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駅の改札を抜け、いつもと逆方向のホームに立つ。起きたての朝の静寂が駅に来て狂騒に変わる。人々のがやがやを上書きするようにまもなく電車が参りますとのアナウンスが入り、並んだ列の、最前列が足元の黄色の点字ブロックを確認して再び元の姿勢に戻る。ある種の工場だな、と私は思う。部品が自らの意思を持って正しいベルトコンベアーに乗り、正しい場所で乗り換えて最後は会社や学校という箱に組み込まれて完成する。この世は秩序立っていて、でもその秩序を支える根拠は雇用契約書という紙切れ一枚でしかない。失火でも起きればすべてが崩れるのかもしれないし、あるいは達磨落としが崩れないようにパーツ一つを抜いたところでこの世は営々と運営されていくのかもしれない。たぶん後者で、個人なんてちっぽけなものにすぎないのだろう。されど達磨落とし、ちっぽけな個人でも、抜けば必ず変化は起きる、達磨の背が低くなる、不用意に抜けば達磨タワーは音を立てて崩れてしまう。駅前の鳩を思い浮かべる。頸動脈を切ったらどうなるか、時々想像してしまう。脆弱に見える鳩の、硬い首筋。
電車がホームに流れ込み、開いたドアにどやどやと乗り込む。奥が詰まり、私は閉まるドアの手前に立つ。背中に雑多な部品たちを感じながら、ベルトコンベアーの起動を待つ。
ドアが閉まるとモーターの駆動音がして、電車は動き出す。窓の外を見る。加速に伴い手前の物体は輪郭を緩やかにしていくが離れた物体はまだはっきりと見える。道路。車内を狙い撃ちするように掲げられた看板。年数が経ちくたびれた印象のアパート、そのベランダで鈍く光る物干しざお。通勤と反対方向とはいえ、もう憶えてしまった。車窓に過ぎ去る景色は毎年変わらず、変化なんてものは人間生活に於いては稀だと思い知る。like a rolling stoneを唱えても延々同じ風景では転がる力さえ失われてしまいそうだ。そしていつしか苔むして転がることさえやめる。せめて良質な、あるいは貴重な苔が生えてくれることを祈るばかりだけど、自然は厳粛だから甘い顔はしてくれない、見てくれのよくない地衣類が、火傷の痕のようにべったり貼りついて取れない、なんてなことのほうが多いのではないか。
かたんことん、と電車がリズムを刻む。寸分違わぬ工業的な音。その中にシャカシャカ言う音があり、私の後ろで学生か何かしら若い人がイヤホンから盛大に音漏れさせているらしい。音楽か。今はどんな音楽が流行っているんだろう。何がイケてる音楽なのか、おじさんの領域に足を踏み入れている自分には分からない。懐メロ、などと宣い自らの青春時代つまりは過去に流行った歌を反芻する人々をどこか軽侮してきたけれど、今の自分のように何も聞かない空っぽ状態よりは寄りかかるものがある分豊かなのかもしれない。
不分明なシャカシャカ音に意識を集中しているうちにアナウンスが入り、電車のかたんことんの間隔が伸びてくる。ブレーキの、金属の消しゴムを滑らすような音。見慣れた郊外の景色。朝の照る世界。腕時計を確認する。まもなく午前九時が終わろうとしていた。
駅に到着し、降りる。人の群れ、と呼ぶには幾らか疎らな流れに乗り、改札を出る。すぐそこの行き当たりまで歩き、反転して改札から出てくる人々を眺める。夏祭りの屋台の、金魚すくいの金魚、といった感覚で泳ぎ回る人々の中に、黒い喪服を着た、凛とした眼鏡の女性を見つける。手を振ると、こちらに気づき向かってくる。私はまず握った手をこめかみ辺りに遣り、それをまっすぐ下へ下ろし、それから握った両手から立てた人差し指を向かい合わせ、指をお辞儀するように曲げた。眼鏡の女性は私の元まで来ると、自らも軽くお辞儀しながら、やはり向かい合わせた人差し指をお辞儀させた。
二人で笑顔を交わし、どちらともなく北口へと歩き出す。ロータリーから聞こえてきた改造バイクのエンジン音に、彼女は微かに顔をしかめた。