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Int. 3

 六月も下旬に差しかかった頃だったと思う。学食で三人一緒に食べている時、何気ない会話の延長線で喜利子が言った。

 ライブ、行こう。

 何の話だろう、と特別な反応はせずにご飯を食べる手だけは止めて続きを待つと、喜利子がギターの手話をやってみせ、音楽のライブ、と言う。私には彼女の言わんとしていることが伝わらなかった。

 今、耳聞こえないのに?って思ったでしょ。

 ゆかりに考えを指摘され反射的に「それは」と言って、それは事実だな、と私は思い、たしかにそう思っちゃった、と笑いめかして言ってみる。喜利子は特に何とも思わない様子で、いつものように邪気のない微笑をしている。

 音楽って、要するに空気の振動だから。とゆかりが言う。高校で習ったでしょ?

 うん。要するに波動ね。それが?

 だから耳が聞こえなくても、皮膚に振動を感じるんだって。

 たしかに以前、テレビで、振動増幅器に当たる大きな風船を抱えクラシック音楽のコンサートに列席する聴覚障害者の図を見たことがあった。

 耳が聞こえないと、と喜利子が言う、他の感覚が鋭敏になるみたいで、だから、音楽が鳴ってるってことぐらいは、たぶん大音量なら分かるはずなの、感覚で。

 音色は、分からないけど?

 うん。と喜利子は頷く。

 ……ライブって、ライブハウス?

 私の質問に喜利子はやはりこくり頷く。その瞳は黒目がちで、どこか動物的な訴求力を感じる。

 ……でも、なんで?

 私の問いに、喜利子は首を傾げる。なんでの意味が分からない、といった様子で。

 その……なんでライブハウスなの? 字幕が付く映画とか、他にいろいろあるように思うけど。

 私がそう言うと、喜利子は困ったように、少し顔を伏せた。手話のために上げていた手をテーブルの下、おそらくは膝の上に置いてしまった。それまでも音は出ていたのに急に周囲の出す音が気になり始めた。笑い声。

「あのね」とゆかりが言う。あのね、広樹の趣味が、音楽鑑賞だから。音楽好きなら、ライブ行けば楽しいだろうって。

 一間置いて、私は「ああ」と納得の息を漏らした。自己紹介の時に趣味が音楽鑑賞だと答えたし、余剰時間には耳にイヤホンを突っ込んでいることも多かったので、音楽には一家言ある男のように思われたのだろう。実際高校からのライブハウス通いで拗れた音楽意識みたいなものは形成していたけれども。

 ゆかりも音楽鑑賞が趣味だし。と喜利子が慌てて言う。

 私のはなんちゃってだから。無趣味の人が答えに窮して言うやつ。とゆかりが笑う。

 私は絵画が趣味だけど、と喜利子が脱線していきそうなので私は手で引き留める。注目をいただいてから喋る。

 じゃ、ライブハウスに音楽聞きに行くのは決定事項ってことでいいのかな?

 うんうん頷く喜利子の横でゆかりも一度シンプルに頷く。私はスマホを操作し、見せる。

 この辺りだと、このライブハウスとか。二回行ってるけど、あんまり過激なバンドが出ないから、初心者でも安全だと思う。

 そういうのは、と喜利子が言う、わたしたち素人だから、全部任せていいかな?

 オッケー、と私は答える。荷物無し、手ぶらでオーケーなようにしておくから、任せて。

 喜利子が嬉しそうに頷くと同時に隣の席の男子がけたたましく笑い、私は横目でそちらを見、それから前方に視線を戻すと喜利子と視線が合った。

 喜利子は微笑んでいた。笑い声が聞こえているのか聞こえていないのか、分からなかった。


 金曜の夜、私たちは大学の正門前に集まり、ライブハウスへ向かった。念のためにと二人に、動きやすい服装で、と伝えておいたためか二人ともパンツスタイルにスニーカーだった。

