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Int. 2

 私は二人と交友を深めていった。

 吉村喜利子は農学部一回生、聴覚障害があり手話で意思表示する。控えめで大人しく、実家が裕福なためかお嬢様オーラがあり品もあれば華もある。喜利子という名前は父が画家のキリコが好きで付けた、という点からも育ちの良さがうかがえる。

 彼女の横に貼りついている通訳であり友人でもあるのが峯ゆかり、やはり農学部の一回生で、喜利子とは高校一年からのお付き合い、単に名前の順で近くなったのを機に通訳を買って出、その頃から手話の勉強を始め今ではぺらぺらあるいはぷらぷらであるらしい。凛と冴えた眼鏡にセミロングの黒髪、性格は上品ながらはきはきとしている。趣味は没個性的に音楽鑑賞、喜利子のキリコを絡めた自己紹介の後に、私に関しては名前に何の縁もゆかりもありません、と言うのが好きだそうだ。

 生物学科と農学部、学問的に重なる部分の多い私たちは同じ授業を履修していることもしばしばでよく出会うほうだったが、仲良くなるにはまず手話が必要だった。私は授業の合間など手が空いた時には手話について調べ、その動作を反復学習することにした。勉強してみると、むやみやたらのめくら滅法に動かしているかに思えた手にもイメージが、意味があるのだ、手話はある種の表意文字なのだ、とすぐに知ることとなり、例えば基本の挨拶「おはよう」。これは、まず握った手をこめかみ辺りに遣り、これが枕を表すのだけれど、そこから頭を持ち上げるイメージで握り拳をまっすぐ下へ下ろす、つまりは起床、それから握った両手から立てた人差し指を向かい合わせ曲げる、これがお辞儀に当たる。朝起きての挨拶、これが「おはよう」になる。円周率を諳んじる人が数字の羅列にストーリーを持たせて憶えるのと同様に、手話の動作にも意味を付随させることで無秩序に手を振るよりは憶えやすくなる。これを基礎に、困った時はゆかりに教えを請いながら私は、手話を急速に習得していった。もちろん、どうしても分からない場合はスマホで調べるか、最悪メールで言葉を送信した。

 五月末、ゆかりなしでも喜利子とある程度手話で意思疎通ができるほど上達した頃、つまりは仲良くなった頃、喜利子が三人で動物園に行きたい、と言い出した。基礎生物学の授業後、もう施錠するから、と講師に追い出された教室の、その手前の廊下で私たちの手を引っ張り、喜利子は全身から溌溂とした生気を横溢させて手話でそう言った。

「動物園……か」少し迷う私に彼女は、動物園だよ!と言いたげに快活な欧米人のごとくサムズアップしてみせた。私はゆかりを見た。ゆかりも少し迷うように小首を傾げ、それから「いいんじゃない?」と言った。ゆかりが喜利子に頷いてみせると彼女は嬉しそうに顔をほころばせ、それから餌をもらう子犬のような期待を込めた目で私を振り返った。この眼差しを跳ね返してまで動物園に行かない理由はない、私は頷き、行く、と手話で伝えた。喜利子は無邪気な子供のような顔で二度頷いた。本当に邪気のない笑顔だった。本当に邪気のない笑顔を、いつだって彼女は浮かべていた。

 約束の動物園、五月末日は初夏の暑さで、喜利子とゆかりは日傘に二人で頭を突っ込み、半身をじりじりと焼きながら待っていた。待った? 大丈夫。ごめん。行こ。と手話でやり取りし、三人で入場した。

 労働を忘れ静止したフラミンゴに文句を言ったり、愛くるしく立ち振る舞うレッサーパンダにあざといと難癖をつけたり、マンドリルの哲学的顔立ちに感嘆したり、感想様々に観覧し進んだ先にはふれあい動物園なる企画があり、モルモットと遊ぶことができる時間帯だった。幼い? と私は尻込み気味だったが喜利子は行く行く触ろうとはしゃいだ。

 幼児の群れに分け入ってケージに近づく。モルモットはせかせか動くことなくほぼ不動で、手を下に入れ抱き上げようとすると少し嫌がったがやはりほとんど暴れることもなく、私は一匹胸に抱き寄せた。

