番外編1 完全なる演技
前作『エレベーターパニック!』を読んだくださった皆さんありがとうございます。
私はアクセス数を出来るだけ気にしないようにしているのですが、
初投稿から一か月以上たっても毎日少しずつアクセス数が増えるのを見るのは、
作者としてやはり嬉しいものですね。
そんな訳で、嬉しさのあまり後日談的なものを書いてしまいました。
果たして需要があるのかは分かりませんが、
楽しんでいただければ幸いです。
通勤通学客で込み合う朝の地下鉄谷町線。その車内で小さくため息をついて視線を上げれば、窓からはどこまでも続く暗いトンネルの景色。窓ガラスには車内灯の光を反射して憂鬱な表情を浮かべた少女の顔が映る。
(あれから三週間かぁ……)
悪夢のエレベーターでの入れ変わり事件から早三週間。俺は妻戸三四三としての生活に慣れ始めていた。入れ替わった当初はそれこそ正体がバレないよう振舞うことに必死でほとんど意識することは無かったが、生活が落ち着いて気持ちに余裕が生まれてくると、ついどうしても考えてしまう。いつ男に戻れるのかを……。
(というか本当に戻れるのか……?)
入れ替わって当初、俺とサシミは元に戻るべく色々と痛い思い(ヘッドバットというらしい)を我慢して努力してみたのだが、結果はいずれも失敗。(神社の階段から一緒に転げ落ちようと提案されたときは、さすがに命の危険を感じて拒否したが……)とにかく、すぐに戻れるだろうという甘っちょろい期待は脆くも崩れ去ってしまった。必然、俺たちは長期戦を意識して生活を送ることとなった。
妻戸三四三として、女としての生活。それは即ち、男としてのアイデンティティを少しずつ擦り減らしながら生きることに繋がる。だからこそ俺は時々斯くも暗澹たる気持ちに捕らわれるのだ。
(駄目だ。気持ちを切り替えないと……)
俺は腕に填めたG-SHOCKに目を向けた。白く輝きながら確かな存在感を放つ時計本体にはこれまた白く輝く幅の広いベルトが付いている。タフソーラーにより電池の交換を必要とせず、電波を受信することで常に正確な時刻を刻み、強い衝撃や高い水圧にも耐える。強さと美しさを融合したその姿はまさに男らしさの象徴!見ているだけで自然と笑みが零れてくる。
(くぅぅ。カッコイイ。痺れるぅぅ!)
このG-SHOCKは俺が高校入学祝に買ってもらったもので、ほんの一週間前まではサシミが身に着けていたのを譲ってもらったものだ。サシミもどうやらこのG-SHOCKを気に入っていたのか、最初はを手放すことを嫌がり、
『今は私が黒猫くんなんだから、この時計は私のものでしょ!』
と言って拒否していたのだが、俺の精神安定に必要不可欠だと言って一週間ほど毎日毎日しつこく譲渡するよう要求し続けたら、遂に根負けして譲ってくれたのだ。
(大丈夫。この時計にときめきを感じられる俺は男だ!)
