、訳分かんないこと言ってんのさ? ブシコはブシコだよ。ねぇ?」
マユはブシの頭に優しく手を乗せ、笑みを見せる。
「ユイは多分、寝ぼけてるんだよ。何も気にすることないからね?」
マユの言葉にブシは顔を伏せ、何も反応がない。
「それよりさぁ、お腹空いたぁ。朝ごはん作ってよ。オムライスが食べたい。今日こそは味噌汁じゃなくてオムライス!! 分かった?」
突然のことに今度はボクがうろたえ、追い立てられるようにキッチンに立った。尚も早く早くと尚も急かされ、冷蔵庫を開け、ボクは卵を取り出した。