「すごーい。手慣れてるー」とゆかりが、感心しているのか単なる感想なのか分からない調子で言う。

「昔から動物好きだったから、慣れたもん」

「へー、なんか意外。広樹って髪染めてるし、もっと怖い人なんだと思ってた」

「何気にひどいな」

「滲み出るソウテイガイのヤサシサ」

「言葉が硬いぞ言葉が」

「あはは」

 喜利子がきょとんとしているのに気付いて、ゆかりが手話で私たちのやり取りの概略を伝える。喜利子は微笑んで、優しい人だと思ってた、と手話する。その直截な物言いに私は照れ臭くなり、モルモットをケージに戻そうかと思ったが、代わりに喜利子に渡すことにする。「いったん両手で抱き寄せて、それからお尻を右手で抱える」私の指示をゆかりが手話で通訳する。喜利子はモルモットの胴体を柔らかく両手でつかみ、そこから抱き寄せればよかったものをモルモットが後ろ脚で暴れたのに怯んで地面に降ろしてしまった。モルモットは三歩歩くと、近くにいた幼児に乱暴に持ち上げられてしまった。

 惜しかった。私が言うと喜利子は少し寂しそうにはにかんだ。

 農学部なのに、動物の扱い、いつも苦戦してる。とゆかりが言う。

 喜利子の苦笑いが少し重たいので、行こっか、と私は言った。

 ふれあい動物園を後にし、様々な動物を見ながらチンパンジーの展示エリアにやって来た。木々や遊具の合間を縫ってチンパンジーが活動している。

 うきー、とか言わないな。とはしゃいだ調子で伝えると、ゆかりが、そうだね、と落ち着いた調子で返してくる。喜利子はじっとチンパンジーを見たままで、はっとする。喜利子にはチンパンジーがうきーと鳴こうとわんわんと鳴こうと、まったく分からないのだ。

 失敗したな、と思って弁明を探していると、獰悪そうなチンパンジーが気弱そうなチンパンジーを追いかけ始めた。

 喜利子が言った。

 ソロモンの指輪。

 ソロモンの指輪?とゆかりが訊き返すと、喜利子は真剣な眼差しで言う。旧約聖書、ソロモン王に与えられた指輪、動物と話すことができる。

「ああ、はいはい」と私は頷く。聖書を読んだことはないが昔からの動物趣味で聞いたことはある。はめると動物の言葉が理解できるようになる指輪。

 それがあれば、動物たちの気持ちが分かるのに。喜利子が言う。

「うーん」と私は顎に手を添え、それから手話で訊く。動物と話がしたいの?

 喜利子は首を横に振ると、少し目を細め、力なく言った。ううん、違うの。ただ、分かってもらえないのも辛いし、分かってあげられないのも辛い。指輪があればな、って。

 彼女は追いかけられているチンパンジーをじっと見つめ、聞こえないチンパンジーの小さな悲鳴に少し身を硬くし、それから言った。

 やるせないよね。

 私は彼女のこじんまりとした手話を見、それから瞬間的にゆかりを見るとゆかりも沈んだ顔をしていた。チンパンジーがまた短く悲鳴を発した。

 いつもの癖で「あ、ほら!」と私はパンと手を叩くがそれは当然聞こえないのだから喜利子の顔を上げさせることができず、しかしだからって沈まないで私は彼女の肩を叩いた。喜利子が眉を下げた顔で私を見る。私はとびっきりの笑顔で言う。コンラート・ローレンツ。

 ん?というように喜利子が首を傾げる。私はもう一度、コンラート・ローレンツ、知ってる?と繰り返す。昔取った杵柄だ。

 誰それ? ゆかりが訊く。

 ソロモンの指輪の作者。と私は答える。動物行動学の権威で、本能行動とか、刷り込み、動物の行動に一定のパターンを見出した人。いわば動物の通訳者。

 眉間に皺を寄せていた二人の、喜利子は寄せたままだがゆかりの顔が和らぐ。「はいはいはい」とゆかりが頷く。それから喜利子に、心理学の授業でやった、と手話を送る。すると喜利子も、ああー、といった感じでゆっくりと頷く。

 言葉も、手話だって通じない動物でも、と私は言う、行動をきちっと観察すれば考えてることが分かる、思いを伝達することはできるんじゃないかな。すべてとまでは言わないけど。

 そう言うと、喜利子は嬉しそうに頷き、少しだけ笑みを見せた。さすが生物専攻とゆかりが言う。

 例えば何かの鳥が、と私は言う。一定サイズの楕円の物体を巣の近くに置かれたら嘴で巣に引き戻すとか、さっきのモルモットなら、鼻先に何かを持って行くと餌と勘違いして齧る傾向がある、とか。

