第1章 11 護民官ミカエル
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ノスタルヒアス中央高原は、精霊と人間との『聖なる元初の契約』に基づき、この大陸全ての国が、相互不戦の条約を結んでいる土地である。
高原中央に据えられた平和の象徴であるモニュメントの元に集まりつつあるのは、エルレーン公国とグーリア神聖帝国の軍勢だった。
エルレーン兵団は、おのおのが白い騎竜を駆り、白い皮鎧に身を包んでいる。
対するグーリア兵団は、暗灰色の騎竜に跨がり、暗灰色の皮鎧を纏う。
高原に対峙する兵団の規模は、ほぼ同数。おのおの一千騎ほどだ。
エルレーン公国兵団を率いる将軍が進み出る。
同じくグーリア神聖帝国側からも、指揮官が一人、騎竜の歩みを進めた。
高原に据えられた、ユラック・ルミと呼ばれている、和平のモニュメントである白い巨岩の前に、二頭の騎竜が対峙した。
先に声を発したのは、エルレーン公国の将軍、カーライルだった。
「よう、グーリアの。ずいぶん早い対応だな」
「そちらこそ」
グーリア神聖帝国の指揮官が、答えた。名をエルネスト。この二人は外交の場で何度か顔を合わせたことがある、知己の間柄だった。年齢も同じく四十代半ばである。
「異変を察知したのは、うちの『聖堂』の魔法使いでな。首都から指揮官が派遣されてくるはずだ」
「シ・イル・リリヤからか? 遠すぎるだろう。そちら側が指揮官の到着を待って動くのであれば、我らは先に調査に赴く」
グーリアの指揮官が騎竜の手綱を引き締め、向きを変えさせる。
「待て。どうやら、こちらの指揮官のご到着だ」
ユラック・ルミの前の地面に、突如として円形の文様が出現したのだ。それは周囲から銀色の光を集め、輝きを放った。
やがて、一人の長身の人物が姿を現した。
たっぷりと襞を寄せた白い布をゆったりと巻き付け、白い騎竜に跨がっている。
目撃した兵士達が驚きの声をあげ、感嘆する。
しかしながらグーリアの指揮官は肝が据わっていた。
「ほほう。エルレーンの指揮官は魔法使い殿か。このご時世に、太古の魔法陣を使いこなす御仁とは。いいものを見せてもらった」
「待たせたか? 私はミカエル。護民官だ。『聖堂』所属である。しかし時間が惜しい。現場はすぐそこだろう?」
名乗りを簡潔に済ませ、ミカエルはカーライル将軍を促した。
合流した二千の騎竜軍団が向かう先は、エルレーン公国とグーリア神聖帝国の国境に位置する街、グレイム。
そこでは、かつてない異変が起こったと目されていた。
※
二千騎が現場に到着したのは深夜だった。
そこには信じがたい光景が広がっていたのである。
「全軍、止まれ!」
ミカエルが指示し、それをカーライルとエルネストが後続部隊に通達する。
「なんだ。これは」
ミカエルが、つぶやいた。
「何もないではないか」
国境の街グレイムには八千人程度の人間が居住していたはずである。
だが人口の半数以上は《ベレーザ》と呼ばれる奴隷狩り専門の盗賊集団だった。
その実態は、グーリア神聖帝国皇帝の直属の手足であったのだが。
夜空に白く輝く真月に照らし出されているはずの、街は、なかった。
ただ深く大地がえぐられていた。
街の周囲にあったはずの外壁は、破壊されていた。石積みが全て外側に向かって倒れ、吹き飛んでいた。
まるで内部で爆発があったかのようだ。
ミカエルは思ったが、口にはしなかった。
兵士たちを動揺させてしまいかねないほど、あり得ない、いや、あってはならないことだったからだ。
「あれを! ミカエル護民官!」
エルネストが声を上げた。
「街の奥に、人が」
「あの区画は?」
「それは」
エルネストは言葉を濁した。
「言いにくいならば私が言おう。あそこは狩られた奴隷を収容している区画だ。それくらいの情報は我が国も掌握している。生存者かもしれぬ。事情を聞き出そう」
「ですが、地面がえぐれております。進軍すれば崩れ落ちるやもしれませぬ」
カーライルが用心深く忠言する。
「私だけでいい。心配ならば、カーライル、それにエルネスト殿。貴殿らも来られよ」
不思議に確信を持っているかのようにミカエルは言い放って、白い騎竜を進める。
二人の将軍も、兵団を残して護民官ミカエルに続いた。
騎竜でも一列を乗り入れるのがやっとの、細い道が残されている。
「護民官殿。これは……」
エルネストの声が、動揺を隠せずに震えた。
「精霊火……でしょうか」
生存者がいると思われる、焼け残った区画に近づくにつれ、人の頭ほどもある青白い光の球体が現れ、どんどん数を増していく。
「まるで光の河に入ったかのようだな」
ミカエルは、陶然としていた。
「見ろ。二人とも。……あそこに、奇跡の御方が」
精霊火の群れ集う、中心に。
一人の少女がいた。
長い黒髪。小麦色の肌、美しい顔立ち。
そして何よりも、印象的なのは、少女の目だった。
精霊と同じ、淡い水色の光をたたえた瞳。
身体の内部に満ちている『魔力』が、まばゆい光となって漏れ出しているのだ。
「おお。『世界の大いなる意思』の現世の器なる……奇跡の少女よ!」
三人の仲で、彼女の力を最も正しく感知することができたのは、ミカエルだった。
彼は騎竜から降り、少女に歩み寄って。
跪いたのだった。
「ようやく。再びのお目通りがかないました」
後続の二人に聞こえないように、声を落として。
「お久しゅうございます。……カルナック様。ミハイルです。どうぞ、いかようにもお役立てください」
「大儀であった」
黒髪に青い目の少女は、微かに、笑った。
ミカエルが顔を上げてみれば。
少女の左右には、褐色の肌に、真っ白な髪をした壮年男性と、日焼けした精悍な少年の姿があるのを認め。ミカエルもまた、満足げに微笑んだ。
「すべては……世界の大いなる意思の導き」