 ライブハウスに入場し、引換券をドリンクに換えてもらい、前方には詰めず観衆から少し離れた後ろのスペースで三人並んだ。ごみごみとした観衆が、今は手前勝手にゆらゆら動いている。

 あのね、と前置きして言う。音楽にノってくると、みんな手を緩やかに閉じて、人差し指一本立てるような感じで、これを前後に振り始めるから。

 二人はふんふんと、硬い表情で頷く。未知に対して完全に緊張している。

 こう。といった感じに、私は手を前後に振ってみせる。前、後、前、後。二人も真似して前後に手を振る。近くにいた観客がこちらに振り返り、すぐに興味をなくしたように別方向を向く。

 手を前、後、前、後、に振ってみせ、喜利子はしばし黙考し、今度は胸元で小さく振ってみせてから言う。これが、リズム?

 うん、そう。ビート。と言って私はドラマーの真似をしてみせる。途端に喜利子の顔が綻ぶ。

 これなら音楽、聞こえそう。彼女が言った。

 そっか。と思う。みんなに合わせて手を振っているだけで音楽は聞こえるのだ、振り子のようにリズムが、ピッチが、身体を通して感じることができるのだ。今までノリを示すため手を振り回してきたが、そういう一つの聞き方でもあるわけか。

 ジャンプは? とゆかりが、手にしたドリンクに気を付けながら小さく跳ねた。

 私は頷く。ノって来たらジャンプする場合もある。それは他の観客に合わせてでいいと思う。後ろや端は落ち着いて見たい人が溜まるから、無理して飛ばなくて大丈夫だよ。

 ふーん。と言ってゆかりは、私に言った。広樹、最大限にノってみて。

 いきなりの無茶ぶりに御無体なと思いながらも私は無茶苦茶にノってみせたのであり、頑張りの甲斐あって二人はおかしそうに笑っていた。

 いよいよの開演となり、ズガーとギターが鳴る。カッカッカッとドラマーがスティックを叩いてバンドの演奏が始まった。出だしにふさわしいアップテンポな曲。観客が手を振り、それを見よう見真似で喜利子とゆかりが真似る。次はメロウな曲で手の振り方が変わり、対応したゆかりの手振りを必死に見入り喜利子が真似て手を振る。音が聞こえないのはたしかにハンディとなる、でも、だからといってすべてを諦めてしまうのは尚早なのかもしれない、すべての扉が閉ざされてしまうわけではないのかもしれない、他人とは違った方法で世界を感知することだってできるのかもしれない。ゆかりのような通訳がいてくれたら、相棒がいてくれたら、投げ出された大海に浮いている板切れを見つけ出したようなもので、救命ボートほどの安心感ではないもののなんとか、なんとか世界にしがみついて行けるのかもしれない。また曲が変わる。私はゆかりの、揺蕩うように振られる手を見つめていた。

 バンドが退場すると、喜利子が嬉しそうに私に話しかけてきた。楽しい。音は聞こえないけど、聞こえる。感じる。体で感じるし手でも感じる。楽しい。すっごい興奮する。等々、実に取り留めもない言葉の羅列だったが、喜利子にとっては無彩色の世界が突然フルカラーになったような、驚くべき体験が行われているのだろう。私は私の常識にすっかり染まり慣れ切っているけれど、こんなに興奮する現象があるなら出会ってみたいと思う。まるで青少年のような感情だな、と思い、しばらく前は自分も青少年に分類されていたんだな、と思い、いつから人は青年になるんだろう、などと考える。それはこんな新鮮な驚きを失ったら、なのだろうか。だったらたしかに私は青年になってしまったのだろう。