 喜利子は興味深そうに頷く。他は? どんな内容なの? 詳しく教えて。

 私は即座に答えた。実は読んだことない。

「読んだことなかったんかい!」とゆかりが突っ込みのチョップを入れてくれた。音は聞こえないけれど意図は分かったらしく、喜利子はまた小さく笑った。

 観覧を一通り終え時刻も程よく昼飯となり、私たちは芝の植えられた広場に車座になる。喜利子がバッグから重箱を取り出す。朝早く、ゆかりと一緒に作って来たのだという。開けてみて、というので代表で開けてみると綺麗に盛り合わせられた弁当が立ち現れる。

 何が好きか、分からなかったから。喜利子が言う。弁当には鶏の唐揚げや卵焼き、牛肉のしぐれ煮といった味のはっきりしたおかずが鎮座ましましていて、ゆかりが言うには、数撃ちゃ当たる、イメージにある男の子が好きそうな物を手当たり次第に作って詰めたそうだ。

 すみませんけど、ありがとう。私が手話すると、いいから食べて、というように喜利子が促す。私はいただきますを言って、一つ一つ摘まんでいく。

 うーん。と腕組みして瞑目。それから、鶏肉の唐揚げが一番。と言ってみせる。

 はいはいはい、と言わんばかりの勢いで喜利子が手を挙げる。わたし、わたし、と自分を指さしている。喜利子だったか。手話で、上手なんだね、と言うと少し照れ臭くなったのか動作が嫋やかになった。ゆかりは自分の調理した品名を上げ、微妙な味付けが分かっていない、と言いたげに肩を竦めてみせた。

 鶏の唐揚げってみんな好きって言うから。喜利子がまだ興奮した様子で言う。

 ね。訊いたらうちの学部の男子だいたいみんな好きだって言ってたし。ゆかりが苦笑する。

 みんなって、何の話? 話が見えないので質問する。

 授業。とゆかりが答える。農学部の実習で、鶏を絞めたの。それを最後は供養でみんなの昼食にするの。

 喜利子がうんうんと頷いている。

 絞めるって、首を絞めて殺して、解体?

 ううん。とゆかりは首を振る。生きたまま、まずは頸動脈を切って、全部血を抜くの。それが、全然切れなくて、鶏がかわいそうだろがって教官に怒られた、私。

 そうそう。と喜利子がふんふん頷く。硬くって硬くって。すごく苦しそうなの。可能なら逃げようとするの。そりゃ、殺されるの嫌だろうから当然だけど。でも。

 命を感じるの。

 と喜利子が言う。少し目を細め、まるで生きるものすべてを慈しむかのような目つきをする。

 自分が生きてる感覚を感じたい、とかじゃなくて、目の前に、掌に命が存在することを確かめられるのが好きなの。生き物の温かみから生を感じ取ると、人間謙虚になる、というか、あれ? 結局自分が生きてるって感じたいだけかも? 喜利子が首を傾げる。

 なんとなく分かる、と私は思う。飼育していた虫の死を見てきて、メメントモリではないけれど自分の生について考えさせられてきたように思う。増長を諫められてきたように思う。

 ソロモンの指輪があったら大変だったろうね。と私は言う。死にたくない、殺さないで、って思いが伝わって来ちゃうんだから。

 喜利子は切なげに目を伏せ、小さく頷く。そうかもしれない。

 私は切るように手刀を首に横切らせ、顎を上げて白目を剥いてみせた。「あははは」というゆかりの笑い声とともに喜利子が笑い手を叩く音が聞こえてきた。

 鶏も体張らなきゃいけないから大変だ、と言い、それから唐揚げに手を伸ばすと、あ、と言うように喜利子が私を見た。

 この、鶏の唐揚げを、今日の記念にしない? と喜利子が言う。

 どういうこと? ゆかりが首を傾げる。

 そうすればいつでもこの日を思い出せるし、わたしたちの絆にもなるんじゃないかなって。

 鶏の唐揚げを食べれば、とゆかりが言う、ここに三人で来たなって思い出せるってこと?

 三人を感じることができるし、と喜利子は言う、動物の命だって感じることができるし。

 唐揚げが一番美味かったことも思い出せる? と私が付け加えると、えへへ、と喜利子は破顔した。

「あはは」と笑いながら弁当箱の鶏の唐揚げを箸で突きさすと肉汁が、汗のように皮の表面に滲み出した。

 昼食後私たちは再びモルモットを触りに行ったが時刻が合わずなかなか開園しないので帰ることにした。午後の日差しはなお一層強く、私は汗を滲ませまるで昼の唐揚げのようだった。


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