俺は腕に填めたG-SHOCKを見つめながら男としてのアイデンティティを再確認して、ほっと安堵のため息を吐いた。そうだ。くよくよと考えても仕方がない。それに何かの拍子に元に戻ることだってあるかもしれないじゃないか。と、前向きに気持ちを切り替える。駅が近づいたのか電車はゆるやかに減速を始め、暫くして小さく鳴くようなブレーキ音を立てて電車は停止した。
四天王寺前夕陽ヶ丘駅の四番出口を出ると、六車線道路を挟んで対岸に直方体を横に寝かせたような濃いブラウン色の建物が見えた。あれが大阪光星学院高校。俺が通っている高校……ではなくて、今はサシミが俺の代わりに通っている高校だ。生徒と教師の仲も良く、伸びやかで自由な校風が魅力的な男子校だ。戻れるものなら直ぐにでもあの学校に戻りたい。だが、戻り方が分からない今現在、それを考えても意味のないことなのも分かっている。……なので、諦めて俺は歩を進める。
駅から南に歩くこと約四分。狭い敷地に校舎を色々無理やり詰め込みました、と言わんばかりのせせこましい印象を見る者に与えるこの学校が、以前サシミが通っていて、現在は俺が通う四天王寺女子学院高校だ。
この学校の特徴は風紀にやたらと煩いことで、恋愛禁止は勿論のこと、下校途中にマクドナルドに寄って小腹を満たすことすら禁止されている。さらにご丁寧なことに違反者がいないか構内はもとより学校近隣まで教師が見回りに来るのだから堪らない。お陰で、昼休みのサシミとの定時連絡だって教師の目を盗んでコソコソと行わなければならないし、放課後週三回の秘密会合だって学校から離れた梅田に出てからじゃなと出来ないのだ。俺はうんざりとした気持ちと一緒にまた溜息を吐き出し、気合いを入れなおして瓦屋根のある校門をくぐった。
教室に入るとすぐに一人の女の子と目が合った。女の子はスマホを片手に俺に軽く手を振る。
「トロちゃん、おっはー!」
「おは―!」
俺もすぐに返事を返す。このゆるふわショートヘアが印象的な女の子は小日向日向ちゃん。サシミの親友の一人だ。因みにトロちゃんとはサシミの渾名で、サシミ→マグロ→トロの連想から付けられたのだそうだ。俺は日向ちゃんの正面にある自分の席に座った。
「ねぇねぇトロちゃん。分かる?」
そう言うと突然俺を凝視し、目をパチパチと瞬きさせる日向ちゃん。瞬間、俺の背に緊張が走る。ヤバい。これはアレだ。俺は今、女子力を問われるクイズを突き付けられているのだ。俺は内心の焦りを隠しつつ日向ちゃんを注意深く観察する。目を瞬きさせているんだから、たぶん答えはそこにあるのだろう。だからと言って、目に埃でも入ったの?などと答えたらきっと不機嫌になることは火を見るよりも明らかな訳で……。
「……う~ん。あっ、マスカラ!」
よくよく見てみれば、昨日見た時よりも目に強い印象を受ける。さらに詳しく見てみれば、睫毛が黒く塗られている為に、顔のパーツの中で目がより強調されて見える。
「正解!どぉ、目っ大きくなったでしょ?」
「うん、大きく見える見える!」
俺の回答に破顔する日向ちゃん。ぶっちゃけ目が大きくなる訳じゃないんだど、ここは本人が喜ぶセリフを言ってあげた方が良いだろう。それにしても睫毛を強調することで目の周りに見る者の視線を集めて強い印象を与え、結果、目が大きいかのように錯覚させるなんて、ちょっとした詐術だよねメイクって。……等と考えていると、今度は両手をさりげなく机の上に出し、指が互い違いになるよう組んで見せる。次の問題か……でもこれは簡単。透明感のあるピンク色に塗られた爪がピカピカに光っている。
「ネイル。すっごく綺麗。どうやったらそんなに上手く塗れるの?」
「たまたまなんだけど昨日の夜練習してたら完璧に塗れたんだよねぇ。それで気分が良かったから落とさずにそのまま登校したってわけ」
「ふ~ん。そうなんだ」
「あ、そうだ。トロちゃんにもやってあげるよ!」
言うが早いか、鞄からちょっと豪華な感じのネイルケアセットとマニキュアを取り出す日向ちゃん。
「ほら、手を出して」
「いいの?先生に怒られない?」
「これくらいバレないから大丈夫だって」
男子としてはマニキュアなんて塗られたくないのだが、今の俺の外見は紛れもなく女子なので、ここで断れば不信感を持たれてしまう可能性がある。クッ、ここは耐えて大人しく従うか……。
「それじゃまずはコンパウンド付けてバフがけだね」
日向ちゃんは俺の手を取ると、ネイルケアセットに入っていた消しゴムのような物に謎の粉末を少量付け、俺の爪をその消しゴムのようなものでゴシゴシと擦りだした。すると爪の表面に鈍い光沢が現れる。俺の爪を次々と消しゴムのようなもので磨いていく日向ちゃん。五分程ですべての爪を磨き終えてしまった。ううむ。これだけでも結構綺麗だ。これでもう十分なんじゃないのか?とか考えていたら、今度は謎の液体が入った小瓶を取り出した。
「それがマニキュア?」
「残念。これはベースコートです。」
「ベースコートって?」
「爪の表面を保護するヤツね。」
小瓶に付属した小さな刷毛を使って慣れた手つきで次々と爪に液体をを塗っていく日向ちゃん。それにしても今気付いたんだけど、同一グループの女子集団が皆同じようなメイクをしているのって、今やってるみたいに友達同士でメイクのやり方を教えあったりしてるのが原因なんじゃないだろうか?