 次のバンドの演奏が始まり、数曲して激音の中、喜利子が言った。わたしトイレ行ってくる。そう言って彼女は私が回収したドリンクのコップも手に取る。わたし捨ててくるね。あ、いいのに、と私は断ったが彼女は差し出すのが世界の常識と言わんばかりに手を出し、私は、じゃ、よろしく、と三つ重なった空のコップを手渡した。喜利子はそれを受け取るや踵を返し、トイレのほうへ歩いて行った。

「すごい、楽しんでるみたい」ゆかりが顔を寄せてきて言う。

「そうなの?」

「だって、落ち着きがなくなってるもん、完全に」ゆかりの顔はステージからの明かりを浴び発光しているようだ。

「つまんなそうにしてるより、そりゃいいけど」

 私が答えるとゆかりも歯を見せて笑った。間奏に入りドラマーが少し過剰に打ち鳴らす。ドドドドドドドドドド。観客が湧き立ち前方でジャンプが起きる。ボーカルは手持無沙汰に揺らめいていたが興奮したのかシャウトを始めた。ギターがつり出されボーカルと背中を合わせて技巧的に弾いて見せる。

「もう少し、前のほうに行ってみる?」

 私の声は、しかし熱狂に聞き取れない様子で、ゆかりが目を開き小首を傾げる。私は手話で言った。もう少し前のほうに行ってみる?

 ゆかりが、瞬間的にはっと私を見て、それから目を伏せて押し黙り、少しの後に顔を上げて、うん、と頷いた。

 私たちは後方のスペースから前進し、人だまりの最後尾にそっと、コバンザメのように貼りついてみた。音が大きく聞こえたりバンドの息遣いがはっきりしたりなんてことはないけれど客の、弾けるエネルギーのようなものをさっきよりひしひしと感じる。熱量。生き物のような観客、私たちもその一部となる。始まったサビに、みんなと一緒になって手を振る。ゆかりを見ると彼女も手を振っている。私を見ながら。私もゆかりを見た。彼女も私から目を逸らさなかった。私は振る手を止め、左手を横に差し出した。ゆっくり。ボーカルのシャウトが聞こえる。金属的な声。ドン、ドン、ドンとドラムの音。ゆかりの右手が、私の左手に重ねられた。握り込む。ドン、ドン、とドラムの音。ボーカルが何か英語で歌っている。寄り添うギターの高音。ベース音が腹に響く。握り込んだ手を、少し自分のほうに寄せた。ゆかりが半歩、私のほうに動いた。ドン、ドン、ドンとドラム。ベース。落ち着いたギターとボーカル。ゆかりの瞳潤んだ瞳。細い手指。ゼリーのように震える唇。私はゆかりに顔を近づけようとした、その前に。

 握り込んだ手の上にもう一つの手が落ちてきた。繊細な手。視線をずらせば喜利子がいた。まるで褒められるのを待っている子犬のような目。さっき見た時と変わらない、希望を見る目、感じている顔。無垢を実体化させたような存在。罪という単語からは遠く離れた気色。

 ドドドン、ジャーン。と楽器が鳴って曲が終わる。手を離し喜利子が言う。終わっちゃった。

 うん、と私とゆかりは頷き、握り合わせた手を離す。

 喜利子が言う。トイレ、帰ってきたら二人が見当たらなくて、一瞬心細かった。前行くなら言ってよね。

 ごめん。とゆかりが言う。

 喜利子は悪戯っぽく笑い、いいよ、と言い、それから、何かあった?と訊いた。

 邪気がない、より正確には、意味が分かっていないのだ。私は、特に何もなかったよ、と首を振ってみせ、疲れた?と訊いてみた。全然、と喜利子は言った。ゆかりにも疲れた?と訊く。少し考えてから、全然、とゆかりが答える。浮かべる微笑には、口元には、薄い影があった。

「次でラストです! みんな盛り上がっていこうぜぇ!」とボーカルが叫ぶ。この声が聞こえないんだよな、と私は、急に冷笑するような気分で思う。シャンシャン、ドンドコドンとドラムが打ち、また新しい曲が、始まった。


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