「さて、ベースコートが乾くまで少し放置して……」
「ところでヒナタちゃん。この高そうなネイルセットいつ買ったの?」
「買ってないよ。お姉ちゃんからパクッ……貰ったんだ」
慌てて言い直す日向ちゃん。
「今、パクったって言わなかった?」
「い、言ってないよ。お姉ちゃん、新しいの買ったから使わなくなるだろう古いのを自主的に貰ってあげただけで……」
「それをパクるって言うんじゃないの?」
「ち、違うよ。あははは」
乾いた笑いで誤魔化す日向ちゃん。こんな感じできゃあきゃあ騒いでいると、
「おーっす。ヒナタ、トロ」
「オハヨー」
ボーイッシュなショートヘアの女の子とロングヘアをローツインテールにした眼鏡の女の子が教室に入ってきた。ショートヘアの女の子は佐々木咲ちゃん。ローツインテールに眼鏡の女の子は蒼井葵ちゃんだ。
「トロが勧めてくれたフリッパーズギター、聴いたよ。メチャよかった!」
「どういたしまして」
咲ちゃんは音楽鑑賞が趣味で、学校で禁止されているライブにもこっそり行っちゃうような活発な女の子だ。咲ちゃんの音楽の守備範囲は広くて、今流行っている曲ばっかりじゃなくて古い曲もよく聴く。それで最近は小沢健二に嵌っていると聞いたので、小沢健二がソロになる前に小山田圭吾と組んでやっていたバンドを薦めてみたのだ。そして自分が薦めたバンドを気に入ってもらえたらやっぱり嬉しい。
「それでさぁ、相方の小山田圭吾って人の曲で何かお薦めない?」
「う~ん。小山田圭吾はフリッパーズ解散してからかなりスタイルが変わるからなぁ。人によって合う合わないが結構分かれるよ?」
「ふ~ん。小沢健二もなかなか難しい感じしたけど、小山田圭吾もそうなんだ。だから、あんな濃ゆい音楽になるんだね」
「小山田圭吾って攻殻機動隊ARISEの音楽担当してた人?」
俺と咲ちゃんの話に入ってきたのは葵ちゃん。葵ちゃんはミステリとSFとラノベを愛する読書家の一方、ガチのアニオタで、年二回開かれる薄い本祭りには必ず参加する筋金入りだったりする。
「ええと、確かそうだったと思う。てか、なんで攻殻機動隊なんて知ってるの?」
「お兄ちゃんがDVD持ってるから観たことあるんだよね」
成程。兄弟がいて趣味が同じだと貸し借りが簡単だから多くの作品に触れることができるのか。こういう点、一人っ子で育った俺としては兄弟のいる奴がちょっと羨ましいな、とか考えて置いたら一時間目の授業開始を告げるチャイムが鳴った。
「しまった。ネイル途中だった……」
「続きは昼休みだね」
葵ちゃん達は皆それぞれ自分の席に戻っていった。斯くして俺の妻戸三四三としての学校生活が今日も始まった。誰にも疑われることのない完璧な演技に、俺は確かな手応えを感じるのであった。
次回掲載は 2017年 9月3日 日曜日 0時 を予定しています。